「古人越格底の禅修行」2014年8月【No.134】

二十五年以上も禅修行に邁進している旧参の居士の人と最近話していて、相国寺の独園老師が編纂された『近世禅林僧宝伝』中の越格底(おっかくてい、ずば抜けたの意)の古人の修行ぶりに言及したことがある。この書は返り点がついているものの漢文体なので、在家の修行者で拝読している人は稀であろうと推測される。だが明治時代屈指の名僧の一人であった独園老師が、後世に残すべき古人のすぐれた行履(あんり)が忘れ去られるのを惜しんで編纂を志され、引き続いて同じ相国寺塔頭長得院の学僧であった小畑文鼎(ぶんてい)師により『続禅林僧宝伝』が編纂され、現在では全三巻となっている。禅の実参実究に志す人にとっては欠くべからざる法財といってよいであろう。小衲も僧堂に掛搭する前に拝読して、道心を鼓舞したものである。

柏樹軒潭海玄昌禅師や蒼龍窟今北洪川老師などの名高い名僧の修行ぶりと並んで小衲の心に深い印象を残したのは、「岐阜県梅谷寺端道禅師伝」である。大分県に享和三年(1803)に生まれた端道全履禅師は十一歳にして蒲江(かまえ)の東光寺の弟子になったが、師匠であった当時の住職が『金剛経』を講ずるのを聞いて、「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」の段に至り大いに疑問を起こし、会う人ごとにその真意を問い質したが、誰もその疑団を解いてくれる者がなく、数年が経過した。ここにすでに栴檀は双葉より芳しき、禅師の勝れた宗教的素質が見て取れる。

十六歳にして禅師は行脚歴参の旅に出る。文政元年(1818)のことである。備前曹源寺の名僧・太元孜元禅師が岐阜県関市の永昌寺で結制されているのを聞いて、行って掛搭した。時に酷暑の時節であったが、禅師は禅堂内で冬に着るどてらを着て汗を流しながら坐禅三昧に邁進したという。さらに夏(げ)が終わって今度は岐阜の瑞龍寺の天沢僧堂に転錫して、隠山禅師の法嗣である棠林宗寿禅師に参じた。太元、棠林は隠山下の二大法嗣である。ここに本物の師家を見抜く端道禅師の眼の的確さが感じられる。

棠林禅師は一見して端道禅師を法器であると見抜き、趙州無字の公案を与えた。果たして端道禅師はわずかに十昼夜の工夫で無字三昧の功徳により突如として自性を徹見し、歓喜に堪えずその場で坐禅蒲団を蹴って起ち上がり、単の下に墜落して片足を捻挫してしまった。左右の者が助け起こしたところ、禅師はただニコリと微笑むばかりであったという。びっこを引いて老師の室内に参禅すると、棠林禅師は「お前はすでに初見性したな」と言われた。

これより棠林禅師は悪辣の手段を尽くして禅師を陶冶されたが、禅師はいささかもひるむことなく身をなげうって精進し、十九年の月日が流れた。その間、一夏は典座(食事係)、一夏は三応(隠侍、老師の世話係)という風に縁の下の力持ちをして陰徳を積んだので、他の雲水はその骨折り振りに感嘆したという。或る日、棠林禅師が印可証明を授与されたところ、端道禅師はそれを韋駄天堂に置いたまま、何ヶ月も顧みることがなかったので、道友たちが諭(さと)してそれを収めさせたという。証明など眼中になかった禅師の高邁な見識が窺われる。

その後、棠林禅師の命によって梅谷寺に住山するのであるが、その翌年に棠林禅師は遷化された。その遺命により雪潭禅師に請益(しんえき)すること六年、室内の微細な調べを尽くした。雪潭禅師はいうまでもなく天下の鬼道場と言われた「伊深の正眼寺僧堂」の開単者で、「雷雪潭」とあだ名された機鋒鋭い英傑である。この雪潭禅師の法席にあった時には、常に単頭に位していたという。単頭とは直日に対する単の最高位である。雪潭禅師はかつてこう言われたという、「履首座は機鋒峭竣、手段辛辣なること、今時にその比を見ないほどだ。それは彼の得力がずば抜けているからに他ならない」と。さらに禅師は独園禅師の師匠の大拙老師がその風格を痛く慕った行応玄節禅師にも請益した。

端道禅師のずば抜けた修行遍歴は以上の如くである。「この道、今人捨てて土の如し」(杜甫)の感がある。現今の僧堂は雲衲の数が少なく、いずこも閑古鳥が啼いているという。のぞむべくもないと思うが、今どき端道禅師のような真の道心のある弟子がほしいものである。

(なお、光雲寺では八月の坐禅会は第二日曜日はお盆のため休会とさせて頂きます。二十四日の第4日曜日だけの開催となります。)

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