「来たって是非を説く者は、すなわち是れ是非の人」2014年2月【No.128】

菊池寛の『恩讐の彼方に』という短編小説がある。今はどうか知らないが、われわれの学生時代には教科書にその題名が記載されていたのを覚えている。有名な九州の耶馬溪(いわゆる青の洞門)の伝説を小説化したものである。実在の禅海和尚は諸国遍歴の途中にここに立ち寄った際に、断崖絶壁に鎖のみで結ばれたこの難所で多くの通行人が命を落とすことを知り、隧道(トンネル)を作ることを思い立ち、托鉢勧進により資金を集めて、石工たちを雇ってノミと鎚だけで30年かけて掘り抜いたといわれている。最終的開通は宝暦13年(1763)であった。

菊池寛のこの小説は、主人公である了海和尚が主(あるじ)殺しとそれに続いて多くの旅人をあやめた悪事を懺悔して出家し、諸人救済の大願を起こして諸国を遍歴した挙げ句、この難所に遭遇して隧道掘削を思い立ち、長年月をかけて取り組んで念願が成就する前に、父の仇(あだ)うちにやって来た息子に遭遇するに到る。10年の歳月をかけて探し求めた親の仇(かたき)を果たそうとする息子に対して了海はいった、「皆の衆、お控えなされい。了海、打たるべき覚え十分ござる。この洞門を穿つことも、ただその罪滅ぼしのためじゃ。今かかる孝子のお手にかかり、半死の身を終わる事、了海が一期(いちご)の願いじゃ。皆の衆妨げ無用じゃ」。

石工たちが必死になって貫通までしばしの猶予を懇願して息子もそれを承諾して、一刻も早く隧道掘削を完遂させて親の仇を討つべく自らも了海と並んで鎚を振るうのである。遂に貫通して山国川の流れが見えた時、了海は息子(実之助)に約束通り斬られようとするが、「実之助は、了海の前に手をこまねいてすわったまま、涙にむせんでいるばかりであった。心の底からわき出づる歓喜に泣くしなびた老僧の顔を見ていると、彼を敵(かたき)として殺す事などは、思い及ばぬ事であった。敵を打つなどという心よりも、このかよわい人間の双の腕によって成し遂げられた偉業に対する驚異と感激の心とで、胸がいっぱいであった。彼はいざり寄りながら、再び老僧の手を執った。二人はそこにすべてを忘れて、感激の涙にむせび合うたのであった」。

菊池寛の『恩讐の彼方に』はもとより史実そのものではないが、禅海和尚の場合にもこれと類似した出来事があったことが伝説として伝わっている。彼を親の仇として捜していた息子と出会い、一緒になって隧道を貫通させて、恨み辛みが雲散霧消するのである。まさに「恩讐の彼方に」である。

封建時代には親の仇打ちは息子にとって宿命ともいうべきものであったが、それから解放された息子(実之助)はどれほど肩の重荷を下ろしたことであろうか。現在のわれわれも他人に対して恨み辛みや是非善悪の念にを抱いたままでいるならば、どこでどんな暮らしをしていたとしても不満を抱き続けることになるであろう。

禅の公案集である無門慧開禅師の『無門関』には、「他の非を弁ずること莫(なか)れ、他の事を知ること莫れ」(他人の落ち度をいってはならない、外の物事に関心を持ってはならない)という句があり、また「来たって是非を説く者は、便ち是れ是非の人」(他人のところにやって来て、人や物事の是非をとやかく主張してばかりいる人は、その人自身が取りも直さず相対的分別心の持ち主だということである)という言葉がある。しかしこうした人は往々にしているものである。

われわれも修行時代によく師匠から注意されたのは、「外のあらが見えるのは自分のところの障子の紙が破れているからだ」ということである。外のことをとやかく気にするのは、わが身の工夫がおろそかになって隙があるからだというのである。実際、小衲の修行時代を振り返ってみても、自分の工夫に専念するあまり、他人の行状などは全然気にならなかったと断言できる。僧堂ではもとより坐禅よりも夜行などに精を出す不品行な者もいるが、そんな他人のことよりも自分の工夫をいかにして充実させるか、真箇の禅定に入るかが唯一の関心事であった。その結果、幾度となくえもいえぬ法悦の体験を持つことができた。

小衲はよくいうのであるが、道元禅師が天童山如浄禅師のもとで修行中に、早朝から夜半まであまりに坐禅の時間が長くて、多くの雲水が居眠りをしたという。堂内を検単した如浄禅師は自分の履いていた沓で惰眠をむさぼっている僧を叩き、「参禅は身心脱落であるべきだ。いたずらに眠り呆(ほう)けて何になるか」と叱咤し、その声で道元禅師は身心脱落の境地に到ることができたという。もし道元禅師が居眠り三昧の雲衲のことを気にして憤慨などしていたら、決してそのような妙境に達することはできなかったであろう。

われわれ禅に参ずる者は、他人の是非を云々するよりも、ひたすらわが工夫の充実の悦びを育てていきたいものである。