動中の工夫 2013年8月【No.122】

盛夏の昨今は雑草がよく伸びて、早朝から草引きに勤(いそ)しんでいる毎日である。檀家さんたちの大切なご先祖をお祀りした墓地以外に、前庭・中庭・畑と順々に除草していても、雑草の伸びるのは驚くほど早い。しかし伽藍を清浄に保つのは住職としての欠くべからざる役目である。

修行前の雛僧の熟読すべきものとして、江戸時代の名僧知識によって著(あらわ)された『雛僧要訓』という基礎的書物がある。その一段には、「総じて阿蘭若(あらんにゃ、寺院のこと)の境は平生清浄にして、俗家の来詣(らいけい)する者をも浄心を起こさしむること、法中の教えなり」と説かれているが、まことにその通りであろう。墓地や庭を見られた檀家さんや来訪者の方々が喜ばれるのを見るのは、実際嬉しいものである。

そうはいってもなかなか自分たちだけでは雑草が取り切れないので、月二回の坐禅会のメンバーに坐禅前の作務の時間に除草をお願いしている。お蔭で大いに助かっているのは事実であるし、暑い中まことにご苦労様なのであるが、彼らの草を引いた後を見ると、だいぶ取り残しのむらがあることが多い。

われわれ専門に禅修行をした者は道場の高単(先輩)からの厳しい指導を受けて、「この範囲の雑草は一本たりとも残すまい」という気概が身に染みついている。ましてや他からの指導や強制からではなく、わが身の修行生活が充実して法悦三昧の日々を過ごしていれば、自ずから抜かりや隙(すき)が無くなってくる。

そうするとその人の仕事が「光を放ち」、その仕事の成果を見て「他人が息を吞む」ようなことがたびたび起こる。精魂を込めずにただ漫然と草を引いているようなことでは、取りこぼしが多くて、除草したあとが「光を放つ」ことはあるまい。その人の作務のあとを見れば、修行の願心の程度が即座に見て取れるというものである。

しかしただ単に人を感動させるほど綺麗にすることなら、すぐれた庭木職人の人なら可能であろう。それでは禅の修行者の面目躍如たるところは何かといえば、それは「動中の工夫」ということに他ならない。禅門では古来、「動中の工夫は静中の工夫に勝ること百千億万倍なり」と言い慣わされている。坐禅の時の工夫はもとより禅定の根本を養うものであるが、しかし単に坐禅中だけしか工夫をしないようなことでは、決して真の三昧境は現前しないゆえ、「せぬ時の坐禅」(至道無難禅師)と称せられる「動中の工夫」の必要性が強調されるのである。要するに、動中静中の隔てなく四六時中工夫に邁進せよというのが眼目である。

そういうと必ず、「そんなことは不可能です」という人が出てくる。そういう人は決して三昧境の法悦を経験することはできないであろう。これは念仏門の話であるが、蓮如上人の在俗の弟子であった越後の赤尾の道宗は、「お上人が、おい道宗よ、お前独りで近江の湖水(琵琶湖)を埋めてみよ、と命じられるならば、私は、はいかしこまりましたと仰せに随う」という意味の堅固な願心を披瀝している。師匠の言葉を真受けするこの素直さがあれば、四六時中の工夫も可能となることは間違いない。

草引きなら、雑草を一本一本引きながら、「無—無—」と眼の色を変えて公案三昧の工夫に没頭していると、時間の経つのも忘れ、わが身のあることも忘じて、法悦三昧の中での除草が現前する。動中の工夫に邁進した人なら、こうした体験があるはずである。しかしそれにも尻を据えずにどこどこまでも工夫を続ける覚悟が大切なことはいうまでもない。

坐禅会の在家修行者のみならず、専門道場の雲衲でかかる「動中の工夫」を心がけているものが一体どれほどいるであろうか。最近よく見聞する雲衲の質の低下は、小衲にはこうした願心がすこぶる不足しているところから生じるように思われてならないのである。

(なお、今月の月例坐禅会は例年の如く、お盆のために第二日曜日は休会とさせて頂きます。)