「無字の公案」(月刊コラム【No.104】2012年2月)

およそ臨済禅に参ずるものにとって、無門慧開禅師の『無門関』の第一則「趙州無字の公案」(或いは「趙州狗子」や「狗子無仏性」ともいう)はもっとも基礎的な公案である。「趙州和尚、因みに僧問う、狗子に還って仏性有りや也た無や。州云く、無」。

釈尊が大悟の際に「奇なるかな、奇なるかな、一切衆生、尽く如来の智慧徳相を具有す」といい、『涅槃経』の師子吼菩薩品に「悉く仏性有り、如来は常住にして変易有ること無し」とあることからすれば、眼前の犬に仏性がありますかと問われて、「無」と応じた趙州のいう「無」は無門慧開のいうように「有無の無ではない」のは明らかである。

ただ「公案」というものは、それについてとやかく論じたり分別したりすべきものではなく、わが身を擲ってこれに参じて実参実究して分別を蕩尽すべきものである。「無字の公案」は五祖法演や法孫の大慧宗杲あたりから盛んに用いられ、無門慧開が『無門関』の第一則に掲げるに及んで、参禅して師家から授けられる最初の関門(初関)として定着したのであるが、それにとどまらず、「宗門の一関」としてすべての公案の根本である。

五祖法演が霊源惟清に宛てた書簡には、「諸荘の旱損(かんそん)、我総に憂えず、ただ禅家に眼(まなこ)無きことを憂う。今夏百余人室中に箇の狗子無仏性の話を挙するに、一人の解得する無し。此を憂いと為すべし」(『禅門宝訓』)とあるが、いにしえの雲衲もこの「無字の公案」を透過するのに苦心惨憺したと見える。

もとより公案禅の弊害については、中峰明本の師である高峰原妙がすでに、その当時の禅僧たちが、往々に上求菩提・下化衆生という「出家の本志」を忘却して真実の悟りを求めず、古則公案を頭で穿鑿した「調べ」を師から弟子へと伝授し密かに珍蔵して、それこそが「極則」であるかのように主張しているが、肝心の大死一番・絶後再蘇を経て自性を徹見していないので、人我や三毒が益々猛威を振るうと、嘆いている(『高峰大師語録』補遺)通りである。しかし他方、この「無字の公案」の恩力によって見性の眼を開いた禅僧が数多くいることもまた否定できない事実である。

無門慧開は月林師観の会下で無字に参ずること六年、なかなか透過できず、睡魔が襲えば露柱に頭をぶつけて覚醒して無字三昧の工夫に決死の覚悟で取り組んだ。そして斎座(昼食)を知らせる太鼓の音声を聞いて忽ち自己の面目を徹見した。翌日、月林の室内に参じた無門は先師の二度の大喝に対して自らも大喝で応じ、「これより機鋒譲らず」とその語録の「告香普説」で述べている。「青天白日、一声の雷、大地の群生、眼豁開す。万象森羅、斉しく稽首す、須弥勃跳し三台を舞う」というその投機の偈は、痛快に見性した無門慧開の境涯を表してあまりある。

また南禅寺の創建開山である南院国師の嗣法の師である無学祖元も、その「告香普説」において「老僧十四にして径山(きんざん、万寿寺)に上り、十七歳にして発心して狗子無仏性の話に参ず。自ら一年を期して了当せんことを要す。竟(つい)に所解無し。又た做(な)すこと一年、亦た所解無し。更に做すこと三年、亦た所入無し。第五、六年に到って所入無しと雖然も、這(こ)の一箇の無字看熟し了って、夢裏にも也た看、遍天遍地ただ是一箇の無の字」という境地に到った。そして工夫純熟した挙げ句、身心が相離れて元に戻らず、同参のものが「彼は死んでしまった」というほど大死底の禅定に入った。そして首座寮前の板声を聞いて「本来の面目」を徹見し、歓喜に堪えず月下を走り出でて含暉亭に上って空を仰いで大笑していった、「大なる哉、法身、元来かくの如く広大なり」と。このとき無学祖元が先師無準師範に呈した投機の偈、「一槌に打破す、精霊窟、突出す、那吒の鉄面皮。両耳聾の如く、口唖の如し、等閒に触著すれば火星飛ぶ」もよく知られたものである。

無字の工夫の要点は、無門慧開が自らが刻苦して開悟した体験から、趙州無字の則で実に熱をこめて説いている通りである。およそ禅に参ずる者でこの無字の評唱を拝読しない者はあるまい。あとはそれをその通りに実践するかどうかにかかっている。真箇の三昧境に入得することができないのは「工夫、死地に入る」という真剣味がないからである。

公案工夫というものは、高峰原妙が「たとえ人がやってきて工夫中のお前の頭や手足を切り取り、お前の心臓や肝臓などの内臓を抉り、そのために命を失うようなことになろうが、断じて捨て去ってはならぬ。そのように工夫して初めていささか真実の工夫と呼ぶに値するといえる」(仮使、人有りて、你が頭を取り、你が手足を除き、你が心肝を剜り、乃至は命終るとも、誠に捨つべからず。遮裏に到りて方に少分の工夫を做すの気味有り)というほど凄まじいものである。

禅は実参実究である。そこで、最後に小衲の拙い工夫体験の一端をご紹介することにする。

建長寺で湊素堂老師に初めて参禅した日のことである。参禅を済ませて出口で拜をすると、老師は実に穏やかで謙虚な声でこう言われた、「私もあなたと同じ道を歩んでこの禅門に入った者です。もう一度生まれてきても、もう一度雲水修行をやりたいと思っております」と。そのお言葉を聞いた途端、野球のバットで殴られたような衝撃を受けた。背水の陣で臨んだ転錫の身の小衲は、間断なく公案工夫をしようと試みた。京叢林とは異なり、この僧堂の作務は半端ではなかったが、作務の最中でも必死になって無字三昧に取り組んだ。二人引きの大鋸(おおのこ)で大木を伐りながら、リズムに合わせて「無ー、無ー、無ー」と拈提して行くと、ゆくりなくも坐禅中よりも深い三昧境に入ることができた。茶礼の準備に赴いたところ、ちょうど出て来られた素堂老師にお目にかかった。その時老師はこちらを見て何か「ハッ」と感じられた気配がした。茶礼の際に三十人集まった雲水の中で突然名前を呼ばれ、小衲に目がけて茶礼のミカンを投げて寄越された。

小衲は卓越した古人のように何とかして真の無字三昧に入ろうとして、「臥薪嘗胆」の呉王夫差よろしく、草履や網代笠にも「無」と書き、一刻も「無」を忘れまいとした。建長寺僧堂では開枕後は裏山の墓地で十二時まで夜坐をしなければならなかったが、この強制的夜坐の時間はあまりよい坐禅はできなかったように思う。十二時になってからが、いよいよ自分の自由坐禅の時間である。小衲は由緒ある開山堂(昭堂)の建物の中の常夜燈を目の前にして、今度は誰にも気兼ねすることなく声を出して「無ー、無ー、無ー」と拈提して無字に死に切ろうとした。ふと気がつくと、一年上の先輩雲水が横に坐って一緒になって「無ー、無ー」とやっている。朝の開定は午前三時半であったから、三時には禅堂に戻り、そのまま単布団の上で坐禅するという日々が続いた。新到として臨んだ臘八大摂心では一週間殆ど眠ることなく、総警策以外の警策を一発も受けることがなかったが、前の道場では考えられない事態であった。今にして思えばよく身体がもったものであるが、当時はあまり疲れを感じることなく法悦の日々を送れたのは、公案三昧に打ち込んだせめてもの功徳であろうか。

公案工夫、無字三昧の境地は、知る人ぞ知る法悦の醍醐味である。禅に参ずる人はぜひとも「古人何人ぞ、われ何人ぞ」の覚悟で工夫に邁進して、未だ曾て体験したことのない大歓喜を得て頂きたいものである。


「新年の法悦」(月刊コラム【No.103】2012年1月)

明けましておめでとうございます。皆様方の本年のご萬福をご祈念申し上げます。旧年中は色んなことがあったが、何といっても3月11日の東北大震災とそれに伴う津波被害並びに原発事故の炉心溶融と水素爆発事故による放射能汚染の拡大はとりわけ衝撃的な出来事であった。

かてて加えて、多額の費用を費やして設置された放射能拡散予測装置のスピーディーを活用して正確な情報を国民に知らせることを、「パニックを生じかねない」という理由から民主党政府が情報を隠蔽したがために、高濃度の放射能に汚染された地域から人々が避難するのが遅れたというとんでもない対処の仕方が明らかとなってきた。原発事故に対する政府首脳(特に菅直人前首相)の浮き足だった周章狼狽振りを見ていると、「いかなることに対しても冷静的確に対処しなければならぬ」という肝心要のことが全くといっていいほどできていないことがよく分かる。

その上、厳しいようであるが、誠実とか真率といった人間関係の基本的姿勢が欠如しているように見受けられる。こういう人と親密な友人関係を結びたいと思う人はあまりいないのではないのではないか。そういう人は自己保身のために容易に人を裏切りかねないからである。

これに対して禅で練った名僧は、余計な分別やはからいをこそげ落としているから、実に自然体そのものの境涯である。その最たる一人が、唐木順三氏が「日本人の原点」と呼んだ良寛和尚であることは、多くの人が異論のないところであろう。良寛和尚の「起き上がり小法師」と題する玩具のダルマにこと寄せて人生の極意を説いた偈頌がある。「人の投げるにまかせ、人の笑うにまかす、さらに一物の心地に当たる無し。語を寄す、人生もし君に似たらば、よく世間に遊ぶに何事か有らん。」

また新潟地方で大地震があったすぐあとで知り合いの俳人にあてた書簡の中で、有名な「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候」ということを述べているが、多くの人が誤解しているような、ただ単に「災難に逢う時には逢ったら逢ったで致し方あるまい。じたばたせずに流れに任せろ」という投げやりで無気力極まる生き方ではない。以前確か阪神大震災の直後にそのようなことを新聞紙上で述べて顰蹙をかった小説家上がりの庵主さんがいたが、そういう常識的分別的解釈では、「これはこれ災難を逃るる妙法にて候」という一句を吐き得た良寛和尚の分別を絶した境涯を穴のぞきすることもできまいと思われる。

「これはこれ災難を逃るる妙法にて候」とは良寛和尚が『法華讃』で述べている「七難三毒只だ這れ是れ(ただこれこれ)」ということであり、上述の「起き上がり小法師」の偈頌でいう、他人にいくら投げられようが笑われようが心にいささかの念を起こさないという大死底のずば抜けた境地である。

それほどでなくても、少し坐禅に習熟して法悦を味わえるならば、いかなることが起きても動転することなく冷静に対処することができるようになる。少し以前のことであるが、特別拝観の終わった12月の初旬の或る日に、坐禅会の旧参のメンバーの一人が落葉の掃除に自発的に参加してくれたことがある。病僧の弟子が増えて人少になったので気を利かして荷担に来てくれたのであるが、この人は小衲より何歳も年長である。掃くあとから舞い落ちる大量の落葉を熱心に掃くこと4,5時間、昼食もとらずにぶっ通しで作務をして頂いた。こちらはあまりに気の毒になり、いい加減に止めてもらうように進言したのであるが、「切りのいいところまでやります」といいつつ、やり続けられた結果がこれであった。

次回に来山した際に、その人は「休むことなく掃き掃除をした結果、これまで経験したことがないような法悦の境地に到ることができました」と満面の笑みをたたえて感謝された。その調子で公案三昧の妙境にますます邁進してもらえれば、更なる法悦が約束されることは明らかである。真の法悦に達することができる人はごくわずかであるが、願心が堅固ならば初心の人でも難事ではない。一人でも多くの人に底無しの法悦を味わって頂きたいものである。

「法縁仏縁」(月刊コラム【No.102】2011年12月)

光雲寺では京都市観光協会主催の秋の紅葉の特別拝観を12月4日まで行っているが、通常の土曜の夜坐禅(p.m.8:00-9:00)も光雲寺で休むことなく開いている。第二日曜日である11月27日の月例坐禅会は南禅寺山内の別の塔頭を拝借したのであるが、関東の方からも4人の方が見えて、なかなかの盛況であった。

在家でも専門の雲水顔負けの熱心な方々がおられる。小衲の拙い提唱を毎回涙を流して感激して聞き、「東京での生活の疲れが次第に癒されました」といって頂き、わずか二回の参加でお顔の相が実によくなられたご婦人がいる。また遠方ゆえ、二ヶ月に一度しか坐禅会に参加できないにもかかわらず、小衲が提唱で法身禅師の話をしたことにヒントを得て、工夫が大いに乗って思いがけぬ所得があったという大学教授の方もいる。

法身禅師の話とは、領主の下僕を務めていた真壁平四郎(まかべのへいしろう)が厳寒の折に領主の履物(はきもの)を懐に入れていたのを尻に敷いていたと誤解され、領主に眉間を割られたあげく、発憤して発心し、のち入宋して名僧・径山(きんざん)の無準師範禅師のもとで甲乙丙丁の「丁」の字の三昧工夫に没頭すること九年、尻が腐るまで坐り抜き、遂に大悟徹底して帰国し、北条時頼の懇請(こんしょう)を受けて円福寺(現在の松島の瑞巌寺)の開山となった経緯である。

かの教授からは「心身一如に透徹すべく、寝食を忘ずることをテーマに取り組んでおります」とメールがあった。坐禅会当日にご本人にお目にかかった折りに、「なかなか工夫が進んでおられるのは結構なことです。ですが、心身一如や寝食を忘ずることは、それを目標やテーマにすべきことではありません。間断無き工夫で乗りに乗って法悦のただ中で無意識のうちに工夫するようになれば、いつの間にやらそういう境地に到達します。それを目指せばかえって意識分別が妨げとなって、到達は不可能となります。肝心なのは四六時中、むー、むーと鈍工夫することです」と申し上げたところ、その教授は実にいい顔で破顔微笑の反応をされた。

最近は専門道場で修行する雲水も道心のある者が少なくなって、師匠の方も1年でも早く弟子を道場から自坊に退(ひ)かそうとするという嘆きを、僧堂の老師方から聞かされることが多い。それに比べれば、多忙な日常生活の貴重な時間を割いて坐禅に通う人たちに熱心な方々がいるのも当然のことかも知れない。こうした人たちを相手に坐禅会を継続できるのは有難いことである。ただ専門道場の雲衲方にも自分たちのおかれている状況が恵まれていることをもっと自覚して奮闘工夫して頂きたいものである。

「家康公と秀忠公」(月刊コラム【No.101】2011年11月)

NHKの大河ドラマの主人公である「お江」は、先月のコラムで申し上げた通り、この光雲寺を菩提寺として再興された中興開基である東福門院(源和子)の母君であるという因縁で、毎回どのように演じられているのかを興味を持って拝見している。しかしどうも史実とはかなり異なる場面が随処に見受けられるのは残念な気がする。

そのように作りごとを織り交ぜて視聴者を飽きさせないようなドラマを作るというのが原作者やディレクターの意図らしいが、あまりにも極端な虚構が多すぎては、視聴者にかえって敬遠されてしまうのではないか。特に信長・秀吉・家康に関しては詳しく知っている人たちが多いのであるから、色々と酷評されるのは織り込み済みのことかも知れない。しかし本来は史実を基本として、虚構はあたう限り最小限に止めるべきではないだろうか。

小衲が特に気になったのは、家康公と秀忠公とのやりとりである。秀忠公は大御所である父・家康公のことを「おやじ」などと現在の若者言葉で表現しているが、これは決してあり得ないことである。また秀忠公は「おやじ」に反抗するばかりの息子として描かれているが、これはまったく史実に反することである。おそらく百戦錬磨の家康公の存在は秀忠公にとって容易に反抗しかねるほどの威圧感があったに相違ない。

大坂出陣の際に、いち早く京都にのぼった家康公に対して将軍秀忠公が思いのほかに到着が遅れたので、家康公は大いに立腹された。これを聞いた秀忠公があわてて三河よりわずか三十騎の手勢で急ぎ駆けつけると、家康公は顔色を変えて立腹し、「将軍となり、わが子として生まれてきて、そのように武家(弓矢)の道に疎いようなことでは、どうして天下の守となられることなどできようか。『将軍が遅すぎる』とわしが立腹するのを聞かれれば、『それは家康公がもうろくされていわれているに相違あるまい。大坂の者どもが京都に攻め上るなどということは想像もできない。万事はまた軍兵が疲労しては軍が立ちゆかぬ。急ぐまでもないことだ』と、ゆっくりと来られてこそ将軍の分別にふさわしいというものである。わしが立腹しているからと聞いて、一騎にて急ぎくるような分別では、天下の守となられることなどできようか」といよいよ立腹されたということである。これは「家康公逸話集」である『披沙揀金』(369頁)に見られる逸話であるが、もののふの道に関しては親子の間で格段の円熟度の違いがあるのが見てとれるであろう。

また家康公は重臣を介して将軍秀忠公に対して、「古人の申すことは益が多い。夜長なときには藤堂(高虎)などを召し寄せて御夜話をさせられたらどうか」と進言され、将軍はそれを快諾して実行し、得るところ多大であったという。或るとき家康公は「武士は武勇が第一であるが、そうはいっても武は過ぎては臆病よりも劣ることになる。武田勝頼は長篠合戦の際につねづね武勇に過ぎた振る舞いがあったのを、こちらがよく見透かし、ゆとりを持って対処したところ、あの通りの辛抱げのない気性ゆえ、むちゃな戦を仕掛けてたちまち滅んでしまった。もしひたすら臆病であれば、家老の熟練者の意見を採用してなかなかもろくは滅びることはなかったであろう。天下を知る身にとっては慈悲ほどよいものはない。しかし慈悲も度を越してはむごきにも劣ることになる。武家の作法を忘れ、弓馬のたしなみがなく、人馬ももたず・・・ほしいままに身をもつ者をそのままに放置すれば、それを見習って習わしが悪化することになる。そのような時には、見せしめのために2,3人もむごく処置すれば旗本中の眠りが覚め、習わしもよくなり武家長久の基となると思う。和泉(和泉守、藤堂高虎)よ、どう思うか」と尋ねられたので、高虎は「いかにもいかにも御意の通りでございます」と申し上げたところ、家康公は「そうならば将軍の夜咄(よばなし)にそのことを申し上げよ」といわれた。

夜咄の折りに高虎がその通りに申し上げたところ、将軍は大いに感心され、「武勇と慈悲とは第一の善事である。その善いことも度が過ぎればよくないとの御意である。後々まで語り伝えて子孫の手本とするように」と自筆でお書きになった。その翌日、高虎がことの次第を申し上げると家康公は、「将軍は立派な大将であるからこのようなわきまえがないわけではなかろうが、孝行心が深いがために自筆で書き留めて子孫にも伝えるべきであるという心がけである」と、家康公は深く感じいられた様子であったという(同上書、551頁)。

また『松永道斎聞書き』という家康公の逸話聞き書きには次の話が載っている。

家康公が駿府城(静岡)におられた時、江戸で将軍秀忠公が太田という武士に知行五百石を下されたのであるが、その知行の折り紙の詞令書を、太田は秀忠公の御前に投げ捨てて退出した。そのため秀忠公はことのほかお怒りになり、この者を罪に処すことを申し渡すというお気持ちであった。ところが、井上主計頭(かずえのかみ)正就(まさなり)がそれを伝え聞いて、「この太田と申す者は家康公と親密な間柄の者でございます故、なにとぞ一度家康公の方にこの件につきましてお尋ねされた方がよろしかろうと存じます」と秀忠公に申し上げた。「それならばお前が駿府に参上して、この経緯を申し上げよ」という秀忠公のご意向により、主計頭が駿府に参上することになった。それは、秀忠公はすべてどのような事でも、「駿府様(家康公)のお名前を申し上げれば、憤激するのをやめられるので、主計頭がそのように申し上げた次第である。

主計頭が駿府へ参上し、家康公にお目見え申し上げたところ、家康公が「江戸は変った事はないか」と尋ねられた際に、主計頭は「江戸は別に変った事などございませぬ。このたび私をお城に遣わされましたのは、先日太田某に対して秀忠公が知行五百石を下されましたところ云々」と経緯を謹んで申し上げた。家康公はことのほかご機嫌のご様子で、「さてさて、松平(徳川家)が栄えるのは目出度いことだ。その不敬無礼ということは、かの太田が言うべきものではなく、ただ将軍こそ言われるべきものである。その訳は、秀忠公は天下の主(あるじ)である。世は太平で、位は三公(太政大臣・左大臣・右大臣)であるから、どれほどご遠慮なく裁断致され、太田の如き者がこのたびの無礼の十分の一のことをしでかして、どのような罪を科せられようとも、天下の者のうち、一体誰が道に反したことだなどと将軍のことを言うであろうか。それにもかかわらず、将軍が、彼に賜った知行が果して彼の功績にふさわしくないのでありましょうかと、このわしに尋ねんがために、貴公をこの駿府城まで遣わされたということは、まことに将軍が天下の政事(まつりごと)に心配りをされることが並々ならぬ証拠である」、こう言って、家康公は涙を流された。

そして家康公は、主計頭に対して、「このことに関して一つの物語をするので、よくよく承知しておくように」と申し渡されたのである。「わしが三河城におった時、勅使やその他の公(おおやけ)のことがあるであろう時のために、三尺(90センチあまり)以上の大きな鯉を庭の池の中に放しておいたところ、池の中を見ると、とりわけ大きな鯉一匹が見当たらぬ。そこでその場所を担当している掃除坊主に、『囲みが不十分だったので、狐にでも捕られたのか』と言えば、この者が申すには、『その鯉は鈴木久三郎が拝領申し上げたということで御台所へ持参致し、料理して人々にも振る舞い、信長公より頂戴した酒を試し飲みせよとの殿の御意とのことで、酒樽の封を切って頂戴致しました』と言うので、台所係に尋ねればその坊主の申した通りであった。鯉も酒もわしでさえ食べるのを控えておるのに、何という勝手気ままな奴だ。そのような者をそのままにして置くならば、これから諸士の風儀が悪くなるはずだと思い、呼びつけて成敗(斬り捨てに)せねばならぬと決心して、鈴木を呼びにやった。

薙刀(なぎなた)の鞘(さや)をはずし、広い縁側に出て鈴木を待っていると、久三郎は同輩らがひそかに自分のことを密告したにもかかわらず、一向に平気な顔でわしの前に出頭してきた。そこで十間(けん、十八メートル以上)ほど距離を置いて、「にっくき奴め」と言葉をかけ、薙刀で斬り捨てんとしたところ、久三郎はこれを見て自分の大小の刀を五・六間ほどあとに投げ捨て、わしに向かって大きな目を見開いて、「さてさて、何という愚かな御大将(おんたいしょう)であらせられることか。魚や鳥が人に匹敵するという作法など、一体どこにあると言われるのか。そんな有様では、天下統一の願望など到底成就しませんぞ」と、久三郎はかえってわしのことを悪し様(あしざま)に罵った時に、「その通りだ」と思い当たり、抜いていた薙刀を棄てて部屋の奥に入り、よくよく彼の心中を推察するに、近頃召使いの者が、一人は狩猟厳禁の留場(とめば)で鳥を取り、一人は城の堀で網を打って魚を取ったので、この両人を閉じ込めておいたが、そのことを言わんがためにわざと鯉を料理したのであろうから、一向に不敬無礼なことではない、ひとえにわしの処分を悲嘆して行なったことであると思案したのである。

そこでかの両人を奉公に出すようにと言い渡した時、久三郎を呼び出し、「貴公の高邁な気持ちを嬉しく思うぞ」と言うと、久三郎は涙を流し、「何という有難い仰せでございましょうか。太平の世でございますれば、ひそかに申し上げるべきことではございましょうが、今は国が乱れている時節なので、かように申し上げた次第でございます。乱世には私の如き末端の侍も、多少の勇気があるものでございますれば、殿の御為(おんため)と思い、あのようなことを申し上げたのでございます。決して決して利己的な心をもって強がりを言い、自分勝手な気持ちで申し上げた訳ではございませぬ」と言ったので、わしは一層彼の忠信(まごころを尽くし、うそ偽りのないこと)を痛感し、格別のことと思ったのである。

「昔も今も諸士が忠信であるかは大将の心に存している。このようなことを武道に不案内の者が中途半端に聞けば、この者が武功を自慢しているかのように言って懲らしめるものである。心を鎮(しず)めて聞くがよい。忠信の者でなくては、思い切った言葉を言わぬものである。主君というものは恐ろしいものなどないので、主君の気に入らぬ諌言など申すことは、合戦場で大敵の中へ駈け入るよりも一段と厄介なことである。

その訳は、大敵の中へ駈け入った場合には大勝利を得る者が多い。主君に悪く思われては、場合によってはわが身ばかりか妻子の命さえも免れ難いことがある。それを知りながら、そうした歴史上の出来事をも顧みず、思い切って言うのは、勇敢きわまりない者、忠信この上ない者である。総じて国を治める天下の主(ぬし)たる者は、沈みかけた船の中に坐し、燃えている家の下で寝ているような心配りを忘れることなく、諸人の気持ちを推察し、たとえ何の役に立たないことであっても、思い切って言ってくれた言葉をむざむざとは放置しないものである。

以上が『松永道斎聞書き』に見られる家康公と秀忠公との逸話であるが、大河ドラマの人物像とはまるで相違して、さすがは天下統一を成し遂げた器量のある親子関係ではなかろうか。このコラムが大河ドラマの偏見を是正する一助となれば幸いである。

(なお光雲寺では11月21日(月)より12月4日(日)午前9時から午後4時まで特別拝観を行います。どうぞお誘い合わせの上、お越しをお待ち申し上げております。11月27日の月例坐禅会は南禅寺山内の南陽院様を拝借して行います)。

「東福門院と光雲寺中興・英中禅師」【No.100】2011年10月

NHKの大河ドラマの主人公「お江」の娘である東福門院は、光雲寺を菩提寺として再興された中興開基である。東福門院は慶長12年(1607)10月4日、徳川秀忠とお江の2男5女の末娘として江戸城大奥に生まれた。当時、家康は駿府城を拠点として大御所政治を開始していた。戦国時代の民衆の塗炭の苦しみを知り尽くしていた家康公は、天下を統一して万民を安堵させることの必要性を痛感され、その礎となる公武(すなわち朝廷と徳川家との)和合のために、この末娘を天皇家に嫁がせようと考えた。ただそれが実現したのは家康公が元和2年(1616)に享年75歳で亡くなられてからのちの、元和6年(1620)6月18日のことで、14歳でひと回り年上・26歳の後水尾天皇に入内された。そしてお二人のご夫婦仲の良さは、その後の紫衣事件などで、和子の父秀忠公と後水尾天皇との仲が険悪になっても、一生涯変わることがなかった。

さて、東福門院と光雲寺との関わり合いに関しては、光雲寺所蔵の『光雲寺覚書之留』によれば、東福門院はご自分の菩提を弔うための菩提寺の建立を考えられるようになり、東福門院に仕えていた野々山丹後守兼綱が南禅寺西堂職にあった英中玄賢禅師に相談したところ、禅師は南禅寺の開山・大明国師が大阪の四天王寺の近くに建立された光雲寺が戦乱のために荒廃しているが、この由緒ある寺を東福門院の菩提寺として再興されてはどうかと進言したので、それを喜んで受け容れたのである。

この光雲寺中興の英中禅師の生母が家綱公の乳母となったのは常高院(お江の姉の初姫)との深い関係によるものである。小浜市教育委員会編纂の昭和52年1月に刊行された小浜市史紀要に「『溪心院文』による常高院をめぐる人々」と題された渋谷美枝子氏の論文によれば、実子がなかった常高院は京極高次の姪・古奈姫と、妹のお江が豊臣秀頼にお輿入れする千姫を送ってきた際に伏見城で出産した初姫をご自分の養女として育てたが、直接高次夫妻とは血縁関係になかったにも拘わらず、常高院に非常に愛せられた者に川崎六郎左右衛門一家がある。六郎左右衛門は、寛永7年(1630)に常高院が小浜に常高寺を建立した折りにも骨身を惜しまずに尽力した。その時のことを溪心院は、「常高院様御菩提心深く御座なされ候故、若狭に常高寺をご建立遊ばされ候。普請始め終わり、川崎六郎左右衛門に仰せつけられ候て、御心にかない候ようにとつとめ申し候こと」と述べている。六郎左右衛門の娘は「川崎」、その娘は「外山(とやま)」の名で、江戸城大奥の大年寄りとなった。すなわち真珠院と溪心院とである。

この真珠院が光雲寺中興の英中禅師の母である。光雲寺には延宝2年(1674)に「家綱公の万安を祈り奉らんが為にわが母が寄進した」という中興禅師自筆箱書きのある家綱公筆の普賢菩薩蔵が伝えられているし、川崎局から英中禅師宛の「住職継ぎ目御礼の事」という直筆の消息が残されている。それを拝読するとお互いに相手のことを思いやって贈り物をやりとりする母と子の深い情愛が感じられる。なお寛永4年生まれの英中禅師は寛永7年生まれの溪心院よりも3歳年上の兄になる。

渋谷氏によれば、真珠院は常高院に乳飲み子の頃からお膝に抱かれて大層可愛がられたという。真珠院に将軍世継ぎの乳人(めのと)として白羽の矢が立ったのも、春日局が御用で若狭へ下ったおり、常高院の侍女であった新太夫に誕生したばかりの家綱公のために乳人の存在を訊ね求め、その結果、身元良く両親あり、子供のおおい(9人の)夫婦者で、さらに21歳から30歳まで(29歳)という諸条件に叶って推挙されたのであるが、それのみならず、常高院の庇護のもとに育てられたということが一役買っていたのはいうまでもない。

常高院は山田氏出自の忠高を嫡子としたが、この京極忠高に仕えたのが、板倉三郎左右衛門尉重吉であったが、重吉には子がなかったので、川崎六郎左右衛門の孫であった、のちの英中禅師を養子とし、板倉藤次郎と名づけた。重吉の母は板倉伊賀守勝重の姉であり、勝重は京都所司代であった。勝重は井伊氏の許しを請うて自分の相談相手として重吉を登用した。そして勝重が退任の後は、若狭藩主の京極忠高は重吉を3千石で迎え、大砲隊の隊長とした。そののち忠高が出雲藩の大名となり、重吉も同行して諸子の長となった。

重吉が病没するに到り、重吉は藤次郎のことを自分の従弟であり、京都所司代であった板倉重宗とその弟重昌に懇ろに依頼したという。藤次郎は父重吉の後を継いで忠高に仕えたが、不幸にして忠高の逝去に遭い、国を嗣ぐ人物がいなかったので、藤次郎は都にのぼり南禅寺天授庵の霊叟禅師の弟子となって出家した。英中禅師はその後修行に励まれ、中国から渡来した隠元禅師にも参じて見性の眼を具するに到った。

英中禅師が東福門院の信頼を得て光雲寺をその菩提寺として京都に移して再興することは、幕府の内諾を得て、寛文4年(1664)7月末から同6年頃にかけて、父君である徳川秀忠公からの遺産金(大判金2千枚と白銀1万枚)をあてて5300坪の広大な寺域に七堂伽藍が建立されていき、英中禅師の指導のもと、切磋琢磨した雲衲は50人に上ったと伝えられる。寛永四年(1627)生まれの英中禅師が遷化されたのは元禄八年(1695)のことである。

「自然治癒力」(月刊コラム【No.99】2011年9月)

光雲寺では先般の東福門院三百年御忌・晋山式に向けて数年がかりで前庭と中庭を中心とした境内整備をおこなってきた。とりわけ植治(七代目小川治兵衛)作庭の京都市指定名勝庭園である中庭は、「植治の庭」の最高権威であられる尼崎博正先生や京都市の文化財保護課の専門職員の方を中心とした修復会議を幾度となく開き、京都市から推薦された造園業者に依頼して池の護岸を伝統的な版築の技法により全面的に改修し、植治作庭当時の資料を参考にして、植栽をして杉苔も広く植え、面目を一新することができた。法要に参列された大方尊宿(管長・老師)方が異口同音に庭と風致とを賞賛されたというのを伝え聞き、潤沢ではない財政事情の中で思い切って改修に踏み切った甲斐があったと喜んだものである。

ところがそれから一ヶ月ほど経つうちに、新たに植えられた杉苔に直径20-30センチの円形状の枯れたような茶色の箇所があちこちに表れ、その数が次第に増えていった。尼崎先生の推薦により普段から光雲寺の庭木の手入れをしてもらっている熟練した庭師さんがこれを見て、施工した造園業者と庭園設計士と京都市文化財保護課とに連絡をしてくれた。

しばらくして庭園設計士が「光雲寺庭園 苔の調査報告書」を作成したのを受けて会合がもたれたが、その報告書では、「この造園業者が同じ苔を使って施工した他の庭園などを調査した結果、同様の症状は認められず、京都市内で同様の症状が現れている庭園は確認されなかった」という理由で、「光雲寺独自の症状の可能性が高いと考えられる」と結論づけていた。要するに、「光雲寺の環境に問題があったために起こったことであるから、施工した造園業者や庭園設計士にはいささかの責任もない」と言いたかったのであろう。光雲寺住職である小衲は、「しかしこの光雲寺でもこの施工が行われる以前にはこんなことが起きなかった」と言った上で、「とはいえ、こういう特殊な症状が現れたということは恰好の良い勉強になるではないですか」と破顔微笑すると、一座に安堵の空気が流れたのには失笑せざるをえなかった。

相手に全面的に責任を負わせて修復を迫るつもりは毛頭なかったが、確実に言えることは、自己弁護のみに終始するこうした不誠実な対応をとる造園業者や庭園設計士には金輪際もう仕事を依頼することはないということである。この修復の中心となって長期間にわたり活動した庭師は、「私は修復後に来たのは今回が初めてです」と言って恥じ入るところはなかった。自分が精魂込めてやり遂げた仕事であるならば、アフターケアも心がこもっていて然るべきであろう。やはり小衲が「彼は20年の経験があるというが、あてにならぬ」と修復の最中から見抜いていた通りであった。

結局は熟練した庭師さんが予想したように、高温多湿によりカビが苔に発生したことが今回の丸く赤茶けて枯れる原因であることが分かり、園芸会社などからの情報により、かの設計士と造園業者は対処方法として、ベンレート、ボトキラーなどの微生物防除剤の散布を薦めてきた(もちろん費用はすべて光雲寺もちという積もりであろう。呵々)。しかし熟練した庭師さんが、「薬剤をひとたび撒くと、中途でやめれば逆効果になり、続けて撒かずにはいられなくなります。薬など撒かずとも赤茶けた苔が枯れることはないそうです」というのを聞いて、薬剤を使用するのを控えることを即断した。その結果、二ヶ月ほど経った現在では赤茶けた苔の間から緑の新芽がちらほらと出てくるようになった。苔の自然治癒力を信じたお蔭である。

これが薦められるが如く薬剤を散布していたらどうなったであろうか。結果はいうまでもなく、人為的な対処療法により苔がますます弱っていき、抜き差しならぬ事態に至ったであろうことは想像に難くない。それはちょうどわれわれ人間についても言えることである。たとえば風邪を引いたからといって、病院に行ったり闇雲に薬を飲むのは感心したことではないそうである。「病気になれば薬を飲み病院へ行く」ということがわれわれの一般常識として定着している感があるが、船瀬俊介氏が明らかにした衝撃的な報告によれば、1973年にイスラエルで病院ストが1ヶ月実行された際には、診察可能な患者の数が9割以上も激減し、その結果、何と死亡率が半減し、ストが解除されたらまた元の死亡率に戻ったということである。つまり病院は患者を治癒するところではなく、病人を作り出し、患者を殺す機関であったのである。

小衲のところには良くうつ病のひとが来られる。例外なく病院で薬を処方してもらっているものの、それでは悪化する一方で、良くなったためしはない。小衲のところでうつ病の方が劇的に改善するのは、そのひとを病人と見なさずに本来もっている自然治癒力を発揮できるようにするためであろう。ただしどのように対処するかのマニュアルなどなく、臨機応変であるといってよい。今は亡き俳優の児玉清さんが、何年か前に南禅寺の夏期講座の講師として招かれ、小衲も親しくお話をする機会があった。人柄は想像したとおりの爽やかなお方であったが、「うつ病のひとに薬の処方は無用どころか、かえって有害である」という点で意気投合したという思い出がある。

とりわけガンに関しては、20兆円ともいわれるガンからみの利権をむさぼる医者や製薬会社のせいで、一体何人の人たちが命を落とされているであろうか。船瀬俊介氏によれば、年間少なくとも26万人のガン患者が治療の名のもとに殺されているという。前立腺ガンになり医者の再三の薦めを信じて抗がん剤を受け容れ、すさまじいばかりの薬害のせいで遷化した小衲の弟もその一人である。「手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が」という歌を残して昨年の8月に亡くなられた京都在住の歌人であった河野裕子さんの、ご主人との共著の『たとへば君』(文藝春秋刊)には、このすぐれた歌人の、闘病というよりはむしろ抗がん剤治療との壮絶なまでの格闘の記録が含まれている。「病気のほんとうの怖さを知ったのは化学療法に入ってからである。癌は副作用との闘いであるといわれているがまことにその通りである」と述懐され(230頁)、「薬害に正気を無くししわれの傍に白湯つぎくれる家族が居りき」と詠んでおられる(200頁)。ご主人はご主人で、「副作用はもとより承知しかれどももう止めようと言へるはずもない」と苦境を吐露されている(238頁)。

抗がん剤の副作用を我慢しても治癒すればまだしも、かえって有害で免疫力が低下して死に至ることになる。800人の患者に手術と抗がん剤を施した或る医者は、「だれ一人生きていません。だから現代のがん治療は無力とハッキリ言えます・・・」と告白している(船瀬俊介著『病院へ行かずに「治す」ガン療法』花伝社、237頁)。それでも多くの人が「手術・放射線・抗がん剤」の三大療法を盲信しているのは、自らの内なる自然治癒力の絶大な力を知ることが少ないためである。「自然治癒力」なる言葉は医学事典にも見当たらないそうであるが、そんなことで治ることが白日の下にさらされれば、医者が「商売あがったり」になるからである。

その一方で、数千人もの患者を抗がん剤や化学療法で殺してきた東大病院の4人の教授たちが、自分たちががんになったら断じて抗がん剤治療などを拒否し、食餌療法により治癒してぴんぴんしているというが、実にけしからぬ話ではないか。彼らはかの三大療法が決してガン患者を治癒できるものではなく、かえって命を奪う危険が多分にあることを臨床経験上よく知っているのに、それを平気で患者に投与しているのである。医者の99%は自分や家族に対しては決して抗がん剤などを使用しないというのはよく知られている事実である。詳細は、安保徹著『新がん革命』(ヒカルランド)や船瀬俊介著『病院へ行かずに「治す」ガン療法』(花伝社)をご覧頂きたい。

多くの方々が自らの内なる自然治癒力を信じて如何なる精神的・身体的状況に陥ったとしても前向きに生きて行かれることを切に願うものである。

(なおこの光雲寺ではお寺に滞在して禅の修行をする人を募集しております。出家希望者を優先しますが、在家の方でも可能です。年齢は問いませんが、男性に限らせて頂きます。ご希望の方は光雲寺の方にご連絡下さい。℡075-751-7949)。

「放射能汚染」(月刊コラム【No.98】2011年8月)

3月11日の東北大震災による福島第一原発事故の放射能汚染はますます広がりと深刻度が増加し、止まるところを知らないかのようである。餌となる稲わらの放射能汚染による肉牛の放射性セシウム汚染問題がクローズアップされてはいるが、汚染されているのは稲わらや牛だけでないのは明らかである。

土壌汚染によって農作物は出荷停止になり、汚染水の海への垂れ流しにより、魚や海産物にも多大の影響がある。放射能汚染は日本列島ばかりか世界全体の環境を悪化させずにはおかない。まことにフィクション映画の世界にあるような恐るべき状況にわれわれは置かれてしまった。

少しでも原発に関心のある人なら知らない人はいないはずの、京大原子炉実験所助教の小出裕章氏が、原発の危うさについて一連の著作(『隠される原子力』、『原発のウソ』、『原発はいらない』など)を刊行しておられる。それを読むと、福島第一原発事故の放射能汚染は小出氏が予想した以上に深刻な状況にあるように思われる。農作物が作れないどころか、多くの人たちが住み慣れた故郷に戻れない事態が到来することは、残念ながら確実なことらしい。

これまでの日本政府や電力会社は、「原発は安全」で「環境を汚さないエコ電力」であり、「原発をやめたら電力が足りなくなる」といった宣伝を繰り返して宣伝してきた。それを側面で支えてきたのが、原発推進論者の学者達・原子力安全委員会・保安院である。保安院などは原子力その他のエネルギーに係る安全および産業保安の確保を図るために中立であるべき機関でありながら、推進派の中枢たる経済産業省に属するというのであるから、反対一色とならぬようなやらせ質問を要請したというのは、「やはりそうであったか」と本性が露見した思いがする。

そのように原発推進派が勢力を保持してきたのは、強大な利権構造が存するからだということは、自民党議員でただひとり原発に反対してきた河野太郎氏からの情報などを見るとよく分かる。学者も電力会社から金を貰って安全性を問い質さないというようでは、学者としての良心を売り飛ばしたといわれても言い訳できまい。マスコミにしても、原発反対の意見を披瀝する番組をしただけで、「もうお前の所にはコマーシャルは出さない」といわれたという話が伝えられている。

小出氏も最新刊の前掲書『原発はいらない』で、かくまで甚大な被害と犠牲を与えながら、まだなお原発再稼働を画策せんとする勢力の存在する理由を、「①独占企業である電力会社は、原発を作れば作るほど、稼働すればするほど儲かる仕組みになっている、②原子炉の製造を三菱重工、東芝、日立などの大企業が担い、そのまわりに『原子力村』の住人である政治家、官僚、地方自治体、関連企業が群れ集まり、原子力利権を分け合う構造を手放すことができない。③『原子力開発=核兵器開発』であり、日本の政府は一貫して核兵器をいつでも製造できる態勢を維持することに努めてきた。その国策を、『たかが原発事故』くらいで変更はできないと思っている。④悲しい事態だが、原発交付金、補助金などによって財政の首根っこを押さえられている地方自治体は、雇用の問題もあり再稼働を容認せざるを得ない」(234頁)と述べておられる。圧倒的な原発利権勢力に抗して、このように包み隠さずに正論を披瀝するのは非常に勇気のいることだと思う。

君子国といわれたわが日本の精神状況がここまで堕落してしまったのかとほとほと愛想がつくほどである。それに加えて現在の自己保身をこととするばかりの菅首相の無策が人災に輪をかけている。放射能は垂れ流しで、がれきの多くは撤去されず、義援金の配分もまだまだ不充分なままであるという。

これが、岩手出身の実力者の小沢一郎氏が中心となっていれば、被災者のために即座に行動を起こして色んな手を打っていたであろうが、検察審査会という怪しげな機関によって小沢氏は活動を制限されてしまっている。小衲の知り合いの或る弁護士は、「検察によって不起訴とされた小沢氏を民間の正体不明の審査会が強制起訴にするのは本当におかしい」と吐露していたが、どうも原発推進派の理不尽で作為的な動きに相通ずるうさん臭さを感じるのは小衲だけであろうか。

政治家や学者などが利権から自由になってこうした偏見が取り払われ、原発問題が改善するのを願わずにはおられないが、積年の行動様式を抜本的に変革するのはおそらく至難であるに相違ない。小衲の憂いが杞憂に終われば幸いである。

〔なお、9月30日(金)の開演時間午後6:30で光雲寺にて「光雲寺・月を愛でる会」と題して、中村ヨシミツ氏によるギター演奏と三原ミユキさんによる歌があります。お二人の演奏は一度光雲寺で拝聴したが、心が揺さぶられるような感動を覚えました。皆様方も是非この機会にご鑑賞頂ければと存じます。受付は午後5:30からで、会費は3000円です〕。

「公案工夫の妙味」(月刊コラム【No.97】2011年7月)

横浜から二ヶ月に一度月例坐禅会に参加される理系専攻の大学教授の先生から、坐禅会への参加希望と共に、「篤く感謝申し上げる日々です。無ーがこのように奥の深いものかと、折に触れ、新たにさせてもらっております」というメールが届いた。このメールを見て小衲は、「なるほど、道心のある人はこの通りだ。二ヶ月に一度の来訪で他の参加者ほど頻繁に指導を受けていないにもかかわらず、いわれなくても自分から進んで無字の公案工夫に邁進して、法悦を育てておられる。こうでなくてはならぬ」と感嘆したのである。

出家在家を問わず、師匠や先輩からの指導や垂戒を待って初めて修行するような人物は、最初からものにならないことは明白である。ましてや、道情を奮い立たせることの必要性を師匠から何度声高に聞かされても、一向に修行に邁進しないものは沙汰の限りである。相国寺の独山老師の師であった天龍寺の峨山老師は、常々「俺もできたらやろうなどという者は最初から駄目に決まっとる。何としても我こそはという気概をもたなければいかん」と力説されていたというが、まさにその通りだ。

もし在家から出家して専門道場に入れば修行できるように思っている雛僧がいるとすれば、それは心得違いというものである。僧堂では通常の寺院生活よりも睡眠時間は少なくなるし、日中は作務托鉢三昧で自由時間などほとんど無い。夜の規矩坐になると、疲労困憊した身に気力を充実させて坐り抜かなければ、つい眠気が出て樫の警策でいやというほど叩かれる。受業寺にいるうちに、寸暇を惜しんで坐禅し、除草などをしながら動中の工夫に習熟しておかねばならぬ。さらには名僧列伝や白隠禅師や東嶺禅師の年譜を拝読したりして、越格(おっかく)の名僧知識の修行振りを知り、道情を養っておくことである。

僧堂では午後九時にいったん開枕(かいちん、就寝)の姿勢に入った後で、全員強制的に午後十二時近くまで外で夜坐をしなければならぬ。しかしそれが済んでそのまま臥単につくような者は道心のない者といわなければならない。真の禅定を極めるべく身を削って工夫三昧に励むのが雲水生活の醍醐味である。道心のない他の修行者がどのような行いをしていようが、そんなことには目もくれずに工夫するのである。ましてや、自分の工夫の未熟さを省みることなく、老師の行状をとやかく批判したりするのはもってのほかである。法悦の日々を過ごしている雲水に限って、そのようなことは断じてないはずである。

小衲にも別に自慢できるような工夫体験はないが、二度目以降に掛搭した道場では、人為的な策励が過ぎることがなかったので、工夫も充実して、作務の最中も工夫三昧でえもいえぬ法悦境を楽しみながら、日々を過ごすことができたことを感謝している。三十人いた雲水が夜坐から引いた後も、場所を変えてひとりで常夜灯を前にして「無ー、無ー」と三昧の工夫をしたものである。お蔭でほとんど睡眠は取れなかったが、いつのまにやら、工夫する自分が空じられて、ほとんど疲れを感じなかったのは不思議なことである。

ただこの三十代初めには、何度も法悦の佳境を体験したものの、今一歩のところでぶち抜けずに、真に自性を徹見したのは遥か後のことであった。わが身の道心の至らなさに反省することしきりである。後進の修行者はこの轍を踏むことなく、真っ正直に工夫に邁進して頂きたい。ただ単に住職資格を得るためだけではなく、僧堂にできるだけ長く在錫して禅定を練る醍醐味を存分に味わって頂きたい。

在家の修行者の方も、これから専門道場に掛搭する者も、どうか道心を奮い立たせて脇目もふらずに工夫三昧の生活を送ってもらいたいものである。それこそが難行苦行ならぬ法悦三昧・遊戯三昧の日々をもたらすことを知る者からの、ささやかな忠告である。光雲寺では来年の春には二人の弟子が専門道場に掛搭して修行に励む予定である。道を踏み外さぬようにとの親心から、今月のコラムで「公案工夫の妙味」を採り上げさせて頂いた次第である。

「東福門院三百年御忌」(月刊コラム【No.96】2011年6月)

去る五月二十七日に光雲寺では午前十時から十二時迄の二時間に及ぶ、住職の晋山式、東福門院三百年御忌(ぎょき)、諸堂落慶式を併せて執り行った。当日は一日中雨の予報で気がかりであったが、法要後の記念撮影と出膳の際には、ありがたいことに雨が上がり、かえって雨に打たれた庭の緑が映(は)えて鮮やかであった。

東福門院の御忌は、前回が文政十年(1827)の百五十年御忌であるから、実に百八十三年振りのことである。三十三年のずれがあるが、このことをも含めて、今回の式を挙行した経緯をご理解頂くには、住職が出斎(昼食)の前に、法類和尚方や檀家総代方と共に低頭して、参列者の方々に対して申し上げたご挨拶をご覧頂くのが一番であろうと思う。住職のご挨拶は以下の通りである。

「ひとことご挨拶を申しあげます。ご低頭には及びません、どうぞお直り下さい。本日は法務御多端の砌、また足元のお悪い中、南禅寺管長猊下・相国寺管長猊下・国泰寺管長猊下・建仁寺管長猊下・東福寺管長猊下・円覚寺管長猊下・瑞龍寺僧堂老大師・南禅寺僧堂老大師・相国寺僧堂老大師、内局・山内・近末・法縁のご老宿方に置かれましては、晋山式・東福門院御忌・諸堂落慶式にご随喜・ご影嚮賜りまして、まことに有難うございました。また過分なる賀儀・香資・お供え等頂戴致しまして、重ねて厚く御礼申し上げます。

また檀信徒の皆様方・坐禅会・法縁の皆様方には、ご多用中のところご参列頂き、まことに有難うございます。とりわけ徳川宗家ご夫妻には、東福門院三百年御忌ということで、遠路はるばる東京よりお越し頂いてご臨席賜りました。厚く御礼を申し上げます。

未熟者、山内の南陽院様の徒弟として平成十八年の七月にこの光雲寺に入寺致しました。当時執事として光雲寺を看護しておられた九州久留米円通寺の吉富師より引き継ぎを致しました折りに、『中興の英中禅師の三百年遠諱は済ませました。次は東福門院の三百年御忌ですね』と申し送りを受けました。光雲寺は三百四十年ほど前に、徳川秀忠公とお江様のご息女で後水尾天皇の中宮となられた東福門院様が、摂津の国天王寺にあった光雲寺を、秀忠公のご遺金を使われてご自身の菩提寺として再興された寺院でございます。

本年は実は崩御されてから三百三十三年になりますが、光雲寺が三十年前に三百年御忌を行なったという記録は残っておりません。以来、三百年御忌に向けまして境内整備を行なってまいりました。とりわけ阪神大震災の惨状を目の当たりにした経験から、耐震補強に力を入れまして、地震対策のために寮舎や隠寮も新築した次第でございます。

まだ庫裡の抜本的耐震改修は残しておりますものの、東福門院三百年御忌を行うに際しまして、ひとまず諸堂落慶式をも併せて執り行うことに致しました。この間、実に多くの皆様方のひとかたならぬお力添えを賜りまして補強も無事に終わり、ここに落慶式を迎えることができました。お力添えを頂いた方々には、この場を借りまして心より御礼申し上げます。

そこで香南軒管長猊下に御忌と落慶式の導師をお願いに参上しましたところ、『光雲寺さんは仮入寺式しかしていないではないか、この際、晋山式も併せて行なったらどうか』という御垂示を承けまして、法類の和尚様方ともご相談の上、新住持としての晋山式も同時に執り行うことと相成りました。

本日は皆様方のお力添えを得ましてここに晋山式・御忌・落慶式を無事円成(えんじょう)することができました。厚く御礼申し上げます」

口上は以上の通りである。これが今回の東福門院三百年御忌が執り行われた経緯である。本来ならばお声をかけて参列して頂くべきさらに多くの方々がおられるのであるが、何分にも会場である光雲寺の規模の上からも、百十人以内の方々に限定せざるを得なかった。参列して頂けなかった法縁の皆様方にはお詫びを申し上げます。

またこの機会に、光雲寺所蔵の東福門院と中興の英中禅師ゆかりの什物を写真と共に『東福門院と光雲寺』と題する本に収めた。秋の紅葉の時節にはまた特別拝観を予定しているので、ご希望の方はその際に購入可能である。

何はともあれ、今回多くの皆様方のお力添えにより、無事に晋山式・御忌・落慶式を行えましたことを、心より御礼申し上げます。

寛洲 合掌

「地蔵菩薩の悲願」(月刊コラム【No.95】2011年5月)

光雲寺にはお厨子に納まった地蔵菩薩の立像がある。以前から気になっていたのであるが、両手が取れるなど痛み方が激しかったものの、何ともいえない品格のあるお顔の相好(そうごう)である。ちょうど「京の冬の旅」の長期拝観により皆様方からのご志納を頂いたので、そのお像を修復することにした。修復を依頼した仏師は、東福門院様の聖観音像念持仏の時と同様、由谷倶忘師である。

修復がなったお像を拝見すると、ますます気高く見えて本当に修復してよかったと納得した次第である。由谷師も「いいお顔ですね」と感嘆しておられた。来客の方々も例外なく驚嘆の声を上げられる。ただ残念なことには、このお像の由来を示すような記録は修復に際して見つからなかったということである。耳から推察するに南北朝時代、すそを見ればもう少し時代が下る、恐らくは桃山時代の製作年代でしょうということであった。

地蔵菩薩で思い出す話がある。江戸中期の臨済宗中興の名僧である白隠慧鶴禅師の高弟であった東嶺円慈禅師は、「八歳の時に父に従い山寺に行き、地蔵菩薩が地獄の衆を済度すること限りない図を見て心に憧れ慕う気持ちを生じ、自分も地蔵菩薩のように苦しむ衆生を救いたいものだと思いました」と師に述懐したところ、白隠禅師は、「わしは地獄の苦悩を怖れて出家したが、それはわが身ひとりの解脱を求めるものであり、師匠であった正受老人から厳しく叱責を受けた。奇特なことに、お前の初発心は衆生済度に邁進する菩薩の悲願を具備するものであり、わが師、正受老人の意にかなうものである」と大いに賛嘆されたという。

地蔵菩薩は釈尊の付嘱を受け、弥勒の成道に到るまでの無仏の世に住して、声聞の出家の姿をもって衆生を教化する菩薩である。わが国では平安時代中期以降、観音信仰と並んで盛んとなり、重要な民間信仰となった。この菩薩が幼くしてあの世に召された子供たちを救う賽の河原の救護者として子安地蔵・子守地蔵などとして理解されるのは俗説であるが、いまでも京都などの関西の町々では盛夏の頃に地蔵盆が行われている。子供たちの無事息災を祈願する子供たちの祭りといってよい。

「一切衆生を果たさなければ、自分は菩薩界には戻らない」という高邁な悲願を立てて、本来は子供たちのみならず苦悩する人々を救うという地蔵菩薩が、今回の東関東大震災の悲惨極まる惨状をご覧になったら一体どのように思われるであろうか。

自らが莫大な利権に群がりたいがためにかくも危険な原発を野放しにしてきたこれまでの政府や電力会社や御用学者たちを、厳しく糾弾されることは間違いあるまい。「想定外」という言い訳に終始する責任者たちを決して許されることはないであろう。大災害は想定を遥かに超える規模で起こるものである。殊に原発の如きは、いったん壊滅的な打撃をこうむれば、わが国全土はもとより、人類全体を滅亡の淵に追い込む危険をはらんでいる。

今回の大震災以来、原発に関する色んな書物を読んだが、すでに何人もの人たちが以前から声高に警告を発していたことを知った。作物を作れない農家の人たちや放射能のために故郷の地を離れることを強制された人々の苦悩は如何ばかりであろうか。破損した原発の状況は予断を許さないが、何とか一日も早く解決して頂きたいものだと、地蔵菩薩の大慈大悲に祈願せずにはいられない。

(なお、修復がなった光雲寺の地蔵菩薩像は、11月21日より12月4日までの京都観光協会主催の秋の紅葉の特別拝観の際に、皆様方のご覧に供する予定でおります)。

「東北・関東大震災」(月刊コラム【No.94】2011年4月)

本年1月8日より始まった京都市観光協会主催の「京の冬の旅」の長期にわたる特別公開は、3月21日をもって終了した。この73日間の期間中、一万八千人以上の方々がお見えになり、光雲寺を中興された東福門院様(大河ドラマの主人公である「お江様」のご息女である、徳川和子様)の遺徳を偲び、また光雲寺の境致を味わって頂いたかと思う。ご来訪の皆様やお力添えを頂いた関係各位には厚く御礼申し上げたい。

その63日目の午後3時前のことである。東北地方から来訪中の方々の携帯電話が一斉に鳴り響いた。東北で大地震が起こったという緊急の連絡であった。マグニチュード9,0というわが国史上未曾有の大地震によって次第に明らかになった被害は、かなりの広範囲に及び、甚大な津波被害に加えて、原子炉発電所の深刻な大事故により放射能汚染が広まり、これからの復興が非常に困難となることが予想される。

NHKを初めとするテレビなどの報道各社は、「亡くなった方と届け出があった行方不明者とを合わせると2万数千人になる」などとばかり言っているが、津波の押し寄せるあの映像を見る限り、一家ごと流されて届け出など到底できる人もいない家庭が数多くあることは容易に想像できる。沿岸ぞいの各町のかなりの人たちが行方不明になっており、そうした市町村が30ばかりあるという。あるインターネット情報によれば、死者の数は16万人にものぼるとも言う。マスコミはどうして真実を覆い隠そうとするのであろうか。

小衲は以前から原子炉建設の際などの被害想定値があまりにも低く常識的なのを危惧していたが、今回も福島原発では、識者から1100年以上前の貞観地震の例を挙げて危険を指摘されていたにもかかわらず、東京電力や国の機関が言を左右にして素直に受け容れなかったという。津波も30メートルを越えたところもあるという。大災害は予想を遥かに超えるのが通常である。ことに原発などの被害はひとたび起こってしまえば甚大な被害をもたらす。あまりにも甘い想定をもってこと足れりとしていた東電や国(特に自民党政権)は厳しく糾弾されてしかるべきであろう。

その他の地方も他人事(ひとごと)ではない。小衲は阪神大震災の直後の惨状をつぶさに見た経験から、木造建造物の多いここ京都でもしあのような大地震が起きたらと危惧し、平成18年夏の住山以来、光雲寺の建造物の耐震強度を測定してもらったところ(ちょうど姉歯氏の耐震強度偽装が世間を騒がせた直後のことである)、驚くべきことに、書院は0,2、方丈に至っては0,02という「ほとんど強度がない状態」であった。

京都市内の花折断層南部が動いたのは弥生時代だと言われているが、地震活動が活発化した昨今の状況を見れば、いつまた起こっても不思議ではない。早急に資金を集めて耐震補強や耐震新築をしたことが決して杞憂とはいえないことを、今回の大震災は示しているといってよい。120年前の濃尾地震でマグニチュード8,0という内陸部地震としては最大の規模の地震に襲われた濃尾(美濃・尾張)地方でも、「またいつ大地震が起こっても不思議ではない」と思い、しっかりした耐震補強をした禅宗の寺院を知っている。地震大国のわが国ではいつどこででも大地震が起こりうるのである。

それにしても、天皇陛下ご夫妻は、那須の御用邸のお風呂を被災者に開放され、宮内庁病院へ震災の患者を受け容れ、皇室向けの食品類を提供されておられる。しかもその上に連日時間を決めて自主停電を行っておられるということである。何という心のこもったお心配りであろうか。阪神大震災のあとでも、被災者の人たちを慰安するためにオーケストラによる演奏会を開いてくれるようにと、皇后陛下が決して潤沢とはいえぬ皇室の会計から多額の費用を出して懇願されたという秘話を、小衲は確かな筋から聞いたことがある。

大地震に大津波、その上に原発の一向に解決のめどが立たない状況を見れば、先行きは決して容易ではない。未曾有の大災害に対して、日本全国ばかりか世界中が色々と支援を表明している。私たちも総力を結集して、分に応じて東北・関東の人たちを支援し、一日も早く被災者の人たちが笑顔で暮らせる日が到来してほしいものである。合掌。

(なお、特別拝観中の浄財のすべてと志納金のいくばくかを日本赤十字を通じて義援金として送らせて頂きました。お力添え頂いた皆様がたには厚く御礼申し上げます)。

「板倉家と光雲寺」(月刊コラム【No.93】2011年3月)

専門道場で修行生活に入って五年目の弟子が、半年ぶりの暫暇を頂いて光雲寺に戻ってきた。道場の生活に次第に慣れてそれなりの風格らしきものが身につき始めてはいるが、師匠である小衲の眼から見れば、弟子の日常の一挙一動には動きに無駄があり、禅定を練っている修行者らしからぬ騒々しさがある。師匠によってはなるだけ弟子には暫暇をさせないという方もあると聞くが、小衲はやはりときおり暫暇して師匠の点検を受けることが必要だと感じるのである。

あまり修行経験のない者を厳しく注意すると、落ち込んだり恨んだりしかねないが、道場でいろんな失敗をして至らなさを叱責されるという洗礼を経ておれば、師匠の事細かな注意や小言も、「なるほどいわれる通りです」と感謝して真受けにできるようになるものである。こういう師弟の交わりを通じて向上するのは、弟子ばかりではあるまい、師たる者も同様である。弟子をもつ身の有り難さを感じる瞬間である。

先月のコラムでは『常山記談』に言及したが、武士でも、日常の心がけが武士の鑑(かがみ)となるような勝れた人物が何人もいたことが知られている。板倉周防守(すおうのかみ)重宗(しげむね、天正十四年ー明暦二年、1586ー1657)は江戸時代初期の譜代大名で、父である板倉伊賀守勝重(かつしげ、天文十四年ー寛永元年、1545ー1624)のあと、京都所司代の重責を担った板倉宗家第二代の人物である。

この重宗がいかに勝れた人物であったかは、『常山記談』に、「周防守重宗、京都の職にあること凡そ三十余年、人敬うこと神明の如く、愛すること父母に似たり。父子まことに同じ名臣とぞ聞こえし」とあるように、神のように敬われ、父母のように敬愛されたということからもよく分かる。いまどきの政治家でそのような人物が果たしているであろうか。

比較的知られた話ではあるが、この重宗は京都所司代になって毎日決断所に出向いて訴訟の裁定を行う際に、西に面する廊下ではるか彼方を伏し拝み、決断所には明かり障子を目前にすえ茶臼をおいてそれをひきながら訴えを聞いたという。当時の人はみな不審に思ったが、はるか後になってそのことを問う人に対して、重宗は答えていった、

「まず決断所に出るとき、西に面する廊下ではるか彼方を伏し拝むのは、愛宕山(あたごさん)の神を拝するのである。多くの神の中でもことに愛宕は霊験(れいげん)があると聞き及んでいるので、願うところがあってそのように拝するのである。その所願とは、今日重宗が正邪を判断するにあたり、できうる限り私心を捨てるように致しますが、もし誤って私心を差しはさむようなことがあれば、たちまちわが命を奪って頂きたい、と毎日祈り誓うのである」。

さらに重宗はいう、臼で茶をひくのは、心が定まって静かなときには手もそれに応じて臼が平らかに回り、ひかれた茶もいかにも細やかである。そのことでわが心も不動であると知って、その後、ようやく訴えを判断するのである。また明かり障子を隔てて訴えを聞くのは、人の顔を外見から判断して先入見をもってみては真の裁きができないからである。昔の訴訟を聞くのは当該者の顔色を見てしたというが、それは自分が及ぶところではない。わが身の生殺与奪を握っている人物の面前では萎縮していうべきこともいえずに罪科(つみとが)にあう者もあるであろうと思えば、所詮は互いに顔を見ることも見られることもなくした方がよいと考えて、障子で座を隔てるのである、と。

まことに重責を担った重宗の細心の心配りのほどがこの言葉からよく分かるのである。これほど綿密周到な自己反省をする人は本当に稀であろう。ひとはともすれば何か問題があれば、自己を是として他を非とし、何事も他人のせいにしがちである。お互い心したいものである。

実は板倉周防守重宗をこのコラムで採り上げたのは、いまひとつ理由がある。わが光雲寺中興の英中玄賢禅師(寛永四年ー元禄八年、1627-1695)が板倉家のご出身で、板倉家歴代の位牌が祀堂檀(しどうだん)に祀られていることが判明したからである。そのきっかけは、もっか「京の冬の旅」の特別展の会場で展示中の、「光雲寺幟(はた)観音記」である。

英中禅師(幼名、板倉藤次郎)の養父の板倉重吉の母は、重宗の父である勝重の姉であった。重吉は関ヶ原の戦いにおいて井伊直政の麾下(きか)として大いに力戦し、敵の首級を獲て、その幟が血で染まるほどの活躍をして、その勇猛のほどが鳴り響いたといわれる。

藤次郎が出家して英中禅師として大成され、その後、東福門院の帰依を受けて大明国師の古道場・光雲寺を再興するに際して、禅師は画僧の友禅に依頼して、亡父の追福のため亡父伝来の血染めの幡に観音像を画かしめ、「幡観音」と称された。

重宗の弟で島原の乱で戦死した重昌の子であった重矩(しげのり、元和三年ー寛文十三年、1617ー1673)は京都所司代となってから、勤めの暇に光雲寺に詣(もう)でて、英中禅師を板倉家累世の親戚として厚遇した。そして祖父であった勝重の三条の邸宅を喜捨して光雲寺に移築し、祀堂として板倉家代々の位牌を安置した。英中禅師も重矩の至孝の志に感じて、常に香華を供え、幡観音を祀堂に掲げて敬礼されたという。

方丈として移築された板倉勝重の邸宅はすでに天保年間に取り壊され、幡観音の所在も不明であるのは実に残念で、中興禅師と板倉家一族に対してまことに申し訳ないことである。板倉家の位牌のいくつかはもっか修復中である。徳川将軍歴代の位牌と共にお祀りする日が遠からず来ることであろう。

光雲寺は東福門院三百年御忌に向けて寺院整備を何年にもわたり行ってきた。しかし禅門で真に肝要なことは、道骨ある気鋭の弟子の育成である。折しも六十歳で発心して出家を希望する剣道七段の人が、四月から光雲寺で修行する予定である。祖師方や先人たちの深恩に万分の一でも酬いるために、光雲寺の一同、微力を尽くしたいと願っている。皆様方のますますのご法愛をお願い申し上げます。

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