「南院国師」(月刊コラム【No.105】2012年3月)

臨済宗大本山南禅寺では平成24年4月1日より同11日まで創建開山南院国師(規菴祖円禅師、弘長元年―正和2年、1261-1313)の七百年大遠諱法要を奉修する。国師は南禅寺では「創建開山」と尊称されているが、それは国師の代になって初めて南禅寺の伽藍が創建され完備される偉業が完成したからである。

亀山法皇は正応4年(1291)に東福寺3世の大明国師(無関普門禅師)を迎えてご自分の離宮を喜捨して南禅寺を開創されたのであるが、その年の12月に大明国師は80歳で遷化されてしまった。遷化に際して国師は、ご自分の法嗣ではなく、中国からの渡来僧であった仏光国師(無学祖元禅師)の法脈に連なり、当時20名ほどいた修行僧の筆頭であった31歳の南院国師を第2世として後住に指名された。

それは南院国師が10歳になる以前から禅修行を重ね、無学祖元・心地覚心(法燈国師)・大明国師といった当時の名僧知識を歴参して研鑽し修行円熟した古参の雲衲であったからである。ただ伽藍の全く整備されていない南禅寺の住職となった南院国師のご苦労は、並大抵のものではなかったことは容易に想像がつく。南禅寺の仏殿の基壇を造るに際し、南院国師は大檀越の亀山法皇とともに土をもっこに担いで三たび運ばれたと伝えられる。

そればかりか、『南院国師語録』上巻、「解制上堂」における国師の語として「龍山、一夏空しく過さず、或る時は土を搬び、或る時は石を拽く、或る時は鉄柱を撼動し、或る時は縄頭を把定をす」(この瑞龍山南禅寺の住持である自分〈南院国師〉もまた一夏を空しく過さず、或るときは土を搬び、或るときは石を引っ張り、或るときは鉄柱を揺り動かして立て、或るときは測定するために縄を手に持った)と、造営工事の多面にわたり専門家の職人たちに混じって作務に励まれた日々に言及しておられる。古来、禅宗は百丈懐海禅師の「一日作さざれば、一日食らわず」を標榜して作務を重視するのが常であるが、それにしても国師が法皇とともに搬土拽石をされたというのは誠に有難い芳躅である。

南禅寺創建のために全精力を尽くされた南院国師は正和2年(1313)4月2日に53歳で遷化された。「南院国師行状」には「師、為人頎長、疎眉秀目。人と対して語る則んば、一団の和気、愛すべきの日に似たる有り。儼に清衆に臨む則んば、昻然として鶏群の野鶴に似たり」(国師のお人柄は、面長で気品があり美しい眼をもち、人と応対する時にはまるで陽の光に接するような和やかさがあった。また厳格に修行僧たちに臨まれる時などは、まるで鶏の群れの中に一羽だけ混じっている鶴の如く、傑出して見えた)とある。もって南院国師の風格を追慕するよすがとなるであろう。

小衲は、実のところ、このたびの七百年大遠諱のために、南禅寺本山の内局から何年も前に『南院国師語録』の読み下しと訓註とを依頼され、一つには報恩のため、また一つにはわが身の勉強のためにと思い、快諾したのであるが、いざ取りかかってみると、自らの浅学非才をも顧みずにいとも簡単に引き受けたわが身の軽率さを悔やんだことが、一再ではなかった。

12巻からなる厖大な諸橋博士の『大漢和辞典』の頁をめくってもどこにも見当たらない熟語が頻出した。これまで幾たびも語録の編纂をさせて頂いたが、これほど難解極まる語録は初めてであった。何しろ小衲は西洋哲学を専攻していたがために漢文の語録を専門的に読む訓練が出来ていない。そのため南禅寺管長の香南軒中村文峰老大師を初めとして、その道を専攻しておられる尊宿方や向学心を持っておられる尊宿方に校正をお願いしたところ、多くの方々がご多忙にもかかわらず実に綿密に点検して頂いたことに対して、厚く御礼申し上げたい。

小衲がことのほか感激したのは、これらの方々のほとんどが異口同音に、「良い勉強をさせて貰う機会を与えて頂きました」と実に謙虚な感慨を洩らされたことである。やはり向上心のある方は違う。自分の学識や見識を誇るあまり、相手を見下したような言い方をされる人はいない。小衲もなるだけ誤読、誤解、遺漏のないように努めたつもりではあるが、なお多くの到らぬ箇所が残ったままになっているであろう。それはもとより編纂者である小衲の責に帰すべきものであることはいうまでもない。

とはいえ一般にはあまり知られていない南院国師の広大な遺徳がこの大遠諱を機縁として広く知られるようになればと念願するものである(なお、語録とは別に橋本豊治画伯と教学部長による絵伝『南院さま』も同時に発行される予定である。こちらは一般在家の方々にもわかり易く解説されていて、絵の方も本格的な労作である)。