光雲寺の歴史

光雲寺(山号・霊芝山)は臨済宗大本山南禅寺の境外塔頭で、もと摂津国四天王寺付近にありました。ご開山は南禅寺と同じく、大明国師(無関普門禅師)で、弘安3年(1280)の開創です。南禅寺の開創に先立つこと、11年です。

その後、京都を勃発地として10年続いた応仁の大乱のため荒廃しましたが、寛文4年(1664)に南禅寺第280世英中玄賢禅師(寛永4年-元禄8年、1627−1695)により、後水尾天皇の皇后である東福門院様の菩提寺として、現在の南禅寺北ノ坊の地に移して再興されました。当初は5,300坪の広大な寺域で50人の雲衲が切磋琢磨していたと伝えられております。

現存する仏殿と東福門院の第一皇女であられた明正天皇ご寄進の鐘楼が往事を偲ばせます。京都市指定の文化財は仏殿と鐘楼以外に、古文書など330点以上を有します。

開山・大明国師(無関普門禅師)(建暦2年-正応4年 1212-1291)

大明国師座像

光雲寺の開山であり、南禅寺の開山でもある大明国師(無関普門禅師)は信州保科のお生まれで、7歳で越後正円寺の寂円につき、13歳で剃髪して本格的に出家され、19歳で上野(こうずけ)(群馬)長楽寺の釈円房栄朝に菩薩戒を受け顕密二教を習われました。この釈円房栄朝は、わが国に最初に禅宗を伝えられた建仁寺開山・明庵栄西禅師の法を嗣がれた名僧です。さらにご開山は東福寺開山の聖一国師(円爾弁円禅師)に参じて遂に嗣法されました。

そして建長3年(1251)に40歳にして中国の宋の国に渡られ、浄慈寺(じんずじ)の断橋妙倫禅師に参じて大悟を認められました。十二年間の修行遍歴の後に帰国したご開山は、聖一国師に東福寺の第二世となるように懇願されましたが、生え抜きの別の法嗣をかつぐ一派が党派的な運動をしましたので、名利の念など眼中にないご開山は、摂津の国・四天王寺付近に赴き、光雲寺を開創されたのです。

その後、東福寺第3代住持に迎えられた禅師は、亀山法皇の離宮に出没する妖怪を鎮めて法皇の帰依を受けられ正応4年(1291)に南禅寺の開山となられたのですが、その年の12月12日に八十歳で東福寺龍吟庵で遷化されました。龍吟庵には亀山法皇が夜陰に乗じて禅師の看護に通われた部屋が室町時代に復元されて現在にまで伝えられております。

中興・英中玄賢禅師(寛永4年-元禄8年 1627-1695)

英中禅師座像

若狹の高浜に生まれられた英中玄賢禅師は、幼くして南禅寺塔頭・天授庵住持・霊叟について出家し、のちに南禅寺第280世に迎えられました。

後水尾天皇の皇后である東福門院様がご自分の菩提寺を建立されたい旨を相談された側近の野々山丹後守兼綱が英中禅師に相談したところ、禅師は、南禅寺開山大明国師が開かれた光雲寺が摂津国(大坂)四天王寺付近にあり、安国寺とも称される名刹であるが、応仁の乱以降荒廃しているので、これを現在の南禅寺北ノ坊の地に移して菩提寺として再興されたらどうかという旨を東福門院様に進言されました。東福門院様は快諾され、再建は寛文4年(1664)7月から2年がかりで行われました。

なお、英中禅師の実母は徳川4代将軍家綱公の乳母で川崎の局(つぼね)というお方でした。光雲寺にはこの川崎の局が家綱公の「万安を祈り奉らんがために」光雲寺に奉納された家綱公自筆の普賢菩薩像が伝えられております。

東福門院(慶長12年-延宝6年 1607-1678)

東福門院座像

東福門院は徳川2代将軍秀忠公とお江与の方(浅田長政とお市の方の三女)との間に生まれたご息女(五女)で徳川和子(まさこ)というお名前ですが、祖父である大御所の家康公の宿願により14歳で一回り年上の後水尾天皇に入内(じゅだい)されのちに中宮となられました。


御所でも仏頂国師(一絲文守禅師)の説法に感銘を受けられ禅宗に帰依された東福門院は、光雲寺を英中禅師の推挙によりご自分の菩提寺として再興するに際して、父君である秀忠公の遺金を以てされました。光雲寺の再興のために東福門院様から拝領したお金は、判金200枚と小判2千両で、これは約四千数百石に相当します。

紫衣事件などでご主人の後水尾天皇と父君である秀忠公との確執の板挟みになられ言語を絶するご苦労がおありだったと拝察されますが、ご夫婦仲は良く、7人のお子様を授かられました。残念ながら2人の親王様(男のお子様)は夭折され、徳川家の血筋を天皇家に残すことは叶いませんでしたが、女一の宮の興子(おきこ)内親王は奈良時代以来、860年ぶりの女性天皇である明正天皇となられました。

明正天皇寄贈の鐘

そして女三宮の昭子内親王が延宝3年(1675)に先立たれると、東福門院はその葬儀を光雲寺で執り行うように手配され、墓所を光雲寺境内に定められたのです。光雲寺には御所から光雲寺へのご行列の次第が記されたその当時の貴重な記録が残っております。

また女三宮の御殿のひとつが住持である英中禅師の住まいとして移され、その戒名と同じく「妙荘厳院」という名が特別に許可されました。

東福門院はその身分の高さから、自由な外出が叶わず、菩提寺の光雲寺にも臨行することはできなかったようですが、側近の家臣や女房たちを通じて、色々な寺宝を奉納したり、祈願や法要などを依頼されたりし、また英中禅師が出世したときや江戸徳川将軍家に赴く際などには祝儀を届けさせられるなど、絶えず濃やかな心配りをされたのです。

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