「更に参ぜよ、三十年」2017年5月【No.167】

桜も散り観光客で混雑していました南禅寺、「哲学の道」界隈もやや静けさを取り戻した感がありますが、今は新緑が眼にはえて新鮮に映ります。ことに雨の降ったあとなどに見えられた来客の方々は、異口同音に庭の緑の鮮やかさを称賛されます。この時節が来るといつも想起しますのは、「薫風自南来、殿閣生微涼」(薫風、南より来たり、殿閣、微涼を生ず)という句です。この対句はもともと唐代の文宗皇帝が作った起承の二句である「人皆苦炎熱、我愛夏日長」(人は皆炎熱に苦しむ、我は愛す、夏日の長きことを)に対して文人の柳公権が転結としてつけた語です。

かつて坐禅会の或るメンバーが「我が家に何か名前をつけて頂きたい」と依頼してきたことがありますが、そのとき小衲は「薫風庵」と揮毫致しました。来訪された人が、まるで新緑の間を吹きわたる「薫風」に遭遇したような心地よさを感じるお宅となればいいな、という願いをこめたものです。

この「薫風自南来、殿閣生微涼」の対句は、『碧巌録』で名高い圜悟克勤禅師が上堂の時、「或る僧が、雲門文偃禅師に『如何なるか是れ諸仏出身の処』と問うと雲門禅師は『東山水上行』と答えられたが、わしなら『薫風自南来、殿閣生微涼』と答えるであろう」と言われたのを聞いて、大慧宗杲禅師が言下に大悟されたという話はいやしくも禅の修行者なら知っていなければならない有名な話です。

さて、薫風が新緑の間を吹き抜ける心地良い時節とはなりましたが、この時期には時おり強風が吹いて樫の葉などがよく散らされます。加えて、暖かくなってきたせいで、境内一円の雑草が勢いよく生い茂ってきます。特に雨が続くとたちどころに雑草が伸びます。まことにお寺では次から次へと作務をする必要が生じてきます。しかしそれを嘆いたり、不満を感じるようなことではいけないでしょう。
文宗皇帝の「人皆苦炎熱、我愛夏日長」ではありませんが、落ち葉や雑草のお蔭で作務をして身体を動かせる有難味を感謝したいものです。

小衲が定期検診を受けている名医の和田洋巳先生は、「雲水生活がもっとも健康的な生活です。しっかり太陽を浴びて作務をして汗をかいて下さい」とアドヴァイスして下さいますが、落ち葉を掃いたり、草引きをしたり、畑の畝作りをして身体を動かすのは本当に心地よいことです。ただ、いずれの場合でも手を抜かずに心をこめてすることが大切です。掃き掃除をするにしましても、落ち葉一枚残さない、雑草を抜くにも、一本たりとも取り残さない気迫が必要です。大雑把にすれば事足りるというような横着な気構えでは、断じて身についた修行とはなりません。弟子たちに「もっと心をこめて落ち葉一枚取り残さぬように」と注意を与えることが再三あります。本当に心をこめて作務をすれば、その跡が光を放ち、期せずして他人を感動させることができるはずです。

とは申せ、本当に雑草一本残さずに除草などできるはずはありません。掃き掃除にしましても、「落ち葉一枚残さずに」というのは、至難のわざです。小衲が隠侍をさせて頂いた建仁寺管長の竹田益州老師は日露戦争勃発の歳に出家されたお方ですが、刻苦精励され、管長となられた後も、八十五歳に垂んとするご高齢でありながら、日々の作務を欠かされることはありませんでした。お風邪を召されてもなお草引きをされておられた気高いお姿を思い起こして、作務をしながらも「自分はまだまだ管長さんの足元にも及ばないな」という感慨が沸いてまいりました。「未在」とか「更に参ぜよ、三十年」という禅語がありますが、どこまでいっても修行はこれでもう十分だということは決してないでしょう。

先日、寺庭婦人(寺院の奥様方)研修会の坐禅の際の法話で、「雲水修行時代はとても大切な期間です。お子さんたちのことを心底思われるのなら、早く引かせるのではなく、一年でも長く僧堂生活を続けられるようにご支援をお願いします」と申し上げた次第です。僧堂生活を送る雲衲たちには、是非とも万事に心を尽くして骨を折り、真の法悦を体験して頂きたいものです。

「畢竟じて何の用ぞ」2017年4月【No.166】

お彼岸も終わり、ようやく春めいた時節になって参りました。桜の花もぼちぼち開花して春の訪れを告げております。これから京都の南禅寺・「哲学の道」界隈はますます人出が多くなります。春はまた入学のシーズンでもあります。この光雲寺で一緒に仏道を学んだ青年たちのことを以前のコラムで申し上げましたが、一人は大学での勉学に、一人は禅修行のために専門道場にと、新たな門出を迎えました。二人の好青年の前途に幸多からんことを祈らずにはおれません。

二人とは、『論語』以外に、日本曹洞宗開祖の道元禅師(1200−1253)の『正法眼蔵随問記』を拝読致しました。この著作は法を嗣がれた懐奘(えじょう)禅師(1198−1280)による道元禅師の説示の聞き書きです。道元禅師というお方がいかに真剣に仏道に精進されたかということが一番良く分かるのが、あたかも禅師の肉声を聴く思いのするこの『随問記』だろうと思います。禅や仏道に関心のある人たちにとって、この書は必読であると言っても過言ではなく、この書を知らないままで過ごすのはまことに残念でもったいないことです。

その中に記されていることですが、禅師が在宋のとき、禅の道場で古人の語録を拝読されていたときのこと、四川省出身の道心のある僧が、「語録を見るのは一体何のためだ」と尋ねたので、禅師が「古人の行履(あんり)を知るためです」と答えると、「何のためだ」と問うたので、「郷里に帰ってから人々を教化するためです」と答えると、「それが一体何の役に立つのか」と重ねて問いただしたので、「衆生済度のためです」と応じたところ、「畢竟じて何の用ぞ(それが結局何になるというのか)」と問い詰められたので、さすがの禅師も反省するところがあり、それ以降は語録などを見ることをやめて、坐禅三昧に精進して大悟徹底し、仏法の大事を明らかにすることができた(「其後、語録等を見る事をとどめて、一向に打坐して大事を明らめ得たり」)と述懐しておられます。

現在も禅の専門道場である僧堂に掛搭する際には、必要最小限の書物以外は持参を禁じられております。語録を拝読して古人の行履(修行歴)を知るのは僧堂掛搭以前にやっておくべきことです。古人の行履を知ることは、自分自身の修行の発憤材料になりますので、小衲も出家する前の三年間を過ごした長岡禅塾では大学院には週に数度行く程度で、あとはなるだけ坐禅をし、その外に古人の行履を色々と勉強をしました。

ところが或るとき、森本省念老師のお世話をしておられた庵主さんから、「閑栖(かんせい、隠居)さんが、田中君は夢窓国師の遺誡を知っているのかなと言っておられた」と承ったのです。その頃には隠居しておられた森本老師は、「閑栖さん」と呼ばれていました。「夢窓国師遺誡」は温厚そうな風格の国師からは想像もできないほどの峻烈なもので、天龍寺や相国寺の僧堂ではこの遺誡を日ごろ肝に銘じて唱えております。「我に三等の弟子あり、いわゆる猛烈にして諸縁を放下(ほうげ)して専一に己事を究明する、これを上等とす、修行純ならず駁雑にして学を好む、これを中等という、自ら己霊の光輝を昧(くら)まして、ただ仏祖の涎唾(えんだ)を嗜む、これを下等と名づく、もしそれ心を外書に酔わしめ、業を文筆に立つる者、これはこれ剃頭(ていず)の俗人なり、以て下等となすに足らず(以下略)」と始まるものです。意味は自ずから明らかでしょう。

森本老師は、出家する身であるのにいまだ文字に拘泥していた小衲のことを心配されたのだと考えられます。このたび新たな門出を迎えた二人の好青年たちも、学問に専念しても、単に社会的名声やわが身の栄達を目指すことなく、「畢竟じて何の用ぞ」と自問自答し、僧堂生活に入っても、単に僧堂歴を取得して禅寺の住職になるための修行に満足せずに、「畢竟じて何の用ぞ」と自問自答して、本当の心からの大安心の境地に到ってもらいたいものです。合掌。

「禅修行における作務の醍醐味」2017年3月【No.165】

拙寺である光雲寺では、南禅寺本山からの寄託を受けて「南禅寺禅センター」の看板を掲げて一般の方々、特に修学旅行の生徒さんたちの坐禅研修を行っておりますが、それ以外にも25年以上続く月二回(原則として第二、第四日曜日)の月例坐禅会(午前8時より午後2時半まで)、毎土曜日の午後8時より9時までの無料坐禅会(午後7時50分までに入堂のこと)などを行っております。

禅センターの研修でもごく稀に作務(さむ、労務)を希望されるグループもありますが、通常は月例坐禅会の場合にのみ一時間半ほどの作務を行ってもらいます。小衲の経験から申せば、坐禅だけよりも、作務も併修した方がかえって良い坐禅ができるように感じます。禅修行では作務も坐禅に劣らず重要な修行の一環です。中国唐代の名僧・百丈懐海(えかい)禅師は「百丈清規(しんぎ)」を作って叢林の規矩(きく)を定められた方ですが、禅師が老齢になられても作務を一向にやめようとされないので、弟子たちが気遣って作務の用具を隠したところ、百丈禅師は終日食事をとられず、「一日不作一日不食」(一日なさざれば一日くらわず)との名言を吐かれたと言われております。

それ以来、「作務」は禅宗では殊に重要視されており、僧堂で長年修行された方はみな、庭木の刈り込みや畑の畝(うね)を耕したり、また色んな料理を作るのも得意とされる方が多いものです。僧堂生活を経験した者が感じる有難味です。南禅寺の山内にも、いつ伺っても作務三昧にいそしんでおられる和尚様がおられます。小衲が隠侍をやらせて頂いた二代前の建仁寺管長の竹田益州老師は、それこそ百丈懐海禅師に勝るとも劣らぬほどの作務三昧のお方でした。何しろ出家されたのが日露戦争勃発の歳で、和尚から真冬に「頭から井戸水をかぶれ。禅僧はいざとなれば脇腹に短刀を突き立てるくらいの覚悟がなければできるものではないぞ。」と叱咤激励され、頭から水をかぶってその寒さに震え上がられた経験をお持ちの方です。戦後生まれの我々とは格段に違った厳しい修行生活を送られたでありましょう。八十代半ばを過ぎられても、なお連日の作務三昧をやめようとはされませんでした。或るときお風邪を召されたので、「今日は作務を休まれるだろう」と思っておりましたところ、股引をはいて開山堂の草引きをされていたのには正直感嘆致しました。口でとやかく説くよりも、身を以てする「以身説法」はずば抜けた感化の力があります。管長さんのその当時の気高い行履(あんり)は、小衲の眼に今でもはっきりと焼き付いております。

つい先日の月例坐禅会の作務では、お寺の畑の除草を参加者の皆さんにやって頂きました。十数人の人たちが一時間半の間熱心にやって頂いたお蔭で、生い茂っていた雑草がほとんど抜かれて畑が見事にきれいになりました。そこで小衲も、坐禅会が終わった午後三時頃から二時間ほどかけて堆肥を
ひっくり返して山のように積まれていた落ち葉や抜かれた雑草などを堆肥に混ぜて、まわりを綺麗に箒で掃きました。驚いたことに、通常は小衲が畝を耕している間に二人の二十代の若者にやらせている堆肥の作業を、実に楽に行うことができました。小衲はこの一月に、数えで言えば「人生七十、古来稀なり」といわれた古希を迎えたのですが、これほど楽に重労働の作務を行うことができたのは意外でした。

もとより小衲よりもはるかに年長の方々でも、職業上この程度の労働をわけなくこなしている方々も数多くおられることでしょう。別にわが身のこの経験を自慢するつもりで申し上げたのではありません。しかしどうしてかくも楽に作務を行うことができたのかに関して自分なりに考えてみると、何といっても作務を仕事と思わず、楽しみながら力を抜いて淡々とやっているからということに帰すると思います。15年ほど前のことでしょうか、ドイツ人の女性が禅の修行をしたいと言って小衲のところに訪ねて参りました。当時はまだ南禅寺の塔頭に居候をさせて頂いておりましたが、彼女は通いでやって来て作務や坐禅に励みました。或る日、小衲が朝から庭園全体の刈り込みを行ったあとで訪ねてきたドイツ人女性と一緒に刈り込んだ枝葉を掃除し始めて二時間くらい経った頃でしょうか、彼女は「これはいくら何でも一日の作務の分量としては多すぎます」と苦情をもらしました。小衲はとっさに、「それは君が作務をしているからだ」と答えたのです。分別して考えた上で吐いた言葉ではありません。その時の境涯で、とっさに出た言葉です。彼女はそれに対して、「それは貴方は専門の禅僧だから楽にできるのでしょう」と反論しましたので、小衲は「君はいつも弁解ばかりだ」ときつい言葉を投げかけると、彼女の顔の血の気がサッと引いたことを覚えております。ただ彼女はそののち良い境地に達して帰国したことを付記しておきます。

真に作務三昧に成り切ってやっていれば、「作務をしている」という意識はなくなります。一流のピアニストは自分の手を意識することなくピアノの演奏をしているはずです。ただ、禅の臨済宗では公案に四六時中目の色を変えて取り組むことを課せられておりますので、作務をしながら坐禅中よりも深い禅定に入ることが良くあります。「動中の工夫」の重要性は古人も再三力説されているとおりです。小衲も良く工夫三昧で作務をしていて、えも言えぬ佳境に入ったことが幾度となくあります。

肝心なことは行住坐臥に関わりなく工夫三昧になることです。その法悦たるや、「知り人ぞ知る」醍醐味があります。どうぞ出家・在家を問わず、一人でも多くの方がこの三昧境を味わって、充実した人生を送って頂きたいものです。合掌。

(なお、三月の月例坐禅会は、26日の第4日曜日に塔頭の法要がありますので、12日の第2日曜日のみとさせて頂きます。)

「禅と心の修養」2017年2月【No.164】

多くの方がご覧になったと思いますが、全豪オープンテニスのフェデラー(スイス・35歳)とナダル(スペイン・30歳)の決勝戦は「グランドスラム史上最大のビッグマッチ」と言われるほど、まことに見応えのある試合でした。それもそのはず、フェデラーはこれまで17回のグランドスラム優勝経験があり、ナダルも14回で、歴代1位と2位の対戦でした。二人の対戦成績はナダルの23勝11敗です。しかも二人とも手首や膝の故障で長期の休養をとったあと、そろって戻って来たところで、当人自身らもこのような「奇跡」の決勝戦が待ち構えているとは想像すらしないことでした。「長年テニス界に貢献したフェデラーとナダル、そしてファンに与えられたテニスの神様からの最高のギフト」という感想を述べた人がありますが、本当にその通りです。

素晴らしいのは、この二人がお互いをもっとも尊敬している間柄だということです。「ラファのプレースタイルが大好きで、プレーを見るのも大好き。彼にも辛い時期があったけど、今こういう状況になって嬉しい。僕も彼の世界一のファン。彼も僕の世界一のファン。決勝で戦えたら、本当に素晴らしいこと」というフェデラーと、「ロジャーとこの大舞台で戦うのは名誉。これ以上、幸せなことはない。よい友人であり、最高の人。尊敬している」というナダルの言葉から、二人は本当に「美しきライバル関係」であり、最高のスポーツマンシップの持ち主といっても過言ではないでしょう。

二人の対戦中に目についたのは、特にフェデラーがそうでしたが、たとえミスをしても顔色に出さないということです。一々のミスにその都度反応していたのではたまりません。二人とも少々のことにはものの数ともせずに次のプレーに移るのを見て、「さすがは幾度となく頂点を極めた風格の持ち主だ」という感を深くしました。これに対してフェデラーに敗れた錦織選手は失敗するたびにいかにも落胆した表情をあらわにしました。こういう人をへこますことは比較的簡単なことです、自分の弱みを相手にさらけ出しているわけですから、そこをついてますます落ち込ませればよいのです。「せっかくチャンスがあったのに、こんな負け方をして自分自身に失望している」と「肩を落とす」とは、何と収穫のない反省の仕方ではないでしょうか。

それとは対照的に、フェデラーのように、どんなミスにも顔色ひとつ変えずに泰然自若としている人は、風格もありますし、つけ込まれる隙(すき)が少ないと思います。錦織選手は小衲も同じ日本人として応援しているのですが、グランドスラムで優勝するには、まだまだ肝心要(かんじんかなめ)の心の修養がたいぶ不足していると言ってよいかと思います。

錦織選手のメンタル面の弱さを、マイケル・チャンコーチも松岡修造氏も指摘していますが、それはつまるところ「念を起こす」ということに帰着すると思います。禅の臨済宗宗祖の臨済義玄禅師は、「已起(いき)の者は続ぐこと莫れ、未起の者は放起することを要せざれ。便ち汝が十年の行脚に勝らん。」(まだ雑念が出ていなければ、出さない方がよい。もし雑念が出てしまったら、雑念を続けないことだ。そうすれば、十年間みっちり禅の修行をするよりも、勝ることになるであろう。)と言っておられます。「念を起こす」ことをいかに問題視されているかがよく分かります。だいぶ以前のことになりますが、「南禅寺禅センター」の坐禅研修に、京都大学の免疫ゲノムの研究を行っている大学院生のグループが主任教授の引率のもと、坐禅研修に来たことがあります。小衲は貫禄のあるその主任教授に対して、「一体、最先端医学の研究者の人たちがどうして坐禅工夫の必要性を感じられるのですか」と尋ねたところ、「いやー、やはり雑念が起きますからね」という答えが返ってきました。雑念により心が曇っているようなことではよい研究ができないという自覚をもっておられたようです。

この春に僧堂に掛搭する予定の好青年と『雛僧要訓』や『論語』などを一緒に勉強していると、以前のコラムで申し上げましたが、掛搭の日が迫りましたので、小衲の体験から、「どうすれば充実した僧堂生活が送ることができるか」ということを心をこめて話しております。もっとも大切なことは、四六時中工夫三昧をしていれば、自然にえもいえぬ法悦が醸成され、僧堂生活が充実するということです。「四六時中の工夫三昧」とは数息観や公案を行住坐臥成り切って行うことです。「四六時中などできるはずがありません」と口答えするような人は、真箇の法悦に入ることなど金輪際できないでしょう。

禅の専門道場である僧堂では、最初の数ヶ月は数息観に専念させた上で、無字か隻手の初関を課せられるのが普通です。公案工夫というのは、何も坐禅の間だけではなく、それこそ行住坐臥、目の色を変えて取り組むべきものです。それを行っていれば、他人と雑談したり、他の雲水修行者を批判的に見たり、いわんや師家の悪口を言ったりなどという愚かなことは起こりえないはずです。

しかもどのような未曾有の境涯が現前しようと、小成に安んぜず、「得ては捨て、得ては捨て」して向上の一路を目指さねばなりません。真剣な工夫をしていれば、何事に対しても我見我慢を起こすことなく、真心から成り切ってできるはずです。こうした充実した工夫三昧の毎日こそ、雲水修行の醍醐味といえましょう。

願わくは、かの前途有望な好青年が、よそ見をせずに、できるだけ長く真っ正直に修行に邁進し、法悦の何たるかを存分に味わってくれることを心から願わずにはおれません。合掌。

「旧年の回顧」2017年1月【No.163】

新年明けましておめでとう御座います。

昨年も色々と自然災害があり、そのため新年をどのように迎えればよいのか、ほとんど途方に暮れておられる方々も多いことと拝察致します。

4月14日の夜に熊本県を襲った地震は西原村と益城町とで震度7の地震が連続して起こるという未曾有の激震となりました。とりわけ熊本のシンボルとして観光の中心をなす熊本城の甚大な被害は、熊本県民の方々にとって衝撃的な出来事だったことでしょう。石垣などの再建には数十年の歳月と莫大な費用がかかるということですが、復元された偉容を見て熊本の人々に笑顔が戻る日が待たれます。

また土砂崩れによる阿蘇大橋の崩落は地震被害の凄まじさを如実に感じさせるものでした。熊本ではまだ4割の被害家屋が復旧のめどすら立っておらず、益城町などではいまだに瓦礫の山ということですが、県や国が災害対策にもっと真剣に取り組み、一日も早く元の姿に戻る日が来ることを祈りたいもので御座います。

また8月以降に4つの台風が相次いで北海道に襲来し、「激甚災害」に指定されるような大きな被害をもたらしましたことは、まだ記憶に新しいところでございます。農作物などの甚大な被害のために農家の人たちは大変困っておられるということで、農家の方々のご苦労のほどが思いやられます。

実は熊本地方は今回の大地震以上の壊滅的な被害を蒙ったことがあります。明治10年(1877)に勃発した西南戦争のときです。石光真清氏の全四巻からなる手記(中公文庫)は毎日出版文化賞受賞作ですが、その第一巻である『城下の人』は、明治元年に熊本城下に生まれ、神風連の乱や西南戦争を間近で目撃した石光氏の貴重な実録です。そこには熊本城を守る谷干城を初めとする鎮台軍(政府軍)が、考えられないことですが、戦略上の作戦により、西鄕隆盛率いる薩摩軍が来襲する前に熊本城天守閣に火をつけ、熊本城下をも一面の火の海にしたのです。

炎々と燃えさかる熊本城天守閣を目の当たりにして石光氏は次のように吐露しています。
「慶長12年、(加藤)清正公の手によってお城が完成されて以来、二百有余年の間、私たちの先祖代々が、この城下に生まれ、この城を仰いで育ち、この城を守り、この城と共に栄えてきたのである。そして、自分たちの宝として誇り、藩主細川公の居城として尊敬してきた名城ではないか。一朝に焼尽していくのを目前に見て、嘆き悲しまない者は一人としてある筈がない。」(上掲書、78頁)

熊本城を訪ねられた方は、この城が鉄筋コンクリート製であるのを知っておられることと思いますが、実はもともとの熊本城はこのように政府軍の所業により焼失したのです。石光氏の述懐にはこの歴史ある名城に対する熊本の人々の熱い思いが如実に見て取れます。
石光真清氏の全四巻からなる手記は、この時代の人たちの気高い言動が随処に伺うことのできる貴重な記録です。御一読をお勧め致します。

どうか熊本地方の復興が早く成就することを祈り、それと共に、来年はどうか大きな自然災害がないように願いたいものです。

「仁と誠の生き方」2016年12月【No.162】

弟子たちが編纂した孔子の言行録である『論語』には、儒教の最高徳目である「仁」についての記述が数多くあります。「子の曰く、人にして仁ならずんば、礼を如何。人にして仁ならずんば、楽を如何。」(八佾第三)礼楽(れいがく)とは礼儀と雅楽(音楽)のことで、人間の品性や社会秩序をととのえるものとして孔子も非常に重視されたものですが、それすらも「人として仁でなければどうしようもない」と言っておられるのです。「仁」とは「他人に対する思いやりや慈しみの心」のことで、仁の人は「有徳者」であると讃えられております。

『論語』にはこのとりわけ重要な「仁」について、色んな記述があります。例えば、「巧言令色、すくなし仁」(学而)(言葉を巧みに飾り、顔色をとり作ったりするような人に仁はない)、「まことに仁に志せば、悪しきこと無し」(里仁)、「君子は食を終えるの間も仁に違うこと無し」(里仁)、「仁者は憂えず」(子罕)などで、いずれも人口に膾炙した孔子聖人の金言です。その孔子の風格を弟子の子貢は「温良恭倹譲」(おだやかで、すなおで、うやうやしくて、つつましくて、へりくだりであられる)と評しておりますが、この様な肩の力を抜いた自然体で謙虚な方がおられれば、それこそまさに万人に仰ぎ慕われるでありましょう。

小衲が出家前の25歳の時から3年間の薫陶を受けたのが60歳年長の森本省念老師(室号・孝慈室)ですが、名利の念が微塵もなく、ご母堂の介護をされながら仏道に邁進され、徳の高いことで知られる森本老師は、孔子をとりわけ尊敬しておられました。提唱の講本にも『論語』が使われたことがあります。禅を世界に広めるのに絶大な功績のあった鈴木大拙居士が、もっとも尊重された禅僧として森本老師は知られておりますが、この老師の日常底はまさしく「温良恭倹譲」そのものでした。勝海舟は、明治天皇の教育係である侍読を務め、明治天皇のご依頼によりわが国最初の修身書として『幼学綱要』を編纂した熊本藩出身の元田永孚(もとだながざね)のことを、「温良恭倹譲の人だ」と評していますが、これ以上の称賛はないほどの評価だと思われます。小衲はまた或る方が森本老師へのお葉書の末尾に「賢聖様」と書かれておられたのを見て、「徳の高いお方はこのように呼ばれるのか」と感嘆した覚えがあります。

「仁」と並んで重要な徳目は何といっても「誠」です。他人に対する思いやりである「仁」も、真心がなければ本当には起こらないでしょう。孔子も、礼は末節のことよりも誠心が根本だと考えておられましたが、それをさらに明確に表現されたのが、孔子の孫である子思です。子思の編纂された『中庸』はいわゆる四書のひとつとして極めて重要な書物ですが、そこには「至誠息(や)むことなし」とか「誠は天の道なり。これを誠にするは人の道なり。」といわれております。天の道である誠を本当に実践することこそ人の道であるというのです。

鎌倉円覚寺の今北洪川老師(文化13年—明治25年、1816−1892)は儒者の身で禅僧となられた名僧ですが、「性誠の論」という一文をものされ、「誠」ないしは「至誠」の重要性を次のように述べておられます、「 性は誠である。これを尊崇して、至誠といい、徳性といい、正法眼蔵といい、一真法界という。つらつら考えるに、性誠の外に神道は無く、性誠の外に儒教は無く、性誠の外に仏法は無い」、「わが禅門では、若年にして書物を放擲して専門道場に入り、十年・二十年と幾多の艱難辛苦を喫し、一大事因縁を参究するのは、ただ行解(法理と実践)が純真な性誠の心境に到達せんがためである」と(『蒼龍広録』巻二・二丁表)。今北老師の薫陶を受けた鈴木大拙居士が、老師の人格を「至誠」の一語で言い表されているのは、老師が日常底にあっても「純真な性誠」の心境に到達しておられたからでしょう。

禅の修行をする雲衲たちは、この至誠心をもって老師にお仕えし、作務や坐禅や公案工夫に邁進するのです。このような基本態度で修行生活を送ると毎日が充実して法悦三昧になってきます。それに反して手抜きや横着をすれば、師家にたちまち見抜かれてしまいますし、第一、自分にとっても不平不満がつのることになります。江戸時代に編纂されました『雛僧要訓』という書物には、「自分の師匠が正しくないと思っても、決してその非を数え上げてはならない。他人の非を論じるだけでも、わが身の徳を損なうものである。まして大恩ある自分の師匠の非を並べ立てることはなおさら徳を減ずることになる。わたしは多年このことを注視してきたが、師家の到らぬところをとやかくいうもので修行生活を全うした者をただの一人も見たことがない。これは深く慎むべきことである。」と厳しく忠告しておられます。真箇に工夫三昧でおれば、他人のことをとやかく批判する暇はないはずです。

私たちの日常生活にあっても、他人のことを色々と陰口を叩く人は信用できないように思います。禅の修行を専門にする人でなくても、相手に対して思いやりをもち、真心を尽くすことは、とても大切ではないかと思います。

小衲も、至らぬながらも、来客にはできるだけ誠心誠意をもって応対致します。5,6年前のことでしょうか、米国人の監督とカメラマンが、禅寺の撮影をしたいということでやって来て、色々と案内や禅について話をしたのですが、カメラマンがひそかに語ったところによると、監督の息子さんはうつ病気味で監督自身も気に病んでいたとのことでしたが、帰り際には実に晴れ晴れとした笑顔で、”Thank you for your hospitality.”といってくれました。hospitalityとは「歓待」ということでしょうか。小衲が歓迎してもてなしたことが伝わったことが分かり、こちらも笑顔でお見送りした次第です。

これはたまたまあるテレビ番組で知ったことなのですが、自分が満足することをおこなうのは私たちの免疫力を向上させるように思われていますが、実はそうではなく、自分だけのためにした行動に満足感を感じても、それは免疫力を向上させるどころか、かえって減少させることになるということです。ではどうすれば向上させることができるのかといえば、何といっても他人のためにすることが最も免疫力を向上させることになるそうです。これは人類の長い歴史の中で育まれてきた助け合いの重要性を示しているそうです。

私たちもお互い自分だけのことを考えずに、親身になって他の人のことを考えられる心豊かで楽しい毎日を送りたいものですね。世知辛い世の中ですが、そういう人が何人もできれば、周りの人たちも次第に潤いを感じていくことになるのではないでしょうか。しかし、「言うは易くして行い難し」で、かく申す小衲もまだまだ至らぬことを痛感する毎日です。

「先の大戦の真相と戦後日本の反省」2016年11月【No.161】

飯田進という方をご存知でしょうか。去る10月の13日に93歳で亡くなられた元BC級戦犯の方です。テレビなどでも放映されましたし(例えば「サンデーモーニング」の「風を読む」のコーナー)、ネットでも情報が発信されました。小衲はネットで初めてこの方のことを知り、ぜひともその著作を拝読する必要があると思い、『魂鎮(たましずめ)への道』、『地獄の日本兵』、『たとえ明日世界が滅びるとしても』などを取り寄せて、貪るように一挙に読みました。そしてその結果、自分のこれまで抱いていた先の大戦に関する思いを根底から覆される経験をしたのです。

禅僧がこのようなことに言及するとはと、怪訝に思われる方もあるかも知れません。ですが、終戦二年半後にこの世に生を受け、数々の戦禍の残る有様が眼に焼き付いている世代です。亡き母と大阪の環状線に乗った際、長い間、米軍の空爆を受けてそのままに放置されていた広範囲に及ぶ戦禍の跡について、母が「あれは砲兵工廠(ほうへいこうしょう)が爆撃された跡だ」と教えてくれました。砲兵工廠とは大村益次郎の構想により明治初年(1867)に大阪城内に造られた陸軍の兵器工場です。その後、だいぶ経ってからいつの間にかその跡は撤去されましたが、往事のすさまじい状況は眼の底に焼きついております。また梅田の地下街では白衣の傷痍軍人が松葉杖をつきながら物乞いをする光景を何度も見たことがあります。

しかし、何よりも三百数十万人もの方々が亡くなられ、わが国が初めて敗戦の憂き目を見て米国の占領国となったというこの厳然たる事実は、日本人ならば何人たりとも決して看過することのできないことではないでしょうか。ご自分の身近な人が戦没したり出征された経験を持つ人は数多いことでしょう。小衲の坐禅会の久参底の方のご尊父は生まれたばかりの一人息子を日本に残して舞鶴港から出征され、そのまま戦死して今は靖国神社にお祀りされているとのことです。わが国の至るところで言語に絶する辛酸をなめた国民が多くいることを、私たちは決して平和な現代でも忘れてはならないと思います。

実は飯田氏の著書を拝読する少し前に、井上和彦氏の『大東亜戦争秘録 日本軍はこんなに強かった!』という本を読んだのですが、井上氏は、敗れはしたものの日本軍が各地の戦線においていかに勇猛果敢に戦ったかということを、敵将であった蒋介石の「日本の軍人精神は東洋民族の誇りたることを学べ」という訓示などを引いて称揚しています。この書を読んで初めて知ったのは、全長30メートル、全幅43メートルに及び、「超空の要塞」といわれ、日本の各地に焼夷弾を投下して数多くの一般市民を殺戮した最強の米軍爆撃機であったB−29が、本土防空を担う陸軍航空部隊によって700機以上も撃墜されたという事実です。母の口からもよくB−29による爆撃の話がでました。高度1万メートルを飛ぶB−29には日本軍は到底なすすべがなかったと思っていたのですが、これほど撃墜していたとは意外なことでした。

とはいえ、確かに日本軍が一面で「勇猛無比」であったことは事実でしょうが、実際に戦場に行って想像を絶する苦難を経てこられた飯田氏が、「満身創痍」の「手負い」となってさらけ出された戦争の暗部の厳然たる実相の記述に比すれば、あまりにも楽観的で皮相的であるとの思いはぬぐいきれません。「戦争」という国家間の殺し合いがどれほど悲惨を極めたものかを、私たちは飯田氏の一連の遺著により身に沁みて知る必要があると思います。そして戦なき平和の時代の有り難さに心から感謝し、もう二度とあのような悲劇が起こることのないように国民一人一人が心することが大切なのではないでしょうか。どうも昨今の政治情勢を見ていると、その点に大いに危惧の念を禁じ得ません。

実はだいぶ以前に小衲が日課の早朝掃き掃除をしていると、南禅寺の山内をときおり散歩するご老人がおられたのですが、その方が或るとき、「戦友から送ってきたものです。どうぞお飲み下さい」といって銘酒を数本もってきて頂きました。それ以来、幾度となく頂戴しましたが、戦地に従軍の経験がおありになるということを知って、ぜひとも体験談を拝聴したいとお願いしましたが、ほとんど話を聞かせて頂くことはできませんでした。飯田氏の著作を拝読して、そのわけが分かりました。戦地での実情などはとても人に話して聞かせられるようなものではなく、言語に絶する悲惨なものだということです。

飯田氏は『地獄の日本兵』の「おわりに」で次のように述べておられます。
「これまで、私の体験と元兵士たちの記録をたどって、ニューギニア戦線の実相を描いてきました。それは、勇戦敢闘したある兵士の物語ではなく、飢えて野垂れ死にしなければならなかった大勢の兵士たちの実態です。
重ねて強調しておきますが、これはニューギニアに限りません。太平洋戦争戦域各地に共通していたことなのです。二百数十万人に達する戦没者の大多数が、本国から遠く離れて、同じような運命をたどらされたのでした。
この酷いとも凄惨とも、喩えようのない最期を若者たちに強いたことを、戦後の日本人の大多数は、知らないまま過ごしてきました。この事実を知らずに、靖国問題についていくら議論をしても虚しいばかりだと私は思います。この思いが、人生の終末を生きている私に、この原稿を執筆させる動機を与えたのです。
嫌なことには目を向けたくない習性が、人間にはあります。嫌なことを忘れることによって、人間は生き延び得るのかもしれません。この習性は個人には許されても、国家や民族には許されません。60年前のことをすっかり忘れるような集団健忘症は、また違った形で、より大きな過ちを繰り返させるのではないかと危惧するからです。今日の日本を覆う腐敗や犯罪をもたらしている禍根は、ここに淵源していると私は考えています。」

飯田氏はまた『魂鎮(たましずめ)への道』の中で、次のように吐露しておられます。
「忠勇無比をうたわれた日本兵は、ジャングルのなかを右往左往したあげく、みじめなのたれ死にしたのです。(中略)戦いの相手は、もちろんアメリカ軍を主とする連合軍でした。だから日本兵が敵に対して、憎しみをもっていたのはあたりまえです。しかし飢えと疲労の極限をさまよい、のたれ死にを迫られた兵隊たちが、だれをもっとも恨んで死んでいったと思いますか。
あえて断言します。それはアメリカ兵に対してではない。日本軍の参謀たち、とりわけ作戦の中枢にいた大本営の参謀に対してです。兵士たちが書き残したおびただしい手記のいたるところに、軍上層部に対する呪詛(じゅそ)と怨念があふれています。日本兵は、敵によるだけでなく、日本軍の参謀によって殺された、といって差し支えありません。」

その大本営参謀本部を実質的に牛耳っていたのは、作戦課長の服部卓四郎と作戦課戦力班長の辻政信とでした。この二人は共に実情を無視した攻撃一辺倒の向こう見ずな作戦に固執し、敵を過小評価して次々に部隊を繰り出し、数多くの兵士を飢え死にさせるような愚行を重ねたのです。しかし飯田氏らのようにやむを得ずに犯さざるを得なかった罪のためにBC級戦犯となって巣鴨プリズンに投獄されたり、戦勝国の理不尽な裁判の結果、処刑された兵士たちとは異なり、服部と辻の両人は戦後何らの責任を問われ追究されることがありませんでした。本当に理不尽極まりないことです。

それどころか、辻は戦後に衆議院議員・参議院議員を長く勤めました。またソ連を仮想敵国としていた関東軍の作戦主任であった服部の如きは、戦後の米国により重要な人材と見なされ、朝鮮戦争の勃発を契機としてGHQの依頼により再軍備を画策し、その結果として創設されたのが警察予備隊です。現在の自衛隊の創設には多くの旧軍人が関与しているということです。それはまさに「奇怪な衣裳をまとった」日陰者としての軍隊の出現であり、東京裁判の訴追理由と、真っ向から相反する出来事であったがために、巣鴨プリズンに収監されていた人々は、「おれたちは一体何のために裁かれたのか。何のために収監されているのか」という「計り知れない衝撃」を受けたのです。

飯田氏は結論づけておられます。「戦後の日本が内蔵し続けている倫理的・道徳的な堕落と退廃の淵源は、そこにあるとぼくは思っています。」(『魂鎮(たましずめ)への道』岩波現代文庫版、348頁)

飯田氏が明らかにされているように、日本軍の悪行を断罪して多くの戦犯を作り出したアメリカ軍が、捕虜や沈没船の兵士らを片っ端から機銃掃射したということが普通にあったそうです。B−29の各都市へのじゅうたん爆撃や原爆投下による一般国民の無差別殺戮は明らかに戦争犯罪に他なりません。とはいえ、一方では、日本の侵攻により2000万人以上もの人たちが亡くなったということを忘れるわけには参りません。こうした理不尽なことが次々に起こるのが戦争というものなのでしょう。

いずれにしましても、小衲には、先の大戦の実相を本当に知りたいと思われる方があれば、飯田進氏の一連の遺著は必読のものであると思われます。また飯田氏が参考にされた他の方々の著作も重要です。そこに書き連ねられている想像を絶する悲惨な出来事を直視し、戦後のわが国の問題点を根本的に反省することなくしては、戦後の清算は決してできないのではないでしょうか。

今回のコラムは、切実なテーマゆえに例外的に長くなりましたことを、ご寛恕のほどお願い申し上げます。合掌。

「近世京都の宮廷文化展」2016年10月【No.160】

今月のコラムは「近世京都の宮廷文化」展のご紹介をしようと思います。

京都は延暦十三年(794)に桓武天皇が都として定められて以来、宮廷を中心として幾多の雅びな文化を育んで参りました。慶応三年(1867)十月十四日の十五代将軍・徳川慶喜公の二条城における大政奉還により、江戸幕府は統治権を京都の朝廷に返上してここに明治新政府が誕生したのです。若き明治天皇は江戸で直接政治をみて、関東の人心を安んずるために江戸を「東京」として行幸・滞在され、時の太政官(政府)も移動となったのですが、時の天皇が正式に都の移転を宣言されるいわゆる「遷都の詔勅」は発布されてはおらず、「行幸」である以上、京都の人々は「天皇はまた還幸される(京都に戻ってこられる)」と思い込んでいたようです。しかし天皇はそののちも京都には還幸されることなく、明治十年(1877)に京都御所の保存を命じられ、それ以降は現在に至るまで日本の首都は東京と考えられております。

京都で花開いた宮廷文化の粋を結集した最高の晴れ舞台が、天皇の大礼(即位式と大嘗祭)であることはいうを俟たないことです。明治天皇の時には、慶応二年十二月に孝明天皇が崩御され、翌年の正月に睦仁親王(明治天皇)が践祚され、践祚の後に皇位継承を知らしめんがための即位式は慶応四年八月二十七日に京都御所の紫宸殿にて行われ、大嘗祭(即位の礼の後で行われる新嘗祭のこと)明治四年十一月十七日に東京で行われました。

明治維新により東京遷都があり、天皇が国家の最高指導者に位置づけられてからは、旧皇室典範並びに登極令の制定により、天皇の践祚・即位に関する一連の儀式の様式が定められ、御大礼(即位の礼)は京都で行う旨が規定されていたため、大正天皇・昭和天皇の場合には、京都御所で平安様式により執り行われました。昭和二十二年制定の現行の皇室典範では場所については規定されておらず、平成の即位の礼・大嘗祭は皇居で行われました。このために従来は「紫宸殿の儀」と称していた儀式が「正殿の儀」と呼ばれました。

このたびの「近世京都の宮廷文化」展は皇學館大学・佐川記念神道博物館所蔵の小原家文庫をはじめ、大切に伝えられてきました江戸時代以来の大礼(即位式・大嘗祭)に関する貴重な史料に加えて、拙寺である光雲寺所蔵の東福門院(後水尾天皇の中宮・徳川二代将軍秀忠公の姫君)ゆかりの品々が展示されております。

会場は京都の伏見区にある京セラ本社の一階会場と、そこから徒歩五分の至近距離にある城南宮との二会場に分かれて展示されております。平安京の初めに都の安寧と守護を祈願して創建された城南宮は「曲水の宴」が催されることでも有名ですが、「方除(ほうよけ)の大社」と呼ばれ、方位の障りや家相の心配がないように祈願する人がお参りされるということです。

両会場とも貴重な展示品の数々が集められております。このような素晴らしい展覧会が可能となりましたのも、京都産業大学名誉教授であられる所功先生のご尽力によるところが多いと思われます。光雲寺に東福門院御像を初めとするゆかりの品々の出展を依頼してこられたのも先生です。どうか多くの方々がこの重要な展覧会にご来訪下さるようにお願い申し上げます(なお、入場料は両会場とも無料で、駐車場も完備されております。)

「呼吸法と禅定」2016年9月【No.159】

坐禅修行にとって「呼吸法」が重要な意味を持つことは、いやしくも少し坐禅を経験した人ならば、誰しも知っていることだと思います。しかし、では正しい「呼吸法」を実践して真箇の禅定に入った人が多くいるのかと言えば、長年、専門道場で修行したり坐禅会を主宰したりしている経験からありていに申せば、なかなか本当に禅定を体験した人は少ないように見受けられます。

その原因は、恐らくはその人が惰性で坐禅をするだけで、肝心の呼吸法を真剣に修していないからではないでしょうか。もとよりどの人も無意識の間に呼吸はしているのですが、それに意識的に集中することで「呼吸法」というものが成り立ちます。そして呼吸に対するこの集中があるかないかで雲泥の差が生じます。目の色を変えるほど真剣に呼吸に集中すれば、禅定に入ることは実はそれほど難しいことではありません。真剣に坐禅工夫している人には、何か犯しがたい威厳や風格が見られるはずです。

釈尊が行じておられた「呼吸法」は、「安那般那(あなはな)」、すなわち出入の息に心を集中して禅定に入る観法である「入出息念定」(アナパーナ・サチ・サマーディー)と呼ばれるものです。坐禅を組んで、脊梁骨を伸ばし、肩の力を抜いて臍下丹田に気を充実させ、「調身」ができれば、次に深い呼吸をしながらそれにひたすら意識を集中します。この「調息」ができれば、おのずから「調心」が可能となります。

仏教が中国に入ってきた二世紀後半に安世高という人により翻訳された『大安般守意経』という、「入出息念定」を論じた経典がありますが、この教えの通りに息を調えることに集中していけば、通常の意識分別による「われ」や「自分」という思い込みがいつの間にか消失してしまいます。そうして天地宇宙につながる大いなる命が実は私たちを貫いている本来の有り方であることをしみじみと味わうことができるようになります。

ただその際、釈尊も強調されているように、何よりも大切なことは出入の息を「意識する」ことです。呼吸を意識することなしに漫然と坐禅をしていても、時間の浪費になるだけで、何年経っても禅定力のつくはずはありません。工夫をしていなければ、どうしても居眠りなどが出てしまいますし、長年坐禅修行した人から見れば、一見しただけで、「この人は真剣に工夫していない」ということが分かるものです。「意識せよ」とは「集中せよ」ということでしょう。この意識や集中を欠けば禅定に入ることは不可能になります。小衲も出入の息に集中して、それこそ何時間でも坐禅可能のような佳境に入ったことが幾度となくあります。釈尊は二ヶ月の間、食事を運ぶ弟子以外は人を遠ざけられて「入出息念定」の坐禅工夫を続けられたと言われておりますが、その際の法悦たるや、如何ばかりであったかと拝察されます。

公案を工夫している方は、坐禅の時だけではなく、行住坐臥・四六時中目の色を変えて工夫三昧になることが肝要です。成果を求めず、ただひたすら公案三昧になることです。公案工夫に骨を折られた人はその三昧境の醍醐味をご存知のはずです。「坐禅は安楽の法門」と言われておりますが、その法悦を味わえるのは自分が実際に骨を折って工夫した人だけです。

くれぐれもご注意申し上げたいのは、ただ呼吸法の重要性を知っているのと、出入りの呼吸への集中を実際に行うのとは全然違うということです。公案工夫も本当にやらなければ法悦を得ることはできません。坐禅弁道によって真の禅定を得たいと思われる方は、どうぞ実際に呼吸への集中や公案工夫に専念することをお勧め致したいと思います。

「師匠看護と仏道修行」2016年8月【No.158】

今月は前回と前々回のコラムでお話し致しました青年たちと学んだ中から、ひとつの大切な問題を彼らに提起して考えてもらっていることをお話ししようと思います。(現在は彼らの中の一人は見聞を広めるために海外旅行中で、今一人は九州の自坊にお盆などの荷担のために帰省しております。)

さて、『雛僧要訓』の中に、「世尊成道の初め説きたまう華厳に、父母師僧に孝順せよ、孝順は至道の本(もと)なりと有り」という一節があります。それとの連関で小衲は、道元禅師の『正法眼蔵随問記』の中で、道元禅師が、老病のために死の床にある師匠を見捨てるような形で入宋求法(にっそうぐほう)された明全和尚のことを「真実の道心」の持ち主であると称賛されている箇所を取りあげました(岩波文庫版、百十五頁)。非常に大切な問題が含まれていると思われますので、少し長くなりますが、当該箇所を全訳させて頂きます(ただし少し分かりやすいように敷衍して訳します)。

道元禅師は或るとき、次のようにお示しになりました、「先師明全和尚が入宋されようとした時、本師である比叡山の明融阿闍梨は重病が起こり、病床でまさに瀕死の状況であった。その時にこの師は弟子の明全に向かい、わしはすでに老病が起こり死去するのも間近だ、どうか今しばらく入宋するのを待って、病を看護してわしが遷化した後に本意を遂げてはくれないか、と懇願された。そこで先師明全和尚は弟子や法類の和尚方を集めて話し合いの場をもたれて次のように言われた、私は幼少の頃から出家して両親の膝元を離れてから、この明融阿闍梨の養育のたまものでこのように成長することができた。その養育のご恩はこの上なく重いものだ、また仏法の教えを色々と学び、同輩にも越えた名誉を得たこと、また仏法の道理を知って今入宋求法の志を起こすことまでも、ひとえにこの師匠の恩でないものはない、しかるに今年すでに年老いて重病の床に臥しておられる、余命も再会も期しがたい故に強いて入宋するのを止められたのである、師の命も背きがたいが、いま私が命をなげうって入宋求法しようとするのも菩薩の大悲利生のためである、師の命に背いてまで宋の国に行くべき道理はあるであろうかと。」

この時、その場のすべての列席者は、今年の入宋は留まられて、師匠の遷化ののちに入宋した方が、師命にも背かずまた師恩にも報いる道だと意見を述べましたが、それを聞き終わって明全和尚は次のように言われました、「おのおの方の評議はみな、留まる方がよいという道理ばかりである、私の思うところはそうではない。今回たとえ私が留まったとしても、師匠が死ぬべき運命ならば、それによって命が長らえるわけでもないし、また私が留まって看病したとしても苦痛が止むはずもない。・・・ただ命に従って師の心を慰めるだけである。このようなことは出離得道のためには一切無用である。錯って私の求法の志を妨げるようなことがあれば、師匠にとって罪業の因縁となりかねない。しかしもし入宋求法の志を遂げて一分の悟りを開くことができたならば、師匠一人の煩悩の情念に背いたとしても、他の多くの人を得道させる因縁となるであろう。この功徳が優れたものならば、これこそ師恩に酬いるというものである。・・・師匠ひとりのために失いやすい時を空しく過ごすことは、仏の本意にかなうことではあるまい。それゆえ、私はこのたび思い切って入宋することを決心した」と言って入宋されたのです。

先に述べたように道元禅師は先師明全和尚のこの様な決心を「真実の道心」だと称賛し、「それであるから、現在の修行者も父母のためや師匠のためであるからといって、(看護などの)無益のことをおこなっていたずらに時を空費して、諸道に勝れた仏道を差し置いて空しく光陰を過ごすべきではない」と力説されております。明全和尚や道元禅師のような名僧方に対して批判的愚見を述べるのは恐れ多いことですが、小衲は果たして師匠看護が「無益」なことであり「時の空費」になるかどうかは一概には言えないように思いますが、皆さん方はいかが思われるでしょうか。

幼い頃から手塩にかけて徒弟教育を受けた恩師に対する言葉として、明全和尚の「今回たとえ私が留まったとしても、師匠が死ぬべき運命ならば、それによって命が長らえるわけでもないし、また私が留まって看病したとしても苦痛が止むはずもない。・・・ただ命に従って師の心を慰めるだけである。このようなことは出離得道のためには一切無用である。」というお言葉は、いささか酷薄に過ぎはしないかという気が致します。

このお二人の名僧方は、師匠看護をすることと仏道修行とを別物だという風に考えられておられるように受け取られるのですが、心をこめて師匠のお世話をすることもまた仏道修行の一環だとは言えないでしょうか。小衲も実は修行時代の絶頂期に、明全和尚と同じく、師匠看護の問題に遭遇致しました。小衲の場合には実は(そのお寺に一日たりとも暮らしたことのない)名義を拝借しただけの師匠だったのですが、明全和尚の事例をも考慮に入れた上で、「ここで看護から逃避したのでは自分は駄目だ」と決断して、師匠をお見送りした上で再度行脚修行を致しました。当時を想起すれば不充分で至らぬことばかりで申し訳なく、いま一度看護をやり直したいという思いがぬぐえません。白隠禅師の伝記を拝読して、禅師が心をこめて師匠看護をしながら坐禅弁道をされ、また不祥事があって放逐された兄弟子を迎え入れて面倒を見られたというのを知って感動したことがあります。師匠看護は必ずしも仏道の妨げとはなるまいと思うのですが、いかがでしょうか。

重病の恩師の懇願を振り切って入宋求法された明全和尚は、入宋三年後に病のために天童山の了然寮で遷化されることになります。建仁寺開山栄西禅師に嗣法された明全和尚のものと伝えられるお墓が建仁寺の開山堂の傍らに寂しげに建っております。曹洞宗の方々がときおり墓参に見えられるようですが、了然寮で遷化される直前、明全和尚の脳裏には自らが看護を見放してきた先師明融阿闍梨のことが去来したのではないかという思いが致します。

この明全和尚のことを若い二人に話し、小衲の見解を披瀝しましたところ、「たとえ名僧の言われることでも、そのまま鵜呑みにせずに自らの体験に照らし合わせて考えるべきだということですね。」という反応が返って参りました。こういうやりとりができるというのが『雛僧要訓』を学ぶことの醍醐味かも知れません。

「跼蹐の情」2016年7月【No.157】

標題に掲げましたのは難しい漢字ですが、「跼蹐(きょくせき)の情」と読みます。中国六朝の梁の武帝の長子である昭明太子の編纂した『文選』には、「高天に跼(せぐぐま)り、厚地に蹐(ぬきあし)す」(張衡「東京賦」)という句が見えますが、『禅林句集』などに載っているのはこちらの方です。

しかしもともとこの「跼蹐」という語は、五経のひとつである『詩経』の「小雅」という、周の朝廷の賀歌を収録した篇にある「正月」という詩中の句で、そこでは、「天蓋(けだ)し高しと謂えども、あえて跼(せぐくま)らずんばあらず、地蓋し厚しといえども蹐(ぬきあし)せずんばあらず」(大空は高いけれども,背をかがめて行かねばならない。大地は厚いけれども、足音を立てぬように抜き足して歩かねばならない)と、君子平生の万事に慎み深い様子を形容する言葉として使われております。

剣禅書の達人である山岡鉄舟居士と親交のあった南隠全愚老師(天保五年~明治三十七年)(1834—1904)は東京文京区に白山道場を建立されて坐禅指導をされた名僧です。或るとき、真夏のこととて蚊帳を使用しておられた老師が、その蚊帳をお顔すれすれになるほど低く釣り下げておられたのを見て、隠侍が「どうしてそんな窮屈なことをされずに、もっと上の方まで上げられないのですか」と不審に思って尋ねると、南隠老師は、『「天蓋し高しと謂えども、あえて跼らずんばあらず、地蓋し厚しといえども蹐せずんばあらず」という言葉をお前は知らんのか』とたしなめられたということです。

今どきの禅修行などしたことのない若者からすれれば、一笑に付すような逸話かも知れませんが、明治の中頃生まれの名僧方の薫陶を受けた私たちから見れば、この南隠老師のお言葉はまことに身の毛もよだつような有り難さが感じられるのです。南隠老師はまたお風呂などには入られずに、ただ湯桶一杯のお湯でお身体をぬぐわれるだけであったと伝えられております。

先月のコラムで言及しました『雛僧要訓』には、相国寺の名僧・大典(梅荘顕常)禅師(享保四年—享和元年)(1719−1801)のご垂戒として、「福を慎むべきこと」を述べられ、「我等従来過分に福を消(しょう)し来たることを恥ずべし、畏るべし」と力説しておられます(十六丁表)が、まさしく上述の南隠老師の気高い行履(あんり)は「福を慎むべきこと」の実践躬行です。

『雛僧要訓』や『論語』や『近世禅林僧宝伝』などを一緒に勉強している青年たちに、「福を慎むべきこと」の実例として南隠老師の逸話を披瀝し、「高天に跼(せぐぐま)り、厚地に蹐(ぬきあし)す」という句を伝えましたが、それを肝に銘じて行うのは一朝一夕では不可能です。

この言葉を伝えたあとで、ワゴン車で外出した際に、若い学生さん三人が雑談を始めたのです。しばらく聞いておりましたが、これは聞き捨てならぬと思い、「君たちはわしと一緒に車に乗っていて、そのような雑談をすることは慎まねばいかんではないか。『雛僧要訓』を読んだばかりなのに、そんなことでどうするのか。気を抜いているからそうなるのだ」とその場で叱責した次第です。同様の忠告を何人もの若者にしたのは、これで三度目になります。このように高僧の優れた行いを学んでも,それを我が物とすることはなかなか困難です。まさしく「高天に跼(せぐぐま)り、厚地に蹐(ぬきあし)す」という心持ちで常日頃を過ごす必要を感じます。

最後に、菅原道真公が太宰府に左遷された折りに詠まれた「門を出でず」と題された漢詩をご紹介致しましょう。そこには道真公の慎ましやかな「跼蹐の情」が如実に言い表されております。

「一たび謫落(たくらく)せられて柴荊(さいけい)に就きしより、万死兢兢(きょうきょう)たり跼蹐の情、都府楼わずかに瓦色を看、観音寺ただ鐘声を聴くのみ」
(ひとたび罪を科せられてこの太宰府に左遷され、このあばら屋に住むようになって以来、わが身に着せられた万死に当る罪に畏れおののき、身の縮まるかのような思いで、少しも外出する気にもなれず、太宰府官庁の楼閣はわずかに瓦の色を見ているだけで行ったこともなく、観音寺はただ鐘の声を聴くだけで訪ねたこともない。)

「青年教育と禅修行」2016年6月【No.156】

最近、来年僧堂に掛搭する予定の青年が、僧堂生活に資することもあろうかと思って拙寺の坐禅会に参加してきたので、これも何かの因縁かと思い、彼に週一度ほど、江戸時代の名僧方が雛僧の心得を説き示された『雛僧要訓』や『論語』などを一緒に読みながら、小衲も再度勉強し直しております。
もとより彼にはお父上が本師としておられるわけですから、小衲のお弟子ではありませんが、これも宗門興隆のための一助となればと思い、当方に迷惑をかけてはと遠慮されるのを、「よろしければどうぞご遠慮なく」と申して行っている次第です。

そうこうしているうちに、これも奇縁というのでしょうか、特別休学制度を活用して禅寺での生活を体験したいという大学生の若者が拙寺にしばらくの間寄宿することになりました。報道されましたのでご存知のお方もあろうかと思いますが、東京の最難関大学が本年より設けた制度で、新入生が学費を払わずに休学できて、しかもその間に受験勉強では体験できないような色んな活動をすることによって、かえってその後の大学生活や自分の人生にとって有意義になるような貴重な体験をするというのが、主眼だそうです。海外の大学ではすでにそのような制度が設けられているようですが、彼の大学では実際の希望者は今のところ少ないそうです。それを思い切ってそのような英断をした彼の決意のほどを称賛したいと思います。

ちょうど臨済禅師と白隠禅師の遠諱記念の禅の特別展が京都国立博物館で開かれていましたので、先ずは二人を連れてその特別展に行って名僧方の気高い行履(あんり)について色々と話を致しました。これほどの特別展はなかなか見られないものですので、二人にとっては非常に良い経験になったかと思います。それ以後、二人一緒に勉強する機会をもつことになりました

拝読しております『雛僧要訓』は出家した雛僧のためのものではありますが、一般の青年にとりましてもまた意義深い教えが多々散見されます。例えば、「師匠のお供をしてよそに出向く時は、師匠のそばを離れることなく、万事に付けて心を配らなければならない。長旅の際には自分がお手洗いに行くなら茶店などで休憩中に行くべきで、普段は師匠のそばを勝手に離れてはいけない」と、師匠に孝養を尽くすことが色々と説かれておりますが、家庭や学校では教えることのないこうした人生の心得は、前途洋々たる若者たちにとっては、とても大切なことではないかと思います。

また、「万事に不足のないのは雛僧の身にとって大毒であると思い、ただただ仏道修行に志を励まなければならない。昔から高僧と称賛される人は多くは貧寺の弟子であった人が多い。というのもそれはひとえに不自由を忍んで自ずからその身に徳を身につけ、その上に苦行困学したからであることを知らなければならない」という一段では、「忍の徳たること、持戒苦行も及ぶこと能わざるところなり」という『仏遺教経』の有名な一節を引いて、小衲の存じ上げている或る高徳の老僧が若い頃に師匠の厳しい仕打ちに堪えながら孝養を貫かれたという実話などを話すと、若い二人は真剣に聞き入っておりました。

『論語』の勉強に際しましても、孔子の「温良恭倹譲」(おだやかで、すなおで、うやうやしくて、つつましくて、へりくだりであられる)の風格や、郷党篇にある「孔子、郷党において恂恂如(じゅんじゅんじょ)たり。言うこと能わざる者に似たり」(孔子は郷里では恭順なありさまで、ものも言えない人のようであった)という記述に、近江聖人と称(たた)えられた中江藤樹は、「夫子、徳光の影迹(えいせき)」を認められ、非常に感動された、という話をしたことです。

何しろ若い二人に話しておきたいことはそれこそ山ほど材料がありますので、あっというまに時間が過ぎてしまいます。そしてその時間は小衲にとってもまた非常に充実した楽しい時間です。しかし講説だけでは不充分です。作務をしながら、薬石(夕飯)の支度をしながら、「これが『雛僧要訓』の実践だ」といいつつ、色々と二人に注意を与えますが、素直で道心のある二人は一向に嫌がる気配を見せずに心を尽くして頑張ってくれます。

そうした若者たちがいることは嬉しいことです。こういう人たちがますます増えて育っていくことを願わずにはおれません。光雲寺では禅寺の生活をしながら大学に通う学生さんを募っております。我と思わん方や、お知り合いのある方がおられましたら、どうぞご連絡をお待ちしております。合掌。