「温故知新」(月刊コラム【No.92】2011年2月)

わが国最初にして最大の哲学者であった西田幾多郎博士は、『万葉集』を連日のように読まれたという。若い頃にはその理由が分からなかったが、還暦の齢を幾春秋か越えたいまは、万葉人の心の琴線に触れて、その素直さ、誠実さに感銘を受けることが多い。まことに『万葉集』は中国屈指の古典である『詩経』にも比すべき気韻がある。そういえば、越後の良寛さんも万葉集や論語を愛読されたという。

いまひとつ、西田博士が『万葉集』と並んで、「日本人としての自覚を持つために読むべき書物」として推奨されたのが、硬骨の儒者・湯浅常山(宝永五年ー安永十年、1708-1781)の著した戦国時代逸話集である『常山紀談』である。或る方がだいぶ以前に月報か何かで、はっきりと「西田先生が言われた」と書いていたのを読んだ記憶がある。

なるほどこの『常山紀談』を読むと、戦国時代の武士たちが、死地に入っていながら、権謀術数の限りを尽くして、いかに機略縦横の働きをしたかがよく分かる。たとえば、かの真田幸村の父で戦国時代屈指の智将と称された真田昌幸が、北条勢をその智謀で破ったという一段がある。

真田家はもともと武田信玄に仕えていた。薩埵嶺(さったとうげ)の役の初戦で武田方は北条勢に大敗北を喫した。そこで武田信玄はこんどは真田昌幸に次回の先鋒を命じたところ、昌幸はわずか二十八騎の手勢を引き連れて勝ち誇っていき盛んな敵陣の偵察に出かけた。そして使いをもって兄の信綱を呼びよせたところ、信綱は一騎当千の兵、八百人あまりを従えてやってきた。

昌幸は前もって準備していた酒宴の席を開いたので、信綱は「弟よ、北条の大軍を前にして酒盛りをするなど一体どんなつもりか」といぶかったが、昌幸は「はかりごとは密なるをもって良しとしますので、いまは申せません。まずは気を静めて酒を飲んで下さい」といったので、信綱は「弟は今回はどんな策略を用いるつもりであろうか」と思いながら、酒宴に参加した。

昌幸は酒宴が始まると部下のひとりを呼びつけ、「急いでこの近辺で酒を沢山集めてきてくれ」と命じた。その部下がたくさんの酒を手に入れて戻ると、昌幸はたいへん喜び、酒樽のふたを全て打ち抜いて諸兵を呼び出し、「皆の者よ、とりわけ今日はあまりの寒さに耐えがたいではないか。だからこの酒を飲んでどうか寒さをしのいでくれ」といった。

さらにご飯を炊く大釜に味噌汁を作らせ、銘々にひしゃくを与えたので、一同の者が喜ぶこと限りがなかった。「大将からのお許しで、寒さをしのぐうれしさよ」と我先に酒を飲み、舞を舞い歌を歌う者まで現れるほどの盛り上がりであった。

兄の信綱は「こんなことで陣中で諸兵に酒を飲ませるなど、負けたも同然だ」と憤慨したが、昌幸は将兵たちに向かって、「どうだみんな、酒を飲んで寒さを忘れたか」と問いかけると、一同の者はみな「寒さが吹っ飛びました。大将のお情けにより、寒さがしのぎ、手足が温まりました」と大いに喜んだ。

そこで昌幸は指を指し、「みな、あれをみよ。薩埵嶺に配備された敵兵はさぞかし寒いことであろう。弓を引くにも鉄砲を撃つにも手はかじかみ、兵は前進も後退も不自由なはずだ。平地にいるお前たちでも寒さが激しいのに、山中の敵は酒で身体を温めていない。われらのこの勢いであの敵にひと攻撃くわえてみようと思うのだが、どうだろう」というと、みな、躍り上がらんばかりに勇み立ち、「これこそ我らの望むところ、酒を頂いた代わりに手柄を立てて、敵の首をさかなにして、いま一度酒宴を開こうではないか」といって、三千の兵が酒を勢いを借りて薩埵嶺に押し寄せた。

ちょうど雨あられが降ってひどい寒さであったが、真田勢はその寒さをものともせず、敵陣に押し寄せた。昌幸が「勝利品である鎧などの武具は好きなだけ手に入れたらよい。手柄を立てるのはこのときだ」と大声で呼びかけた。北条勢は寒さを避けて民家に入っていたので、つぎつぎに民家に火を放つと、非常に驚いた北条勢は我先にと退散したという。

以上が真田昌幸の機略縦横な逸話であるが、大部の『常山紀談』にはこのような興味深い逸話が満載されているのである。それによって戦国時代の武将たちの気韻を肌で感じ取れることができる。京大で政治哲学を専攻している或る新進気鋭の青年学者に『常山紀談』の一節を見せたところ、「全部を読みたいものです」と感想を述べてくれた。

『万葉集』にしろ、『常山紀談』にせよ、わが日本には比類なき精神的財宝がまだまだ眠っているというべきである。「温故知新」(故きを温〔たず〕ねて新しきを知る)の言葉をいま一度かみしめてみたいものである。

(なお、光雲寺では3月21日まで「京の冬の旅」の特別拝観を行っております。お時間の許されるお方はどうぞご来訪頂ければ幸いです)。