「禅堂の修行生活(その6)」2018年7月【No.181】

相国寺管長を兼務しておられた止々庵・梶谷宗忍老師は三十キロに満たぬ体重でありながら、われわれ兄弟を非常に峻厳に接得して頂いたのには、正直言って感謝の念を禁じ得ませんでした。昭和十年に建仁寺僧堂に初掛搭された宗忍老師は、ほとんど不眠不休で修行に励まれたがために身体を痛めて暫暇を余儀なくされ、長岡禅塾で十年の修行生活を過ごされたということを、湊素堂老師が畏敬の念をもってわれわれに語られたことがあります。「長岡禅塾」は総合商社岩井産業の創設者で丹波出身(臨済宗・大雲寺檀家)の岩井勝次郎氏により昭和十年に設立された、京都近郊の長岡京市にある学生の修行道場ですが、学生相手の道場とはいえ、歴代の老師方はいずれも越格底の方ばかりです。

岩井氏は禅による精神修養が経営者にとって不可欠であるとの信念から、当初は兵庫県の御影にあったご自分の別荘を改築して禅道場「伝芳庵」を開かれ、師家としてやがて長岡禅塾の初代塾長になる梅谷香洲老師を拝請(はいしょう)されたのですが(最初の一ヶ月は橋本独山老師)、それが「長岡禅塾」の創設へと発展したわけです。小衲が後に止々庵老師に嗣法した際に「伝芳庵」という室号をつけて頂いたのも、小衲が長岡禅塾出身であるからだろうとすぐに得心致しました。香洲老師を尊敬しておられた岩井氏は、岩井産業の新入社員を選別するのに香洲老師の元に遣(つか)わせて、その眼力に叶う者を採用したと聴き及んでおります。宗忍老師は開創間もない禅塾で、孤危険峻をもって鳴る対雲窟・橋本独山老師の法嗣で、「カミソリ香洲」とその機鋒を江湖に畏れられたこの梅谷香洲老師について辛酸を極める苦労をされ、さらにその遷化後は第二代塾長の森本省念老師に請益(しんえき)されました。

森本老師は京都大学の哲学科で西田幾多郎博士の薫陶を受けられ、居士としてご母堂のお世話をされながら相国寺の独山老師に通参され、四十歳にして出家し僧堂に掛搭して雲水修行をされた高徳の老師で、かの鈴木大拙博士が最も尊重された禅僧としても知られております。素堂老師の嗣法の師である竹田益州老師も、阪急電車で長岡京市を通過する際に、「あそこに偉い老師が住んでおられますなあ」と往復二回ともそのように讃えられたと隠侍さんから聞いたことがあります。素堂老師も「森本老師のようなお方がおられるから有難い」とおっしゃったことがあります。名利の念をいささかも持たれなかった森本老師には、お二人の管長さん方も感服せざるを得なかったのではないかと拝察するのです。

鶴のような瘦軀の森本老師は外見上はお優しいように見えましたが、その実、非常に厳しいお方で、宗忍老師は「真綿で首を絞めるような」森本老師の悪辣さに耐えかねて風呂場の焚き口のところで薪をくべながら涙しておられたということを、森本老師のお世話をしておられた祖渓尼さんから伺ったことがあります。

森本老師が九十五歳で遷化されたのを知ったのは、参禅して拜をして戻る際で、素堂老師が「森本老師が遷化されたぞ。お前、行かなくていいのか」と言われましたので、副司さんに特別の許可を頂いて長岡禅塾に伺いました。森本老師のお骨揚げを待つ間に、止々庵老師・長岡禅塾塾長の浅井義宣老師・大徳寺龍光院の小堀南嶺和尚・上高野の竹林寺和尚・森本老師の弟様の武田薬品会長の森本寛三郎様・京大名誉教授で越格底の居士であられた片岡仁志先生などの錚々(そうそう)たるお歴々を目の前にして、小衲はいつの間にやら釈尊の「入出息念定」を行じて実に心地よい三昧境に入ることができました。禅定から出たときに、止々庵老師がこちらの方をご覧になって「ハッ」と何か感じられたような気が致しました。

森本老師に請益されたのち宗忍老師は相国寺僧堂の大象窟・大津櫪堂老師について修行を続けられ、修行貫徹されて嗣法されました。そのような修行経歴をお持ちでしたので、自然に弟子に対しても厳しくなられたものに相違ないと思われます。小衲は何人もの老師に参禅しましたが、宗忍老師ほど罵詈讒謗(ばりざんぼう)の言葉を浴びせられた老師はおりません。それは弟子の自我や分別を何とかしてこそげ落としてやろうという大悲心の発露だと言えるのではないでしょうか。

当初、小衲が隠寮の前の廊下に両手をついて出て来られた老師に対して低頭し、「これからは老師に参禅させて頂くことになりますが、どうぞよろしくご指導のほどお願い申し上げます」と自分なりの赤心を披歴して申し上げると、老師の方も同じように頭を廊下につけられ、「ははー、私の方こそどうぞよろしくお願い申し上げます」と間髪を入れずに鄭重に言われたので、一驚致しました。「自分は管長だ」などをいう奢(おご)りをいささかも感じさせない謙虚なその対応に、深く心を動かされました。止々庵老師が結局小衲にとって嗣法の師となったのですが、今思い出しても老師との法縁に感謝する次第です。何人もの老師に歴参するといっても、批判的になるのではなく、それぞれの老師方の比類なき長所を有難く頂戴するという気持ちがなければ実りは少ないと思います。江戸初期の名僧・盤珪永琢禅師が力説されたように、師匠の言われることを「真受け」することが特に修行者にとっては大切ではないでしょうか。

さて、こうして塔頭の林光院から相国寺僧堂に通参しながら、本師の和尚ご夫妻の看護に通っていたのですが、和尚が遷化(せんげ)した後、小衲は今一度道場に入門して一から修行し直して禅定を極めたい気持ちに駆られました。この時分には公案の調べもほとんど済んではいましたが、さらに徹底を期して坐禅三昧・公案三昧に邁進して禅定を練り上げたいという願いをぬぐい去ることはできなかったのです。そのためには別の道場で新米僧として一から修行するに越したことはありません。小衲は宗忍老師のお許しを得て、備前岡山の名刹曹源寺に掛搭致しました。小衲の修行生活で一番深い禅定に入ることができたのはこの曹源寺時代です。そのことについてはまた来月にお話しすることに致しましょう。

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