「更に参ぜよ三十年」2015年5月【No.143】

大本山南禅寺第二世住持の「南院国師(規庵祖円禅師)」(弘長元年—正和二年、1261−1313)は、南禅寺では「創建開山」と言われるほど、その功績を称揚されているお方です。十歳以前から禅修行の道に入られ、無学祖元(仏光国師)・心地覚心(法燈国師)・無関普門(大明国師)というその当時のお歴々の名僧方について修行されました。八十歳で南禅寺開山となられた大明国師が、入山一年に満たずして遷化される前に、ご自分の法嗣ではなく、当時二十名ほどいた修行僧の筆頭で、中国からの渡来僧であった仏光国師の法脈に属する三十一歳の南院国師を第二世として後住に指名されたのは、南院国師のずば抜けた力量を見て全幅の信頼を置いておられたからでしょう。

四月二日に五十三歳で遷化された南院国師の毎歳忌が四月一日の宿忌、二日の半斎と毎年行われます。小衲は今年の毎歳忌で初めて維那(いの)と呼ばれる法要の先導廻向役を勤めました。三年前の南院国師七百年大遠諱に際して国師の語録の編輯を本山から依頼された関係上、それまで何年もの間、こうした役配が免除されていたのです。その大遠諱が終了したのち、色んな役配が回ってくるようになりました。

禅宗の各本山ではその山独特の節回しがあります。妙心・建長・建仁・相国の各本山を経てきた経験はありますが、南禅寺本山の節回しはそれらとはだいぶ異なったところがあります。これまでも一昨年の亀山法皇忌、昨年の達磨忌の維那、そして春秋彼岸会の山門懺法(さんもんせんぼう)の鏧子(けいす、鳴らし物係)、香華(こうげ)、導師、自帰(ずき)などの役もやり終えたのですが、大明・南院・本光国師の毎歳忌の廻向はまたそれとは異なります。

そうした役配につく予定が分かれば、早い場合には半年前から山内の生え抜きの和尚様のところに通って特訓を受けるのです。今回の南院国師毎歳忌の維那は少しは廻向に慣れてきた小衲にとってはさほど難しいとは予想していなかったのですが、それでも、自分が「これでよかろう」と思っても、幾度となく間違いを指摘され、自分よりも若い和尚様の綿密な指導に感謝し、生え抜きの方々の実力に感銘したものです。二十八歳で出家して四十年、住山して足かけ九年を経た小衲が、いまだに廻向の教えを塔頭の和尚様に請うているということを知った在家の人たちは例外なくビックリされるのですが、しかし在家から出家して本格的な廻向など習ったことのない小衲にとっては、こうした習練はとても勉強になります。

本番の毎歳忌の維那の役割を何とか無事に済ませて、何人かの和尚方からは「うまくいった」と言われたのですが、戻ってから教えを受けた和尚様の先住様の廻向を聞くと、小衲とは比べものにならないほど深い味わいがあると痛感し、「自分はまだまだだ」と反省した次第です。

維那に関してはそのようにまだ新米ですが、坐禅弁道に関しては今度は教える側です。真箇の禅定に入ることができないうちは何があっても簡単には許しません。禅宗はまた日常の一挙手一投足にも抜かりがあれば厳しく指摘を受けます。そうした修行の有難味が分かる人ならば、たとえ在家の学生さんでも相手に諭(さと)すように一々指導します。掃き掃除や食事準備の折りなどには、「何をやりましょうかなどと他人に尋ねているようでは駄目で、一目見て自分が今なすべきことを察知して即座に動かねばならぬ。熟練の雲衲が数名いると実に流れるように物事が運ぶ」と、こちらが率先垂範しながら言うと、「なるほど」と合点がいくようです。もっとも学生さんにそれが身につくまではまだまだ習練が必要なことはいうまでもありません。

たとえこちらが指導する立場にあっても、それに尻を据えて満足するわけには参りません。食事の準備をする場合など、本当に動きに無駄や隙(すき)がないときには、まるで禅定に入ったときと同様の法悦や三昧境が現前します。しかしどこまでいっても「これでいい」ということはありません。向上の一路を目指して不断の研鑽を積む必要があります。「更に参ぜよ三十年」というのは、中途で安住しがちな私たちに対する恰好(かっこう)の指針になるのではないでしょうか。

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