「禅堂の修行生活(その8)」2018年9月【No.183】

今月は備前岡山の曹源寺での修行時代のことをお話し致しましょう。
曹源寺は江戸時代末前後には太元孜元禅師や儀山善来禅師などの名僧が輩出して天下第一の道場でした。天龍寺の滴水宜牧禅師や円覚寺の今北洪川禅師もこの道場で修行し、大成された方です。ただ小衲が掛搭した当時はもはや正規の専門道場ではありませんでしたので、在錫証明などがもらえるはずはなかったのですが、それでも曹源寺を選んだのは、一年に十三回の大摂心(一週間の集中的坐禅期間)があるという理由からと、山田無文老師の法を嗣がれた優秀な老師がおられるというのを伝え聞いたからでした。

臨済宗の通常の僧堂では一年に七回というのが普通で、曹洞宗はもっと少ないと聞いております。真の「坐禅三昧」を行じるためにはなるたけ大摂心の数が多い方が良いのは言うまでもないことです。ここで小衲は文字通り決死の覚悟で坐り抜き、工夫に邁進しました。公案もすでに透過した初関の「無字」を老師にお願いしたのです。盲腸炎の手術で掛搭が遅れた小衲より先に建仁寺時代の後輩が二人ほどすでに来ていましたが、小衲は他人のことには目もくれず、自らの工夫の充実だけに心血を注いで、四六時中「無、無、無」と工夫し抜くように心がけました。当時の小衲には自分の工夫の不充分さを歎いたりする暇はなく、ただひたすら単純な「無」に成り切ることに努めた結果、図らずも昼間に休息したり、夜に横臥したりすることを忘じてしまいました。そしてほとんどの大摂心のたびごとに、それまで体達した境地を凌駕(りょうが)する禅定に入ることができたのです。それはまさしく充実の極みでした。老師も参禅に際して小衲の心境と禅定を大いに称賛されました。

そうして三ヶ月ほどが過ぎた頃に、小衲はひどいのど風邪をひいて治らなくなったのです。咳は止まらなかったのですが、当の本人は一向に平気で日々の三昧境の充実を心から楽しむ毎日でした。もとより坐禅の最中にも咳は出ましたが、それで禅定が乱れることは決してありませんでした。とはいえやはりこう咳が続いては他の修行者達(その多くは海外からの在家の人達であったが)の迷惑になると思い、早く咳を治そうと思って夜の二時間だけ横寝することにしました。しかし結局のところ、咳が続いて睡眠をとることはできませんでした。修行仲間の中には小衲が死んでしまうのではないかと危惧した者もいたようですが、誠に不思議なことに、私自身は何等の辛さや疲れを感じることもなく、廻りの世界も八面玲瓏(れいろう)として透徹し、日々法悦の只中に生きていたという他はない境地だったのです。

こうして心を「無」の一点に集中して月日を過ごしていた或る日のこと、小衲はいつものように「ゴホン」と咳をして驚きました。「咳をしている自分が無い」のです。どこをどう探しても自分を見つけようがない。咳を機縁として「無の自己」に出くわしたのです。これまで幾度となく禅定に入って「無我」の境地を味わってきたつもりであったが、この時ばかりは正直言ってびっくり仰天するような体験でした。古人が何かの機縁によって悟られたということが偽りではないことがはっきりと体験できたのです。そして初めて、知らないうちに「これほどまでに自我を空じて無我になっていた」自分を自覚したのです。「三昧は三昧を知らず」といいますが、自我の殻は「思わず知らずに」脱落して行くのが本当であり、それがまだ意識できるうちは真の三昧境は育っていないのです。

いずれにしても、このことを経験してからは、「我があるなどというのは分別の迷いであり、無我・無相こそがわれわれの真実の姿である」ということが揺るぎない確信になりました。大歓喜を得た私は、その当時われわれ兄弟が最も尊敬していた片岡仁志先生にお会いしたくなって、許可を得て京都に帰りました。独創的哲学者の西田幾多郎博士門下で京大教育学部教名誉教授であられた先生は、居士身で生涯独身を貫かれ、二十歳の時にすでに病床で坐り抜いて大悟され、更に相国寺の無為室大耕老師に参じて嗣法された。止々庵老師の師である豪放磊落(ごうほうらいらく)な年長者の大象窟櫪堂老師ですら、兄事しておられたほどのお方です。禅で鍛え上げた「本物」はこれほどまでになるという好箇の模範であられました。「教師の教師」或いは「現代の維摩居士」として「知る人ぞ知る」先生に親炙(しんしゃ)できたのは誠に有難き仏縁でした。その先生に電話して、自分の得た心境を申し上げ、「それで先生にお目にかかりたくなりましてね」と言うと、先生は呵々大笑され、「そうか、そうか」と言われて即座にご自宅を訪問することを勧められました。お宅に参上して、咳を機縁として「無の自己」を自覚したことを申し上げ、「咳をしている自分が無いんです、無いとしか言いようがない」と申し上げると、先生は力強く「分かる、それはよく分かる」と頷(うなず)かれました。

これが小衲のささやかな禅体験です。今どきの雲水さんは本当の禅定に入って見性するということよりも、住職資格のとれる年限に達したらなるだけ早く厳しい禅堂の修行生活を切り上げて自坊に戻りたいという人が多いと聞いております。それよりもどうか、思う存分坐禅修行のできる環境にいるわが身の有り難さに目覚めて、道心堅固で禅定の醍醐味を満喫して法悦の日々を送って頂きたいものです。

(なお、九月の月例坐禅会は、第四日曜日が秋分の日のため本山の出頭がありますので、九日の第二日曜と三十日の第五日曜とに変更させて頂きます。)

「禅堂の修行生活(その7)」2018年8月【No.182】

先月のコラムの最後で、今月は曹源寺時代の修業についてお話しすると申し上げましたが、一番長く修行した建仁寺時代の修行生活についてまだ語り尽くせないことがありましたので、今月はそのことについてお話しさせて頂きたいと思います。

小衲は、申し上げました様に、親切心からであったとは思うのですが、最初の専門道場では策励があまりに度を過ぎていましたので、却って思う存分に三昧境に入ることができませんでした。警策も背中がいつも内出血するような打ち方は逆効果でしかないと感じます。これに対して鎌倉の建長寺ではほとんど警策を打たれることはなく、工夫が妨げられるようなことなく法悦の禅定に入ることができたのは、本当に有難いことでした。

素堂老師について京叢林の建仁寺僧堂に移ってからも、できるだけ四六時中の公案三昧・工夫三昧に打ち込むようにしました。急に僧堂の人数が増えたお蔭で、雲水が大勢であの広い境内の雑草を抜くという作務が連日おこなわれたものですが、小衲はこれこそ公案工夫の絶好の機会と考え、「無−、無—」と無字になり切ることに全力を傾注致しました。その結果として、期せずして坐禅中よりも深い禅定に入れたことが幾度となくあります。

動中で得た禅定力を以て静中の坐禅でも禅定力が向上して来ました。こうなるとますます佳境に入ってきて、寸暇を惜しんで坐禅に励むようになります。堂内の時は勿論のこと、常住と呼ばれる役付きの時でも閑があれば部屋で坐禅をしていました。老師の隠侍をしているときには、お食事をお出ししたあとで、小方丈の庭に面して座布団なしに結跏趺坐を組ながら「無—、無—」と無字三昧の佳境に入ります。

小衲は28歳で出家する前に、勝れた禅僧の伝記が書かれた漢文体の『禅林僧宝伝』を拝読して古尊宿の猛烈な修行振りを知っておりましたので、自分も何とかそうしたずば抜けた修行をして痛快な見性をしたいものだと常日頃思っておりました。工夫が純熟した或る大摂心の最中に、小衲は今北洪川老師が回顧しておられるような「絶妙の佳境」に入っておきました。この工夫を続ければ必ずや見性できるという確信を持てるような充実した工夫ができてきたのです。小衲は参禅にも行かず、結跏趺坐も解かずに極致目指して工夫を続けました。

すると突然、小衲の横に坐っていた在家の居士が「ああ、脚が痛いな。ああ、辛いな」などとわめき始めたのです。恐らくこの居士は、雲水全員が参禅したら足を解いて横着をするつもりだったのでしょうが、小衲が参禅せずに坐り続けたので、足を解くことができず、弱り切っていたものでしょう。こんな雑音など無視して工夫を続ければ好かったのですが、あまりにわめきまくるので、小衲はついに「静かにせんか」と低い声で注意したのです。

その瞬間から、折角佳境に入って向上一辺倒だった工夫は次第にしぼんで行ってしまいました。雲水の工夫の妨げになるような修行振りの居士の参加など不要です。またそれと共に、道心の無い居士に工夫の純熟を妨げられるようなことでは、小衲もまだまだ道心堅固であったとは言えなかったと大いに反省しております。

こういう真の工夫の佳境に入ることはなかなかありませんので、坐禅工夫を志す方々は、そうした時節が到来しましたら、出家在家を問わず、万難を排して獅子奮迅の勢いで工夫に邁進して頂きたいものです。

「禅堂の修行生活(その6)」2018年7月【No.181】

相国寺管長を兼務しておられた止々庵・梶谷宗忍老師は三十キロに満たぬ体重でありながら、われわれ兄弟を非常に峻厳に接得して頂いたのには、正直言って感謝の念を禁じ得ませんでした。昭和十年に建仁寺僧堂に初掛搭された宗忍老師は、ほとんど不眠不休で修行に励まれたがために身体を痛めて暫暇を余儀なくされ、長岡禅塾で十年の修行生活を過ごされたということを、湊素堂老師が畏敬の念をもってわれわれに語られたことがあります。「長岡禅塾」は総合商社岩井産業の創設者で丹波出身(臨済宗・大雲寺檀家)の岩井勝次郎氏により昭和十年に設立された、京都近郊の長岡京市にある学生の修行道場ですが、学生相手の道場とはいえ、歴代の老師方はいずれも越格底の方ばかりです。

岩井氏は禅による精神修養が経営者にとって不可欠であるとの信念から、当初は兵庫県の御影にあったご自分の別荘を改築して禅道場「伝芳庵」を開かれ、師家としてやがて長岡禅塾の初代塾長になる梅谷香洲老師を拝請(はいしょう)されたのですが(最初の一ヶ月は橋本独山老師)、それが「長岡禅塾」の創設へと発展したわけです。小衲が後に止々庵老師に嗣法した際に「伝芳庵」という室号をつけて頂いたのも、小衲が長岡禅塾出身であるからだろうとすぐに得心致しました。香洲老師を尊敬しておられた岩井氏は、岩井産業の新入社員を選別するのに香洲老師の元に遣(つか)わせて、その眼力に叶う者を採用したと聴き及んでおります。宗忍老師は開創間もない禅塾で、孤危険峻をもって鳴る対雲窟・橋本独山老師の法嗣で、「カミソリ香洲」とその機鋒を江湖に畏れられたこの梅谷香洲老師について辛酸を極める苦労をされ、さらにその遷化後は第二代塾長の森本省念老師に請益(しんえき)されました。

森本老師は京都大学の哲学科で西田幾多郎博士の薫陶を受けられ、居士としてご母堂のお世話をされながら相国寺の独山老師に通参され、四十歳にして出家し僧堂に掛搭して雲水修行をされた高徳の老師で、かの鈴木大拙博士が最も尊重された禅僧としても知られております。素堂老師の嗣法の師である竹田益州老師も、阪急電車で長岡京市を通過する際に、「あそこに偉い老師が住んでおられますなあ」と往復二回ともそのように讃えられたと隠侍さんから聞いたことがあります。素堂老師も「森本老師のようなお方がおられるから有難い」とおっしゃったことがあります。名利の念をいささかも持たれなかった森本老師には、お二人の管長さん方も感服せざるを得なかったのではないかと拝察するのです。

鶴のような瘦軀の森本老師は外見上はお優しいように見えましたが、その実、非常に厳しいお方で、宗忍老師は「真綿で首を絞めるような」森本老師の悪辣さに耐えかねて風呂場の焚き口のところで薪をくべながら涙しておられたということを、森本老師のお世話をしておられた祖渓尼さんから伺ったことがあります。

森本老師が九十五歳で遷化されたのを知ったのは、参禅して拜をして戻る際で、素堂老師が「森本老師が遷化されたぞ。お前、行かなくていいのか」と言われましたので、副司さんに特別の許可を頂いて長岡禅塾に伺いました。森本老師のお骨揚げを待つ間に、止々庵老師・長岡禅塾塾長の浅井義宣老師・大徳寺龍光院の小堀南嶺和尚・上高野の竹林寺和尚・森本老師の弟様の武田薬品会長の森本寛三郎様・京大名誉教授で越格底の居士であられた片岡仁志先生などの錚々(そうそう)たるお歴々を目の前にして、小衲はいつの間にやら釈尊の「入出息念定」を行じて実に心地よい三昧境に入ることができました。禅定から出たときに、止々庵老師がこちらの方をご覧になって「ハッ」と何か感じられたような気が致しました。

森本老師に請益されたのち宗忍老師は相国寺僧堂の大象窟・大津櫪堂老師について修行を続けられ、修行貫徹されて嗣法されました。そのような修行経歴をお持ちでしたので、自然に弟子に対しても厳しくなられたものに相違ないと思われます。小衲は何人もの老師に参禅しましたが、宗忍老師ほど罵詈讒謗(ばりざんぼう)の言葉を浴びせられた老師はおりません。それは弟子の自我や分別を何とかしてこそげ落としてやろうという大悲心の発露だと言えるのではないでしょうか。

当初、小衲が隠寮の前の廊下に両手をついて出て来られた老師に対して低頭し、「これからは老師に参禅させて頂くことになりますが、どうぞよろしくご指導のほどお願い申し上げます」と自分なりの赤心を披歴して申し上げると、老師の方も同じように頭を廊下につけられ、「ははー、私の方こそどうぞよろしくお願い申し上げます」と間髪を入れずに鄭重に言われたので、一驚致しました。「自分は管長だ」などをいう奢(おご)りをいささかも感じさせない謙虚なその対応に、深く心を動かされました。止々庵老師が結局小衲にとって嗣法の師となったのですが、今思い出しても老師との法縁に感謝する次第です。何人もの老師に歴参するといっても、批判的になるのではなく、それぞれの老師方の比類なき長所を有難く頂戴するという気持ちがなければ実りは少ないと思います。江戸初期の名僧・盤珪永琢禅師が力説されたように、師匠の言われることを「真受け」することが特に修行者にとっては大切ではないでしょうか。

さて、こうして塔頭の林光院から相国寺僧堂に通参しながら、本師の和尚ご夫妻の看護に通っていたのですが、和尚が遷化(せんげ)した後、小衲は今一度道場に入門して一から修行し直して禅定を極めたい気持ちに駆られました。この時分には公案の調べもほとんど済んではいましたが、さらに徹底を期して坐禅三昧・公案三昧に邁進して禅定を練り上げたいという願いをぬぐい去ることはできなかったのです。そのためには別の道場で新米僧として一から修行するに越したことはありません。小衲は宗忍老師のお許しを得て、備前岡山の名刹曹源寺に掛搭致しました。小衲の修行生活で一番深い禅定に入ることができたのはこの曹源寺時代です。そのことについてはまた来月にお話しすることに致しましょう。

「禅堂の修行生活(その5)」2018年6月【No.180】

建長寺から建仁寺に移られた素堂老師について京都にまた戻ってきたのですが、建仁寺修行時代には、私は一層寸暇を惜しんで坐禅に励むように心がけました。僧堂では、禅堂で寝起きして坐禅に集中する「堂内」と、堂内の修行を縁の下の力持ちとなって支えつつ自らの修行をする「常住」とに分かれるのですが、堂内の時は勿論のこと、常住で諸役に就いている時でも、なるたけ坐禅をするように試みました。たとえば、老師のお世話一切をする隠侍になった時には、老師に食事を出して下がってくるまでの間、小書院の庭に面して坐禅しながら公案工夫をしたのです。ほとんど夜の睡眠を削っての毎日ですから、疲労困憊して眠気もあったのは確かですが、「無—、無—」と無字三昧の工夫することにより、眠気はいつの間にか雲散霧消して行きました。
こうして日々修行に骨を折っていた或る日のこと、一番古参の先輩雲水から部屋に呼ばれたことがあります。その先輩は言いました、「私はすでに公案もほとんど済んでいるが、まだ大休歇(だいきゅうけつ、大安心)の田地(境地)にまでは至ってはいない。君はなかなか頑張って修行しているようだから、一夏(げ)九十日の間、ひとつ私と一緒に夜坐をしてくれないか」と。私は即座に快諾して二人で共に夜座に励んだのですが、それも今は懐かしい思い出です。
禅の修行生活では、老師は目をかけた雲水ほど厳しく接するものであり、それこそが真の親切というのが禅門の常識です。私も素堂老師から様々な悪辣(あくらつ)な試練を受けました。もとよりそれを恨むに思う気持ちは毛頭なかったのですが、しかし「このままでは済まされぬ」という思いがあったことも確かです。私はふと思いつき、老師がご自分で洗濯して乾(ほ)しておられた肌着をひそかにアイロンに当てて乾かした上で、たたんで置いておきました。何日間かこうしたことを続けた後、老師はあるとき私に向かって、「庸(よう)さん、わしがいくら横着者でも、毎回毎回こう新品のように綺麗にたたまれた洗濯物を気つぶしていては、何か済まぬような気がする。やめてくれんかな」と控え目に懇願されました。そのとき私は、「やった!これで悪辣(あくらつ)な試練の仕返しができた」と心の中で快哉を叫んだのです。それ以来、老師との心のつながりは益々堅固になって行き、老師ももう私をいじめることはされなくなったと思います。「いじめる」などというと誤解をされやすいが、「投げられて親方喜ぶ、相撲取り」という世語が日本にある通り、それは何とかして自分勝(まさ)りの弟子を打ち出したいという師家の大悲心であり悲願なのです。
或る時、薬石(夕食)を下げに伺うと、私を窓際へ連れて行かれ、「庸さん、あの東山に沈む夕日を見てみよ。あれを見て見性しなければどうするのか」と訓戒されました。後に私が授業寺の師匠看護のために僧堂を暫暇した後でも、「わしと庸さんとは沈む夕日を一緒に見た間柄だぞ」と言っておられたと先輩からお聞きして、老師の法愛を感じたものです。また隠寮で二人切りで話していた時に、老師が言葉を続けて、「しかし、わしはもう一度生まれてきても雲水ぞ」と言われたので、私も思わず「老師、私も」と申し上げると、老師は「高単さん」と呼びかけられました。雲水が禅堂で坐禅する畳の場所を「単」といい、「高単」とは上位の単に坐る先輩雲水のことを指します。老師にそう呼びかけられて私が怪訝(けげん)に思ったのも無理はありません。すると老師は言葉を継いで、「今度生まれて来たときには新到(新参者)で来ますけん(来るので)、よろしくお願いします」と微笑みながら言われました。これなども老師の法愛を感じた一瞬でした。また或る時には、板(はん)という時を告げる板を私が禅堂の高単として規矩に従って打ってから参禅が始まったのですが、私が参禅で見解(けんげ)を出し終えると、老師は「さっきの板はお前か」と尋ねられましたので、「はい」と申し上げると、老師は「いいなー、と思って聞いておったぞ。やっぱり分かるなー」と言って下さったのです。実際、その打板の際にはわれながら心を込めて、しかも「乗って」(気持ちよく)打つことができたのです。
このように老師との感応道交についての追憶を述べるのは、もとより、私が老師に目をかけられていたということが言いたいのではなく、学問上の師弟関係とは異なり、禅の生活では生活全般・一挙手一投足に至るまで厳師から全人格的薫陶を受けるので、余人には伺い知ることのできぬ師弟関係の濃(こまや)かな情が通い合うという事実をお伝えしたいがためです。
こうして寸暇を惜しんで坐禅や工夫に勤(いそ)しんだ建仁時代でしたが、本師が脳溢血で倒れて半身不随になり、その看護の為に暫暇せざるを得ないようになった。「本師」といっても、そのお寺に一度たりとも住んだことのない名義上の弟子でした。日本の臨済禅の専門道場の伝統では、雲水となって或る道場に入門を志願する場合、「授業寺(じゅごうじ)」といって徒弟教育をしてもらったお寺の住職の弟子という形をとる必要があります。私は学生ばかりの禅塾で実際の予備的修行をして、塾長の意向で、名義はそのお寺の弟子ということにしてもらって僧堂に掛搭したのが、今になって回顧すれば、それには賛同できかねます。やはり或る寺の正式の弟子となって伝統的徒弟教育を受けるべきであったと反省されるのです。しかも、他人から指示されてなるのではなく、自らの意志でどこの寺のどの師匠の徒弟になるかを決めたかったと思います。
さて、ちょうどその頃は修行生活の絶頂期にあり、寸暇を惜しんで坐禅し、日々充実して工夫三昧で過ごしていた最中のことでした。また、道元禅師
(1200−1253)の師匠の明全(みょうぜん)和尚が、病に臥している大恩深き年老いた師匠を日本に置いたまま、「大法の重きが故に」という理由で遂に宋代の中国へ修行に渡られた例なども考え合わせ、大層悩んだのは事実です。だが結局、「ここで逃げては、修行者として、いや人間としての自分が失格だ」と決心して、看護に取り組むことにしました。当初は制間だけ暫暇して和尚の看護をする奥さんを手伝っていましたが、のちに奥さんまでもが過労で倒れたので、遂に永久暫暇(「永暫」という)せざるを得なくなってしまいました。お二人を抱えて色々大変なこともありましたが、今でもやはり困難に直面して逃避せずに良かったと思っております。
当時若いフランス人女性が知り合いの日本人教授の紹介で坐禅修行をしたいからということでパリから訪問してきたのですが、彼女に向かって私は、「私が今不幸に見えますか」と尋ねると、彼女は「いえ、全然そのようには見えません」と答えたので、私は微笑みながら「そうでしょう、日々是好日なのです」と応じました。
この間、私の身辺には変化がありました。名義上の「本師」が病のために法類の和尚からの勧めで寺を出て住職であることを止められたので、僧籍が宙に浮いたままとなったのです。これを知って、当時弟が修行中であった相国寺僧堂の梶谷宗忍老師(室号・止々庵)が、私の状況を心配して「相国寺塔頭の林光院の徒弟にならないか」と言って下さったのです。ちょうど師匠ご夫妻を抱えて孤立無援であった私は、快く老師の申し出に甘えました。さらに林光院が相国寺僧堂に隣接していた関係で、老師への通参をもお願いすることにしました。こうして建仁寺僧堂の方とは縁を断った形になったが、それは後輩の雲水が訪ねてきて、素堂老師ご自身が「自分はもう八十歳で雲水の指導は出来ぬ」と言われ、他の人に後を譲られるお積もりであると聞かされたからです。元来、雲水は雲や水の流れるが如く去来自由で、どの道場に行こうが構わないのが原則ですが、師弟の息がぴったりと合っていた素堂老師から離れるのは誠に後ろ髪を引かれる思いでしたが、これも宿命かと思い、以後は止々庵老師を参禅の師と仰ぐことにしたのです。

「数息観の勧め」再論 2018年5月【No.179】

光雲寺は本山からの依頼で「南禅寺禅センター」という看板を掲げて大勢の人達(年間1万数千人)の坐禅指導をおこなっておりますが、先日山陰の方から来た中学生から予め質問用紙がファックスで送られてきました。これは長年の坐禅指導の経験で初めてのことでした。総勢15名ほどでしたから、さほど沢山の質問があった訳ではありません。しかし観光客の人数や南禅寺の創建に関する質問、さらには「お勧め撮影スポット」などの質問もありました。
最初に禅の仕方を説明したあと、二炷の坐禅(30分)の前に小衲はこう切り出しました、「皆さんはお寺の方に予めファックスで質問を送って来ましたね。その質問の多くがネットで自分自身でちょっと調べれば分かるようなことです。それ以外の質問もありましたが、一体そういうことを聞きたいがためにわざわざ京都の禅寺まで来られたのですか。それを知って何になりますか。そんなことを皆さんにいちいち説明する積もりはありません。坐禅をするというのはそうした知識分別では得ることの出来ない貴重な体験です。知識の積み重ねでは本当に心の安らぎを得ることができないことを痛感した人が、私の月例坐禅会にやって来ます。そうした知識を求めるという心を離れて、自分の呼吸をひとーつ、ふたーつと数えてとーまで行ったらまたひとーつ、ふたーつと呼吸を数えることに一心不乱に集中して下さい。ただその場合の呼吸というのは、胸の上部でする通常の軽い呼吸ではなく、おへその下の少し膨らんだ下腹部でする丹田呼吸、あるいは腹式呼吸です。自分の呼吸を数えるこのやり方を数息観といいます。たとえ短い時間でも目の色を変えて真剣に数息観を行えば、自分でも驚くほどの心の変化に気づくはずです」と。
そして坐禅のあとの法話の際に、これに付け加えて、何も坐禅の時だけこの数息観をするのではなく、行住坐臥四六時中なるだけ「ひとーつ、ふたーつ」と数息観を継続してやって頂きたい、これは非常に単純な工夫の仕方ではあるが、絶大の効果をもたらすものです、坐禅体験をこの一回だけで終わるのではなく、また機会を見つけて坐禅会に参加したり、自分の部屋で今日学んだ数息観をおこなってもらえれば、きっと坐禅や数息観の素晴らしさを実感されるでしょうと、小衲の修行経験を交えながら話しました。
果たしてこの中学生の生徒さんたちは小衲の言葉の真意を理解してくれたでしょうか。この中から一人でも二人でも本当の坐禅や数息観をおこなって、その醍醐味を味わえる人が出てきて頂きたいものです。

「数息観の勧め」2018年4月【No.178】

この冬は厳しい寒さが続きましたが、春のお彼岸が過ぎると俄然温暖な気候になり、桜の開花は例年に比べていずこでもかなり早いようです。「哲学の道」の桜並木を借景とするこの光雲寺界隈でも、実に多くの観光客が花見に興じています。まさに頼山陽の「京の四季」に歌われるが如く、「春は花、いざ見にごんせ東山」という風情です。特に南禅寺境内から永観堂を経て「哲学の道」への道中はまるで歩行者天国のような賑わいです。

江戸時代の人達が質素で慎ましやかな日常生活を送りながらも、花見遊山などに汲めども尽きぬ悦びを見出していたことは、当時の人々の書いたものを読めば良く分かります。例えば、柳沢淇園(きえん)の著と伝えられる『雲萍(うんぴょう)雑志』には、「夏日の七快」として、「湯あみして髪を梳(くしけず)る。掃除して打ち水したる。枕の紙を新たにしたる。雨晴れて月の出でたる。水を隔てて灯(ともしび)の映る。浅き流れに魚のうかみ(浮かび)たる。月の差し入りたる」と列挙されていますが、このように何気ない日常の出来事をわが身の「快」(悦び)として受容するには、その人に心の余裕がなければなかなか難しいことでしょう。或いは逆に、そうしたささやかなことに新鮮な感激を見出すことで、その人に心のゆとりがますます醸成されてくるのかも知れません。

現代のわれわれにも花見の時節になれば確かに遊山に出かける人が多くいますが、果たして現代人は江戸時代の人達のような心のゆとりをもっているといえるでしょうか。むしろ人間関係や色んな物事が気にかかってストレスを感じて日々暮らしている人の方が多いように見受けられます。そういう人達に恰好の心の安らぎをもたらすことの出来るのが、数息観です。

小衲はいま何らの病にもかかっておりませんが、念のために三ヶ月に一度の血液検査を或る名医に受けております。それまでは人間ドックに毎年行っていたのですが、人間ドックというものに疑問を感じてからは病院にはとんとご無沙汰しておりました。現在はこの血液検査で身体の状態を詳しくしかも的確に説明して頂けるので、その先生のところへ通っている次第です。

先日伺ったおりに先生が眼を輝かせてこの様な話をされました、「或る禅宗のお坊さんが進行性の胃がんになったので、貴方は禅僧ではありませんか、もっと坐禅をされたらどうかと坐禅を勧めたところ、その禅僧が熱心に坐禅に励み、遂には進行性の胃がんが寛解したのです。免疫力が格段に増強したからです。禅は実にいいことをしていますね」と。程なくして、その先生の看護師さんから、「先生の患者さんで心の悩みのある人がおり、そのストレスからガンになられたと思われるので、その人に会って相談に乗ってやって頂きたいということです」と連絡がありました。自分で言うのも何ですが、うつ病やストレスの解消は小衲のもっとも得意とする領域です。肝心なことは、親身になってその人の悩みを取り去ってあげたいと心から願うことです。マニュアルなどはありません。そうした相手を思う心持ちが根本にあれば、方便は自ずからいくらでも出てくるものだと思います。

娘さんと一緒にやって来られた七十代後半とおぼしきその女性に対して、「ご家庭内の悩みがあなたの一番のストレスになっていますね。その悩みを忘れるために、呼吸をひとーつ、ふたーつと数える数息観をやってみられてはいががですか。何も足を組んで坐禅をしなくても、歩きながら蒲団の上に大の字になりながら、四六時中ひとーつ、ふたーつと丹田呼吸をすることです。成果を求めず、まるで赤子のような純な気持ちで心をこめて数息観を行って下さい。そうするとこれまで気がかりだったことが嘘のように雲散霧消するから不思議です。」と数息観を勧めました。白隠禅師も「臘八示衆」の初日のところで「無量三昧の中には数息を以て最上と為す」と太鼓判を押しておられます。小衲自身も数息観でえもいえぬ三昧の佳境に入った経験をお話し致しました。

そして「オーラの出し方」についても長年にわたる禅修行の経験から得られた私見をお話しして、「普通は自分にオーラが出ていないから出そうとしますね。それでは決してオーラは出ません。わが身が不幸せだと思い込んでいる人が幸せになろうとしても、理想と現実のギャップがどこまでも埋まらずに、幸せになることが出来ないのと同様です。オーラを出すことはそんな難しいことではないのです。すでに今の自分が充分にオーラが出ているんだ信じ切るだけで、即座にパーとオーラが出るものです。私はこのやり方でこれまで何人もの人達のうつを治してオーラが出るようにしてきました。いや、治したというのは語弊がありますね。私が治したわけではなく、その人がもともと持っている自身の輝きを気づかせてあげたに過ぎないというのが、本当のところです」と、この様にお話ししたのですが、話をしながら思わず法悦の境地が現前して、われながら実に楽しい時間を過ごすことが出来ました。

お二人が笑顔で帰られたあとで買い物に出たのですが、運転をしてくれていたスタッフが、すれ違ったお二人の醸し出す明るさに気づいたので、実はかくかくしかじかでと実情を話すと驚嘆の声を上げました。その後、そのご婦人は果たして数息観を継続しておられるのでしょうか。家庭の悩みに心をかき乱されることなく、ひとーつ、ふたーつと数息観を続けられれば、心の安らぎを得られることは疑いありません。乞う、数息観を継続されんことを。合掌。

「禅堂の修行生活(その4)」2018年3月【No.177】

建長寺僧堂時代の修行生活についてもう少し書かせて頂きたいと思います。専門道場の生活とは面白いものです。目の色を変えて工夫三昧に打ち込めば、それに相応した法悦の喜びがあります。「法悦の喜び」とは自己を空じた喜びに他なりません。これに反して、眼を外に向けて、他の修行者の行状を気にしたり、世間が恋しくなったりすると、修行生活は途端に苦痛となってきます。
すでに申し上げましたように、小衲は卓越した古人のように何とかして真の無字三昧に入ろうとして、草履や網代笠にも「無」と書き、一刻も「無」を忘れまいとしました。建長寺僧堂では禅堂内での正規の坐禅が終っても、午後九時から一応開枕(かいちん、就寝)して裏山の墓地で十二時まで夜坐をする必要がありました。しかしこの強制的夜坐の時間はあまりよい坐禅はできなかったように思います。十二時になって皆が引いてからが、いよいよ自分の自由坐禅の時間です。小衲は古くて由緒ある開山堂(昭堂)の建物の中に入って、常夜燈を目の前にして今度は誰にも気兼ねすることなく声を出して「無—、無—、無—」と拈提して無字に死に切ろうとしました。ふと気がつくと、いつの間にか一年上の先輩雲水が小衲の横に坐って一緒になって「無—、無—」をやっていました。朝の開定(かいじょう、起床のこと)は午前三時半でしたので、三時には禅堂に戻り、そのまま単布団の上で坐禅していました。
こうして充実した日々を過ごしていた頃、或る除策の日のことです。「除策」とは特別な休みの日で、その日一日は禅堂内で警策を使用して坐禅をすることなく、自由に時間を過ごすことができるのです。同僚の雲水達はトランプ遊びなどに興じていましたが、小衲は別段遊びなどは眼中になかったので、昭堂裏の濡れ縁に坐って石地蔵群と向かい合って、「無—、無—、無—」と無字三昧に余念がありませんでした。夕方になって皆の洗濯物を自発的に取り入れてたたんでいる頃から、次第にえも言えぬ心地になってきたのです。除策の日といえども、午後九時の開枕の作法の前に数十分の坐禅の時間があります。三昧境が育っていた私は、その短い時間を決死の覚悟で坐禅工夫に打ち込みました。二つの崖の上にかけられた丸木橋があるとしましょう。もし一歩でも油断をすると真っ逆さまに谷底に落ちて死んでしまうのは必定(ひつじょう)です。その命がけの一歩が「無—」の一回の拈提だという気迫で、小衲は目の色を変えて真剣に工夫に取り組んだのです。すると、何と不思議なことでありましょうか、瞬(またた)く間に実に深い禅定に入ることができたのです。すべてがあるがままで空じられる法悦が満身に充ち満ちたのです。しかしそれにも尻をすえずに、更に「無—、無—」と間断なく拈提を続けました。開枕の作法の後、除策の日は夜坐は休みでしたが、小衲は148段の石段をかけ昇って、開山大覚禅師と円覚寺開山無学祖元禅師の墓の前で朝まで徹宵夜坐して大いに禅定を練りました。
こうして十二月八日の釈尊成道ゆかりの臘八大摂心以前から、すでに脇席につけずに坐禅をしていましたので、横臥して寝ることを許されず坐禅三昧で一週間を過ごす臘八は、かなり骨が折れましたものの、坐禅中はまぶたを合わせることなく坐り込んだので、結局、臘八中に一度も警策で打たれることはありませんでした。雨あられのように警策を打たれた前の道場では、全く考えられないことでした。
こうして建長寺僧堂時代は修行生活が極めて充実していましたが、僧堂の老師と大本山建長寺の管長とを兼務しておられた湊素堂老師が、嗣法の師である竹田益州老師の懇請によりご自分が修行された京都の建仁寺に僧堂師家として戻られることとなり、また京都での修行生活が始まったのです。それに関してはまた来月お話し致しましょう。

「禅堂の修行生活(その3)」2018年2月【No.176】

小衲の鎌倉建長寺僧堂時代の修行生活について、いま少し語らせて頂きたいと存じます。個人的な体験に過ぎませんが、禅僧は空理空論ではなく自分自身が実体験したことを述べるべきものだと考えるからです。禅修行に関心のある方々にとって、何かのご参考になれば幸いに存じます。
小衲は京叢林で二年半の修行の後に、鎌倉の建長寺僧堂に再掛搭致しました。その経緯はすでに以前のコラムで申し上げた通りです。その僧堂では分別を絶した境地に雲水を追い込むために、「ご案内」・激しい警策・大声での叱咤激励など人為的な方法が採用されていたのですが、小衲にはそのやり方が向かなかったようで、本当の禅定(三昧境)に入ることは出来ませんでした。これはひとえにわが身の道心がその当時は不足していたが故に、周囲のことに気を取られて工夫三昧に邁進できなかったためで、決してその道場のせいではありません。
ところが和歌山での独摂心をした後に転錫して10月5日、忘れもしない達磨忌の日に建長寺僧堂に掛搭してからは、加速度的に工夫が純熟して来ました。転錫の身ゆえ背水の陣で修行生活に臨んだ小衲は、「四六時中の工夫三昧」をすべく、網代笠にもゴム草履にも「無」と書いて、一刻も「無字の工夫」を怠るまいと致しました。修行仲間の雲水の中には戯れに小衲のことを「無っさん」と呼ぶ者もおりました。僧堂では名前の下の一字で普段は呼び合っているからです。例えば、臨済宗中興の祖である白隠慧鶴禅師の場合には「鶴っさん」と呼ぶが如しです。自称する場合には、「鶴っそ」と謙称します。
さて、禅宗の修行は何も坐禅だけが工夫の時ではありません。「(坐禅を)せぬときの坐禅」(至道無難禅師)といわれる「動中の工夫」が非常に大切なのです。古人が「動中の工夫は静中に勝ること百千億万倍なり」と強調されたのは、静中の工夫、つまり坐禅中は誰しも工夫に打ち込もうとするでしょうが、坐禅を離れて日常生活をする上で工夫三昧を継続することはつい怠りがちになり、その結果として、なかなか工夫が純熟することができないのです。
「坐禅中は誰しも工夫に打ち込もうとするでしょう」といま申し上げましたが、実はそれがなかなか出来ずに雑念妄想に執われているのがほとんどの禅の修行者(出家在家を問わず)の実情です。と申しますのも、小衲の体験ではたとえ初心者でも真剣に坐禅工夫すれば、たちどころにえも言えぬ禅定に入ることが出来るはずだからです。ましてや四六時中の工夫を継続すれば、それこそ禅定に入らない方がおかしいと言える境地になります。
臨済禅の公案で初関として師家から与えられるのは、白隠禅師の「隻手音声」と並んで、中国唐代屈指の名僧である趙州禅師ゆかりの「無字の公案」です。「犬にも仏性が有りますか」と問われた禅師が「無」と応答された、その真境涯に到るために、一切の分別を放下して「無ー、無ー」と鈍工夫を続けていきます。無字の公案を工夫すること六年で痛快な大悟をされ、ご自分が編纂された『無門関』の第一則としてこの公案を掲げられた無門慧開禅師は、「昼夜提撕(ていぜい)して虚無の会(え)をなすことなかれ、有無の会をなすことなかれ」と、一切の分別を放下した無字の四六時中の鈍工夫を強調しておられます。
こう言うと、「四六時中の工夫など断じてできません」などと、口答えをする心ない修行者がいるものですが、そういう人は願心が不足しているので、師家のいうことを「真受け」に頂くことができないのです。小衲がこの点に関して良く言及するのが、浄土真宗の名僧・蓮如上人の在家の弟子で、越後新潟の赤尾の道宗の見事なまでの堅固な道心です。道宗は、「お上人が、おい道宗よ、お前独りで近江の湖水を埋めてみよ、と命令されれば、やらせて頂きます」という覚悟のほどを披瀝したそうです。「近江の湖水」とはあの宏大な日本随一の湖である琵琶湖のことです。できるできぬは問題とせずに、師匠の言われることを真っ正直に真受けして取り組む姿勢がいかにも貴いではありませんか。
小衲は23歳の大学院生の時に禅と出逢い、28歳で出家しましたが、25歳の時に山田無文老師が師家をしておられた神戸の祥福寺の一週間の大摂心に初めて参加致しました。その時は誰から教えられたわけでもないのに、自分の呼吸を「ひとーつ、ふたーつ・・・」と数えることに専念しました。いわゆる「数息観」です。僧堂での坐禅というのはずっと坐り続けるべきものだと思い込んでおりましたので、ひたすら坐り込んでいましたら、「おい、お前ら、在家の者が熱心に坐っているのにだらしがないぞ」という叱責の声を聞いて、ふと我に返ると、雲水さんたちは単箱の上に打つぶせになって休息中でした。小衲はいつ休憩時間になったのやら、全く分かりませんでした。唯ひたすら坐禅をして、異様な緊張の中で四六時中数息観をおこなっていた結果なのです。
周囲のことが全く気にかからないというのは、工夫する者にとっては一種の佳境と言えるでしょう。結跏趺坐の痛みも次第に気にならぬようになって参りました。五日目の午後に禅堂の中で信者さんからの供養のパンと飲み物が配られました。ところが小衲はそれを手にしたまま、食べることも忘れ果てて数息観に没頭していたようです。そのことに気づいたのは隣単の雲水さんが、「おい、君ずるいじゃないか。自分だけパンと飲み物を残しておいてあとで食べようというつもりか」という言葉を聞いて我に返った時です。わが身が工夫中であるという意識もなしに、それまで継続しておこなってきた工夫三昧の成果が期せずして現れたものと思われます。
大摂心が終わって大阪の阪急梅田駅に夕刻降り立ったときには、実にわが身の心境の変化に驚嘆致しました。まるで自分が霊峰富士になったような、大盤石の雄大な心境になり、周囲の出来事によって自分の心が乱されることがなくなったと実感したのです。あのまま万事を放下して僧堂に居残って修行に邁進すれば、短期日の間に一気呵成に見性ができたかも知れないのに、いまから思うと残念なことをしたものです。
わが身のこの経験から確実に申し上げることが出来るのは、たとえ初心の者でも脇目も振らずに工夫すれば、立ち所に大死一番して自己本来の真面目に目覚めることはさほど難しいことではないということです。禅の修行をする皆さん方は、どうぞ初心に立ち戻られて、純真な気持ちで鈍工夫に専念されて、痛快な法悦の境地を得られんことをご祈念申し上げます。

「師弟の交わり」2018年1月【No.175】

新年明けましてお目出度うございます。皆様方がこの一年、つつがなく過ごされますことをご祈念申し上げます。
昨年を回顧しますと、マスコミなどに一番取りあげられていた話題は、何といいましても米国と北朝鮮をめぐる政治状況の悪化でしょう。米国にトランプ大統領が誕生して以来、北朝鮮との間でますます険悪な状況が発生して、軍事的衝突も起こりかねない事態に立ち至っております。米国と北朝鮮とが戦争になれば、米軍基地のあるわが国にも甚大な被害が及ぶことが予想されます。場合によっては破局的状況に立ち至るかも知れません。どうかそのような愚かな結末を迎えることなく、何とか両国が平和的解決の方向に向かってほしいものでございます。
国内問題に関しては、日馬富士の貴ノ岩に対する暴行事件に端を発した一連の動きが世間の注目を集めました。特に相撲協会に対して、何の話し合いも妥協もしない貴乃花親方の頑迷さは連日のように報道され、危機管理委員会の委員長のみならず報道番組に出演した多くの識者たちの批判を集中的に浴び、その結果、貴乃花親方は「理事解任と2階級降格」という屈辱的な通告を相撲協会から受ける羽目となったことは周知の事実です。
しかし、何人もの人が指摘しているように、その場に同席して暴行を止めず報告もしなかった白鵬や鶴竜などが減俸の処置で済まされ、貴ノ岩の師匠であり巡業部長の貴乃花親方が相撲協会に報告しなかったという理由で、不公平に過酷な処置を受けたのは何とも腑に落ちません。聞くところによると、貴乃花親方は非常に弟子思いの親方だそうです。大切な弟子が理不尽な暴行を受けて憤慨するのは、親方として当然の心理でしょう。どうも貴ノ岩は本当に骨折しているとの噂があります。相撲協会に報告するよりも先ず警察に届け出て、この事件を徹底的に調べて欲しいというのも、至極まっとうな対応のように思われます。
貴乃花親方の相撲協会などへの接し方を見ていると、どうやら問題はわれわれの知らないほど根が深いもののように思われます。モンゴル人力士たちのなれ合いの集まりに愛弟子が行くのを貴乃花親方ははなはだ喜ばなかったということです。白鵬は四十回も優勝しているにもかかわらず、ビンタをするなどの横綱らしからぬ醜い立ち会いに「横綱の風格はない」と多方面から酷評されているのは周知の事実です。
不世出の名横綱、双葉山の時津風理事長時代を知り、栃錦・若乃花の名勝負を手に汗握ってテレビで見たわれわれ世代からすれば、白鵬の場合は勝つためには手段を選ばない横綱にあらざる浅ましい取り口にしか見えません。そうしないと勝てない状況に立ち至っているのでしょう。ここに八百長などの噂の入り込む隙があります。
しかし、一方では、不惜身命で孤高に徹する貴乃花親方の行き方もあまり不器用というか生き下手な気がします。あのような頑ななやり方では批判を受ける隙を自らが作っているように見えるではありませんか。孤危険峻で他人を近づけないやり方よりも、子供やお年寄りまでもが親しんで近寄って来る春風駘蕩な風格が、小衲には慕われてなりません。皆さん方はいかが思われるでしょうか。
貴乃花親方と貴ノ岩の師弟関係に思いを致すことにより、小衲は雲水修行時代に薫陶を忝(かたじけな)くした建仁寺前管長の湊素堂老師のことが偲ばれてなりません。小衲が他僧堂より鎌倉の建長寺僧堂に転錫して最初の参禅で拜をして退く時に、「私もあなたと同じような路を通ってこの仏門に入ったものです。もう一度生まれてきても、もう一度雲水になりたいと思っております」と穏やかに話されたそのお言葉を聞いて、バットで殴られたような衝撃を受けました。老師はインド哲学、小衲はドイツ哲学という相違はありますが、哲学に満足できずに実參実究の禅の道に入ったのは同様です。
背水の陣で臨んだ建長寺時代には、四六時中目の色を変えて工夫三昧で貫くようにして、かしわ蒲団に横になって寝る夜も少なかったように思います。大きな二人引きののこぎりで太い丸太を切りながら、「無ー」と間断なく工夫を続けて禅定の状態で茶礼準備に出向いた小衲の姿をご覧になり、思わず老師が反応を示され、茶礼の時に、三十人いた雲水の中で、小衲の名を呼ばれみかんを投げて寄こされたのも、師弟二人だけに分かる心のやりとりです。
また建仁寺時代に老師の隠侍を拝命してお仕えしていた折りに、老師の隠寮で自分の修行時代のことを話され、「しかし、もう一度生まれてきても、わしはもう一度雲水をやるぞ」と言われたので、小衲も思わず、「老師、私もです」とお答えしたところ、「高単さん」と呼ばれたので、怪訝に思って「えっ」と反応したところ、「今度生まれてくるときには新到で来ますけん、よろしゅうお願いします」と言われ、にこっと微笑まれました。
また或るとき、禅堂で坐禅の坐から降りて、時を知らせる板(はん)を打ってから参禅に出向くと、「さっきの板はお前か」と訊ねられたので、「はい」と申し上げると、「いいなーと思って聴いておったぞ。やっぱり分かるなー」と思いがけなくお褒めの言葉を頂いたことがあります。
しかし時には非常に厳しい言葉で叱責を受けたことがあります。 わが身の恥をさらすことになりますが、一番忘れることができないのは、何といっても老師から骨身にこたえる痛棒を頂戴した思い出です。当時の老師は七十数歳ほどであられたでしょうか。或る日、薬石(夕飯)を持って参上すると、老師はぬい針で法衣を繕っておられたのです。「あれ、老師が把針をしておられる」と思った途端、「お前、何を見ているんだ。さっさとお膳を置いて引き下がらんか」と語気鋭く言い放たれたのです。
薬石が済んだ合図のベルで再び参上するやいなや、老師は実に厳しいお顔をして目を潤ませられながら、「わしは先師・古渡庵老師に繕い物などさせたことは決してなかったぞ」と、実に骨随に徹するお言葉を頂戴しました。わが身の至らなさに恥じ入り、一言の言葉も発することが出来ずに、小衲はただ黙してひれ伏すほかありませんでした。
色々と素堂老師との師弟関係について述べて参りましたのは、師弟の交わり、特に禅修行における師弟の交わりは余人のうかがい知ることの出来ない情濃(こま)やかな格別のものがあるということです。そのことから思いますに、貴乃花親方と貴ノ岩の師弟関係も他人では分からない深いつながりがあるかも知れません。一度貴ノ岩関に聞いて見たいものですね。

「禅堂の修行生活(その2)」2017年12月【No.174】

小衲は最初掛搭した京叢林を結局2年半で下山致しました。そのきっかけとなりましたのは、あまり警策をもらいすぎて背骨に違和感を感じ、医者に診てもらってところ、背骨が変形していると言われたので、このままではいけないと思い、転錫を決意致しました。同夏(同参)の中には、一年で一番峻烈な臘八大摂心で警策を打たれまくって、臘八後の開浴(お風呂)の際に恒例として禅堂内の最高位の直日(じきじつ)さんが背中を流してくれることになっているのですが、彼の「ノートルダムのせむし男」のように打たれて曲がった背骨を見て、さすがに顔色を変えてすぐに病院に行かせた人がいます。彼はそのことがあってすぐに下山しましたが、7人の同夏(どうげ)で最後に残った小衲も、「これは別の僧堂に転錫した方がよい」と思い、師匠に相談の上、下山を決めた次第です。

鎌倉の建長寺僧堂に転錫したきっかけとなりましたのは、最初の僧堂の役位の一人が、「本当に見性しようと思うのなら、湊素堂老師の建長寺僧堂に行った方が良いよ。素堂老師は公案をなかなか許さないそうだよ」と助言してくれたからです。師匠の長岡禅塾の浅井老師からも「湊素堂老師は坐禅しすぎて足がこんなに曲がっている」という話をお聞きしたことがありました。ただ鎌倉に行く前に独摂心をしようと思い、和歌山県の古座川上流の知り合いの家を借りて一ヶ月ほど坐禅をしました。盤珪禅師や白隠禅師の独摂心を模範として、お粥だけで過ごし、「盤珪さんのように大岩の上で坐ろう」と思い、探しましたが、恰好な岩を見つけることはできませんでした。

夜中に豆電球をつけて坐禅をしていると、何やら天井からボタッと生き物らしきものが落ちて来ました。てっきりこれは昼間見た蝮(まむし)かも知れないと思い、電気をつけると、それは大きなムカデでした。山中での住まいではこうしたことはよく起こることでしょう。そうこうするうちに、僧堂に掛搭する日が迫ってきました。雪安居(せつあんご)に掛搭するためには10月初旬には掛搭する必要があります。小衲は10月5日の達磨忌の日に再掛搭致しました。

排水の陣で臨んだ建長寺僧堂では、なるだけ坐禅して動中にも公案工夫を続けるように努めました。同夏は3人いましたが、32歳の小衲が一番年少でした。素堂老師に初めて参禅した時の感激は忘れることができません。老師は、参禅が終わって拜をしている小衲に向かって、「私もあなたと同じ道を通ってこの禅門に入ったものです。もういちど生まれてきても、もう一度雲水生活をしたいと思っております」と実に穏やかな声で語りかけられました。老師はインド哲学を学ばれ、小衲はドイツ哲学からという違いこそあれ、いずれも哲学畑に飽き足らずに実参実究の禅の道に転じた経緯があります。小衲は思わずバットで殴られたような衝撃を受け、「この老師にずっとついていこう」と決意致しました。

建長寺僧堂時代は結局素堂老師が京都の建仁寺僧堂の老師として遷られたので、わずか半年ほどの期間でしたが、小衲にとっては非常に実り多い僧堂時代であったと申せます。それにつきましてはまた次回にゆっくりとお話し致しましょう。

 

「禅堂の修行生活(その1)」2017年11月【No.173】

禅宗の僧堂での修行の有様について訊ねられることが時たまあります。禅修行が厳しいということは一般に良く知られておりますが、一般には門戸を開放していない僧堂の修行生活に関心を持ち。厳しい修行を経験してきた禅僧に対して畏敬の念をもつ人があるのも事実です。ただ小衲が僧堂に掛搭しましたのは四十年以上も前のことですから、僧堂の現状はその当時とはだいぶ様変わりしていると思わなくてはなりません。そのことを念頭に置いて頂いた上で、小衲が自分で実際に経験した僧堂生活について、いささかお話し申し上げます。

この場合の「禅宗の修行生活」というのは臨済宗の修行生活です。曹洞宗や黄檗宗などの修行生活の経験は、小衲は持ち合わせておりません。ただ曹洞宗出身者で臨済禅の修行をする人は、道元禅師の影響でたまに見かけますが、そういう人から聞いた話では、曹洞宗は一般的にはどうやら臨済宗ほど修行が厳しくないようです。

小衲が最初に掛搭した京都の或る僧堂では、粥座(朝食)のお粥の分量が二十人で、米一合と麦一合の計二合だったのには驚きました。あまりにも少ないと思い、後に典座という料理係になったときに三合に増やしましたら、上の人に「多すぎる」と注意されて、元の二合に戻しました。その次に転錫した道場では、粥の分量がたっぷりとありましたが、前道場のことを思うと、勿体なくて咽に入らない思いがしました。典座当番の人には、「沢山食べないのを美徳にように思っている者がいる」との批判を受けましたが、食べようにも咽に入らなかったというのが実情でした。

僧堂では開静(かいじょう)時間が午前3時半で、午後9時から11時までは禅堂の外で夜坐をしますから、睡眠時間は一番寝る者で4時間半ですが、みんなが寝静まってからも夜坐をするようでなくては道心あるとは言えません。小衲も大摂心(一週間の坐禅集中期間)の前から最中も夜坐を延長していたせいで、止静中にときおり無意識のうちに居眠りが出て警策で思い切り打たれた上、単蒲団から降りて敷き瓦の上に直接坐るように命じられました。それでもほとんど寝ていないので、いつのまにか居眠りが出たようです。縦警策といって樫の警策の握りの太いところで首筋にドンとばかり縦に打たれて横に吹っ飛び、「よっさん、お前はもう駄目か」という痛罵を浴びたことを記憶しております。「これでは身体がもたない」と思い、あまり極端に睡眠を削るのを中止してからは、そのようなことがなくなりました。

在家の方々から見れば、何という乱暴な修行かと思われるかも知れませんが、師匠の指示で入門した道場です。ちょっとやそっとのことで退くわけには参りません。ただ一番最初に掛搭した道場は「心臓が抜けるほど」と形容されるような警策や罵声の連続で、あまり本来の公案工夫に集中できなかったように思います。もっともこれは僧堂のせいというよりは、それに気を取られて工夫を十分できなかったわが身の至らなさが原因です。

参禅のあとでまた何人かで「もう一度参禅してこい」と数人がかりで室内に送られるいわゆる「ご案内」と呼ばれる慣習も、小衲にはあまり有難く感じられることがありませんでした。結局、同夏と呼ばれる同参の7人のうちで最後に残ったのは小衲だけでしたが、それも警策をあまりに打たれたせいで、背骨が変形してしまい、師匠に相談の上で、別の僧堂に転錫することを決意致しました。(続く)

(なお、11月の月例坐禅会は本山の開山忌などの都合で、5日の第一日曜日と19日の第3日曜日となります。)

「看月亭と閑雲庵」2017年10月【No.172】

大本山南禅寺からの要請で「南禅寺禅センター」という看板を掲げて年間一万五千人に及ぶ拙寺の光雲寺には多くの方々が見えられます。そうした人達の中には、紅葉や桜の時節のような繁忙期には京都に来たくともなかなか宿泊所が見つけにくいという人や、ときには光雲寺に泊まって坐禅や文化体験をしたいという方もおられます。そうした方々のために是非ともご紹介したいのは、光雲寺の境内地で「京都文化協会」と「葵ホテル&リゾート」とにお貸ししている500坪ばかりの土地にあります、「看月亭」と「閑雲庵」という二棟の建物です。

この二棟の名前は京都文化協会から依頼されて小衲が名前をつけ、南禅寺の管長猊下に揮毫して頂いたものを、ちょうど手持ちの栂(とが)の木を使って知り合いの神戸在住の扁額作成に堪能な和尚様に依頼して彫って頂いたものです。「看月亭」と名づけましたのは、東山を借景にしたこの庭から見る月や星が実に見事だからです。「閑雲庵」と名づけましたのは、のどかな雲のようなゆったりした気持ちで宿泊して頂きたいという気持ちからです。

「京都文化協会」と「葵ホテル&リゾート」さんのご尽力のお蔭で、このたび見事にこの二棟が見違えるように生まれ変わりました。いずれも一棟貸しです。葵さんの支配人さんは「この看月亭はおそらく葵では一番のところだと思います」と感激の面持ちで述懐しておられました。七代目小川治兵衛(通称、植治)作の庭も、作庭の権威であられる尼崎先生のご指導のもと整備され、面目を一新しました。背景には哲学の道があり、桜の時節には見事な桜並木をご覧頂けますし、錦鯉の泳ぐ池のある庭には紅葉が何本もありますので、11月下旬には見頃となります。

看月亭の改修工事を施工したのは京都宇治のツキデ工務店です。檀家総代さんのお宅がこの工務店の施工した新築で、その伝統的工法を見て、小衲がこの工務店ならと思い、ご紹介したのです。多くの工務店との交流のある葵さんの支配人さんも、「ツキデ工務店さんはとても綿密で仕事が丁寧です」と感心しておられました。皆さんもご覧になれば、きっとその施工の素晴らしさに感嘆されることでしょう。

葵さんはさらに隣接する家を購入されて「酵素風呂」を運営されることを計画中です。ご存知の方も多いようですが、嵯峨嵐山にある「酵素風呂」は酵素でおがくずを温めてそれに15分ほど入るというもので、健康にとてもよく、特にガン患者さんには効果があるといわれております。小衲も何年も前から時折行っておりましたが、葵さんが酵素風呂に関心がおありになるということをお聞きして驚きました。葵さんは酵素風呂を交通の便のよいこの場所に設置して多くの人々に利用して健康になって頂きたいという願いをもっておられるようです。市川海老蔵さんも「南座の講演のあるときに酵素風呂に入ると頑張り通せます」といっていたそうです。

以上で光雲寺の「看月亭と閑雲庵」および「酵素風呂」のご紹介は終わりますが、宿泊などご希望の方は「葵ホテル&リゾート」さんの方にお電話頂ければ幸いに存じます(075-354-7770)。

なお、今月のコラムはパソコンの不具合で公開が遅れましたことをお詫び申し上げます。

参考リンク:京都の町屋宿泊 葵 KYOTO STAY

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