「数息観の勧め」再論 2018年5月【No.179】

光雲寺は本山からの依頼で「南禅寺禅センター」という看板を掲げて大勢の人達(年間1万数千人)の坐禅指導をおこなっておりますが、先日山陰の方から来た中学生から予め質問用紙がファックスで送られてきました。これは長年の坐禅指導の経験で初めてのことでした。総勢15名ほどでしたから、さほど沢山の質問があった訳ではありません。しかし観光客の人数や南禅寺の創建に関する質問、さらには「お勧め撮影スポット」などの質問もありました。
最初に禅の仕方を説明したあと、二炷の坐禅(30分)の前に小衲はこう切り出しました、「皆さんはお寺の方に予めファックスで質問を送って来ましたね。その質問の多くがネットで自分自身でちょっと調べれば分かるようなことです。それ以外の質問もありましたが、一体そういうことを聞きたいがためにわざわざ京都の禅寺まで来られたのですか。それを知って何になりますか。そんなことを皆さんにいちいち説明する積もりはありません。坐禅をするというのはそうした知識分別では得ることの出来ない貴重な体験です。知識の積み重ねでは本当に心の安らぎを得ることができないことを痛感した人が、私の月例坐禅会にやって来ます。そうした知識を求めるという心を離れて、自分の呼吸をひとーつ、ふたーつと数えてとーまで行ったらまたひとーつ、ふたーつと呼吸を数えることに一心不乱に集中して下さい。ただその場合の呼吸というのは、胸の上部でする通常の軽い呼吸ではなく、おへその下の少し膨らんだ下腹部でする丹田呼吸、あるいは腹式呼吸です。自分の呼吸を数えるこのやり方を数息観といいます。たとえ短い時間でも目の色を変えて真剣に数息観を行えば、自分でも驚くほどの心の変化に気づくはずです」と。
そして坐禅のあとの法話の際に、これに付け加えて、何も坐禅の時だけこの数息観をするのではなく、行住坐臥四六時中なるだけ「ひとーつ、ふたーつ」と数息観を継続してやって頂きたい、これは非常に単純な工夫の仕方ではあるが、絶大の効果をもたらすものです、坐禅体験をこの一回だけで終わるのではなく、また機会を見つけて坐禅会に参加したり、自分の部屋で今日学んだ数息観をおこなってもらえれば、きっと坐禅や数息観の素晴らしさを実感されるでしょうと、小衲の修行経験を交えながら話しました。
果たしてこの中学生の生徒さんたちは小衲の言葉の真意を理解してくれたでしょうか。この中から一人でも二人でも本当の坐禅や数息観をおこなって、その醍醐味を味わえる人が出てきて頂きたいものです。

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