「禅の工夫三昧の法悦」2018年12月【No.186】

先日「中外日報」という宗教新聞を見ていましたら、現在専門道場(僧堂)に掛搭する者が減少して僧堂の規矩(きく)が立たなくなっているので、この深刻な問題に対して、臨済宗と黄檗宗とが一体で取り組むべきだという意見が多かったということが載っていました。僧堂は臨黄全体で40ありますが、その過半数は雲水修行者が10人に満たない状況です。
42年前に在家から出家した小衲の修行時代には、まだ20人以上の雲水を抱える僧堂がいくつもあり、30人ほどの雲水がいるところも、決して珍しくなかったのですが、次第次第に禅宗全体が凋落傾向にあるのは否めないように思われます。一体こうなった原因はどこにあるのでしょうか。
小衲の20代の頃には、明治20年代や30年代生まれの、森本省念老師や竹田益州老師や山田無文老師など「古尊宿の風あり」といえるような名僧が何人もおられたように思います。益州老師の如きは、何しろ日露戦争勃発の年である明治34年(1904)に出家されたというのですから、隔世の感を深くしたものです。これらの名僧方の御修行の経歴と大成されてからの風格を想起してみますと、われわれ戦後生まれの者とは格段に異なる艱難辛苦を経て円満具足した徳望と見性の眼を身につけられたものでありましょう。
小衲が出家する前の昭和47年に25歳の時に初めて参加した僧堂の大摂心が、無文老師の神戸の祥福僧堂の入制大摂心でした。出家した雲衲方はもとより、在家の者も多数参加して、禅堂の中はそれこそ満衆に近い状態で、30名は優に超えていたと思われます。そして小衲は異常な緊張状態の中で四六時中数息三昧の工夫をした結果、図らずも自己を忘ずる体験することができました。出家在家を問わず、それらの人たちはみな無文老師の徳望と道力に信服して結集したという趣を感じたものです。
小衲が住持職を拝命している光雲寺の開山は大明国師ですが、江戸初期の寛文4年(1664)頃に摂津の国から現在地に移転復興された際には、中興の英中玄賢禅師(南禅寺第280世)の指導のもと、50人にあまる雲衲が切磋琢磨していたと伝えられております。その当時の英中禅師の弟子名簿が残されておりますが、その数の多さに驚嘆せざるを得ませんでした。現在の4分の1にも満たない人口の時代で、これだけの修行僧が参集したというのは、やはり英中禅師の風格と道力のしからしむるところでありましょうか。
小衲は先頃招待を受けて或る起業家の人たちの集まりに参加したことがあります。いずれも自分の代で起業して社長になった人たちの集まりですから、なかなか意気軒昂たるところがありました。小衲はそこで禅宗の現状に触れ、後継者難を一番の問題点として挙げたのですが、その時に感じたのは、自ら起業を目指す人は多いが、すべてを捨て去って仏道に邁進する人はなぜこれほど少なくなってしまったのかということでした。
卓越した指導者に巡り逢おうが逢えまいが、勝れた古人の行履やご垂戒を恰好の手本にして、自ら道心を奮い立たせて工夫三昧の修行をすれば、必ず思いもよらぬ大禅定の法悦を得ることができるのは申すまでもないことです。臨済宗中興の白隠慧鶴禅師は「臘八示衆」の中で、「たとい大地を打って失することあるとも、見性は決定(けつじょう)して錯(あや)まらず、あに努力せざらんや、あに努力せざらんや」と明言しておられます。格外の名僧のこのような懇切なご垂戒を知って、一人でも二人でもこの「無上道」に志す人が出て来て頂きたいものです。

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