「足、実地を踏むということ」2019年7月【No.193】

宗教や哲学を学ぶ大学生及び大学院生が、大学の授業そのものに失望して、自らの進むべき道を決めかね暗中模索しているのを、最近よく見聞します。われわれの頃には到底考えられなかったことです。そのようになった第一の原因として考えられるのは、大学で宗教や哲学を教えている先生方が、ほとんど宗教的実践修行の体験を持たないがために、単なる理論の受け売りに終始しているからではないでしょうか。この不満は学生さんたちから幾度となく聞かされたことです。まさに「画餅、飢えを充たさず」(絵に描いた餅では空腹が満たされぬ)といえるでしょう。

 修行体験をもたぬ人がいくら壇上で力説しても、足が実地を踏んでいないわけですから、迫力に欠けるのはやむを得ないことです。寸心居士・西田幾多郎先生の「寸心日記」をご覧になった方は、哲学者である西田博士が、「朝、打坐、昼、打坐、晩、打坐」とそれこそ坐禅三昧の日々を送られたことをよくご存知のはずでしょう。博士は「学問をするはlifeのためなり」と吐露しておられます。そうした真剣な求道心をもつ博士のもとから、森本省念老師や久松眞一先生・片岡仁志先生・西谷啓治先生などの錚々(そうそう)たる実参実究型のお弟子さんたちが生まれたのも頷(うなず)けます。西谷先生の後、辻村公一先生や上田閑照先生まではまだそうした気風が京都大学でも引き継がれていたと思われますが、今や昔日の面影なしの感を深くします。実体験をもたぬ先生の講義を聴いても心の琴線に触れることがなく、失望してしまうのも至極当然のことです。

 しかし他方、問題は教える先生方だけにあると考えるのもまた片手落ちのように小衲には思われます。学生さんたちも求道の志さえあれば、いくらでも安心立命への方途を探すことは可能です。教える側の責任を指摘するよりも、自ら率先して道を求めることをなすべきではないでしょうか。先述の学生さんたちもそのように考えて、自発的に宗教的論議を行う機会を定期的にもっているようなことを聞き及んでおります。ただ、実践経験も宗教体験もない人たちが集まって研究や議論をしても、目から鱗が落ちるような機縁を得ることはなかなか難しいでしょう。そこで小衲は提案して、拙寺で坐禅のあと法話を聴くなどの機会をもつことを進言したところ、全員が大層興味を示したそうです。通常の場合、「禅センター」の規約では、坐禅研修の費用を頂くことになっているのですが、今回は特別に無料で、しかも通常の3倍に当たる3時間の研修時間を予定しております。果たしてどのような結果になるか、今からその日が待ち遠しい思いが致します。また来月のコラムにでもその結果をお伝えできればと思います。

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