「禅堂の修行生活(その4)」2018年3月【No.177】

建長寺僧堂時代の修行生活についてもう少し書かせて頂きたいと思います。専門道場の生活とは面白いものです。目の色を変えて工夫三昧に打ち込めば、それに相応した法悦の喜びがあります。「法悦の喜び」とは自己を空じた喜びに他なりません。これに反して、眼を外に向けて、他の修行者の行状を気にしたり、世間が恋しくなったりすると、修行生活は途端に苦痛となってきます。
すでに申し上げましたように、小衲は卓越した古人のように何とかして真の無字三昧に入ろうとして、草履や網代笠にも「無」と書き、一刻も「無」を忘れまいとしました。建長寺僧堂では禅堂内での正規の坐禅が終っても、午後九時から一応開枕(かいちん、就寝)して裏山の墓地で十二時まで夜坐をする必要がありました。しかしこの強制的夜坐の時間はあまりよい坐禅はできなかったように思います。十二時になって皆が引いてからが、いよいよ自分の自由坐禅の時間です。小衲は古くて由緒ある開山堂(昭堂)の建物の中に入って、常夜燈を目の前にして今度は誰にも気兼ねすることなく声を出して「無—、無—、無—」と拈提して無字に死に切ろうとしました。ふと気がつくと、いつの間にか一年上の先輩雲水が小衲の横に坐って一緒になって「無—、無—」をやっていました。朝の開定(かいじょう、起床のこと)は午前三時半でしたので、三時には禅堂に戻り、そのまま単布団の上で坐禅していました。
こうして充実した日々を過ごしていた頃、或る除策の日のことです。「除策」とは特別な休みの日で、その日一日は禅堂内で警策を使用して坐禅をすることなく、自由に時間を過ごすことができるのです。同僚の雲水達はトランプ遊びなどに興じていましたが、小衲は別段遊びなどは眼中になかったので、昭堂裏の濡れ縁に坐って石地蔵群と向かい合って、「無—、無—、無—」と無字三昧に余念がありませんでした。夕方になって皆の洗濯物を自発的に取り入れてたたんでいる頃から、次第にえも言えぬ心地になってきたのです。除策の日といえども、午後九時の開枕の作法の前に数十分の坐禅の時間があります。三昧境が育っていた私は、その短い時間を決死の覚悟で坐禅工夫に打ち込みました。二つの崖の上にかけられた丸木橋があるとしましょう。もし一歩でも油断をすると真っ逆さまに谷底に落ちて死んでしまうのは必定(ひつじょう)です。その命がけの一歩が「無—」の一回の拈提だという気迫で、小衲は目の色を変えて真剣に工夫に取り組んだのです。すると、何と不思議なことでありましょうか、瞬(またた)く間に実に深い禅定に入ることができたのです。すべてがあるがままで空じられる法悦が満身に充ち満ちたのです。しかしそれにも尻をすえずに、更に「無—、無—」と間断なく拈提を続けました。開枕の作法の後、除策の日は夜坐は休みでしたが、小衲は148段の石段をかけ昇って、開山大覚禅師と円覚寺開山無学祖元禅師の墓の前で朝まで徹宵夜坐して大いに禅定を練りました。
こうして十二月八日の釈尊成道ゆかりの臘八大摂心以前から、すでに脇席につけずに坐禅をしていましたので、横臥して寝ることを許されず坐禅三昧で一週間を過ごす臘八は、かなり骨が折れましたものの、坐禅中はまぶたを合わせることなく坐り込んだので、結局、臘八中に一度も警策で打たれることはありませんでした。雨あられのように警策を打たれた前の道場では、全く考えられないことでした。
こうして建長寺僧堂時代は修行生活が極めて充実していましたが、僧堂の老師と大本山建長寺の管長とを兼務しておられた湊素堂老師が、嗣法の師である竹田益州老師の懇請によりご自分が修行された京都の建仁寺に僧堂師家として戻られることとなり、また京都での修行生活が始まったのです。それに関してはまた来月お話し致しましょう。

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