「呼吸法と禅定」2016年9月【No.159】

坐禅修行にとって「呼吸法」が重要な意味を持つことは、いやしくも少し坐禅を経験した人ならば、誰しも知っていることだと思います。しかし、では正しい「呼吸法」を実践して真箇の禅定に入った人が多くいるのかと言えば、長年、専門道場で修行したり坐禅会を主宰したりしている経験からありていに申せば、なかなか本当に禅定を体験した人は少ないように見受けられます。

その原因は、恐らくはその人が惰性で坐禅をするだけで、肝心の呼吸法を真剣に修していないからではないでしょうか。もとよりどの人も無意識の間に呼吸はしているのですが、それに意識的に集中することで「呼吸法」というものが成り立ちます。そして呼吸に対するこの集中があるかないかで雲泥の差が生じます。目の色を変えるほど真剣に呼吸に集中すれば、禅定に入ることは実はそれほど難しいことではありません。真剣に坐禅工夫している人には、何か犯しがたい威厳や風格が見られるはずです。

釈尊が行じておられた「呼吸法」は、「安那般那(あなはな)」、すなわち出入の息に心を集中して禅定に入る観法である「入出息念定」(アナパーナ・サチ・サマーディー)と呼ばれるものです。坐禅を組んで、脊梁骨を伸ばし、肩の力を抜いて臍下丹田に気を充実させ、「調身」ができれば、次に深い呼吸をしながらそれにひたすら意識を集中します。この「調息」ができれば、おのずから「調心」が可能となります。

仏教が中国に入ってきた二世紀後半に安世高という人により翻訳された『大安般守意経』という、「入出息念定」を論じた経典がありますが、この教えの通りに息を調えることに集中していけば、通常の意識分別による「われ」や「自分」という思い込みがいつの間にか消失してしまいます。そうして天地宇宙につながる大いなる命が実は私たちを貫いている本来の有り方であることをしみじみと味わうことができるようになります。

ただその際、釈尊も強調されているように、何よりも大切なことは出入の息を「意識する」ことです。呼吸を意識することなしに漫然と坐禅をしていても、時間の浪費になるだけで、何年経っても禅定力のつくはずはありません。工夫をしていなければ、どうしても居眠りなどが出てしまいますし、長年坐禅修行した人から見れば、一見しただけで、「この人は真剣に工夫していない」ということが分かるものです。「意識せよ」とは「集中せよ」ということでしょう。この意識や集中を欠けば禅定に入ることは不可能になります。小衲も出入の息に集中して、それこそ何時間でも坐禅可能のような佳境に入ったことが幾度となくあります。釈尊は二ヶ月の間、食事を運ぶ弟子以外は人を遠ざけられて「入出息念定」の坐禅工夫を続けられたと言われておりますが、その際の法悦たるや、如何ばかりであったかと拝察されます。

公案を工夫している方は、坐禅の時だけではなく、行住坐臥・四六時中目の色を変えて工夫三昧になることが肝要です。成果を求めず、ただひたすら公案三昧になることです。公案工夫に骨を折られた人はその三昧境の醍醐味をご存知のはずです。「坐禅は安楽の法門」と言われておりますが、その法悦を味わえるのは自分が実際に骨を折って工夫した人だけです。

くれぐれもご注意申し上げたいのは、ただ呼吸法の重要性を知っているのと、出入りの呼吸への集中を実際に行うのとは全然違うということです。公案工夫も本当にやらなければ法悦を得ることはできません。坐禅弁道によって真の禅定を得たいと思われる方は、どうぞ実際に呼吸への集中や公案工夫に専念することをお勧め致したいと思います。

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