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石田梅岩

梅岩は、心を磨く材料であるならば、儒教・仏教・道教・神道・国書のいずれの教えにせよ、「どれをも捨てず、どれにも執着せず」という態度で、偏見なく活用した。こうして彼は独自の「心学」を樹立して、商人を主とした実に多くの在俗の人たちを教化して多くの逸材を輩出し、後世に多大な影響を与えたのである。


      1、聖賢の教えから本心の究明へ
2、梅岩の悟境
3、円熟の境地 


   

1、聖賢の教えから本心の究明へ

京都の商人であった石田梅岩(貞享二年ー延享元年、1685−1744)は、農家の次男であった十五歳位の頃から、当時の少年達が普通学んでいた儒教的教育を受けて以来、自分も学問をして古来の優れた聖人賢者の崇高な言行を学んで、何とかして人の模範となる様な人生を送りたいと考えるに到った。

すでに述べたように、東洋でいう「学問」とは、人間として生きるべき道を学んで実践躬行し、徳を身につけて我が身を潤し、自分も他人も思わず知らず真楽の境地に遊戯(ゆげ)することを目的とするものである。
もとよりそういう本来の有り方から外れて、四書五経を中心とした儒教の経書の訓詁学や考証学のみに専念していた学者は数多くいたのであるが、梅岩はそれを後に「文字芸者」として退けるに到った。

聡明な彼は、聖人の書を真に理解するには聖人の心を知らねばならぬと考え、「自分の本心本性は何か」という難問に出くわし、全身全霊を賭けた求道(ぐどう)の挙句、遂に黄檗宗(おうばくしゅう)に属する居士で明眼の禅の師であった小栗了雲に師事して、四十歳の時に年来の疑問が雲散霧消し、「尭舜(ぎょうしゅん)の道は孝弟のみ。鵜(う)は水をくぐり鳥は空を飛ぶ、道は上下に明らかなり。性はこれ万物の母」と知って、大いに喜んだ。
 
しかし、彼の厳師は、「お前の見たのはありきたりの知れたことだ。盲人が象を見たという喩えの様に、尾や足を見ただけで全体を見ることが出来ていない。お前の場合、自分の本性が万物の親と見たという、その眼がまだ残っているではないか。本性には(自己を対象化する様な)眼は無いものだ。その眼を今一度離れて来い」、と梅岩の解脱(げだつ)の不充分さを指摘した。

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黄檗宗: 中国僧の隠元によって江戸時代初頭に伝来された禅宗の一派。禅と念仏の融合を宗旨とする。
尭舜: 中国古伝説中の二人の聖天子。
解脱: 知解分別を根こそぎにして無我の自己を徹見し、一切の束縛から解放される悟りを得ること。

2、梅岩の悟境

梅岩はそれから更に日夜寝食を忘れて工夫すること一年余りにして、或る夜深更に及び、身体が疲れて眠りにつき、夜の明けるのも知らずに眠っていたところ、後ろの森で雀の鳴く声が聞こえた途端、「忽然(こつねん)と自性(じしょう)見識の見を離れる」(たちまち悟りすらも空じて真空になる)ことが出来た。それ以来、彼の心境はまるで赤子の様に純真そのものになったという。
 
禅では大悟の暁によく「投機の偈(げ)」と称される「悟りの詩」を作るのであるが、梅岩もその時、「呑み尽くす心も今は白玉の、赤子となりてホギャーの一音(ひとこえ)」という和歌を作った。
 
もとより漢詩で作る方がより本格的なのであるが、長年商人であった梅岩にはそういう素養もなく、またそういう作詩の能力を左程重視していなかったのでもあろう。彼にとっては恐らく自分の本心を明らめることこそが何にもまして切実な一大事であったに相違ない。

先述の和歌を敷衍(ふえん)して、彼は次の様に述べている。

「それよりして後は、自性は大なることも、万物の親ということも思わず、迷うたとも思わねば、また覚めたとも思わず。飢えては食を喰らい、渇しては水を呑み、春は霞(かすみ)にこもる華を見、夏は晴れゆく空に青々たる緑を詠(なが)め、暑気甚だしければ水を楽しみ、稲葉の露に月を慕い、萩の下葉色づくより、紅葉の景色を詠じて、木の葉にかかる薄霜より、変わり変わりて雪となる。実に一念に移りゆくその有様を観ずれば、いかさま赤子とも云いつべし。春霞、衣替えなる夏山も、紅葉は散りて、雪は降りつつ」

ここには、「任運騰々(とうとう)」と称される無我無心の東洋的生き方の精髄が、遺憾なく表現されていると言えよう。この梅岩の工夫の仕方と大悟までの経緯を見ると、理想的な禅修行の経過を辿ったと言うことが出来る。

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自性: 自己の本心本性、相(かたち)なき真実の自己。
任運騰々: 時と所に即して自然に無我の妙用を現すこと。

3、円熟の境地

そこで彼は、もはや商人としての勤めを辞して、四十五歳にして京都市中で無料講義を開始することになる。その心境を彼は次の様に語っている。

「私は晩学であったので、これといったことを学んだこともないし、日常の行動も立派な人に似ていれば良いが、それも更におぼつかない。それなのに一体何を教える積りかと思われるであろうが、私が人々を教化しようとする志は、数年の間心を究め尽くして聖賢の何たるかが彷彿(ほうふつ)と自得出来たと言っても過言ではないからである。この心を知らしめたならば、生死は言うに及ばず名聞利欲も離れ易いということがある。これを導くためである。もっとも、学問知識につたない私の講釈であるから、聴衆も少ないであろう。もし聞く人がなければ、たとえ四つ角の辻に立ってなりとも、自分の志を述べたいと思ったのである」
(石田梅岩『斎家論』)

根本の大道そのものである真実の自己を明らめたという揺ぎ無い確信を持ちながら、かくも謙虚に振舞うことが出来るのが、我を尽くした梅岩の心境の円熟さというものであろう。

梅岩は、心を磨く材料であるならば、儒教・仏教・道教・神道・国書のいずれの教えにせよ、「どれをも捨てず、どれにも執着せず」(一に泥まず、一を捨てず)という態度で、偏見なく活用した。
そこに内容の原理的一貫性の欠如を指摘する学者もいるが、それは皮相な見方で、むしろ、自我を根こそぎにした梅岩の悟境からの、端倪(たんげい)すべからざる妙用を看て取れるのである。

梅岩の教説と門人教育法が、真に大道の根本経験に基づいて行なわれたが故に、彼が樹立した独自の「心学」(「石田門流の心学」という意味で、「石門心学」とも呼ばれる)は、商人を主とした多くの在俗の人達を教化して逸材を輩出し、後世に多大な影響を与えることができたのである。

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(参考文献)
『石田梅岩全集』(清文堂)
柴田実『石田梅岩』(吉川弘文館、人物叢書)
石川謙『石田梅岩と都鄙問答』(岩波新書)

 

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