「ガンとの闘病」(月刊コラム【No.87】2010年9月)

今月はいささかこれまでとは相違したテーマについてお話ししたい。「ガンとの闘病」といっても、小衲自身が現在罹患しているわけではないが、昨年以来、何人もの親しい知人や、知人に関わりのある人たちが、ガンに襲われた。中には治療空しく亡くなった方々もいる。相国寺僧堂の師家をしていた小衲の実弟も、二年数ヶ月前に前立腺ガンで遷化した。

皆さん方の回りにもきっと何人かのガンと闘病中の知り合いがおられるはずである。それほどこの病はわれわれの身近になってきており、自分がいつガンになっても不思議ではない。ガンとの闘いは情報戦だといわれている。手術・放射線・抗がん剤といういわゆる三大療法にのみ頼っていては、かえって免疫力の低下を招き、助からないことになる。

弟の場合、大阪の実家近くにある病院の人間ドックを毎年のように受けていたのだが、一度小衲が受けている「日赤のドックを受けては」と勧め、その結果、オプションの前立腺ガン腫瘍マーカーの検査で六百という異常に高い数値が出て、発覚したのである(四以上あるとガンの疑いで、精密検査の必要がある)。以前から患部の異常を感じていたとのことであるが、先の病院では腫瘍マーカーの検査がなく、不調を訴えたのだが、担当医は「別に異常はありません」と断言していたという。まことに憤りを通り越して痛恨の極みであった。

それからは、京都にある大学病院へ通いホルモン療法を受けたりしながら、食事療法など色々と試みたのであるが、二年で効かなくなり、ついにはかなり強い抗がん剤を十三クールも投与するに到ったことをあとになって知った。抗がん剤の副作用に関しては、以前から弟とはその危険性について再三話しあっていたのではあるが、担当医の勧めで受け容れることになったわけで、「この抗がん剤がこれほどひどい副作用があるとは分からなかった。こんなきつい薬は決して使うべきではない。このことを君はほかの人たちにどうか伝えてほしい」と、弟は辛い体調のなか、介護していた人に依頼したという。

西洋医学は病根を縮小させることに急なあまり、身体全体のことを顧慮することが少ないという問題点はつとに指摘されるところであるが、明らかに抗がん剤の副作用が免疫力低下を招き、遷化を早める要因になったと思われるのである。これに対して、自然療法や代替療法を選択した人たちは、末期ガンの人でも実に多くの人がガンを克服しているのである(東城百合子著『自然療法が体を変える』、船瀬俊介著『病院に行かずに治すガン療法』、参照)。

安保徹氏、船瀬俊介氏、東城百合子氏などの著書を読むと、ガンは決して不治の病ではなく、これまでのライフスタイルを根本から変え、肉食を避けて玄米菜食にし、ガンに対して恐怖を持たずに「必ず治る」と確信して、笑顔で適度に運動をして過ごせば(笑えば、ガンを攻撃するNK細胞が六倍も増える)、自然治癒に至るという。「ガンがそんなに簡単に治るなら医者は苦労しない」と小衲にいわれた医師もいたが、それは彼らが三大療法に固執して、「生活」と「食事」と「運動」と「心」を変えるという自然療法の本質や意義を見ようとしないがためである。

自然療法としては、ビワの葉温灸・里芋パスタ・コンニャクの温湿布などがよく知られている。温泉や温熱治療をして身体を芯から温めるのも、熱に弱いガンに対して効果がある。色んな体験談を読めば読むほど、末期ガンの人でも奇跡的な治癒を遂げている人が数多くいることが分かってくる。

名古屋市にはガン患者の集まりである「いずみの会」があり、その生存率は何と九五%だという。名古屋大学の医学部も注目して追跡調査中であるという。これを各地のガンセンターや大学病院の生存率と比較してみればよい。三大療法一辺倒の医療機関の生存率はおそらく驚くほど低いと思われる。末期ガンから生還した体験者たちこそ、一番の良医というべきであり、「いずみの会」ではそうした体験者から色々アドバイスを受けることができるという。それがどれほどガン患者にとって免疫力を向上させることになるであろうか。

しかも、こうした自然の民間療法は安価である。高額の医療費を要求する先進医療や高価な薬を買わせようとする医者には要注意である。小衲もガン保険には入ろうといったんは考えたが、以上のような実情を知るに及んで、その愚を悟るに至った。

とはいえ、弟を含め、こうした情報を十分に集めきれなかったがために、図らずも十分にガンとの闘いのお力になることができなかった方々が、小衲の回りにはおられる。衷心より深くお詫び申し上げると共に、ご冥福をお祈り申し上げます。

「跼天蹐地」(月刊コラム【No.86】2010年7月)

表題は、中国の五経のひとつに数えられる『詩経』小雅という、周の宮廷の賀歌を収録した篇にある「正月」と題する詩中の句である。「天、けだし高しといえども、あえて跼(せぐぐま)らずんばあらず。地、厚しといえども、あえて蹐(ぬきあし)せずんばあらず」(天が高くても遠慮がちに身をかがめ、地が厚くても遠慮がちに抜き足して歩かねばならぬ)という、戦々兢々としてわが身に何か落ち度がないかを恐れ慎むさまのことである。

現代人の中にはこういう言葉を聞くと一笑に付する人もあるかも知れないが、われわれ禅の修行で鍛えられ苦労したものにとっては、まことに有難く、身に沁みる言葉である。東京の白山道場の名僧・南隠老師は蚊帳を吊るされる際に、いつもご自分の顔につかんがばかりに低くされたが、それを怪訝(けげん)に思って「高く釣った方が気持ちが良いではありませんか」と尋ねた弟子に対して、南隠老師は上述の一句を引いて、「そんな了簡(りょうけん)ではいけぬ」と戒められたという話を読むと、名僧の行履(あんり)の気高さに身の引き締まる思いがする。

さて、先月のコラムは「作務の法悦」と題していたが、どうも弟子たちには今ひとつよく浸透していないようで、大いに反省することがあった。「植治(七代目小川治兵衛)の庭」を復元するべく、庭師さんたちが入って中庭の築山や苔張りをしていた時のことである。梅雨に入ってからますます雑草が伸びて除草の必要が増大したが、植えたばかりの苔の中に生える草を除くには、細心の注意がなければ苔を傷めることになりかねない。そこで、小衲が一人で中庭の除草をし、他の五、六人は境内内外の掃き掃除のあと、墓地の除草に専念してもらった。

四、五日たって中庭の除草がひと通り終わったので、墓地の方ももうほとんど終わっているだろうと思い、出かけて見ると、何と、「一体どこをやったのか」と思われるほど、あちこち雑草だらけでさっぱりできていないではないか。さっそく厳しく訓戒し、率先垂範して三日でやり終えたのである.

禅の専門道場では、「働きがある」かどうかということがよくいわれる。不器用な小衲などは、最初の道場では、なかなか働きができずに苦労し怒られもしたのであるが、次の道場では、自分自身の工夫と法悦も格段に進み、それに比例して自分なりに働きが自然についてきたという経験がある。

よい働きができるためには、その場所全体の状況を見て、どこからどういう手順で行えばよいかを瞬時に判断できなければならない。全員が思い思いのところを漫然と除草しているようでは、たいした成果が上がらないのも無理からぬことである。毎回注意しているのではあるが、それがまだ弟子たちに身についていないのは小衲の指導の不徹底である。

「戦々兢々」の配慮が必要なのは、たとえば人のお宅に訪問する時などでも同じことである。約束の時間に遅れることはあってはならないことであるが、さりとてあまり早く着くのも迷惑なことである。どんぴしゃりの時間が理想的であるが、そうはいかない場合もある。時間が遅れたり早まったりする時には、当然のことながら相手方に電話して了承を得るのが常識であるが、中には非常識と思えるほど約束を違える人も稀にいるものである。

少し前のことであるが、以前に施工をお願いした工務店の支店長が工事責任者を伴ってこちらの問題の箇所を見に来るという約束をして、当日の二時間前に、「では午後四時に二人で参ります」という電話があった。冬場のこととて、当方では三十分前には暖房を入れ、十分前には線香を立て、抹茶と菓子を準備して待っていたのであるが、いつまで待っても一向に来る気配がない。結局、その日は何の連絡もないままであった。こんな無礼なことはない。

小衲はそれで彼を見限って、「これ以後は出入り無用」の伝言を携帯電話の留守電に入れておいた。翌日早朝に彼はやってきて玄関に背広のまま土下座して無礼を謝したが、小衲はけんもほろろに応対して決して許すことはなかった。人によれば、このような応対振りはあまりにも非情に見えるであろうが、約束を守らない人物と信頼関係を築けという方が無理である。特に禅寺では時間厳守が厳格で、そうした現場を見聞したことが小衲には一再ならずある。連絡なしに十五分遅刻した或る本山の管長が、先輩格の僧堂の老師から痛烈な一喝を喰らった場面は、いまでも眼に焼きついている。

ただこの支店長の場合、救いなのは、「何というひどい仕打ちだ」などと当方の対応を恨むより、自らの非を悟って、それ以来連日、出勤前の早朝にやってきては郵便ポストに挨拶代わりの名刺を入れ続けたことである。彼にとってこの苦い経験が良薬としてこれからの人生の糧になることを願ってやまない。

それにしても、われわれはいかなる順風満帆・得意絶頂のときでも、戦々兢々たる「跼天蹐地」の念を忘却せぬように心がける必要があるであろう。「天、けだし高しといえども、あえて跼(せぐぐま)らずんばあらず。地、厚しといえども、あえて蹐(ぬきあし)せずんばあらず」である。

「作務の法悦」(月刊コラム【No.85】2010年6月)

春寒の季節も過ぎたというのに、今年は天候不順で先月末には最低気温が十度をわずか超えたくらいの日が続いた。さらに追い打ちをかけるように、雨の日が多く、畑の野菜の成長も芳しくない。農家の方々はさぞかし大変であろう。それでも雨のお蔭で、昨年植えたばかりの前庭のスギゴケが一面に芽を吹いて新緑の鮮やかな色を見せ、泥ざらえをし敷石を入れて改修した池の水が雨水で浄化され、錦鯉が気持ちよさそうに泳いでいる様は、見る人の心を和ませてくれる悦ばしい光景である。

この時期にぜひともやらねばならぬ、庭の十数本ある松のみどり摘(つ)みは雨で中断しながらもようやく終了したが、今度は墓地・前庭・中庭・畑の草引きが立て続けに待ち構えている。まことに中国唐代の名僧・百丈懐海(えかい)禅師が言われたように、「一日作(な)さざれば一日食らわず」の実践がなければ、清浄の伽藍を維持するお寺の生活はやって行けるものではない。しかし、みどり摘みにせよ草引きにせよ、一心不乱に打ち込んでやっていると、朝のお粥の知らせで中断するのが惜しいほどに楽しくなってくるから妙である。

松のみどり摘みや古葉摘みは松の一番高い部分からやっていくのが常識である。でなければ、上から落としたものが下の枝に引っかかるので、下を先にしていると今一度振るい落とすという余計な手間がかかるからである。光雲寺では一本の松を六、七人ほどでやるのであるが、いつも頂上の危険な箇所での仕事は住職である小衲の役目で、弟子たちや他の者には決してさせることはない。それは少しでも気を抜くと命にかかわる危険な作業であるからである。

知り合いの中には「そんな危険なことを住職がするなどもってのほかで、庭師さんに任せればよい」と忠告をしてくれる人もあるが、庭師さんにはまた別に、専門家でなければできない箇所をやって頂いており、我々は自分たちでもでき、手間もかかる松をするのである。実は三年前にこの光雲寺に住職として入山してしばらくは、経費節約のためにほとんどの庭仕事を自分たちでやっていたのであるが、京都市指定の名勝庭園を修復するに際して、京都市や専門家の先生からの推薦を受けたすぐれた庭師さんの仕事ぶりを見てからというもの、やはりその道のプロにやってもらった方がよいと反省したのである。

専門の庭師さんに教わりつつ一緒にするというのが、一番の理想であるが、この光雲寺は「南禅寺禅センター」として多くの人々の坐禅研修を受け容れており、多い月には1700人を超えることがあるので、多忙のためなかなか毎回理想通りには行かないことが少し残念である。

さて、こうして松のみどり摘みを済ましたある朝、仕事に来られた庭師さんに、「みどり摘みをしていると朝ご飯の知らせが残念で、あとせめて一時間でも続行したいという気持ちになります」と苦笑しながら話しかけると、その熟練した庭師さんは、「いや、そういうお気持ちだと危険が少なくなります」と真顔で応(こた)えてくれたので、なるほどと感じるところがあった。

或る造園業者のところに勤めていた若い庭師が光雲寺に先頃まで下宿していた。彼の仕事はほとんど休みももらえないほどの非常に過酷な日々が続くので、みんなで心配していたところ、高い木に登っていた職人で木から亡くなった者がその業者のところで二人出たということである。いくら仕事をあちこちから依頼されるからとは言え、労働基準法からは到底認められないほどの長時間を極端な低賃金で働かせるとは、従業員を取り替え可能な歯車のようにしか考えていない浅はかな会社であるという他はない。

食品業界でもそういう話はよく見聞するところである。不況であるからとはいえ、雇われている人を大切にしない会社は早晩衰退するのは目に見えている。利害得失に拘泥して一喜一憂していては心が乱れて足元がおろそかになる。法悦どころか不満が生じて我見が増長し、他人(ひと)のことを思いやる余裕もなくなり、充実した日々が送れなくなる。

禅寺での生活はそうではない。作務にせよ坐禅にせよ、衣食(えじき)のためにするのではなく、利害得失のみならず一切の雑念を放下(ほうげ)し成り切って楽しみながらするので、えもいえぬ法悦が醸成されてくるのである。

このことで思い起こすのは、妙心寺僧堂から鎌倉の建長寺僧堂に転錫して寸暇を惜しんで工夫三昧だったころの思い出である。あるとき雲衲三人で畑の畝作りをしたことがある。小衲は坐禅のみならず作務の最中もなるだけ公案工夫に心がけていたので、何をしても楽しい思いがした。その折りも畝作りを乗りに乗って一番手早くしたので、それを横で見ていた高単の先輩雲水が、「園さん(建長寺ではこう呼ばれた)、まるで百姓の子みたいだな」と思わずいってくれたが、その言葉を聞いて、嬉しかったこと嬉しかったこと。田舎とは無縁の都会(大阪)育ちで不器用な小衲がそのように見られたことが、忘れることのできぬ嬉しい思い出として心に焼きついているのである。

小衲は西洋の哲学を専攻していたが、「画餅、飢えを充たさず」という如く、単なる理論的詮索に飽きたらず、足実地を踏む実参実究の道である禅の修行をするべく出家した。この道に入ることがなければ、かかる法悦を経験することは非常に難しかったであろう。今の青年たちも禅修行がもたらすこの法悦の醍醐味を味わい尽くして、充実した楽しい人生を送って頂きたいものである。

「利他行」(月刊コラム【No.84】2010年5月)

先月初めのことであるが、佐賀県の唐津市で、魚釣りをしていた四歳の弟が足を滑らせて海中に落ちたのを救おうとして、十歳の兄が海に飛び込んだが、救助できずに自分が溺死してしまったという、何とも切ない出来事があった。弟は別の男性に救助されたが、この十歳の兄は弟を常日ごろかわいがり、弟の方も兄にとてもなついて、あとを絶えず追いかけていたという。

小衲が感心したのは、その兄が学校で、「どんな人間になりたいか」という設問に対して、「人のためにお役に立つ人間になりたい」という希望を述べていたことである。子供の道徳教育に親が比較的熱心だった戦前ならいざ知らず、いまどきの十歳児がこのような気高い見識を持っているとは驚嘆したのである。わが身の同時期を思い起こすと、恥ずかしながら格段の違いがある。それにしてもこのような志をもつ子がなくなってしまったのはまことに残念なことであった。

人のためにするというのは「利他行」と呼ばれる。利他行の人は潤いがあるので、「徳は孤ならず」で、人が集まってくる。これに対して、自分中心の生き方に固執して他人のことを何ら思いやる余裕がなければ、人も離れていくであろう。利他行を実践する人には必ず心に悦びが生まれ、それが自分のためにもなり得るのでないだろうか。

これは或る病院の院長先生からお聞きした話であるが、ガン患者の人がひとのために行動を起こせば、免疫力が増加してガンが縮小したり消滅する場合があるということである。また別の或る先生は、宗教に対する敬虔な心持ちにより難病を好転させることも可能であると説かれた。

江戸時代に創業され今に続く大企業を築いた商家の家訓を見ると、共通しているのはいずれも「顧客本意」の理念を掲げていることである。むやみに暴利をむさぼることなく、誠実な商売をして顧客に喜んで頂き、それが結果的には自分の利益になるという仕方で商売を発展させていったのである。

たとえば、高島屋を創業した飯田家の家訓には、「もって客を欺かず、薄利に甘んじ、客を利し、あわせて我も利し、いわゆる自利利他は古来の家風なり」とうたわれている。まことに商売の極意はここにあるであろう。京セラの稲盛会長は「利他行」をもって自己の経営理念としておられるということを聞いたことがあるが、もっともなことである。

仏法では、道元禅師の有名な「愚かなる我は仏にならずとも、人を渡す、僧の身なれば」という道歌に歌われたような、さらに高邁な「自未得度先度他」の教えがある。世の多くの人たちが日々苦しんでおられるのは、自分本位の生き方から脱却できないがためである。

徳川家康公は孫の竹千代君(のちの三代将軍となる家光公)に対して。「なんじは天下の主(あるじ)ぞ、天下は慈悲ぞ」と肝心かなめの一句を言われたという。世の人々が無縁の人に対しても思いやりや慈悲をもって対してわが身の法悦の醍醐味を味わうとともに、潤いのある世の中が到来すればと願うものである。

「坐禅の功徳」(月刊コラム【No.83】2010年4月)

先月のコラムでは「子弟の教育」に触れたが、毎回新たな参加者が何名かいる月例坐禅会や土曜ごとの夜坐禅、また修学旅行生や一般の人たちがまとまって参加する南禅寺禅センターの坐禅研修も、ここ光雲寺では盛んであり、参加者も増加の一途をたどっている。

最近初めて月例坐禅会に参加した若者がいた。彼は大学院の博士課程で政治学を専攻する学生で、光雲寺に二年半以上寄宿している先輩の人徳に感化されて坐禅を志したという。「先輩が光雲寺に住むようになってから、人格が円満になってみんなの尊敬を集めるようになった経過を目の当たりにして、坐禅の必要を感じました」と彼は心中を披瀝した。

実際、彼の先輩は、大学教授をしておられたお父さんが亡くなってから、光雲寺の檀家になって墓地に建立した墓石の前で、連日ひそかにお経をよんで供養していたのであるが、これは生前の父親に対する彼の気持ちを聞かされていた小衲にとっても、大いなる驚きであった。

学者の中には自分の研究本位で、あまり家庭のことを顧みない人がいるということを聞いている。高名な学者の中にも、奥様がずいぶんご苦労されたという逸話をもつ方もいる。そういう父親に、子息や子女が反発するのは無理からぬことである。小衲のところに相談に来る若い女性の人の中には、教育者である父親との関係がうまくいかずに悩んでいる人がことに多い。

とはいえ、お父さん自身も仕事の上で家族にいえない悩みを抱えながら、黙黙として家族のために日々頑張っておられるという面もあることを分かってあげなくてはならないのではないか。家庭の中での不和は、決してお互いのために幸せなことでも賢明なことでもない。

彼の先輩は多忙な研究生活の中で、夜坐や早朝坐禅を自発的に行っていたが、それだけではなく境内の内外の掃除や作務も厭うことなく参加した。それによって自分でも意識しない間に、いつのまにやら自我が薄紙をはがすようにとれていったということであろう。

自我のとらわれが苦しみのもとである。それから解放されて無我の自分が次第次第に感得されてくるから、心が柔軟になって真心が養われ、ひとの身になって考えられることができるようになるのである。博士論文を刻苦して書き上げ無事に博士号を授与された彼は、亡父の一周忌に際して、古くなってほころびが目立ってきた門幕を、御尊父の菩提を弔うために新調し、それを大学に奉職する自分の初任給をもって充てたい旨、申し出てくれた。亡き御尊父に対する何よりのご供養になるであろう。

この先輩の影響を受けて坐禅会に参加するようになった前述の学生は、外国語の文献を読み、論文執筆に精を出すだけであったこれまでの生活を一変させて、土曜の夜坐禅を含めて、週に四回は坐禅に来訪している。そのお蔭で、彼の顔つきは一見して分かるほど柔和になり、光を放ってきた。おそらくは、本業の学業の方もさぞかし進展してきたことであろうし、何よりも心に法悦が育ってきていることは間違いない。うれしいことである。

さらに、先日、以前坐禅会に参加したり、小衲と一緒に中江藤樹の『論語郷党啓蒙翼伝』を会読したりしてのち、東京の官庁に奉職した男性が久しぶりに訪ねてきた。彼は奥さんが早産で、お子さんが十日ばかりで亡くなられたにもかかわらず、「小さな大切な命を一つ失ってしまいしましたが、悲しいばかりではなく、喜びももらえました。天から何か特別なものを授かった気がします。仏道についてもまた異なる気持ちで考えました。久々に坐禅をして無になれました」と述べ、「こういう心境になれたのも坐禅に出会ったお蔭です」とお礼を言ってくれた。そして非常に辛い経験をしたにもかかわらず、彼の顔つきが以前よりはるかに円満になって耀いていたことに感動したのである。

以上述べたのは、小衲が身近で経験した「坐禅の功徳」の一端である。南禅寺禅センターの坐禅研修で修学旅行生が先生がたに引率されて来るのも、何か学業だけでは足りないものを感じておられるからであろう。明治時代以降、わが国では「行的実践」という側面が次第に軽視されてきたが、いま一度その必要性を反省して、ひとりでも多くの人が坐禅を実践して、心からの法悦を得られんことをお祈りするものである。

「子弟の教育」(月刊コラム【No.82】2010年3月)

光雲寺の弟子の一人がいま臨済宗の専門道場(僧堂)で修行中である。ようやく三年が過ぎて四年目に入ったところであるが、安居(あんご、修行期間)が変わる半年ごとに暫暇(ざんか、休暇)を頂いて、光雲寺に帰山させている。つい先月も二週間暫暇したのち、また僧堂に戻っていった。

修行中の雲衲を弟子としておられる尊宿の中には、「うちの弟子は三年間無暫暇でやり通させる」と堅固な決心を抱いている方もおられると聞く。だが小衲は、自分自身の経験から、弟子たちにはこれまで僧堂にお願いして暫暇をさせてきた。

専門道場は規矩厳然としているのが確かに長所ではあるが、道心のある者は、時として規矩に束縛されることなく思う存分坐り込んでみたいという思いの起こることもあろう。独摂心(ひとりで坐禅三昧の工夫をすること)もこの時にこそ可能である。

また、僧堂での在錫年数が高くなると、老師や高単の役位からでなくてはなかなか注意を受けることがないので、どうしても自分が何か偉くなったように勘違いして増上慢になりがちであるから、厳格な本師の点検を受けて自らの到らぬところを指摘してもらわねばならぬ。また弟子の方でも師匠の親切心を感じ取って、我見を捨てていわれるがままに従っていく素直さが肝要である。

僧堂では書見はできないから、暫暇した時には越格底(おっかくてい、ずば抜けた境涯)の古人の行履(あんり、行状)を学んで道情を養うことを忘れてはならない。かの臨済宗中興の祖といわれる白隠禅師でさえ、修行の合間に祖録を拝読することにより幾たびも大歓喜を得られたと伝えられる。「禅堂裡に坐禅弁道し、明窓下に古教照心する」というのが車の両輪の如く必要であるのは、白隠禅師の一番の法嗣である東嶺禅師も述べておられる通りである。

禅的生活の醍醐味を味わうためには、なんと言っても願心をもって日々修行に励むことである。全身全霊を打ち込んで四六時中公案工夫に没頭していると、えもいえぬ法悦(すべてを空じ尽くした無所得の法悦)が自然(じねん)に感得されてくるから妙である。法悦が育ってくれば、僧堂生活はますます充実してくるから面白い。

住職資格を取るだけのために不本意ながら僧堂修行をする者は、できるだけ修行を短期間で終えようとする。それではせっかくこの上もなき道に入った甲斐がないというものである。父親が師であるのは息子にとってよくないと思われ、他の有徳の尊宿にわが子を預かり弟子として托される和尚様もおられるのは貴いことである。

いずれの尊宿方もご自分の子弟の教育に日夜腐心しておられることであろう。小衲は暫暇してきた弟子に向かい、「ここは僧堂とは違い、自由時間が多い。こういう時にこそ道心ある者とそうでない者との差がはっきりする。ぬかりなく坐禅弁道し、古教照心に励むように」と訓戒した。

日常の一挙一動に関しては至らぬところがまだまだ目につくので、その都度再々にわたり注意した。僧堂の老師にはなるだけ長く下積みをさせて頂き、できるだけ長く僧堂に置いて頂くようにとお願いしてある。雲水の在錫年数が短いのを嘆かれる僧堂師家方は多いのである。

とはいえ、半年ぶりに彼を見た坐禅会の旧参の人の中には、「風格が出てきた」と彼のことを認める者もいた。毎回暫暇のたびごとに二、三日の休暇を取らせて実家に帰らせるのであるが、そうすることで実家や親戚に法の潤いが生じて、一族の希望の星となっていくのが如実に見てとれる。これが上求菩提即下化衆生(自らの向上の道がそのまま他を教化することになる)ということではないか。済度しようと思わないのに、期せずして済度になっているのが好い。

この弟子に対して僧堂に掛搭する前に読み聞かせた『雛僧要訓』の序には、「能(よ)くこれによって行いて怠らざる則(とき)んば、後日必ず明眼の宗師も崖を望んで退く底(てい)の妙高峰と成らん」とあった。この要訓をぬかりなく守り行っておれば、他事異日、悟りを開いた名僧ですら、その威風を見ただけで後ずさりするような高峰の如き妙(たえ)なる禅僧になることができるというのである。

このことがいかに困難であるかは身をもって知ってはいるが、師匠としては弟子の大成を祈らずにはおられないのである。「少なくとも師匠勝(まさ)りの弟子になれよ」というのが、小衲の口ぐせではある。「見、師と等しきときは師の半徳を減ず、見、師に過ぎて初めて伝授するに堪えたり」であり、「投げられて親方喜ぶ、相撲取り」である。

「大安楽」( 月刊コラム【No.81】2010年2月 )

龍牙居遁(りゅうげきょとん)禅師という、中国唐代の名僧がいる。曹洞宗の開祖である洞山良价の法を嗣いだ禅僧であり、臨済禅師との問答も残っていることは、少し禅に触れた人ならばご存じであろう。

江戸時代の禅籍である『鉄笛倒吹』(てってきとうすい)の第二十八則に「龍牙古休」の話がある。「龍牙遁禅師、因みに僧問う、古人、箇の甚麽(なに)を得て便ち休し去る。牙曰く、賊の空室に入るが如し」(龍牙遁禅師にある僧が質問した、「古人は一体なんの道理をを得て大安楽の境地に至ったのでしょうか」。龍牙が答えた、「ちょうど盗賊が空室に入ったようなものだ」。)

この僧の問いに対する風外禅師の、「汝、什麽(なに)を得てか、恁麽(いんも)に休せざる」(かくいうお前は、一体なにを得てそんなに心安らかならずに質問するのか)という下語(あぎょ、禅的ヤジ)が面白い。これが下語の妙味である。龍牙の「賊の空室に入るが如し」に対しては、風外は「ただおそらくこの僧はこの空室という宝を捨て去ることができないであろう」と下語している。

盗賊が空室に入ることが、どうして大安楽につながるのか。また空室がどうして宝物といえるのか。しかもこの宝を捨て去らねばならぬとは、一体どういうことか。

盗賊は部屋の中にはさぞかし素晴らしい宝物があるに相違ないと思って進入するのだが、しかし期待に反して何もない空き家であった。修行に骨を折って悟れば必ずや目を見はるような境地に至るに相違ないと思いこんでいた者(盗人根性のある修行者)が、現に悟ってみれば、これといって所得はなく、本来無一物であることを知り、求め回る心がやんだのがちょうど同じようなことであると龍牙はいうのである。

この則に対する奥龍禅師の偈頌は格調高いものである。「幾たびか剣刃上に之(ゆ)き、また曾て薄氷を履んで猜(うたが)う。入得すれば是れ空室、偸心(ちゅうしん)死して灰となる。帰り来たって晨夕(しんせき)分に随って送れば、恰(あたか)も平地に徘徊を打するに似たり。清風明月、何の極まりか有らん。自家の宝蔵、ここに到って開く」(何度も剣の刃の上を歩くような苦難を重ね、また目指す境地をいろいろと推量して、薄氷を履む思いで疑った時節もあった。だが、悟入してみれば、空き部屋に入ったようなもので、所得とすべき一物もない。かくして、何とかして悟ってやろうなどという妄想分別は灰の如くに消え失せてしまった。そうした境地になれば、ただ腹がへれば飯を食らい、疲れたら眠るという、何らの造作も計らいもない淡々とした毎日である。悟ったならば思う存分に衆生済度をしようと思っていたが、悟ってみれば迷える衆生というのも見あたらない。自分自身も本来無一物(空)という宝物であることが分かった。)

臨済禅の修行では一則の公案に取り組んで、文字通り目の色を変えて工夫三昧になることが求められる。といっても、師家がいくら力説しても、やるか否かは本人にかかっている。自分の境地を顧みることなく、また悟りすらも求めることなく、四六時中ひたすら馬鹿になって真一文字に工夫を続けていると、知らず知らずの間に分別がこそげ落ち、八面玲瓏となってえもいえぬ法悦の境地が現前してくるから面白い。たとえ短時間でも真剣に工夫すれば、ただちに佳境に入ることが可能である。

禅の修行を格別にする人でなくても、あれこれ悔やんだり先のことを取り越し苦労したりせずに、眼前のことに心を込めて対処していれば、そのうちに道が開けるものである。たとえ不遇であっても、不満の念を起こさず、足るを知って日々を楽しんで過ごす人に、憂いの起こりようはない。

安楽の道がこの方向にあるということをお話すると、たちまち見違えるように顔を輝かせる人がほとんどである。どうかご自分の中にこそ真の宝物があるということを信じて、自信をもって生活して頂きたいものである。

「新年の抱負」( 月刊コラム【No.80】2010年1月 )

新年明けましておめでとうございます。今年が皆様方にとってよい年でありますようにご祈念申し上げます。

回顧すれば、この光雲寺では昨年も色んな出来事があった。11月22日から一週間行なった「東福門院と光雲寺」展には一千人に上る方々のご来訪をかたじけなくしたことは、まことに有り難いことであった。心から御礼(おんれい)を申し上げたい。

年末には、2004年10月の円山川の氾濫による大水害で商売が壊滅的大打撃を受けられ、ついには廃業に追い込まれた丹後の豊岡市在住のご婦人(この方は弟子の一人の親戚にあたる方である)が、「お台所で皆さん方に使って頂ければ」というお手紙とともに、丹精込めて編まれた布草履を何足も送って下された。素足でその布草履をはくと、何ともいえないやさしい温かい感触が足の裏に伝わってくる。ご自身の逼迫(ひっぱく)した境遇にもかかわらず、お寺で修行している人たちに使って頂こうと思われて一心に編まれたその気高いお心持ちを思い、感激一入(ひとしお)であった。

また月例坐禅会や毎土曜の夜坐禅を通じて、多くの仏縁ができたことも本当に嬉しいことである。その大勢の方の中で、東京から月例坐禅会に参加された或る一流大学の理系教授がおられる。この方は一度参加されて大いに感激され、ふた月に一度の割合で来られる決心をされたということであるが、東京に戻られてからも実に真剣に工夫され、何度か法悦あふれるメールを頂戴した。「道心のある人は、わずかな策励によっても大いに修行が進むこと、この通りである。旧参の諸大徳も後れを取ってはなりませんぞ」と提唱で力説することしきりである。

普段でも小衲のところには、色んなことで面会に見えられる方々がいる。海外からの来客も多い。まさに嬉しい悲鳴である。たとい超多忙な日でも、面会を希望される方にはできるだけ時間を取ってお目にかかるようにしている。

特にこのところ真夜中に起きて、難解極まる南院国師(南禅寺創建開山)語録に取り組んでいるので、睡眠時間がだいぶ少なくなって、日中には疲れが出ることが多い。しかし、疲労困憊していても、来客とお会いしているうちに実に気分爽快になってくるから、まことに妙である。その法悦たるや、あたかも坐禅して三昧境に入って感得されてくる、えもいえぬ法悦に似ている。それは小衲がそうした機縁を厭うことなく、むしろ歓迎しているからでもあろうか。来客に対しては歓待(hospitality)ということをモットーとしているが、そのきっかけは撮影と取材に来られた米人監督一行が別れ際に、”Thank you for your hospitality”.と挨拶された思い出があるからである。

真宗の大安心を得られた妙好人の因幡(いなば)の源左さんのいうように、くたびれたらお茶にしたり一服したりすればよい。何も悩む必要がないから、まことに気が楽である。後悔の念や取り越し苦労があって相談に来られた人々に、「そういう思いを引きずっていては、今がおろそかになりますよ。眼前のことに心を込めて対処され、時々刻々を楽しみながら過ごされますように」とお話ししているうちに、例外なく、いつのまにやら前向きに変わられて、満面の笑顔になって帰られるのが、小衲のひそかな楽しみである。

今年一年も皆様方が日々を楽しんで充実しながら過ごされることを切にご祈念申し上げるとともに、この光雲寺もまたよき法縁に恵まれることを期待してやまない。

「展示会回顧」( 月刊コラム【No.79】2009年12月 )

10月のコラムでお伝えしたように、この光雲寺では去る11月22日(日)より28日(土)まで、「東福門院と光雲寺」展と題して光雲寺紅葉展示会を開催した。幸い、紅葉の時節でもあり、予想以上の方々にご来訪頂き、光雲寺の総力を結集して行った甲斐があったというのが、正直な感懐である。お越し頂いた皆様方には衷心よりお礼を申し上げたい。

もともと今回の展示会は、耐震改修や新築などで色々とお力添えを戴いた方々に対して、多少なりともご恩返しをしたいという気持ちで当初企画したものであるが、日頃は「南禅寺禅センター」として数多くの坐禅研修者を受け容れている都合上、拝観希望者があってもお断りすることが普通なので、一般の方々も来訪されやすい紅葉の時節を選んだのである。

結果的にこの展示会は、開山・大明国師と中興・英中禅師、また特に、光雲寺をご自分の菩提寺として再興された東福門院様(徳川秀忠公のご息女で、後水尾天皇の皇后)を顕彰することになったのではないかと思う。木造東福門院像・伝運慶作の東福門院念持仏の聖観音像・伝聖徳太子作で足利尊氏の守り本尊と伝えられる弘誓(ぐぜい)観音像などは、いずれもこのたび新たに修復された姿でお参りして頂けることになり、解説担当者の詳細な説明により、「一層よく分かる」と好評であった。

また京都市指定の名勝庭園も、展示会に間に合うようにとほとんど休日もなしに池の護岸工事を敢行して頂いた造園業者の人たちや、剪定や境内整備をやって頂いた庭師の方にもひとかたならぬお世話になった。多くの来訪者が見事に色づいた紅葉を愛でられながら、庭や池の周囲を散策されているのをみて、展示会にご招待した庭師の人たちに、「皆さんとてもきれいだといって喜んでおられますよ」と報告すると、「嬉しいです」という正直な答えが返ってきた。

実は名勝庭園の整備はまだ中途段階なのであるが、今回の展示会の様子を見て、植栽や苔植えなどの追加工事もできるだけ速やかに行いたいという念願を強固にした次第である。そうして光雲寺を訪ねる方々が一歩足を中に踏み入れるだけで心が清浄になる、そういうお寺になるのが理想である。

ともあれ、今回の展示会の盛況はひとえに、開山・中興禅師と開基の東福門院様のご遺徳と、縁の下の力持ちになって頂いた方々のご尽力の賜物(たまもの)にほかならない。これにより、ますます仏縁が増加し、ひいては仏法が興隆すればと念ずるばかりである。  合掌。


「秋より高き」( 月刊コラム【No.78】2009年11月 )

ある方からのご招待で、四国の宇和島にある伊達美術館の「戦国武将伝ー信長・秀吉・家康・政宗ゆかりの品々ー」展(9月1日より10月4日)を拝見することができた。特に大徳寺総見院所蔵の信長像(重文)や南禅寺金地院所蔵の武家諸法度草稿(重文・本光国師筆)が圧巻であった。

聞けば、仙台の伊達家などは政宗公以来の名宝の数々を明治時代に売り払ってしまったが、宇和島の伊達家は今に至るまで先祖伝来の家宝を大切に護持して、その管理を伊達美術館に寄託しているということである。宇和島の伊達家十万石といえば、「幕末の四賢侯」といわれた伊達宗城(むねなり)公が有名である。

この際にぜひということで、松山の道後温泉にも招待されたが、さすがに日本屈指の伝統を誇る道後温泉の泉質は抜群であった。ご存じのお方も多いと思うが、この11月末から司馬遼太郎氏原作の「坂の上の雲」のテレビ放映が始まるということで、松山はなかなか盛り上がっていた。

いうまでもなく、この著作は、愛読書の筆頭にあげる人が最も多いといわれる司馬氏の代表作である。日露戦争の功労者であった秋山好古(よしふる)・真之(さねゆき)兄弟や正岡子規などの松山出身者を中心として、明治の近代日本の勃興期を生き抜いた青春群像が前半の主題であり、後半は日露戦争の詳細な描写が続く。「乃木大将愚将論」など問題となりうる部分もあるが、明治を生き抜いた人々の気概と当時の時代状況を知る上で格好の読み物であり、テレビ放映が待望されているのは当然のことであろう。

この松山行きで、「晩年の秋山好古と周辺のひとびと」という副題の『秋より高き』(片上雅仁著、アトラス出版)という好著を一読する機会を得た。弟の真之は日露戦争の際に連合艦隊司令部参謀として東郷平八郎司令長官から「智謀湧くが如し」と称賛されたほどで、日本海海戦の頭脳となった人であるが、大正7年に現役の海軍中将のまま49歳で逝去している。兄の好古は日本最初の騎兵部隊を設立し、日露戦争でその当時最強をうたわれたロシアのコサック騎兵団を独の奇想天外な戦法により撃破した。

秋山騎兵団の参謀を務めた森岡大将という人は、また好古をこう評している。
「秋山将軍の性格は、乃木大将の性格によく似た所があり、非常にまた乃木大将を崇拝していられたと共に、乃木大将もまた将軍を信ずることが頗(すこぶ)る厚かった。そうした両将軍の関係は、日露戦争の末期、敵を奉天から北に追撃してから後の対陣中、乃木将軍が騎兵集団司令部に将軍を訪ねられた時、お二人の交情まことに濃かなものがあったことなどから見ても、それを推測するに難くないのである」。英雄、英雄を知るというべきか。

好古は日露戦争直後、自らの国家観・人生観を次のように述べている。「国家の衰退は常に上流階級の腐敗より起こらないものはない。一家一族は国家の実利を挙げたならば、名利を放棄して、速やかに閑居する必要がある。これが私の多年の宿論だ。それゆえ、その素志を果たそうとしたことは一再にとどまらない。しかし、いまは事変のため、戦場に赴くことになるだろう」「勝ち戦に驕(おご)り功名を追えば、敗れる」。さすがはと思わせる見識の高さである。

前掲の書は、功なり名をとげて退役してのち、陸軍大将としての肩書きを持ちながら、好古がこの自らの信念に違(たが)わず、郷里松山の中学校校長として赴任してから昭和5年に71歳で亡くなる半年前まで6年2ヶ月にわたり、無遅刻無欠勤で校長としての勤めを果たした、その交友録である。名利をなげうったこの驚嘆すべき椿事(ちんじ)に関して、全国紙が「秋山大将、錦を捨てて郷里の中学校校長に」などと書き立てたという。

この好著の読後感を一言でいうならば、秋山好古を取り巻くひとびとには高邁な見識と実行力を兼備した人格者が多い、ということである。それらのひとびとにはある共通点がある。それはいずれも漢学の素養が深いということである。漢学とは中国の伝統的学問であるが、それは聖人賢者の経書(けいしょ)の素読を基本とする。儒教というのは単に聖賢の教えを学ぶだけではなく、それを実践躬行することを主眼とする。

コラムの表題は、秋山兄弟と親交のあった正岡子規の「松山や、秋より高き天守閣」という俳句からとった、その著作の表題を拝借したものである。松山の人たちのみならず、幕末から明治初頭に生を受け、明治・大正・昭和初期を生き抜いたわが日本の先人たちは、「秋より高き」高邁な人格を東洋的薫陶によって身につけられたのであろう。この誇るべき伝統がほとんど地を払ってしまったことは、まことに残念でならない。


「『東福門院と光雲寺』展」( 月刊コラム【No.77】2009年10月 )

この光雲寺では2年前に「東福門院と光雲寺」展を開催したことがある。好評ではあったが、何分にも南禅寺禅センターとして修学旅行生はじめ多くの坐禅希望者を受け容れていたので、三日間しか期間がとれず、苦情を頂戴した次第であった。

今回は多くの皆様方のお力添えにより修復がなった、木造東福門院像・伝運慶作の東福門院念持仏の聖観音像に加えて、光明皇后が印度僧から譲り受けられた仏舎利を祀る舎利塔(菊と葵の御紋入り)・伝聖徳太子作で足利尊氏所有と伝えられる弘誓(ぐぜい)観音像・金光明最勝王経の版木・中興英中禅師自筆の「光雲門下訓誡十條」など、初公開のものも多数含まれる。

期間は平成21年11月22日(日)より28日(土)までで、時間は午前9時から午後5時まで(ただし最終日は午後4時まで)である。日頃は一般公開をせずに拝観希望をお断りすることがほとんどなので、このたびはなるだけ多くの人たちにもお越し頂けるようにと、ちょうど紅葉の時節に合わせて特別展示会を開催することにしたのである。どうぞお誘い合わせの上、この機会にぜひ光雲寺の寺宝をご覧頂ければと願う次第である(志納料500円。ただし、お力添え頂いた方々にはご招待状をお送りする予定です)。

また、80歳になられる出雲焼の名工・長岡空権(くうごん)師が、庫裏の耐震補強計画中のわが光雲寺のために、伊羅保茶碗を百碗ばかり作成して下さる予定である。試作品のいくつかを拝見するに、誠に見事な出来映えである。興味のある方は展示会の折りにご覧頂き、ご注文頂ければ幸いである(志納金、一碗につき8万円)。

前庭はすでに整備が終わり、京都市文化財保護課の指導により、植治作の中庭がいま池の護岸工事の最中であるが、これも11月22日の展示会初日の当日までは、何とか水を張って形を整えることができそうである。

とはいえ、いくら伽藍が整備されようが、それだけでは「仏造って魂入れず」になりかねない。この場合、伽藍が造形物としての「仏」(仏像)であるとすれば、人材の育成こそが寺院の「魂」ということになるであろう。禅寺における「人材の育成」とは、在家出家を問わず、真に道心のある人物を育てることである。道心とは菩提心のことであり、自分ひとりの安心立命をこととせずに、ひたすら仏道に精進をする人である。仏道との出会いによって、いかに充実した人生が送れるかということは、小衲のような者でも自信をもって断言できる。

光雲寺中興の英中玄賢禅師が寛文6年(1666)に制定された自筆の「光雲門下訓誡十條」には、仏弟子としての心構えが一条一条ごとに説示され、それに背く者は光雲寺から「出院すべし」と、まことに厳格に規定されている。寛文4年の光雲寺中興当時には、50人の英霊漢達が5300坪の境内の中で切磋琢磨していたと伝えられているが、その大人数ではおそらく本筋を逸脱するようなふらちな輩もいたことであろうことは想像に難くない。

たとえば、「訓誡」の第3条では、「仏弟子としてはつとめて師命に従うべきである。仏陀の戒律には父母と師匠である僧に孝順でなければならぬとある。孝順こそは至極の大道の法である。・・・師匠の恩はもっとも大なるものであるから、いちいちの教示訓誡に四六時中背くことはあってはならぬ。ましてや師匠の訓誡と衝突するなどもってのほかである。そのような者は仏弟子ではない。光雲寺を下山すべきである」と厳しく規定してある。

「光雲門下訓誡十條」の全文はいずれまたお目にかける予定であるが、それにしても、光雲寺山内修行者の基本的心構えが説かれた、光雲寺にとって一番大切なはずのこの中興禅師自筆の文書が、無造作に丸められて長持ちのなかに放置され、虫食いだらけになっていたことは(このたびはもちろん修復して、巻物として展示するが)、近年の光雲寺の法燈がいかに下火になっていたかを物語っているのではないか。この「光雲門下訓誡十條」の五条までが彫られた扁額も、廃屋同然の納屋の屋根裏から発見されたが、それも目下修復中である。

庫裏の耐震改修完了まではまだまだ遠い道のりであるが、伽藍が整備されてからは、いよいよ光雲寺の法燈の再興の仕事をしなければならない。皆様方の越格(おっかく)なるご支援・ご法愛をお願いする次第である。

願わくは、われらと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを。


(なお、10月の月例坐禅会は、本山行事のために、4日の第1日曜日と25日の第4日曜日になります。11月は上記展示会開催のために、8日の第2日曜日と29日の第5日曜日になります。土曜日の夜坐禅は変更はありません。)

「禅修行の法悦」( 月刊コラム【No.76】2009年9月 )

中国宋代の黄龍祖心禅師(1025-1100)は晦堂(まいどう)祖心ともいい、建仁寺開山栄西禅師がその法脈に連なる名僧であり、その嗣法の弟子には死心悟新禅師や霊源惟清禅師などの卓越した禅僧がいる。有名な黄庭堅(山谷)も在俗の身で祖心禅師の法を嗣いでいる。

十歳にして出家得度され、長じてのちに雲峰文悦禅師に参じること三年、何らの所得もなく辞去せんとしたところ、文悦禅師は「必ず黄檗山に住する慧南禅師の道場に行ってご指導を受けよ」とさとした。そこに弟子の大成を願う、法に対する古人の大悲心が感じられる。

祖心禅師は黄檗に至って慧南禅師のもとで刻苦すること四年、しかもなお開悟することはできなかった。この道場は自分には機縁がないと思われたのか、また辞して文悦禅師のところへ戻られた。文悦禅師が遷化されたのち、石霜山にとどまって修行に専心した。

或るとき、中国の禅宗史である『景徳伝燈録』を読んでいて、「僧が多福(無字の公案で有名な趙州の法嗣)に、『多福の竹林とはどのようなものか』と問うと、多福は『一本、二本は斜めの茎だ』と答えた。僧が『分かりません』というと、多福は『三本、四本は曲がっている』と応じた」という箇所に出くわした。竹に託して多福の家風をたずねた僧に対して、実際の竹の光景をもって答えたのに妙味がある。この一段に至って祖心禅師は開悟して、自分がいままでついた二人の老師の作略(さりゃく、修行者を導く手法)の何たるかを徹見した。

ただちに黄檗に戻り、慧南禅師に対して礼拝の坐具をのべようとしたところ、慧南禅師がすぐさま見抜いて、「お前はすでにわしの宗旨を会得したわい(わが室に入れり)」というと、祖心禅師は跳(と)んで踊らんばかりに歓喜して、「仏法の一大事は本来このようなものなのに、どうして老師は公案などを使ってあれこれと探索させられたのですか」と問いただすと、慧南禅師は、「もしわしがお前をそのように究め尋ねることをさせて無心の境地に到らしめ、みずから見て、みずから納得するような体験をさせなかったならば、わしはお前を台無しにしたことであろう」といった(『五燈会元』巻第十七、黄龍祖心禅師章)。

祖心禅師の見性開悟の機縁をながながと述べたのは他でもない。ここに公案修行の意義が如実に言い表されているからである。黄龍祖心禅師のような名僧でも、真の開悟までは並大抵のご苦労ではなかった。今日の修行者たちも中途で挫折することなく道心を保持して骨折りを続けていけば、必ずや光明盛大なること明白である。工夫三昧の法悦を味わうことなく過ごせば、道場に長くいる甲斐があるまい。

これまでこのコラムで何度も触れたことのある七十七歳の米人哲学者から数ヶ月ほど前に、「私は父母未生以前の本来の面目ということがどうもまだ合点が行きません。どうかこの問題を解決するための公案を与えて下さい」というメールが来た。彼自身はこの問題を解決するためにふさわしいと思われる公案の名を挙げてきたが、小衲はそれよりも『碧巌録』第一則の「達磨廓然無聖(かくねんむしょう)」の公案を見るように勧め、「くれぐれも頭で考えられることなく、ただ廓然無聖の公案三昧になって四六時中過ごされんことをご祈念致します」とアドヴァイスした。

二週間ほどして送られてきた法悦あふれるメールからは、彼がじつに真正直にこの公案に分別なしに取り組み、大歓喜を得たことがうかがえた。「達磨も悦峰(The Peak of Joy、小衲が付与したこの老哲学者の居士号)であることがよく分かりました」とは、彼の悦びの叫びに他ならない。それにしても長年ギリシャから近代に至る哲学の研究に専念してきたこの老哲学者が、膝が悪いがために椅子坐禅しかできないにもかかわらず、かくも分別を放下(ほうげ)して素直に工夫し、遂には大歓喜に達し得たのは感心する他はない。坐禅会の提唱でこの米人老居士に言及して諸氏を策励すること再三である。

小衲が雲水修行に出る前に師匠から頂戴した一枚の墨跡の絵葉書がある。中国南宋時代の名僧、虚堂智愚禅師(1185-1269)の「秋風の偈」を大徳寺開山・大燈国師が書かれたものである。「秋風浙々(せきせき)、秋水冷々、千辛萬苦、笈(きゅう)を負い簦(とう)を担う」というのは、夏安居(げあんご)の修行期間が終わり、これから行脚雲水修行の旅に出る弟子たちに向かい、虚堂智愚禅師が、「夏安居の解制になり、秋風がざわめき、流水も冷たさを感じる昨今であるが、これから諸大徳は笈(おい、書物などを入れて背に負うもの)や簦(かさ)を担って測り知れぬ苦労の旅にでるが、どうかその辛苦に負けて挫折するすることなく、工夫三昧で大器を成就してもらいたい」と餞別の偈頌を唱えられたものである。愛弟子たちに対する名僧の切なる親切心が感じられる。

この葉書を頂いた師匠は小衲にとっては実際にその座右に近侍して仕えた方でなく、他からの指示によりやむを得ずそうなったいわば名義上の師匠であり、またご自身も長い雲水修行をした方ではなかったが、この葉書を下さった時の光景が今でも忘れられない。ときおり思い出しては懐かしさと感謝の念がこみ上げてくる。餞別として頂戴したのはこの葉書一枚であったが、小衲にとっては何よりの餞別であった。

いずれの師匠も弟子の大成を願わぬ人とてない。在家出家を問わず、禅の修行を志す方々は、思う存分工夫に打ち込んで、痛快な法悦を得て報恩の実を尽くして頂きたいものである。


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