「東嶺禅師の入道要訣」2019年5月【No.191】

三、憤励の義

諸仏と同体の性を得ようとするならば、まず無明の根元を明らかにして悟らなければならない。どのように明らかにするのか。自らの本性を疑うべきである。どのように疑うのか。

眼に色を見、耳に音声を聞き、身体では冷暖を感じ、意には逆境・順境をわきまえ知るはずである。これを見聞覚知といって、修行の種(基本)である。

凡夫は色を見ては色に迷い、音声を聞いては音声に迷い、冷暖を感じては冷暖に迷い、逆境・順境を知っては逆境・順境に迷う。これを衆生は外に向かうというのである。

菩薩の修行は、色を見る時は、その見ているもの(自己)自身を疑い、音声を聞く時は、その聞いているもの自身を疑い、冷暖を感じる時は、その感じるもの自身を疑う。その逆境・順境を知る時は、その知るもの自身を疑う。これを諸仏は内に向かうというのである。

このように修行すれば、まず凡夫・衆生の心を向けどころとは別である。諸仏の心の向けどころと等しく、その智徳を完成したわけではないが、まずは菩薩の仲間に入ったものと知るべきである。

常に諸仏に大願をかけ神明に祈り祖師に誓い、このように一大事を一度は成就して、自利利他の願海を遊戯しようと思うのである。

朝起きてはどんなに忙しくても、まずこの一念を立て、まずこの見聞の工夫を試み、そのあとで自分の仕事に従事する。食事を食べる時にも、まずこの一念を先として、この工夫を試みるべきである。トイレに入る時にも、まずこの一念を立て、この工夫を試みるべきである。日が暮れて就寝する時は、しばらく寝具の中で坐禅して、この一念を先としてこの工夫を試み、それから身を放って寝るがよい。これを諸仏・菩薩の正直・正路の修行とする。

諸仏と同体の本性を取り失って、六趣・四生の間に迷い来ることを憤慨して、根本性に向かって工夫の心を励まねばならない。これを憤励の義という。

四、進修の義

先に述べた根本の工夫の心を励まして、念々に進み、事々の上に修し習うべきである。

その工夫の正念をひっさげて、行く時は行く時に修し、いる時はいる時に修し、人と話す時は話す時に修し、話さない時はいよいよ正念を励まし、物を見る時は見ているもの(自分)自身を疑い、物を聞く時は聞くもの(自分)自身を疑い、多忙で物に心を奪われやすい時は、奪われているもの(自分)を疑うのである。

このように奪われるものは何ものぞと疑う時には、奪われてもまた工夫の正念を離れない。病ある時は、その苦悩をもって工夫の種(基本)とすべきである。

とにかく工夫は多忙であるのも、また工夫増進の一端である。ただ普通に物静かな時だけならば、工夫の精彩ということはないはずである。工夫の精彩がなければ得力(ある境地を得る)こともない。

国の乱れたのを治めるには、一大事に際して、戦場に出向き、恐れず取りかかり引き返して戦ってこそ、勝利は得られるものである。

工夫の法戦もそれと同様である。さまざまな出来事に心を奪われ、もろもろの想念に心を乱される時こそ、勝負を決する好機である。この心をわきまえ、の心なく進まねばならない。

物静かな時は、これぞまことに城中にあって兵法・軍術を修練すると心得て、丹誠を尽くして修行せねばならぬ。物騒がしい時は、これぞ戦場に臨んで勝負を決する時であると心得て、力を尽くして工夫せねばならぬ。

得力がある人もない人も、共に諸仏・菩薩の正直正路の中へ旅立ちした人々である。例えば、世間の強健な人は、一日に十里・十四・五里行くが、弱い人は、五里・三里を行くようなものである。

百里の遠い国に到るのに、強い人は八日か九日あれば容易に行ける。弱い人は二十日かかるであろう。しかしながら、到着してのちは、同じ国にいて同じ人々のもとにいるようなものである。

力を尽くして精進勇猛であるのと、志が怠って進みかねているのとは、これと同様である。根性がさといのと鈍いのも、また同様である。病身で成就し難いのと、頑強で行ない易いのも、同じである。

人の利鈍により、根機の強弱により、省悟・得道の遅い早いができる。修習することと道を得ることに関しては、何ら異なることはない。何と頼もしいことではないか。

願わくば、賢い人もそうでない人も、位の高い人もそうでない人も、この正直修行の旅立ちをされんことを。

この進修の中にまたひとつの通理がある。工夫が純熟すれば、思わずはからずに得力を得ることができる。得力があっても、修行は怠ってはならない。

精彩をつければ、自然に得力はあるものであるが、得力に大小あって、小悟はかえって大悟の妨げとなる。小悟を捨てて取らなければ、大悟は必ず得られる。小悟を取って捨てなければ、大悟は必ず捨てることになる。

例えば、小利をむさぼる人は、大利を得ることができないようなものである。小利に貪著しなければ、大利が必ず成就する。小利が積もり積もれば、ついに大利に到る。

小利を取って進まなければ、一生小悟の分際に終わり、大自在・大解脱の境界に到ることはできない。大悟に到って大自在の道を得なければ、事と理とが相応しないがために、外道・邪見の中に入る。恐ろしいことである。

小悟を得ては、これを種としていよいよ進み、進み進んで修行すれば、諸仏の大利はことごとく現前し、祖師の関鎖を自然に透過し、まことに事理相応し、行解不二にして、大解脱・大自在の境界に到ることになる。これを進修の要訣という。

一切の法理を尽くし、一切の道徳を成就して普く一切衆生をし、その機根に応じて説法・教化しても足らないところがなく、我と人と共に大涅槃・四徳の岸に到る。この大行・大願をもって、生々世々(生まれ変わり死に変わりしても)自利利他をわが身の所作として、尽未来際(未来永劫)退転があってはならない。

その中間で誤って後退することがあっても、脚が弱く路がすべりやすいので倒れたのである。その人が倒れたからといって起き上がらなければ、ついにその場所で転んだまま死んでしまうことになる。

倒れてはまた起き上がり、また倒れては起き上がり、進み進めば、遂に到るのである。経典に、「一戒を犯せば、直ちに仏前に懺悔してまた道に進む」というのは、このことである。

五、帰本の義

前に述べたように、工夫が増進し、修行が純熟すれば、遂に諸仏と同一体の性に帰するのである。これを成仏という。禅宗の「見性成仏」とはここのところである。

最初の一念が誤って、内なる本心に向かうべきところが、外の万境(さまざまな事物)に執われて、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上という六道に浮き沈み、生を隔て世を重ねて、千生万劫輪廻して、車の車輪のようである。

同じ苦患を受けてきたことは数え難い。生々の骨を積めば、大きな山よりも高く、その膿血をためれば、大海の水よりも多かろうと、如来は説かれている。

いま得難い人間の身を受けて、ことに逢い難い仏法に逢い、特に大乗不思議の正法を聞くことは、人々にとってこの上も無い幸福である。

これを取り誤って捨て置くならば、またこの上も無い罪となるであろう。一度人身を失えば二度と得難いことは、兜率天の上より絹糸を下ろして、大海の底にある針の穴を通すようなほどであるという。

また六道の輪廻は、生を隔てたことだけではない。一日のうちに浮き沈みすることである。

心正しく物事が邪でないのは、人間である。自分に相違して怒りを生ずる時は修羅である。自分が好むものに執着すれば餓鬼である。ものを思って心ふさがる時は畜生である。思いも深く嫉妬心も強く、怒りの炎が止まず、人を苦しめ物を害する時は地獄である。これを人の道を失って三塗の種を作るという。

また時には心が静まり、物思いもなく、胸中が澄み渡っている時は、身は人間ではあるが、心は天に遊ぶという。

そうならば、凡夫の一日は、六道を輪廻することが数知れないほどである。その中で、人間の心を持つことは稀である。ましてや、天に遊ぶことはなおさらである。

まずは畜生の物思い、餓鬼の執着・嫉妬心、修羅の怒り、この三塗に遊ぶことが多いであろう。ややもすれば、地獄道に入って、人を苦しめ物を害することが多い。

まことに一日のうち、どの道に遊ぶのが多いだろうかと見てみるがよい。まずは悪道の心が三分の二である。人間はかろうじて一分を守る。地獄がまたその中に交じる。そうであるから、ただ尋常の心持ちではこの悪道は免れ難い。

この一日のうちに、修行の心を発し、声聞の四諦の修行、縁覚の十二因縁の観法、菩薩の六波羅蜜の大道、この心を起してかの三塗の種を断ち切るべきである。

大乗の工夫を励み進んで勤める者は、たとえ悟りは未だ得られていなくても、三塗の心が絶えて、人天に遊ぶことを越えて、菩薩の階級に昇る。声聞・縁覚さえ尊ぶべきである。まして菩薩の道は言うまでもない。菩薩の道すらなお有難い。まして一仏乗の法は言うまでもない。

見性悟道は諸仏頂上の禅である。これを心に掛ける者は、仏の直接の子である。念々の上に無上の功徳門を成就し、足の挙げるも下ろすもみな般若の妙行(妙なる働き)になる。

般若というのは、読誦の功徳ですら貴い。まして般若を行ずる者はなおさらである。人を頼んで読誦してもらっても、災いを免れることができる。まして自分で行なう者はなおさらである。

諸仏は歓喜し、菩薩が手を引き、天神地祇はこの人を擁護し、悪鬼邪神はその影を見ただけで恐れおののく。精霊幽魂はこの人の縁に触れて、解脱の種を得たいと思う。これを最尊・最上・最第一の法という。自分のできる限り、随い行なうべきというほかない。(了)

東嶺禅師の入道要訣は以上の如くです。格外の名僧の導きに随順して真っ正直に修行すれば、必ずや応分の所得が得られることでしょう。

 

「東嶺禅師の入道要訣」2019年4月【No.190】

臨済宗中興の白隠慧鶴禅師第一の高弟である東嶺円慈禅師(享保六年—寛政四年、1721−1792)の『快馬鞭』という著作の中に、「入道要訣」という重要な一文があります。「凡夫の境地から仏の境地に到るにはどのように心がければ良いか」を説かれたものです。あまりご覧になった方も少ないと思いますので、坐禅弁道を志す人のためにご紹介したいと思います。ここでは余計な解説を加えることなく、逐語訳してご紹介することに致しましょう。

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入道要訣(仏の道に入るための奥義)

禅宗の凡夫の境地から直ちに仏の境地に登るには、五つの料簡がある。一、同性の義、二、異塗の義、三、憤励の義、四、進修の義、五、帰本の義である。これが重要な道筋である。

一、同性の義

人々が具足する本性と、三世(過去・現在・未来)の諸仏の本性と、何ら変わりがない。有難さや荘厳さも同じである。光明も同じように放っており、智慧や神通も同様である。
例えば、太陽の光が山河大地を照らしてあますところが無いようなものである。汚い糞土の上にも、貴重なものにも、同じように明るく照らしている。ところが、盲人(普通の凡夫)は、その光の中にいながら、見ることも知ることもない。まことに哀れなことである。

二、異塗の義(「塗」とはこの場合「道」という意味)

本性は諸仏と衆生とは同体で何ら変わりはないが、その心の目指すところが違っているのである。仏は内に向かって、本心を照らされるのに対して、衆生は外に向かって、さまざまな対象に心を散乱させる。
したがって、物を愛しては貪欲(むさぼり)となり、憎む者に対しては瞋恚(怒り)を起し、その思いが凝り固まってとなる。この貪・瞋・癡の三毒の性質に迷いくらまされて、本心をも失うことになる。
貪欲が深い者は餓鬼となり、瞋恚が深い者は修羅となり、愚癡が深い者は畜生となり、三毒すべてを持っている者は、地獄に堕ちて、さまざまな苦しみを受ける。これを「四悪趣」というが、恐るべき極みである。
貪・瞋・癡があっても、自ら戒めて三毒に身を任せてほしいままに振る舞わないのが、人間であり、生まれ変わり死に変わりしてもこの身を失うことがない。
貪・瞋・癡がようやく静まって、自ら戒めなくても三毒に身を任せることのない者は、天上に生まれる。これを「六欲天」という。
三毒の性がなくなって、と智慧の徳はあっても、禅定に定愛(執着)し、瞋・癡の習いがまだ残っているのは、色天十八種の中に生まれたのである。
定愛がすでに尽きてはいるものの、未だ仏の知見を開かないのは、「無色界の四天」という。声聞・縁覚の修行者は、この天に生きる者である。
先の「四悪趣」に「人天」を加えれば、「六道」となる。声聞・縁覚と菩薩と仏とを加えれば、すなわち十界となる。

およそ六道のうちにいる間は、たとえ人間界や天上界(人天)の楽しみを受けることがあっても、皆苦しみの種である。どうしてかといえば、貪・瞋・癡の煩悩の深い心をもって、この世界を作り上げ、この身を感じ出したのであるからである。
そうならば、この業である煩悩を滅しなければ、解脱はできない。この六趣の苦海を解脱しなければ、真の安楽ではない。
この苦海を解脱しようと思うならば、先ず無常を観ずるべきである。生ある者は必ず死ぬ。若いからといって当てにはならぬ。強い者も危うい。富貴な者も衰える。尊貴な者もいつまでもそのままでおれるものではない。長寿も八十年を過ぎることは稀である。
したがって、この世は無常であり、楽しむべきことは何も無い。貧しければ無いことに苦しみ、富める者は有ることに苦しみ、身分の高い者は高いことに苦しみ、卑賎の者は卑賎であることに苦しみ、衣食に苦しみ、妻子に苦しみ、財宝に苦しみ、位官に苦しむ。

とにかく、煩悩の性を滅ぼして解脱の道に到るのでなければ、国王大臣・諸天神仙の位に昇ることがあっても、電光や朝露のごとくはかないもので、ただしばらくの間そうあるだけである。
縁が合すれば了々としてあるとはいえ、縁が散じてしまうと空である。父母の縁を借りてこの身を得た。地の縁をもって皮肉筋骨ができた。水の縁をもって唾・涕・膿・血ができ、火の縁をもって暖和柔順である。風の縁をもって呼吸をする。
この四つの縁がたちまち尽きてしまえば、身体が冷たくなり息も絶え果てて、我というものはない。そのときこの身は実際の我ではない。ただ仮の宿に過ぎぬ。どうしてこの仮の宿に貪著して、永劫の事実を顧みようとしないのか。

この無常・苦・空・無我の四波羅蜜を観じて、菩提の道を求めるのを、声聞四諦の法という。これは諸仏が入道する際の最初の肝要な入り口である。
また縁覚の十二因縁というのは、本心が暗いためにさまざまな業を作るが、これは無明と行との二つである。業が積もって習性となる。

その父母に縁を頂いて胎内に宿る。これが識と名色となり、体形が出来上がって六根がようやく成るのを六処という。

出生し、未だ好き嫌いを少しもわきまえないのを触という。

三歳になってからは、早くも花や味を悦び、美しい色を愛する、これを受という。

十歳以後、財色を求める心があるのを愛という。

十五、六歳を過ぎては、しきりに貪著するのを取という。

二十歳より盛んに業を作って、罪を恐れないのを有という。

この業を作り罪を重ねるうちに、未来に生まれる処が善悪ともに定まるのを生という。

一生このような業のみを作って、老い衰えて死ぬ、というのを人間十二因縁という。縁覚はこのことを観じて、煩悩を尽くして菩提に入る。これもみな諸仏入道の方便である。
無明の暗い心を悟って、その真実の本性を見得すれば、無明即仏性となり、行即道となり、識即智徳となる。その場合には、十二因縁がみな正法に随順して、ついに解脱という大いなる成果に到ることになる。

また菩薩の六波羅蜜というのは、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧のことである。
先に述べた声聞・縁覚の二門の修行は、ただ自分一人を利益するのみで、他人を利するという方法がない。
菩薩は自利の仏道修行をしつつも、また他を教化する行を兼備しているものである。
法のために財を惜しまず、上は師長(尊者・年長者)に供養し、下は貧しい人たちに施しを与えるのは、財施である。自己の智徳のできるかぎり、人のために説法・教化するのは、法施である。この二つの施しをもってあまねく衆生に施す。これを布施波羅蜜とする。
心の内に道心を護持し、十重四十八軽の戒行を修する。これを戒波羅蜜とする。
道理を観ずることを忍受し、褒められたりそしられたりしても、一向に動ずることなく、一念の怒り・恨みも起さない。これを忍辱波羅蜜とする。
自利利他の大いなる実践において、日々に増進し、怠慢を誡め励み進むのを、精進波羅蜜とする。
坐禅工夫を専一に心がけ、一切の妄想を離れるのを禅定波羅蜜とする。
教理を究め、仏の意を察して、さまざまな迷いの情を打破して目覚めるのを、智慧波羅蜜とする。

以上が菩薩の六波羅蜜と言われるものである。この声聞・縁覚・菩薩の修行を三蔵ともいい、三乗ともいい、諸仏成道の方便にして、万古不易の(未来永劫変わることなき)法である。
一仏乗の学者が、これを小乗三蔵の法であるとして痛く退けるのは、小乗の偏見を砕いて大乗の妙理を開悟させんがためである。大乗の妙理を信解すれば、三乗の修行門はみな大乗門を補佐する助けとなる。

例えば、臣民・奴婢は君主よりも劣るとはいえ、もし彼らを捨ててしまえば、君主の威徳を失うようなものである。臣民が多いゆえに君主も尊い。小乗を円満具足するがゆえに、大乗の道も広大となる。三世の諸仏・歴代の祖師も、みな三乗の修行門から法成就に到られたのである。

いま心ある人は思うべきである。四悪趣の苦患(苦しみわずらい)はどれも恐ろしいものである。人天の福徳も頼りにはならぬものである。ともかくも声聞の四諦こそ、おのおののよき修行である。

この世の中はみな苦である。無常であって心細い住み家である。すべてはついに空に帰する。この身体すら我が物ではない。まして妻子・珍宝および王位・眷属・牛馬などが我が物でないことはいうまでもない(苦・無常・空・無我)。

死ぬ時には独りで死んで行かねばならぬ。誰が自分に伴ってくれるであろうか。何物を死んで行く身に携え持つことができようか。

今の他人は前生の親子・夫婦である。今の親子・夫婦は来生の他人である。今の牛馬・魚鳥は前生の眷属である。今の眷属は来生の牛馬・魚鳥である。業に引かれ縁に随って、どのような生を受け、どのような身となるかも分からない。

そうであるから、今の親子・夫婦のような極めて親しい人であっても、(死んで)別れてしまい、どの国に生まれ、何になっているかも知れない。

骨肉の親しさもただ五十年の間である。例えば、一夜の宿りの友であるということで深く愛し、その他の人を憎むようなものである。一夜明けて宿を出立すれば、その友は西東に散って、自分は独りで行く。以前に憎んでいた人は、またその夜の友となる。

(それゆえ)ただ頼むべきは菩提であり、求むべきは仏果である。この身は十二因縁をもってできた業障の皮袋である。まず無明の根元を打破せねばならない。根元が破れて枝葉が残っていることはない。

財施・法施をも自分の力に応じて心がけよ。仏の禁戒を守って犯してはならない。物事に耐え忍んで怒りを起してはならない。朝夕仏や神に祈り誓って、励み進んで念々忘れてはならない。暇があれば坐禅せよ。法を聞いて迷いを覚破せよ。これが菩薩の六波羅蜜の法である。

この根本の性は諸仏と同一体ではあるが、仏は内に向かい、衆生は外に走るという一念の誤りから、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上という六趣、声聞・縁覚・菩薩の三乗、それぞれ九つの世界の衆生に分かれたのである。

これを異塗の義というが、その根本に帰れば、また同じように諸仏と同一体である。どうしてそれを願わずにはおれようか。

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以上は「入道要訣」の「一、同性の義、二、異塗の義」までを訳出したものです。が工夫弁道のご参考になれば幸いに存じます。

 

「三昧の法悦」2019年3月【No.189】

最近は年間100万人、二人に一人がガンにかかる時代だということで、何人もの著名人がガンになられたということがニュースになっております。最近、水泳の女子日本のホープである18歳の池江璃花子選手が白血病になられたというニュースは、日本国内に留まらず、世界中に衝撃をもって受け取られました。東京オリンピックを最大の目標にして研鑽を積んでこられた池江選手の心中を思うに、青天の霹靂であり、本当にやるせない思いを抱いた方は数多くおられると思います。それに引き続いて52歳の堀ちえみさんが舌がんのために舌の6割を切除するという過酷な手術を受けられ、ステージ4で既にリンパ節転移があるという厳しい状況だということが報じられました。
私たち自身も他人事ではなく、いつ自分の身にこの深刻な病気が降りかかってきても不思議ではありません。それでは一体どのように日ごろ心がけたら良いのか、宗教者、禅僧の立場からこの深刻な問題をどのように考え、対処すべきだと考えるのか。今月はこの切実な事柄について、小衲の私見をいささか披露させて頂きたいと思います。
以前に少し触れましたように、小衲は年に数回ほど京都の名医に血液検査による診断を受けております。「サンデー毎日」に「ガン患者が殺到する医院」として連載され大反響を呼んだ烏丸和田クリニック」の和田洋巳(ひろみ)先生といえば、ご存知の方もあるでしょう。小衲自身は別にどこといって具合の悪いところはないのですが、以前には毎年のように受けていた人間ドックに行かなくなって月日が経つので、念のために検診を受けてみることにしたのです。和田先生のことを初めて知ったのは、6,7年も前のことでしょうか。先生のところで看護師をしておられる方が、法類の和尚さんの奥さんで、小衲が当時コラムで述べていたことを読まれて、「うちの先生と同じことを言っておられる」と感じられ、来訪された結果、小衲も初めて和田先生にお目にかかる気になったのです。
先生の第一印象は、「初めて本物の医者に出逢うことができた」というものでした。国立大学の著名な病院の医者の多くが「金や名誉の固まり」であるという率直なご意見も伺うことができました。毎年のように人間ドックを受けていた弟を10年以上前に前立腺ガンで亡くしてから、投薬やガンの標準治療に対する疑問をもっているため、小衲は薬は極力飲まず、検診と言っても血液検査による検診だけですが、和田先生は時間をかけて実に懇切丁寧に解説されますので、人間ドックに行かなくても身体の現況がよく分かるのです。
さて、先日病院に伺った際に、先生が「免疫力がアップしていますが、何かされましたか」と言われたのに対して、小衲は「お釈迦様がされていたように、自分の呼吸に集中するようにしています。特に寝る前には、呼吸三昧の境地に入ってから休むようにしています」と申し上げると、「なるほど、それで免疫力がだいぶアップしたのですね。血液検査の結果を見ると、その人の生活態度が的確に分かるのが興味深いです」と言われ、さらに先生の患者である二人の禅僧がガンに罹患しながらも坐禅によって免疫力が向上して存命中であることに言及されました。「坐禅により免疫力が上がりますよ。禅は素晴らしいですね」と続けて言われたのですが、これはなにも禅だけではなく気功や合気道でも免疫力が向上できるのではないでしょうか。
この話を和尚方の集まりの席で話したところ、「それはきついね。坐禅によって免疫力が向上するという話をしていて、自分が将来ガンになったら面目丸つぶれになるね」ということを言われたので、小衲は「その時はその時ですよ」と即答しました。つまりいたずらに狼狽するのではなく、自分の坐禅工夫が足りなかったなと猛反省して、一層工夫三昧に励み、三昧境を日々楽しんで、副作用の全くない酵素風呂や温熱療法などで身体を温めると共に、和田先生が推奨される食事療法をすれば事足りると思います。
和田先生が言われるには、ストレスがガンに罹患する大きな原因のひとつだそうです。いつも穏やかな心で何事に対しても前向きで、マイナスの言動は慎むことが大切です。よく他人のことを批判したり、愚痴ばかりこぼしたりする人がありますが、そうした人たちはストレスで免疫力が下がっていくことが多いのではないでしょうか。
嵯峨嵐山にある天龍寺の開山で、南禅寺の第六世でもあられる夢窓国師は、「青山幾たびか黄山に変ず、浮世紛々、総に干(かかわ)らず、眼裏塵(ちり)あれば、三界窄(すぼ)く、心頭無事なれば、一牀寛し」という「山居の詩」を残されていますが、いささかの雑念妄想も執着もない明鏡止水のようなこの心境をわれわれは常日頃養っていきたいものです。

「向上の底力」2019年2月【No.188】

大坂なおみ選手がテニスの全豪オープンで優勝し、世界第一位になったのは、世界中の多くの人たちの耳目を驚かせました。わずか一年前には70位にもなっていなかった大坂選手が全米オープンに引き続いて、全豪オープンでも優勝したのですから、誰もが驚き感激するのも無理からぬことです。
全豪オープンに向けて身体をかなり絞り込むほど厳しいトレーニングに励んだと伝えられていますが、一番の勝因は何といってもメンタル面の向上であることは、多くの人たちが指摘している通りです。
以前の大坂選手は、失敗するとラケットを地面に投げつけたり、「自信が持てない」などと弱音を吐いてコーチから慰められたり、時として消極的でマイナスの言動が見られたのですが、この全豪オープンではそうした面は影を潜めているように見えました。第二セットを逆転負けしたあとですぐさまトイレットブレイクを主審に要求して再び現れた大坂選手は、短時間の間に気持ちの切り替えをして、「私は相手のクビドバよりも良いプレーができる」という自信をもって、第三セットは感情を起こすことなく戦えたのが、好結果に繋がったのだと思われます。臨済禅師も、「まだ雑念が出ていなければ、出さない方がよい。もし雑念が出てしまったら、雑念を続けないことだ。そうすれば、十年間みっちり禅の修行をするよりも、勝ることになるであろう」といわれております。元テニスプレイヤーの専門家も、「あれだけ切り替えられて、本当に落ち着いたプレーができたのは、考えられないことです」と驚嘆しているのは、言い換えれば、気持ちの切り替えがいかに困難であるかということを物語っていると思われます。
男子の方はジョコビッチ選手が難敵ナダル選手を圧倒的な力で退けましたが、ジョコビッチ選手との試合途中で負傷棄権をした錦織選手は、またしてもネガティヴ発言の連発で、「自分自身に失望している」だとか「自分がジョコビッチ選手と試合するときは、いつも一番きついときだ」と愚痴をこぼしています。もちろん、直前に5時間を越える死闘を経験しているので、体力的にかなり疲労がたまっていたことは確かでしょうが、それを試合後にせよ、言葉に出すのははなはだ感心しません。弱音や弁解に聞こえます。
錦織選手のように感情を露わにする人は、相手になんなく不安定な精神状態を見抜かれて、ますますその弱点を突かれることになるでしょう。誰か彼に精神面の助言を与える人はいないのでしょうか。これに対して、中途で敗れはしましたが、愚痴ひとつこぼさないフェデラー選手はやはり大物の風格が感じられます。最後に全豪オープンで見事優勝したジョコビッチ選手の言葉をご紹介しましょう。
「自分のテニスをさらに磨き続け、メンタル、フィジカル、感情を含めた総合的な状態の良さを維持することに、全身全霊を注ぎたいと思っている。それができれば、この先数年もこれだけの高いレベルでプレーできるだろうし、やがてはロジャーの記録に近づくことにも挑戦できるはずだ」

「旧年の回顧と新年の抱負」2019年1月【No.187】

新年明けましてお目出度うございます。いつもコラムをご覧頂き、厚く御礼申し上げます。振り返れば、昨年もわが国は色々な災害に見舞われました。特に6月には大阪で震度6弱の大地震があり、また7月の西日本豪雨では220人以上の人が亡くなるという大変な被害がありました。また25年ぶりの非常に強い規模で本州に上陸した台風21号の襲来で、各地でこれまでに経験したことのない倒木などの被害がありました。
京都でも御所を初め、色んなところでかなりの大木がいとも簡単に倒れる被害があり、小衲の住持する光雲寺近辺の「哲学の道」の裏山も、数多くの倒木がいまだ処理されず放置されたままになっております。まことに自然災害の恐ろしさはわれわれの想像をはるかに絶するものがあります。最近大阪市が万博開催地に決定されて府知事と市長は抱き合って喜んでいましたが、小衲はむしろ、夢洲(ゆめしま)のようなところで半歳にも及ぶ万博を開催して、もし切迫している南海東南海大地震が起これば、取り返しのつかぬ大被害が起こることは火を見るよりも明らかではないかと思うのです。大阪市長は「夢洲は土を入れて10数メートルのかさ上げをしているから心配は要らない」というようなことを申しておりましたが、すぐに押し寄せるといわれる津波は、30メートルを越えるところもあった東北大震災の例を見れば分かるように、想定を上回る被害をもたらすものと覚悟しておくことが必要ではないかと思います。
閑話休題。自然災害のことばかりに言及致しましたが、皆様方は昨年何か胸がときめくような良い出来事はありましたでしょうか。小衲が住持しております光雲寺の場合、昨年の9月に入山した学生さんが見違えるほど明るく元気になったことが挙げられます。文学部で宗教学を専攻する彼は坐禅に非常に関心があって、光雲寺での下宿を希望してきました。最初は応分の下宿代をもらう予定でしたが、学生さんの常として何かバイトを探したいということでしたので、それなら午前中だけ除草などの作務をしてもらえれば、下宿代は無料とし、さらに幾ばくかの月給を渡すという提案をしましたところ、それは願ってもないことだと本人は喜び、それ以来、自ら積極的に作務に励むようになりました。
坐禅に関心があって入山してきた学生さんですから、小衲が最初から色々アドヴァイスしてもよかったのですが、あまり手取足取り注意することは控えました。もとよりお寺の日常生活で、少しでも手抜きや雑なところがあるとすぐさま注意することには躊躇致しません。禅寺では箸の上げ下ろしから歩き方まで、少しでも抜かりがあると手厳しく注意されるのが当たり前になっております。そして草引きなどの作務をしながらも工夫を怠ることなく継続していくように、折に触れて力強く激励しました。自分が本当に工夫に没頭すると、その醍醐味を身に沁みて味わうことができます。何も足を組んで坐禅している間だけが修行なのではありません。禅の修行は四六時中のことです。彼は益々日を追って明るく元気になって参りました。
下宿している別の人から、彼が小衲の作る手料理をとても喜んでいるということを聞き及びました。小衲はよく典座に出て料理を作ります。身体に良い食材を使って心をこめて作るのですが、それは管長さんや老師方のお世話係である隠侍を勤めたり、僧堂で典座をして大衆の食事を幾度となく作った経験がものを言っているのかも知れません。しかし一番基本となっているのは、何と言っても料亭を出したことのある祖母の食事です。琵琶湖のもろこの煮物などは絶品でした。
心をこめて作られたものは作った人の生命力がこめられております。同じレシピで作っても心をこめている人とそうでない人とははっきりと味の違いが出てくるものです。前述の学生さんにそのことを言ったところ、彼の知人の料理人も全く同じことを言っていたそうです。
日増しに元気になった学生さんは、僧堂修行の中で一年で一番厳しい相国寺僧堂の12月の臘八大摂心に参加したいと願い出るようになりました。初心の人には臘八に詰めて参加するのは無理だから、夕方の開板後に参加するようにと進言し、彼は連日4時間ほどの坐禅に出かけ、特に7日から8日に掛けては、釈尊が大悟された因縁に因んで、午前4時頃の鶏鳴まで坐り抜くという厳しいものですが、ものともせずにやり抜き、明け方に帰山してきたときに「どうだった」と尋ねると、顔を耀かせて「充実した良い時間を過ごすことができました」と元気よく答えてくれました。彼の言葉がうそ偽りでないことは、その顔の輝きと彼の全身から発するオーラで分かりました。
小衲自身のことを言わせて頂ければ、このところ連日就寝する前に呼吸に集中して、釈尊のいわゆる「入出息念定」を行じつつ眠りに就くようにしております。そうすると、修行時代に良く経験しました深い禅定に毎回入れるのが、何よりの楽しみとなって参ります。皆様方も横になって就寝される前にご自分の呼吸に集中されませんか。自我などという小さな殻を空じた境地に到達することができますよ。
かくて小衲の今年の抱負としましては、この学生さんがますます道心堅固になってもらうことと、自らの禅定のさらなる円熟です。皆様方は今年一年どのような抱負を持って過ごされますでしょうか。

「禅の工夫三昧の法悦」2018年12月【No.186】

先日「中外日報」という宗教新聞を見ていましたら、現在専門道場(僧堂)に掛搭する者が減少して僧堂の規矩(きく)が立たなくなっているので、この深刻な問題に対して、臨済宗と黄檗宗とが一体で取り組むべきだという意見が多かったということが載っていました。僧堂は臨黄全体で40ありますが、その過半数は雲水修行者が10人に満たない状況です。
42年前に在家から出家した小衲の修行時代には、まだ20人以上の雲水を抱える僧堂がいくつもあり、30人ほどの雲水がいるところも、決して珍しくなかったのですが、次第次第に禅宗全体が凋落傾向にあるのは否めないように思われます。一体こうなった原因はどこにあるのでしょうか。
小衲の20代の頃には、明治20年代や30年代生まれの、森本省念老師や竹田益州老師や山田無文老師など「古尊宿の風あり」といえるような名僧が何人もおられたように思います。益州老師の如きは、何しろ日露戦争勃発の年である明治34年(1904)に出家されたというのですから、隔世の感を深くしたものです。これらの名僧方の御修行の経歴と大成されてからの風格を想起してみますと、われわれ戦後生まれの者とは格段に異なる艱難辛苦を経て円満具足した徳望と見性の眼を身につけられたものでありましょう。
小衲が出家する前の昭和47年に25歳の時に初めて参加した僧堂の大摂心が、無文老師の神戸の祥福僧堂の入制大摂心でした。出家した雲衲方はもとより、在家の者も多数参加して、禅堂の中はそれこそ満衆に近い状態で、30名は優に超えていたと思われます。そして小衲は異常な緊張状態の中で四六時中数息三昧の工夫をした結果、図らずも自己を忘ずる体験することができました。出家在家を問わず、それらの人たちはみな無文老師の徳望と道力に信服して結集したという趣を感じたものです。
小衲が住持職を拝命している光雲寺の開山は大明国師ですが、江戸初期の寛文4年(1664)頃に摂津の国から現在地に移転復興された際には、中興の英中玄賢禅師(南禅寺第280世)の指導のもと、50人にあまる雲衲が切磋琢磨していたと伝えられております。その当時の英中禅師の弟子名簿が残されておりますが、その数の多さに驚嘆せざるを得ませんでした。現在の4分の1にも満たない人口の時代で、これだけの修行僧が参集したというのは、やはり英中禅師の風格と道力のしからしむるところでありましょうか。
小衲は先頃招待を受けて或る起業家の人たちの集まりに参加したことがあります。いずれも自分の代で起業して社長になった人たちの集まりですから、なかなか意気軒昂たるところがありました。小衲はそこで禅宗の現状に触れ、後継者難を一番の問題点として挙げたのですが、その時に感じたのは、自ら起業を目指す人は多いが、すべてを捨て去って仏道に邁進する人はなぜこれほど少なくなってしまったのかということでした。
卓越した指導者に巡り逢おうが逢えまいが、勝れた古人の行履やご垂戒を恰好の手本にして、自ら道心を奮い立たせて工夫三昧の修行をすれば、必ず思いもよらぬ大禅定の法悦を得ることができるのは申すまでもないことです。臨済宗中興の白隠慧鶴禅師は「臘八示衆」の中で、「たとい大地を打って失することあるとも、見性は決定(けつじょう)して錯(あや)まらず、あに努力せざらんや、あに努力せざらんや」と明言しておられます。格外の名僧のこのような懇切なご垂戒を知って、一人でも二人でもこの「無上道」に志す人が出て来て頂きたいものです。

「光雲寺文化財特別公開」2018年11月【No.185】

光雲寺では11月1日(木)から11日(日)まで、京都古文化保存協会からの依頼で、「京都非公開文化財特別公開」の一翼を担い、久方ぶりの公開をしております。普段はなかなかご覧頂くことのできない貴重な寺宝を特別に展示しておりますので、皆様方どうぞお誘い合わせの上、お越し頂ければ幸いに存じ上げます。

こうした特別展を開催するに際しましては、色々と準備をする必要があります。先ずは、9月4日の台風21号の被害により何枚も飛んだ屋根瓦の修復や、一部が落ちてしまった漆喰壁の塗り直し、それに何本もの倒木を撤去する必要がありました。それと平行して、境内庭園の整備を例年より半月ほど早めて出入りの庭師さんにお願い致しました。庭師さんが連日精を出して勤めて頂いたお蔭で、見違えるような綺麗な庭園になりました。

しかし、大勢の方々にご覧頂くためには、雑草の草引きを広範囲にわたり綿密にしなければなりません。最初は全員で草引きを何度もしましたが、何しろお寺というのは広範囲です。最後は三度ほど草刈り機で全体の草刈りをして、ようやく何とか綺麗になったように思われました。とはいえ、よく見ると、仏殿横の坪庭などはまだ雑草があちこちに残っております。普段その場所を掃除する者が心を配っていれば、そのような手抜かりは無いはずです。それで小衲はお寺に下宿中の学生さんに、坪庭の除草をするように命じました。彼には原則として午前中バイトでお寺の清掃などをする代わりに、下宿代と食費を無料にし、幾ばくかの手当を毎月出すようにしています。彼が「草引きが終わりました」と言いましたので、小衲が点検すると、まだあちこちに残っているではありませんか。そのことを指摘すると、「仏殿の方からは見えないので、する必要が無いと思いました」という返答です。拝観のお客さんは順路として坪庭をぐるりと回る形で拝観することになります。「手を抜かずにもっと真っ正直にやらねばいかん」と注意して、やり直しを命じた次第です。小衲は常日頃「除草する際には一本たりとも残さぬように」と注意しているのですが、それを肝に銘じていなかったのかと衝撃を受けるとともに、上に立つ者は任せ切ることなく、いつも点検を怠ってはならないということを痛感致しました。

この出来事の前にも、同じような経験がありました。月例坐禅会では最初に境内掃除をしてから作務をしてもらうことになっているのですが、拝観前に、先般の台風のせいなどもあって、大層汚れの目立つ窓ガラスを拭くという作務を指示致しました。光雲寺のメンバーにも坐禅会を統率する人にも「今日は窓ガラス拭きをお願いします」と言ったのですが、終わって見ると、何と方丈の窓しか拭いていないではありませんか。しかも外から拭くために縁の下から出された長椅子二台はそのままに放置されたままです。窓ガラスがあるのは方丈だけに限りません。小衲は彼らがすべての窓ガラスを拭いてくれるものと思っていたのですが、信頼して任せ切り、途中の点検を怠った小衲自身の落ち度であると反省致しました。提唱の調べに没頭していた小衲は、彼らの作務の成果の点検を失念していた点で、彼らを責められたものではありません。これからはどのような作務でも中途で必ず点検に出向くようにする積もりです。

展示物の選定やその説明文の設定、案内板や結界などを設えてようやく準備が整ったように思われます。しかしまだ何か手抜かりがあるかも知れません。皆様方のご来訪をお待ち申し上げております。

「画餅飢えを充たさず」2018年10月【No.184】

どうも今年に入ってから異常高温や記録的暴風雨をもたらす台風の相次ぐ襲来など、自然がこれまでにない猛威を振るっております。最近は、こうした異常気象が、実は決して異常ではなく普通になりつつあるというのが専門家の見解のようで、まことに前途が危惧されます。しかもこのような状況は何もわが国だけに留まらず、全世界的傾向だということです。さらにこの日本では、死者35万人、被害総額が国家予算の10倍の140兆円という未曾有の被害が想定される南海東南海地震が差し迫っているというではありませんか。このような状況に直面した場合、私たちは一体どのような心持ちで対処すべきでしょうか。

まず言えることは、付け焼き刃のような空理空論では、このような難局に直面して到底何らの力になり得ないということです。標題に掲げた「画餅(がびょう)飢えを充(み)たさず」というのは、「絵に描いた餅では空腹が満たされるはずがない」ということで、足、実地を踏んだ確固たる体験を欠いた空理空論を翫(もてあそ)んでいては、心底からの安心を得ることはできないことを力説するものです。

最近、学問に専念することに疑問を感じて休学している学生さんたちを数名知っております。いずれも一流の国立大学や大学院の哲学科の在籍者です。彼らに対して小衲は、先述の「画餅飢えを充たさず」ということを話した次第です。小衲も同様の疑問を感じて25歳から禅に参じ、28歳で在家から出家したので、彼らの気持ちが良く分かるのです。確かにドイツ語・フランス語・英語などの哲学の原書を読むことに没頭するのはそれなりの充実感を得ることはできるでしょう。しかしそのことによって、「臍(ほぞ)落ちする」という心からの安心が得られるべくもありません。

小衲の場合には、「これを克服するためには禅の修行をするのが最善である」と決意して出家したのですが、それには禅の修行をしておられた主任教授からの影響もありました。彼らの場合、禅に出逢っているものの、果たしてこの満たされぬ思いを克服する方途を禅に求めて、一身を擲(なげう)ってその道に邁進するのかどうかはまだ未定のようです。これは他人からとやかく言われることではなく、本人自身が「何としてもこの道以外には自分の進むべき道はない」と決断できるかどうかにかかっております。

禅の修行は自分自身の本心本性を自覚することを目指しております。いわゆる「見性」・「自性徹見」です。四六時中工夫三昧、公案三昧になることによって、普段は外ばかりに目を向けて色んな感情を起こし、心をかき乱されるというあり方を転じて、足が地に着いた心境に達することができるようになります。

勿論、在家の人達の中にも、工夫三昧を心がけて、かなりの三昧境の法悦を得ている人達がいるのも事実です。小衲の坐禅会には何人かそういう方がおられます。とはいえ、禅の修行に邁進する若者が激減している今の禅界で一番求められているのは、出家・在家の指導者となるだけの修行を積んだ力量ある本物の禅僧ではないでしょうか。「南禅寺禅センター」の坐禅研修に参加する若者は数多くいるのですが、そうした人達の中から、ひとりでもわが身を擲ってこの道に進もうという勇猛心溢れた青年の出現を期待して止みません。

「禅堂の修行生活(その8)」2018年9月【No.183】

今月は備前岡山の曹源寺での修行時代のことをお話し致しましょう。
曹源寺は江戸時代末前後には太元孜元禅師や儀山善来禅師などの名僧が輩出して天下第一の道場でした。天龍寺の滴水宜牧禅師や円覚寺の今北洪川禅師もこの道場で修行し、大成された方です。ただ小衲が掛搭した当時はもはや正規の専門道場ではありませんでしたので、在錫証明などがもらえるはずはなかったのですが、それでも曹源寺を選んだのは、一年に十三回の大摂心(一週間の集中的坐禅期間)があるという理由からと、山田無文老師の法を嗣がれた優秀な老師がおられるというのを伝え聞いたからでした。

臨済宗の通常の僧堂では一年に七回というのが普通で、曹洞宗はもっと少ないと聞いております。真の「坐禅三昧」を行じるためにはなるたけ大摂心の数が多い方が良いのは言うまでもないことです。ここで小衲は文字通り決死の覚悟で坐り抜き、工夫に邁進しました。公案もすでに透過した初関の「無字」を老師にお願いしたのです。盲腸炎の手術で掛搭が遅れた小衲より先に建仁寺時代の後輩が二人ほどすでに来ていましたが、小衲は他人のことには目もくれず、自らの工夫の充実だけに心血を注いで、四六時中「無、無、無」と工夫し抜くように心がけました。当時の小衲には自分の工夫の不充分さを歎いたりする暇はなく、ただひたすら単純な「無」に成り切ることに努めた結果、図らずも昼間に休息したり、夜に横臥したりすることを忘じてしまいました。そしてほとんどの大摂心のたびごとに、それまで体達した境地を凌駕(りょうが)する禅定に入ることができたのです。それはまさしく充実の極みでした。老師も参禅に際して小衲の心境と禅定を大いに称賛されました。

そうして三ヶ月ほどが過ぎた頃に、小衲はひどいのど風邪をひいて治らなくなったのです。咳は止まらなかったのですが、当の本人は一向に平気で日々の三昧境の充実を心から楽しむ毎日でした。もとより坐禅の最中にも咳は出ましたが、それで禅定が乱れることは決してありませんでした。とはいえやはりこう咳が続いては他の修行者達(その多くは海外からの在家の人達であったが)の迷惑になると思い、早く咳を治そうと思って夜の二時間だけ横寝することにしました。しかし結局のところ、咳が続いて睡眠をとることはできませんでした。修行仲間の中には小衲が死んでしまうのではないかと危惧した者もいたようですが、誠に不思議なことに、私自身は何等の辛さや疲れを感じることもなく、廻りの世界も八面玲瓏(れいろう)として透徹し、日々法悦の只中に生きていたという他はない境地だったのです。

こうして心を「無」の一点に集中して月日を過ごしていた或る日のこと、小衲はいつものように「ゴホン」と咳をして驚きました。「咳をしている自分が無い」のです。どこをどう探しても自分を見つけようがない。咳を機縁として「無の自己」に出くわしたのです。これまで幾度となく禅定に入って「無我」の境地を味わってきたつもりであったが、この時ばかりは正直言ってびっくり仰天するような体験でした。古人が何かの機縁によって悟られたということが偽りではないことがはっきりと体験できたのです。そして初めて、知らないうちに「これほどまでに自我を空じて無我になっていた」自分を自覚したのです。「三昧は三昧を知らず」といいますが、自我の殻は「思わず知らずに」脱落して行くのが本当であり、それがまだ意識できるうちは真の三昧境は育っていないのです。

いずれにしても、このことを経験してからは、「我があるなどというのは分別の迷いであり、無我・無相こそがわれわれの真実の姿である」ということが揺るぎない確信になりました。大歓喜を得た私は、その当時われわれ兄弟が最も尊敬していた片岡仁志先生にお会いしたくなって、許可を得て京都に帰りました。独創的哲学者の西田幾多郎博士門下で京大教育学部教名誉教授であられた先生は、居士身で生涯独身を貫かれ、二十歳の時にすでに病床で坐り抜いて大悟され、更に相国寺の無為室大耕老師に参じて嗣法された。止々庵老師の師である豪放磊落(ごうほうらいらく)な年長者の大象窟櫪堂老師ですら、兄事しておられたほどのお方です。禅で鍛え上げた「本物」はこれほどまでになるという好箇の模範であられました。「教師の教師」或いは「現代の維摩居士」として「知る人ぞ知る」先生に親炙(しんしゃ)できたのは誠に有難き仏縁でした。その先生に電話して、自分の得た心境を申し上げ、「それで先生にお目にかかりたくなりましてね」と言うと、先生は呵々大笑され、「そうか、そうか」と言われて即座にご自宅を訪問することを勧められました。お宅に参上して、咳を機縁として「無の自己」を自覚したことを申し上げ、「咳をしている自分が無いんです、無いとしか言いようがない」と申し上げると、先生は力強く「分かる、それはよく分かる」と頷(うなず)かれました。

これが小衲のささやかな禅体験です。今どきの雲水さんは本当の禅定に入って見性するということよりも、住職資格のとれる年限に達したらなるだけ早く厳しい禅堂の修行生活を切り上げて自坊に戻りたいという人が多いと聞いております。それよりもどうか、思う存分坐禅修行のできる環境にいるわが身の有り難さに目覚めて、道心堅固で禅定の醍醐味を満喫して法悦の日々を送って頂きたいものです。

(なお、九月の月例坐禅会は、第四日曜日が秋分の日のため本山の出頭がありますので、九日の第二日曜と三十日の第五日曜とに変更させて頂きます。)

「禅堂の修行生活(その7)」2018年8月【No.182】

先月のコラムの最後で、今月は曹源寺時代の修業についてお話しすると申し上げましたが、一番長く修行した建仁寺時代の修行生活についてまだ語り尽くせないことがありましたので、今月はそのことについてお話しさせて頂きたいと思います。

小衲は、申し上げました様に、親切心からであったとは思うのですが、最初の専門道場では策励があまりに度を過ぎていましたので、却って思う存分に三昧境に入ることができませんでした。警策も背中がいつも内出血するような打ち方は逆効果でしかないと感じます。これに対して鎌倉の建長寺ではほとんど警策を打たれることはなく、工夫が妨げられるようなことなく法悦の禅定に入ることができたのは、本当に有難いことでした。

素堂老師について京叢林の建仁寺僧堂に移ってからも、できるだけ四六時中の公案三昧・工夫三昧に打ち込むようにしました。急に僧堂の人数が増えたお蔭で、雲水が大勢であの広い境内の雑草を抜くという作務が連日おこなわれたものですが、小衲はこれこそ公案工夫の絶好の機会と考え、「無−、無—」と無字になり切ることに全力を傾注致しました。その結果として、期せずして坐禅中よりも深い禅定に入れたことが幾度となくあります。

動中で得た禅定力を以て静中の坐禅でも禅定力が向上して来ました。こうなるとますます佳境に入ってきて、寸暇を惜しんで坐禅に励むようになります。堂内の時は勿論のこと、常住と呼ばれる役付きの時でも閑があれば部屋で坐禅をしていました。老師の隠侍をしているときには、お食事をお出ししたあとで、小方丈の庭に面して座布団なしに結跏趺坐を組ながら「無—、無—」と無字三昧の佳境に入ります。

小衲は28歳で出家する前に、勝れた禅僧の伝記が書かれた漢文体の『禅林僧宝伝』を拝読して古尊宿の猛烈な修行振りを知っておりましたので、自分も何とかそうしたずば抜けた修行をして痛快な見性をしたいものだと常日頃思っておりました。工夫が純熟した或る大摂心の最中に、小衲は今北洪川老師が回顧しておられるような「絶妙の佳境」に入っておきました。この工夫を続ければ必ずや見性できるという確信を持てるような充実した工夫ができてきたのです。小衲は参禅にも行かず、結跏趺坐も解かずに極致目指して工夫を続けました。

すると突然、小衲の横に坐っていた在家の居士が「ああ、脚が痛いな。ああ、辛いな」などとわめき始めたのです。恐らくこの居士は、雲水全員が参禅したら足を解いて横着をするつもりだったのでしょうが、小衲が参禅せずに坐り続けたので、足を解くことができず、弱り切っていたものでしょう。こんな雑音など無視して工夫を続ければ好かったのですが、あまりにわめきまくるので、小衲はついに「静かにせんか」と低い声で注意したのです。

その瞬間から、折角佳境に入って向上一辺倒だった工夫は次第にしぼんで行ってしまいました。雲水の工夫の妨げになるような修行振りの居士の参加など不要です。またそれと共に、道心の無い居士に工夫の純熟を妨げられるようなことでは、小衲もまだまだ道心堅固であったとは言えなかったと大いに反省しております。

こういう真の工夫の佳境に入ることはなかなかありませんので、坐禅工夫を志す方々は、そうした時節が到来しましたら、出家在家を問わず、万難を排して獅子奮迅の勢いで工夫に邁進して頂きたいものです。

「禅堂の修行生活(その6)」2018年7月【No.181】

相国寺管長を兼務しておられた止々庵・梶谷宗忍老師は三十キロに満たぬ体重でありながら、われわれ兄弟を非常に峻厳に接得して頂いたのには、正直言って感謝の念を禁じ得ませんでした。昭和十年に建仁寺僧堂に初掛搭された宗忍老師は、ほとんど不眠不休で修行に励まれたがために身体を痛めて暫暇を余儀なくされ、長岡禅塾で十年の修行生活を過ごされたということを、湊素堂老師が畏敬の念をもってわれわれに語られたことがあります。「長岡禅塾」は総合商社岩井産業の創設者で丹波出身(臨済宗・大雲寺檀家)の岩井勝次郎氏により昭和十年に設立された、京都近郊の長岡京市にある学生の修行道場ですが、学生相手の道場とはいえ、歴代の老師方はいずれも越格底の方ばかりです。

岩井氏は禅による精神修養が経営者にとって不可欠であるとの信念から、当初は兵庫県の御影にあったご自分の別荘を改築して禅道場「伝芳庵」を開かれ、師家としてやがて長岡禅塾の初代塾長になる梅谷香洲老師を拝請(はいしょう)されたのですが(最初の一ヶ月は橋本独山老師)、それが「長岡禅塾」の創設へと発展したわけです。小衲が後に止々庵老師に嗣法した際に「伝芳庵」という室号をつけて頂いたのも、小衲が長岡禅塾出身であるからだろうとすぐに得心致しました。香洲老師を尊敬しておられた岩井氏は、岩井産業の新入社員を選別するのに香洲老師の元に遣(つか)わせて、その眼力に叶う者を採用したと聴き及んでおります。宗忍老師は開創間もない禅塾で、孤危険峻をもって鳴る対雲窟・橋本独山老師の法嗣で、「カミソリ香洲」とその機鋒を江湖に畏れられたこの梅谷香洲老師について辛酸を極める苦労をされ、さらにその遷化後は第二代塾長の森本省念老師に請益(しんえき)されました。

森本老師は京都大学の哲学科で西田幾多郎博士の薫陶を受けられ、居士としてご母堂のお世話をされながら相国寺の独山老師に通参され、四十歳にして出家し僧堂に掛搭して雲水修行をされた高徳の老師で、かの鈴木大拙博士が最も尊重された禅僧としても知られております。素堂老師の嗣法の師である竹田益州老師も、阪急電車で長岡京市を通過する際に、「あそこに偉い老師が住んでおられますなあ」と往復二回ともそのように讃えられたと隠侍さんから聞いたことがあります。素堂老師も「森本老師のようなお方がおられるから有難い」とおっしゃったことがあります。名利の念をいささかも持たれなかった森本老師には、お二人の管長さん方も感服せざるを得なかったのではないかと拝察するのです。

鶴のような瘦軀の森本老師は外見上はお優しいように見えましたが、その実、非常に厳しいお方で、宗忍老師は「真綿で首を絞めるような」森本老師の悪辣さに耐えかねて風呂場の焚き口のところで薪をくべながら涙しておられたということを、森本老師のお世話をしておられた祖渓尼さんから伺ったことがあります。

森本老師が九十五歳で遷化されたのを知ったのは、参禅して拜をして戻る際で、素堂老師が「森本老師が遷化されたぞ。お前、行かなくていいのか」と言われましたので、副司さんに特別の許可を頂いて長岡禅塾に伺いました。森本老師のお骨揚げを待つ間に、止々庵老師・長岡禅塾塾長の浅井義宣老師・大徳寺龍光院の小堀南嶺和尚・上高野の竹林寺和尚・森本老師の弟様の武田薬品会長の森本寛三郎様・京大名誉教授で越格底の居士であられた片岡仁志先生などの錚々(そうそう)たるお歴々を目の前にして、小衲はいつの間にやら釈尊の「入出息念定」を行じて実に心地よい三昧境に入ることができました。禅定から出たときに、止々庵老師がこちらの方をご覧になって「ハッ」と何か感じられたような気が致しました。

森本老師に請益されたのち宗忍老師は相国寺僧堂の大象窟・大津櫪堂老師について修行を続けられ、修行貫徹されて嗣法されました。そのような修行経歴をお持ちでしたので、自然に弟子に対しても厳しくなられたものに相違ないと思われます。小衲は何人もの老師に参禅しましたが、宗忍老師ほど罵詈讒謗(ばりざんぼう)の言葉を浴びせられた老師はおりません。それは弟子の自我や分別を何とかしてこそげ落としてやろうという大悲心の発露だと言えるのではないでしょうか。

当初、小衲が隠寮の前の廊下に両手をついて出て来られた老師に対して低頭し、「これからは老師に参禅させて頂くことになりますが、どうぞよろしくご指導のほどお願い申し上げます」と自分なりの赤心を披歴して申し上げると、老師の方も同じように頭を廊下につけられ、「ははー、私の方こそどうぞよろしくお願い申し上げます」と間髪を入れずに鄭重に言われたので、一驚致しました。「自分は管長だ」などをいう奢(おご)りをいささかも感じさせない謙虚なその対応に、深く心を動かされました。止々庵老師が結局小衲にとって嗣法の師となったのですが、今思い出しても老師との法縁に感謝する次第です。何人もの老師に歴参するといっても、批判的になるのではなく、それぞれの老師方の比類なき長所を有難く頂戴するという気持ちがなければ実りは少ないと思います。江戸初期の名僧・盤珪永琢禅師が力説されたように、師匠の言われることを「真受け」することが特に修行者にとっては大切ではないでしょうか。

さて、こうして塔頭の林光院から相国寺僧堂に通参しながら、本師の和尚ご夫妻の看護に通っていたのですが、和尚が遷化(せんげ)した後、小衲は今一度道場に入門して一から修行し直して禅定を極めたい気持ちに駆られました。この時分には公案の調べもほとんど済んではいましたが、さらに徹底を期して坐禅三昧・公案三昧に邁進して禅定を練り上げたいという願いをぬぐい去ることはできなかったのです。そのためには別の道場で新米僧として一から修行するに越したことはありません。小衲は宗忍老師のお許しを得て、備前岡山の名刹曹源寺に掛搭致しました。小衲の修行生活で一番深い禅定に入ることができたのはこの曹源寺時代です。そのことについてはまた来月にお話しすることに致しましょう。

「禅堂の修行生活(その5)」2018年6月【No.180】

建長寺から建仁寺に移られた素堂老師について京都にまた戻ってきたのですが、建仁寺修行時代には、私は一層寸暇を惜しんで坐禅に励むように心がけました。僧堂では、禅堂で寝起きして坐禅に集中する「堂内」と、堂内の修行を縁の下の力持ちとなって支えつつ自らの修行をする「常住」とに分かれるのですが、堂内の時は勿論のこと、常住で諸役に就いている時でも、なるたけ坐禅をするように試みました。たとえば、老師のお世話一切をする隠侍になった時には、老師に食事を出して下がってくるまでの間、小書院の庭に面して坐禅しながら公案工夫をしたのです。ほとんど夜の睡眠を削っての毎日ですから、疲労困憊して眠気もあったのは確かですが、「無—、無—」と無字三昧の工夫することにより、眠気はいつの間にか雲散霧消して行きました。
こうして日々修行に骨を折っていた或る日のこと、一番古参の先輩雲水から部屋に呼ばれたことがあります。その先輩は言いました、「私はすでに公案もほとんど済んでいるが、まだ大休歇(だいきゅうけつ、大安心)の田地(境地)にまでは至ってはいない。君はなかなか頑張って修行しているようだから、一夏(げ)九十日の間、ひとつ私と一緒に夜坐をしてくれないか」と。私は即座に快諾して二人で共に夜座に励んだのですが、それも今は懐かしい思い出です。
禅の修行生活では、老師は目をかけた雲水ほど厳しく接するものであり、それこそが真の親切というのが禅門の常識です。私も素堂老師から様々な悪辣(あくらつ)な試練を受けました。もとよりそれを恨むに思う気持ちは毛頭なかったのですが、しかし「このままでは済まされぬ」という思いがあったことも確かです。私はふと思いつき、老師がご自分で洗濯して乾(ほ)しておられた肌着をひそかにアイロンに当てて乾かした上で、たたんで置いておきました。何日間かこうしたことを続けた後、老師はあるとき私に向かって、「庸(よう)さん、わしがいくら横着者でも、毎回毎回こう新品のように綺麗にたたまれた洗濯物を気つぶしていては、何か済まぬような気がする。やめてくれんかな」と控え目に懇願されました。そのとき私は、「やった!これで悪辣(あくらつ)な試練の仕返しができた」と心の中で快哉を叫んだのです。それ以来、老師との心のつながりは益々堅固になって行き、老師ももう私をいじめることはされなくなったと思います。「いじめる」などというと誤解をされやすいが、「投げられて親方喜ぶ、相撲取り」という世語が日本にある通り、それは何とかして自分勝(まさ)りの弟子を打ち出したいという師家の大悲心であり悲願なのです。
或る時、薬石(夕食)を下げに伺うと、私を窓際へ連れて行かれ、「庸さん、あの東山に沈む夕日を見てみよ。あれを見て見性しなければどうするのか」と訓戒されました。後に私が授業寺の師匠看護のために僧堂を暫暇した後でも、「わしと庸さんとは沈む夕日を一緒に見た間柄だぞ」と言っておられたと先輩からお聞きして、老師の法愛を感じたものです。また隠寮で二人切りで話していた時に、老師が言葉を続けて、「しかし、わしはもう一度生まれてきても雲水ぞ」と言われたので、私も思わず「老師、私も」と申し上げると、老師は「高単さん」と呼びかけられました。雲水が禅堂で坐禅する畳の場所を「単」といい、「高単」とは上位の単に坐る先輩雲水のことを指します。老師にそう呼びかけられて私が怪訝(けげん)に思ったのも無理はありません。すると老師は言葉を継いで、「今度生まれて来たときには新到(新参者)で来ますけん(来るので)、よろしくお願いします」と微笑みながら言われました。これなども老師の法愛を感じた一瞬でした。また或る時には、板(はん)という時を告げる板を私が禅堂の高単として規矩に従って打ってから参禅が始まったのですが、私が参禅で見解(けんげ)を出し終えると、老師は「さっきの板はお前か」と尋ねられましたので、「はい」と申し上げると、老師は「いいなー、と思って聞いておったぞ。やっぱり分かるなー」と言って下さったのです。実際、その打板の際にはわれながら心を込めて、しかも「乗って」(気持ちよく)打つことができたのです。
このように老師との感応道交についての追憶を述べるのは、もとより、私が老師に目をかけられていたということが言いたいのではなく、学問上の師弟関係とは異なり、禅の生活では生活全般・一挙手一投足に至るまで厳師から全人格的薫陶を受けるので、余人には伺い知ることのできぬ師弟関係の濃(こまや)かな情が通い合うという事実をお伝えしたいがためです。
こうして寸暇を惜しんで坐禅や工夫に勤(いそ)しんだ建仁時代でしたが、本師が脳溢血で倒れて半身不随になり、その看護の為に暫暇せざるを得ないようになった。「本師」といっても、そのお寺に一度たりとも住んだことのない名義上の弟子でした。日本の臨済禅の専門道場の伝統では、雲水となって或る道場に入門を志願する場合、「授業寺(じゅごうじ)」といって徒弟教育をしてもらったお寺の住職の弟子という形をとる必要があります。私は学生ばかりの禅塾で実際の予備的修行をして、塾長の意向で、名義はそのお寺の弟子ということにしてもらって僧堂に掛搭したのが、今になって回顧すれば、それには賛同できかねます。やはり或る寺の正式の弟子となって伝統的徒弟教育を受けるべきであったと反省されるのです。しかも、他人から指示されてなるのではなく、自らの意志でどこの寺のどの師匠の徒弟になるかを決めたかったと思います。
さて、ちょうどその頃は修行生活の絶頂期にあり、寸暇を惜しんで坐禅し、日々充実して工夫三昧で過ごしていた最中のことでした。また、道元禅師
(1200−1253)の師匠の明全(みょうぜん)和尚が、病に臥している大恩深き年老いた師匠を日本に置いたまま、「大法の重きが故に」という理由で遂に宋代の中国へ修行に渡られた例なども考え合わせ、大層悩んだのは事実です。だが結局、「ここで逃げては、修行者として、いや人間としての自分が失格だ」と決心して、看護に取り組むことにしました。当初は制間だけ暫暇して和尚の看護をする奥さんを手伝っていましたが、のちに奥さんまでもが過労で倒れたので、遂に永久暫暇(「永暫」という)せざるを得なくなってしまいました。お二人を抱えて色々大変なこともありましたが、今でもやはり困難に直面して逃避せずに良かったと思っております。
当時若いフランス人女性が知り合いの日本人教授の紹介で坐禅修行をしたいからということでパリから訪問してきたのですが、彼女に向かって私は、「私が今不幸に見えますか」と尋ねると、彼女は「いえ、全然そのようには見えません」と答えたので、私は微笑みながら「そうでしょう、日々是好日なのです」と応じました。
この間、私の身辺には変化がありました。名義上の「本師」が病のために法類の和尚からの勧めで寺を出て住職であることを止められたので、僧籍が宙に浮いたままとなったのです。これを知って、当時弟が修行中であった相国寺僧堂の梶谷宗忍老師(室号・止々庵)が、私の状況を心配して「相国寺塔頭の林光院の徒弟にならないか」と言って下さったのです。ちょうど師匠ご夫妻を抱えて孤立無援であった私は、快く老師の申し出に甘えました。さらに林光院が相国寺僧堂に隣接していた関係で、老師への通参をもお願いすることにしました。こうして建仁寺僧堂の方とは縁を断った形になったが、それは後輩の雲水が訪ねてきて、素堂老師ご自身が「自分はもう八十歳で雲水の指導は出来ぬ」と言われ、他の人に後を譲られるお積もりであると聞かされたからです。元来、雲水は雲や水の流れるが如く去来自由で、どの道場に行こうが構わないのが原則ですが、師弟の息がぴったりと合っていた素堂老師から離れるのは誠に後ろ髪を引かれる思いでしたが、これも宿命かと思い、以後は止々庵老師を参禅の師と仰ぐことにしたのです。

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