「工夫三昧」2017年9月【No.171】

先日柴犬(名前を小梅と申します)を連れて朝の散歩をしているときのことです。同じように犬を散歩をしておられ時々お目にかかるご婦人が、「和尚さん、私のこの歳でも坐禅できますか」と訊ねて来られました。鹿が谷通りにある光雲寺の石柱には、「毎土曜日午後8時より9時まで夜坐禅があります。費用は無料です。希望者は申し込み不要で、午後7時50分までに坐禅会場の仏殿にお入り下さい」という表示があるので、それをご覧になってのことでしょう。

聴けば、ご婦人は74歳になられるということです。「私はどうも生来のいらちで、一生この状態で人生を終えるのかと思うと残念でなりません.坐禅で何とか治らないでしょうか」という切実な悩みです。「いらち」とは京都や大阪で使われている方言で、「すぐにいらいらしてせっかちで短気な人」という意味です。「さもありなん」(そうでもあろう)と思いました。顔に険(けん)が走っておられたからです。

すぐに切れる短気な人や、何でも他人のせいにして人を批判するような人は、顔の表情にとげとげしさが表れてきて、骨相が悪くなるのは自然の成り行きでしょう。その反対に、常に穏やかでゆったりとして他人のことを思いやる心持ちの人は、期せずして逢う人を和ませるような徳風を身につけておられるものです。小衲は長岡禅塾在塾時代に、妙心寺管長になられた山田無文老師が森本省念老師を訪問された際、「老師はおられますか」と笑みをたたえられて小衲にお尋ねになった時の円満具足されたお顔つきを忘れることができません。

さて、坐禅で何とか自分のやっかいな性格を治せないかと希望されたかのご婦人は、とはいうものの腰痛持ちということなので、小衲は足を組まなくてもよい「せぬときの坐禅」(至道無難禅師)、言い換えれば、四六時中行住坐臥の工夫という「坐を組まぬ坐禅」を勧めました。「無字三昧の工夫」を勧めたのです。「すぐにいらいらされるというのは、眼がいつも外にばかり向いているからで、他人やまわりの物事にすぐに反応して色んな感情を起こされるので、そのように心を乱されるのです。そのように普段は外ばかり向かっている心の眼を転じて、回りの物事や他人のことが全く気にならないくらい自分の心を充実させることが大切です。そうした心境に到るためには、四六時中『無—』と唱えらることに集中されることをお勧めします。心をこめて熱心にやっておられると、いつの間にやら心の雑念妄想は一掃されて、実にすがすがしい心境になりますよ」と。

参禅経験もない人に無字の公案の工夫を勧めるとは思う向きもあるかも知れませんが、無字の工夫はもっとも禅定に入り易いというのは小衲自身の実体験に基づいています。無学祖元禅師や無門慧開禅師やわが国の白隠慧鶴禅師もみな無字三昧の工夫によって大死一番され、自性を徹見されております。たとえ初心の人であっても心をこめて真剣に工夫すれば、思いのほか深い境地に達することが可能です。これは建仁寺前管長の湊素堂老師も同じことを言っておられたことを記憶しております。小衲の坐禅会でも、四六時中の工夫三昧の心がけて、なかなか心境が進んでいる人が幾人かおられます。

工夫三昧の生活をしていると、色んなことに関して念が起きにくくなります。臨済義玄禅師は「念を起こすな。念が起きたら二念を継ぐな。もしそのような工夫ができたら十年間専門道場で修行した以上の成果があるぞ」と喝破しておられます。この数日間、光雲寺の東側の土地(といっても以前は境内地であった場所です)の雑草が大層はびこってご近所の人々が難儀しておられましたので、かなり広範囲に伸び放題の雑草を草刈り機で二日がかりで刈り込み、総勢5人で掃除致しました。

「お寺の仕事もいくらでもあるのに何も頼まれもしていない外の刈り込みをしなくてもよいではないか」と考える者がいても不思議ではありません。しかし当該寺院の日常生活の方針は時の住職の意向や指示に従うべきものです。不満があれば下山すれば良いことです。
草刈り作務三昧の時間を雑念を起こさずに淡々とやり終えたあとの心地よいこと、ご近所の人々が「有難うございます。おかげで綺麗になりました」と喜んでお礼を言われると、さらに清々(すがすが)しい気持ちになります。大本山南禅寺でも内局の和尚様方が毎朝本山の掃き掃除をしておられることを感心していた在家の知り合いがおります。下手な説法や法話をするよりも、率先垂範してお寺の内外を清浄に保つ方がよほど「以身説法」になりはしないでしょうか。その逆に、門前の伸び放題の草引きすらしない有名観光寺院のことを痛烈に批判する人もあります。

大切なことは、出家にしろ、在家にしろ、日常生活において念を起こさずに淡々と足を地に着けて毎日を過ごすことではないでしょうか。それがなかなか難しいという人には、かのご婦人に対してのように「無字三昧の工夫」をお勧め致します。四六時中行住坐臥において成果を求めることなく鈍工夫をして「無—無—」となり切ってやっていけば、自分でもびっくりするような痛快な境地に達することができます。まだそのような経験のない方は一度打ちこんでみられてはいかがでしょうか。

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