「仁と誠の生き方」2016年12月【No.162】

弟子たちが編纂した孔子の言行録である『論語』には、儒教の最高徳目である「仁」についての記述が数多くあります。「子の曰く、人にして仁ならずんば、礼を如何。人にして仁ならずんば、楽を如何。」(八佾第三)礼楽(れいがく)とは礼儀と雅楽(音楽)のことで、人間の品性や社会秩序をととのえるものとして孔子も非常に重視されたものですが、それすらも「人として仁でなければどうしようもない」と言っておられるのです。「仁」とは「他人に対する思いやりや慈しみの心」のことで、仁の人は「有徳者」であると讃えられております。

『論語』にはこのとりわけ重要な「仁」について、色んな記述があります。例えば、「巧言令色、すくなし仁」(学而)(言葉を巧みに飾り、顔色をとり作ったりするような人に仁はない)、「まことに仁に志せば、悪しきこと無し」(里仁)、「君子は食を終えるの間も仁に違うこと無し」(里仁)、「仁者は憂えず」(子罕)などで、いずれも人口に膾炙した孔子聖人の金言です。その孔子の風格を弟子の子貢は「温良恭倹譲」(おだやかで、すなおで、うやうやしくて、つつましくて、へりくだりであられる)と評しておりますが、この様な肩の力を抜いた自然体で謙虚な方がおられれば、それこそまさに万人に仰ぎ慕われるでありましょう。

小衲が出家前の25歳の時から3年間の薫陶を受けたのが60歳年長の森本省念老師(室号・孝慈室)ですが、名利の念が微塵もなく、ご母堂の介護をされながら仏道に邁進され、徳の高いことで知られる森本老師は、孔子をとりわけ尊敬しておられました。提唱の講本にも『論語』が使われたことがあります。禅を世界に広めるのに絶大な功績のあった鈴木大拙居士が、もっとも尊重された禅僧として森本老師は知られておりますが、この老師の日常底はまさしく「温良恭倹譲」そのものでした。勝海舟は、明治天皇の教育係である侍読を務め、明治天皇のご依頼によりわが国最初の修身書として『幼学綱要』を編纂した熊本藩出身の元田永孚(もとだながざね)のことを、「温良恭倹譲の人だ」と評していますが、これ以上の称賛はないほどの評価だと思われます。小衲はまた或る方が森本老師へのお葉書の末尾に「賢聖様」と書かれておられたのを見て、「徳の高いお方はこのように呼ばれるのか」と感嘆した覚えがあります。

「仁」と並んで重要な徳目は何といっても「誠」です。他人に対する思いやりである「仁」も、真心がなければ本当には起こらないでしょう。孔子も、礼は末節のことよりも誠心が根本だと考えておられましたが、それをさらに明確に表現されたのが、孔子の孫である子思です。子思の編纂された『中庸』はいわゆる四書のひとつとして極めて重要な書物ですが、そこには「至誠息(や)むことなし」とか「誠は天の道なり。これを誠にするは人の道なり。」といわれております。天の道である誠を本当に実践することこそ人の道であるというのです。

鎌倉円覚寺の今北洪川老師(文化13年—明治25年、1816−1892)は儒者の身で禅僧となられた名僧ですが、「性誠の論」という一文をものされ、「誠」ないしは「至誠」の重要性を次のように述べておられます、「 性は誠である。これを尊崇して、至誠といい、徳性といい、正法眼蔵といい、一真法界という。つらつら考えるに、性誠の外に神道は無く、性誠の外に儒教は無く、性誠の外に仏法は無い」、「わが禅門では、若年にして書物を放擲して専門道場に入り、十年・二十年と幾多の艱難辛苦を喫し、一大事因縁を参究するのは、ただ行解(法理と実践)が純真な性誠の心境に到達せんがためである」と(『蒼龍広録』巻二・二丁表)。今北老師の薫陶を受けた鈴木大拙居士が、老師の人格を「至誠」の一語で言い表されているのは、老師が日常底にあっても「純真な性誠」の心境に到達しておられたからでしょう。

禅の修行をする雲衲たちは、この至誠心をもって老師にお仕えし、作務や坐禅や公案工夫に邁進するのです。このような基本態度で修行生活を送ると毎日が充実して法悦三昧になってきます。それに反して手抜きや横着をすれば、師家にたちまち見抜かれてしまいますし、第一、自分にとっても不平不満がつのることになります。江戸時代に編纂されました『雛僧要訓』という書物には、「自分の師匠が正しくないと思っても、決してその非を数え上げてはならない。他人の非を論じるだけでも、わが身の徳を損なうものである。まして大恩ある自分の師匠の非を並べ立てることはなおさら徳を減ずることになる。わたしは多年このことを注視してきたが、師家の到らぬところをとやかくいうもので修行生活を全うした者をただの一人も見たことがない。これは深く慎むべきことである。」と厳しく忠告しておられます。真箇に工夫三昧でおれば、他人のことをとやかく批判する暇はないはずです。

私たちの日常生活にあっても、他人のことを色々と陰口を叩く人は信用できないように思います。禅の修行を専門にする人でなくても、相手に対して思いやりをもち、真心を尽くすことは、とても大切ではないかと思います。

小衲も、至らぬながらも、来客にはできるだけ誠心誠意をもって応対致します。5,6年前のことでしょうか、米国人の監督とカメラマンが、禅寺の撮影をしたいということでやって来て、色々と案内や禅について話をしたのですが、カメラマンがひそかに語ったところによると、監督の息子さんはうつ病気味で監督自身も気に病んでいたとのことでしたが、帰り際には実に晴れ晴れとした笑顔で、”Thank you for your hospitality.”といってくれました。hospitalityとは「歓待」ということでしょうか。小衲が歓迎してもてなしたことが伝わったことが分かり、こちらも笑顔でお見送りした次第です。

これはたまたまあるテレビ番組で知ったことなのですが、自分が満足することをおこなうのは私たちの免疫力を向上させるように思われていますが、実はそうではなく、自分だけのためにした行動に満足感を感じても、それは免疫力を向上させるどころか、かえって減少させることになるということです。ではどうすれば向上させることができるのかといえば、何といっても他人のためにすることが最も免疫力を向上させることになるそうです。これは人類の長い歴史の中で育まれてきた助け合いの重要性を示しているそうです。

私たちもお互い自分だけのことを考えずに、親身になって他の人のことを考えられる心豊かで楽しい毎日を送りたいものですね。世知辛い世の中ですが、そういう人が何人もできれば、周りの人たちも次第に潤いを感じていくことになるのではないでしょうか。しかし、「言うは易くして行い難し」で、かく申す小衲もまだまだ至らぬことを痛感する毎日です。