「数息観の勧め」2018年4月【No.178】

この冬は厳しい寒さが続きましたが、春のお彼岸が過ぎると俄然温暖な気候になり、桜の開花は例年に比べていずこでもかなり早いようです。「哲学の道」の桜並木を借景とするこの光雲寺界隈でも、実に多くの観光客が花見に興じています。まさに頼山陽の「京の四季」に歌われるが如く、「春は花、いざ見にごんせ東山」という風情です。特に南禅寺境内から永観堂を経て「哲学の道」への道中はまるで歩行者天国のような賑わいです。

江戸時代の人達が質素で慎ましやかな日常生活を送りながらも、花見遊山などに汲めども尽きぬ悦びを見出していたことは、当時の人々の書いたものを読めば良く分かります。例えば、柳沢淇園(きえん)の著と伝えられる『雲萍(うんぴょう)雑志』には、「夏日の七快」として、「湯あみして髪を梳(くしけず)る。掃除して打ち水したる。枕の紙を新たにしたる。雨晴れて月の出でたる。水を隔てて灯(ともしび)の映る。浅き流れに魚のうかみ(浮かび)たる。月の差し入りたる」と列挙されていますが、このように何気ない日常の出来事をわが身の「快」(悦び)として受容するには、その人に心の余裕がなければなかなか難しいことでしょう。或いは逆に、そうしたささやかなことに新鮮な感激を見出すことで、その人に心のゆとりがますます醸成されてくるのかも知れません。

現代のわれわれにも花見の時節になれば確かに遊山に出かける人が多くいますが、果たして現代人は江戸時代の人達のような心のゆとりをもっているといえるでしょうか。むしろ人間関係や色んな物事が気にかかってストレスを感じて日々暮らしている人の方が多いように見受けられます。そういう人達に恰好の心の安らぎをもたらすことの出来るのが、数息観です。

小衲はいま何らの病にもかかっておりませんが、念のために三ヶ月に一度の血液検査を或る名医に受けております。それまでは人間ドックに毎年行っていたのですが、人間ドックというものに疑問を感じてからは病院にはとんとご無沙汰しておりました。現在はこの血液検査で身体の状態を詳しくしかも的確に説明して頂けるので、その先生のところへ通っている次第です。

先日伺ったおりに先生が眼を輝かせてこの様な話をされました、「或る禅宗のお坊さんが進行性の胃がんになったので、貴方は禅僧ではありませんか、もっと坐禅をされたらどうかと坐禅を勧めたところ、その禅僧が熱心に坐禅に励み、遂には進行性の胃がんが寛解したのです。免疫力が格段に増強したからです。禅は実にいいことをしていますね」と。程なくして、その先生の看護師さんから、「先生の患者さんで心の悩みのある人がおり、そのストレスからガンになられたと思われるので、その人に会って相談に乗ってやって頂きたいということです」と連絡がありました。自分で言うのも何ですが、うつ病やストレスの解消は小衲のもっとも得意とする領域です。肝心なことは、親身になってその人の悩みを取り去ってあげたいと心から願うことです。マニュアルなどはありません。そうした相手を思う心持ちが根本にあれば、方便は自ずからいくらでも出てくるものだと思います。

娘さんと一緒にやって来られた七十代後半とおぼしきその女性に対して、「ご家庭内の悩みがあなたの一番のストレスになっていますね。その悩みを忘れるために、呼吸をひとーつ、ふたーつと数える数息観をやってみられてはいががですか。何も足を組んで坐禅をしなくても、歩きながら蒲団の上に大の字になりながら、四六時中ひとーつ、ふたーつと丹田呼吸をすることです。成果を求めず、まるで赤子のような純な気持ちで心をこめて数息観を行って下さい。そうするとこれまで気がかりだったことが嘘のように雲散霧消するから不思議です。」と数息観を勧めました。白隠禅師も「臘八示衆」の初日のところで「無量三昧の中には数息を以て最上と為す」と太鼓判を押しておられます。小衲自身も数息観でえもいえぬ三昧の佳境に入った経験をお話し致しました。

そして「オーラの出し方」についても長年にわたる禅修行の経験から得られた私見をお話しして、「普通は自分にオーラが出ていないから出そうとしますね。それでは決してオーラは出ません。わが身が不幸せだと思い込んでいる人が幸せになろうとしても、理想と現実のギャップがどこまでも埋まらずに、幸せになることが出来ないのと同様です。オーラを出すことはそんな難しいことではないのです。すでに今の自分が充分にオーラが出ているんだ信じ切るだけで、即座にパーとオーラが出るものです。私はこのやり方でこれまで何人もの人達のうつを治してオーラが出るようにしてきました。いや、治したというのは語弊がありますね。私が治したわけではなく、その人がもともと持っている自身の輝きを気づかせてあげたに過ぎないというのが、本当のところです」と、この様にお話ししたのですが、話をしながら思わず法悦の境地が現前して、われながら実に楽しい時間を過ごすことが出来ました。

お二人が笑顔で帰られたあとで買い物に出たのですが、運転をしてくれていたスタッフが、すれ違ったお二人の醸し出す明るさに気づいたので、実はかくかくしかじかでと実情を話すと驚嘆の声を上げました。その後、そのご婦人は果たして数息観を継続しておられるのでしょうか。家庭の悩みに心をかき乱されることなく、ひとーつ、ふたーつと数息観を続けられれば、心の安らぎを得られることは疑いありません。乞う、数息観を継続されんことを。合掌。

「禅堂の修行生活(その4)」2018年3月【No.177】

建長寺僧堂時代の修行生活についてもう少し書かせて頂きたいと思います。専門道場の生活とは面白いものです。目の色を変えて工夫三昧に打ち込めば、それに相応した法悦の喜びがあります。「法悦の喜び」とは自己を空じた喜びに他なりません。これに反して、眼を外に向けて、他の修行者の行状を気にしたり、世間が恋しくなったりすると、修行生活は途端に苦痛となってきます。
すでに申し上げましたように、小衲は卓越した古人のように何とかして真の無字三昧に入ろうとして、草履や網代笠にも「無」と書き、一刻も「無」を忘れまいとしました。建長寺僧堂では禅堂内での正規の坐禅が終っても、午後九時から一応開枕(かいちん、就寝)して裏山の墓地で十二時まで夜坐をする必要がありました。しかしこの強制的夜坐の時間はあまりよい坐禅はできなかったように思います。十二時になって皆が引いてからが、いよいよ自分の自由坐禅の時間です。小衲は古くて由緒ある開山堂(昭堂)の建物の中に入って、常夜燈を目の前にして今度は誰にも気兼ねすることなく声を出して「無—、無—、無—」と拈提して無字に死に切ろうとしました。ふと気がつくと、いつの間にか一年上の先輩雲水が小衲の横に坐って一緒になって「無—、無—」をやっていました。朝の開定(かいじょう、起床のこと)は午前三時半でしたので、三時には禅堂に戻り、そのまま単布団の上で坐禅していました。
こうして充実した日々を過ごしていた頃、或る除策の日のことです。「除策」とは特別な休みの日で、その日一日は禅堂内で警策を使用して坐禅をすることなく、自由に時間を過ごすことができるのです。同僚の雲水達はトランプ遊びなどに興じていましたが、小衲は別段遊びなどは眼中になかったので、昭堂裏の濡れ縁に坐って石地蔵群と向かい合って、「無—、無—、無—」と無字三昧に余念がありませんでした。夕方になって皆の洗濯物を自発的に取り入れてたたんでいる頃から、次第にえも言えぬ心地になってきたのです。除策の日といえども、午後九時の開枕の作法の前に数十分の坐禅の時間があります。三昧境が育っていた私は、その短い時間を決死の覚悟で坐禅工夫に打ち込みました。二つの崖の上にかけられた丸木橋があるとしましょう。もし一歩でも油断をすると真っ逆さまに谷底に落ちて死んでしまうのは必定(ひつじょう)です。その命がけの一歩が「無—」の一回の拈提だという気迫で、小衲は目の色を変えて真剣に工夫に取り組んだのです。すると、何と不思議なことでありましょうか、瞬(またた)く間に実に深い禅定に入ることができたのです。すべてがあるがままで空じられる法悦が満身に充ち満ちたのです。しかしそれにも尻をすえずに、更に「無—、無—」と間断なく拈提を続けました。開枕の作法の後、除策の日は夜坐は休みでしたが、小衲は148段の石段をかけ昇って、開山大覚禅師と円覚寺開山無学祖元禅師の墓の前で朝まで徹宵夜坐して大いに禅定を練りました。
こうして十二月八日の釈尊成道ゆかりの臘八大摂心以前から、すでに脇席につけずに坐禅をしていましたので、横臥して寝ることを許されず坐禅三昧で一週間を過ごす臘八は、かなり骨が折れましたものの、坐禅中はまぶたを合わせることなく坐り込んだので、結局、臘八中に一度も警策で打たれることはありませんでした。雨あられのように警策を打たれた前の道場では、全く考えられないことでした。
こうして建長寺僧堂時代は修行生活が極めて充実していましたが、僧堂の老師と大本山建長寺の管長とを兼務しておられた湊素堂老師が、嗣法の師である竹田益州老師の懇請によりご自分が修行された京都の建仁寺に僧堂師家として戻られることとなり、また京都での修行生活が始まったのです。それに関してはまた来月お話し致しましょう。

「禅堂の修行生活(その3)」2018年2月【No.176】

小衲の鎌倉建長寺僧堂時代の修行生活について、いま少し語らせて頂きたいと存じます。個人的な体験に過ぎませんが、禅僧は空理空論ではなく自分自身が実体験したことを述べるべきものだと考えるからです。禅修行に関心のある方々にとって、何かのご参考になれば幸いに存じます。
小衲は京叢林で二年半の修行の後に、鎌倉の建長寺僧堂に再掛搭致しました。その経緯はすでに以前のコラムで申し上げた通りです。その僧堂では分別を絶した境地に雲水を追い込むために、「ご案内」・激しい警策・大声での叱咤激励など人為的な方法が採用されていたのですが、小衲にはそのやり方が向かなかったようで、本当の禅定(三昧境)に入ることは出来ませんでした。これはひとえにわが身の道心がその当時は不足していたが故に、周囲のことに気を取られて工夫三昧に邁進できなかったためで、決してその道場のせいではありません。
ところが和歌山での独摂心をした後に転錫して10月5日、忘れもしない達磨忌の日に建長寺僧堂に掛搭してからは、加速度的に工夫が純熟して来ました。転錫の身ゆえ背水の陣で修行生活に臨んだ小衲は、「四六時中の工夫三昧」をすべく、網代笠にもゴム草履にも「無」と書いて、一刻も「無字の工夫」を怠るまいと致しました。修行仲間の雲水の中には戯れに小衲のことを「無っさん」と呼ぶ者もおりました。僧堂では名前の下の一字で普段は呼び合っているからです。例えば、臨済宗中興の祖である白隠慧鶴禅師の場合には「鶴っさん」と呼ぶが如しです。自称する場合には、「鶴っそ」と謙称します。
さて、禅宗の修行は何も坐禅だけが工夫の時ではありません。「(坐禅を)せぬときの坐禅」(至道無難禅師)といわれる「動中の工夫」が非常に大切なのです。古人が「動中の工夫は静中に勝ること百千億万倍なり」と強調されたのは、静中の工夫、つまり坐禅中は誰しも工夫に打ち込もうとするでしょうが、坐禅を離れて日常生活をする上で工夫三昧を継続することはつい怠りがちになり、その結果として、なかなか工夫が純熟することができないのです。
「坐禅中は誰しも工夫に打ち込もうとするでしょう」といま申し上げましたが、実はそれがなかなか出来ずに雑念妄想に執われているのがほとんどの禅の修行者(出家在家を問わず)の実情です。と申しますのも、小衲の体験ではたとえ初心者でも真剣に坐禅工夫すれば、たちどころにえも言えぬ禅定に入ることが出来るはずだからです。ましてや四六時中の工夫を継続すれば、それこそ禅定に入らない方がおかしいと言える境地になります。
臨済禅の公案で初関として師家から与えられるのは、白隠禅師の「隻手音声」と並んで、中国唐代屈指の名僧である趙州禅師ゆかりの「無字の公案」です。「犬にも仏性が有りますか」と問われた禅師が「無」と応答された、その真境涯に到るために、一切の分別を放下して「無ー、無ー」と鈍工夫を続けていきます。無字の公案を工夫すること六年で痛快な大悟をされ、ご自分が編纂された『無門関』の第一則としてこの公案を掲げられた無門慧開禅師は、「昼夜提撕(ていぜい)して虚無の会(え)をなすことなかれ、有無の会をなすことなかれ」と、一切の分別を放下した無字の四六時中の鈍工夫を強調しておられます。
こう言うと、「四六時中の工夫など断じてできません」などと、口答えをする心ない修行者がいるものですが、そういう人は願心が不足しているので、師家のいうことを「真受け」に頂くことができないのです。小衲がこの点に関して良く言及するのが、浄土真宗の名僧・蓮如上人の在家の弟子で、越後新潟の赤尾の道宗の見事なまでの堅固な道心です。道宗は、「お上人が、おい道宗よ、お前独りで近江の湖水を埋めてみよ、と命令されれば、やらせて頂きます」という覚悟のほどを披瀝したそうです。「近江の湖水」とはあの宏大な日本随一の湖である琵琶湖のことです。できるできぬは問題とせずに、師匠の言われることを真っ正直に真受けして取り組む姿勢がいかにも貴いではありませんか。
小衲は23歳の大学院生の時に禅と出逢い、28歳で出家しましたが、25歳の時に山田無文老師が師家をしておられた神戸の祥福寺の一週間の大摂心に初めて参加致しました。その時は誰から教えられたわけでもないのに、自分の呼吸を「ひとーつ、ふたーつ・・・」と数えることに専念しました。いわゆる「数息観」です。僧堂での坐禅というのはずっと坐り続けるべきものだと思い込んでおりましたので、ひたすら坐り込んでいましたら、「おい、お前ら、在家の者が熱心に坐っているのにだらしがないぞ」という叱責の声を聞いて、ふと我に返ると、雲水さんたちは単箱の上に打つぶせになって休息中でした。小衲はいつ休憩時間になったのやら、全く分かりませんでした。唯ひたすら坐禅をして、異様な緊張の中で四六時中数息観をおこなっていた結果なのです。
周囲のことが全く気にかからないというのは、工夫する者にとっては一種の佳境と言えるでしょう。結跏趺坐の痛みも次第に気にならぬようになって参りました。五日目の午後に禅堂の中で信者さんからの供養のパンと飲み物が配られました。ところが小衲はそれを手にしたまま、食べることも忘れ果てて数息観に没頭していたようです。そのことに気づいたのは隣単の雲水さんが、「おい、君ずるいじゃないか。自分だけパンと飲み物を残しておいてあとで食べようというつもりか」という言葉を聞いて我に返った時です。わが身が工夫中であるという意識もなしに、それまで継続しておこなってきた工夫三昧の成果が期せずして現れたものと思われます。
大摂心が終わって大阪の阪急梅田駅に夕刻降り立ったときには、実にわが身の心境の変化に驚嘆致しました。まるで自分が霊峰富士になったような、大盤石の雄大な心境になり、周囲の出来事によって自分の心が乱されることがなくなったと実感したのです。あのまま万事を放下して僧堂に居残って修行に邁進すれば、短期日の間に一気呵成に見性ができたかも知れないのに、いまから思うと残念なことをしたものです。
わが身のこの経験から確実に申し上げることが出来るのは、たとえ初心の者でも脇目も振らずに工夫すれば、立ち所に大死一番して自己本来の真面目に目覚めることはさほど難しいことではないということです。禅の修行をする皆さん方は、どうぞ初心に立ち戻られて、純真な気持ちで鈍工夫に専念されて、痛快な法悦の境地を得られんことをご祈念申し上げます。

「師弟の交わり」2018年1月【No.175】

新年明けましてお目出度うございます。皆様方がこの一年、つつがなく過ごされますことをご祈念申し上げます。
昨年を回顧しますと、マスコミなどに一番取りあげられていた話題は、何といいましても米国と北朝鮮をめぐる政治状況の悪化でしょう。米国にトランプ大統領が誕生して以来、北朝鮮との間でますます険悪な状況が発生して、軍事的衝突も起こりかねない事態に立ち至っております。米国と北朝鮮とが戦争になれば、米軍基地のあるわが国にも甚大な被害が及ぶことが予想されます。場合によっては破局的状況に立ち至るかも知れません。どうかそのような愚かな結末を迎えることなく、何とか両国が平和的解決の方向に向かってほしいものでございます。
国内問題に関しては、日馬富士の貴ノ岩に対する暴行事件に端を発した一連の動きが世間の注目を集めました。特に相撲協会に対して、何の話し合いも妥協もしない貴乃花親方の頑迷さは連日のように報道され、危機管理委員会の委員長のみならず報道番組に出演した多くの識者たちの批判を集中的に浴び、その結果、貴乃花親方は「理事解任と2階級降格」という屈辱的な通告を相撲協会から受ける羽目となったことは周知の事実です。
しかし、何人もの人が指摘しているように、その場に同席して暴行を止めず報告もしなかった白鵬や鶴竜などが減俸の処置で済まされ、貴ノ岩の師匠であり巡業部長の貴乃花親方が相撲協会に報告しなかったという理由で、不公平に過酷な処置を受けたのは何とも腑に落ちません。聞くところによると、貴乃花親方は非常に弟子思いの親方だそうです。大切な弟子が理不尽な暴行を受けて憤慨するのは、親方として当然の心理でしょう。どうも貴ノ岩は本当に骨折しているとの噂があります。相撲協会に報告するよりも先ず警察に届け出て、この事件を徹底的に調べて欲しいというのも、至極まっとうな対応のように思われます。
貴乃花親方の相撲協会などへの接し方を見ていると、どうやら問題はわれわれの知らないほど根が深いもののように思われます。モンゴル人力士たちのなれ合いの集まりに愛弟子が行くのを貴乃花親方ははなはだ喜ばなかったということです。白鵬は四十回も優勝しているにもかかわらず、ビンタをするなどの横綱らしからぬ醜い立ち会いに「横綱の風格はない」と多方面から酷評されているのは周知の事実です。
不世出の名横綱、双葉山の時津風理事長時代を知り、栃錦・若乃花の名勝負を手に汗握ってテレビで見たわれわれ世代からすれば、白鵬の場合は勝つためには手段を選ばない横綱にあらざる浅ましい取り口にしか見えません。そうしないと勝てない状況に立ち至っているのでしょう。ここに八百長などの噂の入り込む隙があります。
しかし、一方では、不惜身命で孤高に徹する貴乃花親方の行き方もあまり不器用というか生き下手な気がします。あのような頑ななやり方では批判を受ける隙を自らが作っているように見えるではありませんか。孤危険峻で他人を近づけないやり方よりも、子供やお年寄りまでもが親しんで近寄って来る春風駘蕩な風格が、小衲には慕われてなりません。皆さん方はいかが思われるでしょうか。
貴乃花親方と貴ノ岩の師弟関係に思いを致すことにより、小衲は雲水修行時代に薫陶を忝(かたじけな)くした建仁寺前管長の湊素堂老師のことが偲ばれてなりません。小衲が他僧堂より鎌倉の建長寺僧堂に転錫して最初の参禅で拜をして退く時に、「私もあなたと同じような路を通ってこの仏門に入ったものです。もう一度生まれてきても、もう一度雲水になりたいと思っております」と穏やかに話されたそのお言葉を聞いて、バットで殴られたような衝撃を受けました。老師はインド哲学、小衲はドイツ哲学という相違はありますが、哲学に満足できずに実參実究の禅の道に入ったのは同様です。
背水の陣で臨んだ建長寺時代には、四六時中目の色を変えて工夫三昧で貫くようにして、かしわ蒲団に横になって寝る夜も少なかったように思います。大きな二人引きののこぎりで太い丸太を切りながら、「無ー」と間断なく工夫を続けて禅定の状態で茶礼準備に出向いた小衲の姿をご覧になり、思わず老師が反応を示され、茶礼の時に、三十人いた雲水の中で、小衲の名を呼ばれみかんを投げて寄こされたのも、師弟二人だけに分かる心のやりとりです。
また建仁寺時代に老師の隠侍を拝命してお仕えしていた折りに、老師の隠寮で自分の修行時代のことを話され、「しかし、もう一度生まれてきても、わしはもう一度雲水をやるぞ」と言われたので、小衲も思わず、「老師、私もです」とお答えしたところ、「高単さん」と呼ばれたので、怪訝に思って「えっ」と反応したところ、「今度生まれてくるときには新到で来ますけん、よろしゅうお願いします」と言われ、にこっと微笑まれました。
また或るとき、禅堂で坐禅の坐から降りて、時を知らせる板(はん)を打ってから参禅に出向くと、「さっきの板はお前か」と訊ねられたので、「はい」と申し上げると、「いいなーと思って聴いておったぞ。やっぱり分かるなー」と思いがけなくお褒めの言葉を頂いたことがあります。
しかし時には非常に厳しい言葉で叱責を受けたことがあります。 わが身の恥をさらすことになりますが、一番忘れることができないのは、何といっても老師から骨身にこたえる痛棒を頂戴した思い出です。当時の老師は七十数歳ほどであられたでしょうか。或る日、薬石(夕飯)を持って参上すると、老師はぬい針で法衣を繕っておられたのです。「あれ、老師が把針をしておられる」と思った途端、「お前、何を見ているんだ。さっさとお膳を置いて引き下がらんか」と語気鋭く言い放たれたのです。
薬石が済んだ合図のベルで再び参上するやいなや、老師は実に厳しいお顔をして目を潤ませられながら、「わしは先師・古渡庵老師に繕い物などさせたことは決してなかったぞ」と、実に骨随に徹するお言葉を頂戴しました。わが身の至らなさに恥じ入り、一言の言葉も発することが出来ずに、小衲はただ黙してひれ伏すほかありませんでした。
色々と素堂老師との師弟関係について述べて参りましたのは、師弟の交わり、特に禅修行における師弟の交わりは余人のうかがい知ることの出来ない情濃(こま)やかな格別のものがあるということです。そのことから思いますに、貴乃花親方と貴ノ岩の師弟関係も他人では分からない深いつながりがあるかも知れません。一度貴ノ岩関に聞いて見たいものですね。

「禅堂の修行生活(その2)」2017年12月【No.174】

小衲は最初掛搭した京叢林を結局2年半で下山致しました。そのきっかけとなりましたのは、あまり警策をもらいすぎて背骨に違和感を感じ、医者に診てもらってところ、背骨が変形していると言われたので、このままではいけないと思い、転錫を決意致しました。同夏(同参)の中には、一年で一番峻烈な臘八大摂心で警策を打たれまくって、臘八後の開浴(お風呂)の際に恒例として禅堂内の最高位の直日(じきじつ)さんが背中を流してくれることになっているのですが、彼の「ノートルダムのせむし男」のように打たれて曲がった背骨を見て、さすがに顔色を変えてすぐに病院に行かせた人がいます。彼はそのことがあってすぐに下山しましたが、7人の同夏(どうげ)で最後に残った小衲も、「これは別の僧堂に転錫した方がよい」と思い、師匠に相談の上、下山を決めた次第です。

鎌倉の建長寺僧堂に転錫したきっかけとなりましたのは、最初の僧堂の役位の一人が、「本当に見性しようと思うのなら、湊素堂老師の建長寺僧堂に行った方が良いよ。素堂老師は公案をなかなか許さないそうだよ」と助言してくれたからです。師匠の長岡禅塾の浅井老師からも「湊素堂老師は坐禅しすぎて足がこんなに曲がっている」という話をお聞きしたことがありました。ただ鎌倉に行く前に独摂心をしようと思い、和歌山県の古座川上流の知り合いの家を借りて一ヶ月ほど坐禅をしました。盤珪禅師や白隠禅師の独摂心を模範として、お粥だけで過ごし、「盤珪さんのように大岩の上で坐ろう」と思い、探しましたが、恰好な岩を見つけることはできませんでした。

夜中に豆電球をつけて坐禅をしていると、何やら天井からボタッと生き物らしきものが落ちて来ました。てっきりこれは昼間見た蝮(まむし)かも知れないと思い、電気をつけると、それは大きなムカデでした。山中での住まいではこうしたことはよく起こることでしょう。そうこうするうちに、僧堂に掛搭する日が迫ってきました。雪安居(せつあんご)に掛搭するためには10月初旬には掛搭する必要があります。小衲は10月5日の達磨忌の日に再掛搭致しました。

排水の陣で臨んだ建長寺僧堂では、なるだけ坐禅して動中にも公案工夫を続けるように努めました。同夏は3人いましたが、32歳の小衲が一番年少でした。素堂老師に初めて参禅した時の感激は忘れることができません。老師は、参禅が終わって拜をしている小衲に向かって、「私もあなたと同じ道を通ってこの禅門に入ったものです。もういちど生まれてきても、もう一度雲水生活をしたいと思っております」と実に穏やかな声で語りかけられました。老師はインド哲学を学ばれ、小衲はドイツ哲学からという違いこそあれ、いずれも哲学畑に飽き足らずに実参実究の禅の道に転じた経緯があります。小衲は思わずバットで殴られたような衝撃を受け、「この老師にずっとついていこう」と決意致しました。

建長寺僧堂時代は結局素堂老師が京都の建仁寺僧堂の老師として遷られたので、わずか半年ほどの期間でしたが、小衲にとっては非常に実り多い僧堂時代であったと申せます。それにつきましてはまた次回にゆっくりとお話し致しましょう。

 

「禅堂の修行生活(その1)」2017年11月【No.173】

禅宗の僧堂での修行の有様について訊ねられることが時たまあります。禅修行が厳しいということは一般に良く知られておりますが、一般には門戸を開放していない僧堂の修行生活に関心を持ち。厳しい修行を経験してきた禅僧に対して畏敬の念をもつ人があるのも事実です。ただ小衲が僧堂に掛搭しましたのは四十年以上も前のことですから、僧堂の現状はその当時とはだいぶ様変わりしていると思わなくてはなりません。そのことを念頭に置いて頂いた上で、小衲が自分で実際に経験した僧堂生活について、いささかお話し申し上げます。

この場合の「禅宗の修行生活」というのは臨済宗の修行生活です。曹洞宗や黄檗宗などの修行生活の経験は、小衲は持ち合わせておりません。ただ曹洞宗出身者で臨済禅の修行をする人は、道元禅師の影響でたまに見かけますが、そういう人から聞いた話では、曹洞宗は一般的にはどうやら臨済宗ほど修行が厳しくないようです。

小衲が最初に掛搭した京都の或る僧堂では、粥座(朝食)のお粥の分量が二十人で、米一合と麦一合の計二合だったのには驚きました。あまりにも少ないと思い、後に典座という料理係になったときに三合に増やしましたら、上の人に「多すぎる」と注意されて、元の二合に戻しました。その次に転錫した道場では、粥の分量がたっぷりとありましたが、前道場のことを思うと、勿体なくて咽に入らない思いがしました。典座当番の人には、「沢山食べないのを美徳にように思っている者がいる」との批判を受けましたが、食べようにも咽に入らなかったというのが実情でした。

僧堂では開静(かいじょう)時間が午前3時半で、午後9時から11時までは禅堂の外で夜坐をしますから、睡眠時間は一番寝る者で4時間半ですが、みんなが寝静まってからも夜坐をするようでなくては道心あるとは言えません。小衲も大摂心(一週間の坐禅集中期間)の前から最中も夜坐を延長していたせいで、止静中にときおり無意識のうちに居眠りが出て警策で思い切り打たれた上、単蒲団から降りて敷き瓦の上に直接坐るように命じられました。それでもほとんど寝ていないので、いつのまにか居眠りが出たようです。縦警策といって樫の警策の握りの太いところで首筋にドンとばかり縦に打たれて横に吹っ飛び、「よっさん、お前はもう駄目か」という痛罵を浴びたことを記憶しております。「これでは身体がもたない」と思い、あまり極端に睡眠を削るのを中止してからは、そのようなことがなくなりました。

在家の方々から見れば、何という乱暴な修行かと思われるかも知れませんが、師匠の指示で入門した道場です。ちょっとやそっとのことで退くわけには参りません。ただ一番最初に掛搭した道場は「心臓が抜けるほど」と形容されるような警策や罵声の連続で、あまり本来の公案工夫に集中できなかったように思います。もっともこれは僧堂のせいというよりは、それに気を取られて工夫を十分できなかったわが身の至らなさが原因です。

参禅のあとでまた何人かで「もう一度参禅してこい」と数人がかりで室内に送られるいわゆる「ご案内」と呼ばれる慣習も、小衲にはあまり有難く感じられることがありませんでした。結局、同夏と呼ばれる同参の7人のうちで最後に残ったのは小衲だけでしたが、それも警策をあまりに打たれたせいで、背骨が変形してしまい、師匠に相談の上で、別の僧堂に転錫することを決意致しました。(続く)

(なお、11月の月例坐禅会は本山の開山忌などの都合で、5日の第一日曜日と19日の第3日曜日となります。)

「看月亭と閑雲庵」2017年10月【No.172】

大本山南禅寺からの要請で「南禅寺禅センター」という看板を掲げて年間一万五千人に及ぶ拙寺の光雲寺には多くの方々が見えられます。そうした人達の中には、紅葉や桜の時節のような繁忙期には京都に来たくともなかなか宿泊所が見つけにくいという人や、ときには光雲寺に泊まって坐禅や文化体験をしたいという方もおられます。そうした方々のために是非ともご紹介したいのは、光雲寺の境内地で「京都文化協会」と「葵ホテル&リゾート」とにお貸ししている500坪ばかりの土地にあります、「看月亭」と「閑雲庵」という二棟の建物です。

この二棟の名前は京都文化協会から依頼されて小衲が名前をつけ、南禅寺の管長猊下に揮毫して頂いたものを、ちょうど手持ちの栂(とが)の木を使って知り合いの神戸在住の扁額作成に堪能な和尚様に依頼して彫って頂いたものです。「看月亭」と名づけましたのは、東山を借景にしたこの庭から見る月や星が実に見事だからです。「閑雲庵」と名づけましたのは、のどかな雲のようなゆったりした気持ちで宿泊して頂きたいという気持ちからです。

「京都文化協会」と「葵ホテル&リゾート」さんのご尽力のお蔭で、このたび見事にこの二棟が見違えるように生まれ変わりました。いずれも一棟貸しです。葵さんの支配人さんは「この看月亭はおそらく葵では一番のところだと思います」と感激の面持ちで述懐しておられました。七代目小川治兵衛(通称、植治)作の庭も、作庭の権威であられる尼崎先生のご指導のもと整備され、面目を一新しました。背景には哲学の道があり、桜の時節には見事な桜並木をご覧頂けますし、錦鯉の泳ぐ池のある庭には紅葉が何本もありますので、11月下旬には見頃となります。

看月亭の改修工事を施工したのは京都宇治のツキデ工務店です。檀家総代さんのお宅がこの工務店の施工した新築で、その伝統的工法を見て、小衲がこの工務店ならと思い、ご紹介したのです。多くの工務店との交流のある葵さんの支配人さんも、「ツキデ工務店さんはとても綿密で仕事が丁寧です」と感心しておられました。皆さんもご覧になれば、きっとその施工の素晴らしさに感嘆されることでしょう。

葵さんはさらに隣接する家を購入されて「酵素風呂」を運営されることを計画中です。ご存知の方も多いようですが、嵯峨嵐山にある「酵素風呂」は酵素でおがくずを温めてそれに15分ほど入るというもので、健康にとてもよく、特にガン患者さんには効果があるといわれております。小衲も何年も前から時折行っておりましたが、葵さんが酵素風呂に関心がおありになるということをお聞きして驚きました。葵さんは酵素風呂を交通の便のよいこの場所に設置して多くの人々に利用して健康になって頂きたいという願いをもっておられるようです。市川海老蔵さんも「南座の講演のあるときに酵素風呂に入ると頑張り通せます」といっていたそうです。

以上で光雲寺の「看月亭と閑雲庵」および「酵素風呂」のご紹介は終わりますが、宿泊などご希望の方は「葵ホテル&リゾート」さんの方にお電話頂ければ幸いに存じます(075-354-7770)。

なお、今月のコラムはパソコンの不具合で公開が遅れましたことをお詫び申し上げます。

参考リンク:京都の町屋宿泊 葵 KYOTO STAY

「工夫三昧」2017年9月【No.171】

先日柴犬(名前を小梅と申します)を連れて朝の散歩をしているときのことです。同じように犬を散歩をしておられ時々お目にかかるご婦人が、「和尚さん、私のこの歳でも坐禅できますか」と訊ねて来られました。鹿が谷通りにある光雲寺の石柱には、「毎土曜日午後8時より9時まで夜坐禅があります。費用は無料です。希望者は申し込み不要で、午後7時50分までに坐禅会場の仏殿にお入り下さい」という表示があるので、それをご覧になってのことでしょう。

聴けば、ご婦人は74歳になられるということです。「私はどうも生来のいらちで、一生この状態で人生を終えるのかと思うと残念でなりません.坐禅で何とか治らないでしょうか」という切実な悩みです。「いらち」とは京都や大阪で使われている方言で、「すぐにいらいらしてせっかちで短気な人」という意味です。「さもありなん」(そうでもあろう)と思いました。顔に険(けん)が走っておられたからです。

すぐに切れる短気な人や、何でも他人のせいにして人を批判するような人は、顔の表情にとげとげしさが表れてきて、骨相が悪くなるのは自然の成り行きでしょう。その反対に、常に穏やかでゆったりとして他人のことを思いやる心持ちの人は、期せずして逢う人を和ませるような徳風を身につけておられるものです。小衲は長岡禅塾在塾時代に、妙心寺管長になられた山田無文老師が森本省念老師を訪問された際、「老師はおられますか」と笑みをたたえられて小衲にお尋ねになった時の円満具足されたお顔つきを忘れることができません。

さて、坐禅で何とか自分のやっかいな性格を治せないかと希望されたかのご婦人は、とはいうものの腰痛持ちということなので、小衲は足を組まなくてもよい「せぬときの坐禅」(至道無難禅師)、言い換えれば、四六時中行住坐臥の工夫という「坐を組まぬ坐禅」を勧めました。「無字三昧の工夫」を勧めたのです。「すぐにいらいらされるというのは、眼がいつも外にばかり向いているからで、他人やまわりの物事にすぐに反応して色んな感情を起こされるので、そのように心を乱されるのです。そのように普段は外ばかり向かっている心の眼を転じて、回りの物事や他人のことが全く気にならないくらい自分の心を充実させることが大切です。そうした心境に到るためには、四六時中『無—』と唱えらることに集中されることをお勧めします。心をこめて熱心にやっておられると、いつの間にやら心の雑念妄想は一掃されて、実にすがすがしい心境になりますよ」と。

参禅経験もない人に無字の公案の工夫を勧めるとは思う向きもあるかも知れませんが、無字の工夫はもっとも禅定に入り易いというのは小衲自身の実体験に基づいています。無学祖元禅師や無門慧開禅師やわが国の白隠慧鶴禅師もみな無字三昧の工夫によって大死一番され、自性を徹見されております。たとえ初心の人であっても心をこめて真剣に工夫すれば、思いのほか深い境地に達することが可能です。これは建仁寺前管長の湊素堂老師も同じことを言っておられたことを記憶しております。小衲の坐禅会でも、四六時中の工夫三昧の心がけて、なかなか心境が進んでいる人が幾人かおられます。

工夫三昧の生活をしていると、色んなことに関して念が起きにくくなります。臨済義玄禅師は「念を起こすな。念が起きたら二念を継ぐな。もしそのような工夫ができたら十年間専門道場で修行した以上の成果があるぞ」と喝破しておられます。この数日間、光雲寺の東側の土地(といっても以前は境内地であった場所です)の雑草が大層はびこってご近所の人々が難儀しておられましたので、かなり広範囲に伸び放題の雑草を草刈り機で二日がかりで刈り込み、総勢5人で掃除致しました。

「お寺の仕事もいくらでもあるのに何も頼まれもしていない外の刈り込みをしなくてもよいではないか」と考える者がいても不思議ではありません。しかし当該寺院の日常生活の方針は時の住職の意向や指示に従うべきものです。不満があれば下山すれば良いことです。
草刈り作務三昧の時間を雑念を起こさずに淡々とやり終えたあとの心地よいこと、ご近所の人々が「有難うございます。おかげで綺麗になりました」と喜んでお礼を言われると、さらに清々(すがすが)しい気持ちになります。大本山南禅寺でも内局の和尚様方が毎朝本山の掃き掃除をしておられることを感心していた在家の知り合いがおります。下手な説法や法話をするよりも、率先垂範してお寺の内外を清浄に保つ方がよほど「以身説法」になりはしないでしょうか。その逆に、門前の伸び放題の草引きすらしない有名観光寺院のことを痛烈に批判する人もあります。

大切なことは、出家にしろ、在家にしろ、日常生活において念を起こさずに淡々と足を地に着けて毎日を過ごすことではないでしょうか。それがなかなか難しいという人には、かのご婦人に対してのように「無字三昧の工夫」をお勧め致します。四六時中行住坐臥において成果を求めることなく鈍工夫をして「無—無—」となり切ってやっていけば、自分でもびっくりするような痛快な境地に達することができます。まだそのような経験のない方は一度打ちこんでみられてはいかがでしょうか。

「禅の行履」2017年8月【No.170】

今月の標題は一般の方々にはあまりなじみのない言葉かも知れませんが、「禅の行履(あんり)」と読みます。禅の起居動作や一切の行状を指すものです。もとより小衲がこの「禅の行履」を存分に行じているかと申せば、なかなか到らぬ事ばかりで、とても他人様(ひとさま)に対して公言できるようなものはございません。しかしながら、日々行う坐禅や作務や典座(てんぞ)などの務めを、なるだけ心をこめて行うようにしているということは言い得るかと思います。

例えば、拙寺の光雲寺では、住職である小衲が、畑で取れた無農薬の野菜を使って色々と調理を致します。世間では「おさんどん」と呼ばれてさげすまれたこともあった台所係のことを、禅宗では「典座」と呼び、古来から修行の積んだ僧が行うことになっております。色々と無駄の無いように工夫して、みんなに喜んでもらえるおいしい料理を心をこめて作ることは、確かに楽しい充実したひとときです。住職である小衲が料理を作るというのは、なるだけ身体によい有機の無農薬野菜や無添加調味料を使用したいと思うからです。他人に任せていたのではなかなかそういうわけには行きません。

日頃お世話になっている塔頭寺院や知り合いに無農薬野菜をおすそ分けすると、大いに喜ばれますが、時には自分の手料理を差し上げることもあります。これは亡き母のそうした姿が脳裏に焼き付いているからかも知れません。今の時節になると毎年、畑で取れたジャガイモや玉葱や胡瓜などを使ってポテトサラダやビシソワーズ(ジャガイモの冷製スープ)を数回作ります。ゴーヤチャンプルなどは幾度となく作ります。

この7月から光雲寺には下宿者が2名増えたのですが、先日もポテトサラダやビシソワーズやゴーヤチャンプルを作ったところ、始めて食べた二人は「とてもおいしいです」と喜んでくれました。特にビシソワーズに関しては、小衲は何度も塩味をつけ直し水分を足すなどして、ようやく思い通りの味付けに到達することが出来ましたが、そのことを話すと、「老師の心を頂いている気がしました」と言ってくれたのは実に「わが意を得たり」の感を深く致しました。

「単なるジャガイモの冷製スープの味付けに過ぎないではないか」と見くびってはなりません。自分自身で本当に納得するまで安易に妥協せずに味付けに心を尽くすということは、大切なことではないでしょうか。以前にコラムで「天皇の料理番」と呼ばれた秋山徳蔵氏の「料理でも、つくるのは腕ではなく、けっきょく真心なのだから」という言葉をご紹介しました。秋山氏はまた「真心がつくる味」と題された一節で、「しかし、私にもしんからうまいと思って食うものがある。家庭のお総菜だ。これは、・・・(中略)専門家のつくる料理とは、全然別物なのだ。・・・(中略)何といっても、家で食べるものには真心がこもっている。しんから、うまいと思うのは、その真心のせいなのだ。」と言っておられます。

家庭のお総菜は、お母さんが愛しい家族のために心を尽くして作るので真心がこもっているので、もっともおいしい、全く別物だといわれるのです。これこそ料理の真のコツというものではないでしょうか。いや、料理ばかりでなく、日常万般生活の極意と呼ばれるべきものではないでしょうか。「禅の行履」というのはこの真心を日常の行住坐臥全般にゆきわたらせた「常に一直心を行ずる」ことに他ならないのではないかと思います。

(なお、例年の如く、月例坐禅会はお盆のために第2日曜日の13日は休会と致し、27日の第4日曜日のみと致します。毎土曜日の夜坐禅は休まずに行います。)

「王道と覇道」2017年7月【No.169】

拙寺には日露戦争でロシアのバルチック艦隊を撃滅した東郷平八郎元帥の墨蹟が二幅あります。両方とも小衲自身の所有ですが、そのひとつは「天與正義神感至誠」(天は正義に与[くみ]し、神は至誠に感ず)というもので、どうやら東郷元帥ご自身の造語のようです。「わしは、天祐や神助が、必ずあるものと、信じている。ただ、それは、正義あっての天祐、至誠あっての神助だ」と言っておられますが、そのお気持ちを言い表されたものでしょう。この墨蹟には、元帥に傾倒、親炙し、『東郷元帥詳伝』の著作のある小笠原長生(ながなり)海軍中将の箱書きがあるので、真筆と見て差し支えなかろうと思っております。

もうひとつの墨蹟は「以徳服人者中心悦而誠服也」(徳を以て人を服せしめる者は、中心より悦びて誠に服せしめるなり)という『孟子』(公孫丑上、岩波文庫版上巻132頁)の一句が書かれたものです。まことに乃木大将と共に至誠の人と称されて然るべき東郷元帥の揮毫されそうな名句です。乃木大将が明治天皇のご大葬に際して殉死したのを聞いて、東郷元帥は「見るにつけ聞くにつけても、ただ君の真心のみぞしのばれにける」と心からの哀悼の意を詠じておられます。

『孟子』の当該箇所にはこの句に先立って、「以力服人者非心服也、力不贍也」(力を以て人を服する者は、心服せしむるに非ざるなり、力贍[た]らざればなり)、つまり「武力で人民を服従させるのは表面だけで、心からの服従ではない。ただ力が足りないのでやむなく服従したまでだ」という言葉があります。この一段は、徳を以て治める「王道」と、表面だけは仁政のふりをしてその実は武力で威圧する「覇道」との根本的相違を、亜聖と称(たた)えられた孟子が説かれたものです。

古き良き時代の日本人は、このような東洋の聖賢の気高い教えを肝に銘じて日常を過ごされた方がおられたように思われます。そのひとつの典型的例が東郷平八郎元帥でしょう。元帥の偉大さはただ単に日露戦争での軍功のみによるのではなく、むしろ逆に、「天は正義に与し、神は至誠に感ず」という人生の一大信仰を堅持して、難局に際会してもいささかも動ずることのなかった元帥に、天が感応して勝利を賜ったのであろうと推測されます。元帥はまた、「愚直と笑わるるとも、終局の勝利は必ず誠実な者に帰すべし」とも言われております。

翻って現今の日本の政治家たちの体たらくは、目を覆いたくなるような情けないものです。特に現在の安倍内閣と自民党の面々の言動には、多くの国民が疑惑と失望とを禁じ得ないのではないでしょうか。姑息な言い逃れに終始する小人的政治家たちには、国家国民のために私心を捨てて奉仕するという微塵の「至誠心」も感じられないように思えるのは、小衲だけではないでしょう。山口県出身の安倍氏は『孟子』を獄中で講義して服役者たちを感化した吉田松陰の事歷をご存じないのでしょうか。

力や権謀術数に頼り切る者には天も神も味方せず、やがて天や神からも見放されることは必定でしょう。私たちも政治家たちの醜態を自らを顧みる恰好の材料として、いま一度「天與正義、神感至誠」(天は正義に与し、神は至誠に感ず)という東郷元帥の高邁な信条をしみじみと味わってみたいものです。

「鈍工夫再論」2017年6月【No.168】

拙寺である光雲寺では「南禅寺禅センター」としての年間1万4千人以上の坐禅研修者を受け容れている以外に、毎土曜の午後8時から9時迄の夜坐禅(無料)と月二回の月例坐禅会とを行っております。特に月例坐禅会はもう25年以上継続しており、毎回ではありませんが、ときおり新たな参加者が来られます。遠方からの来訪者も珍しくありません。

そうした中で、新潟県の魚沼市から来られた30代半ばの男性の方がいます。これまで数回来られただけなので、旧参の参加者もなかなか名前を聴いてすぐにお顔を思い出すのは難しいようです。その方から先日思いがけず工夫の充実と悦びと感謝の念に満ちあふれたメールを拝受致しました。

その男性は「二十代前半で禅に出逢ってからほぼ十年の間、日々の心得などで色々と迷い試行錯誤することがありましたが、老師にご指導頂き、無字の工夫の素晴らしさを実感できてからは、基本的なところで迷うことはなくなりました。」と述懐しておられます。

「無字の工夫」というのは、公案を使う臨済禅に参じた人の多くが老師から与えられる、「初関」と呼ばれる最も基本的な公案です。小衲は月例坐禅会の参加者には少なくとも半年は続けないと公案を与えませんので、この男性の工夫も小衲に参禅して公案を授かった上でのことではありません。初めての参加者には「随息観」か「数息観」をやってもらうのですが、坐禅会後の話の際には、「動中の工夫には無字三昧の工夫が一番乗りやすい」ということを自らの経験を踏まえてよく申し上げておりますので、この方も恐らくは小衲のその時の言葉を肝に銘じて日々工夫に励まれたに相違ありません。

しかし当方の垂戒を真受けして真っ正直に工夫に邁進する人は稀と言っても過言ではありません。この人が真摯に工夫されたことは「鈍工夫」ということに着眼されていることからも察知することができます。「ホームページで老師が『鈍工夫』について書かれているとおり、その時々の心境や体調、状況などに一喜一憂せず、呼吸に合わせて『無—』と続けていくと、おのずから色々なものが一番よい状態に整っていくように感じています。」

「鈍工夫」とは成果を気にかけず、周囲の出来事に心を動かされず、ひたすら馬鹿になり切って目の色を変えて四六時中公案工夫に心血を注ぐことを申します。南禅寺の南針軒・河野霧海老師は骨身を削って工夫に邁進された幕末生まれの名僧ですが、「今の若い人達はのう、ただ小賢うばかりなって鈍工夫というのが足らんからトンと定力が無うて困る。」と苦言を呈され、理屈を言わずに「無、無、無・・・と明けても暮れてもやるがええ」と親切に示されております。

何年も坐禅会に参加している人でも、こちらのいうことを真受けして精進している人は稀です。専門道場の雲衲もまた然りです。この新潟の男性は「老師にお会いして直接話を伺い、あるいはホームページを毎日のように拝読する中で、本当に多くのことを学ばせて頂いております。・・・あらためて、本当にありがとうございました。老師のお蔭で無字の工夫を続けていくことに迷いはなくなりました。また時間を作って光雲寺にお邪魔したいと考えております。今後とも、ご指導をよろしくお願い致します。」と実に素直な受け取り方です。このような態度で日々精進すれば、心の底からの安心を得ることも不可能ではないと思います。

小衲がよく提唱で申し上げることですが、「本当に願心のある人は、やれといわれなくても自分から進んで邁進する」ものです。老師などの助言や手助けを期待したり、指導が不充分だなどという不満や愚痴をこぼす人は、隙だらけの無道心の人と言えるでしょう。

禅の工夫に参じる人は、どうかこの男性のように、師家のいうことをそのまま真受けにして素直に工夫しさえすれば、法悦を体得することは間違いありません。浄土宗総本山知恩院の国宝・御影堂の大屋根が最近葺き替えられたそうですが、この屋根の上には「葺き残しの瓦」と呼ばれる謎の瓦が何枚か置かれております。屋根の葺き替えには完成などというものはない、無限の向上が必要となるという先人の熟練職人の偽らざる実感でしょう。われわれ禅の工夫に参じる者も、どこまでいっても「未在、未在」「更に参ぜよ、三十年」の心構えを保持したいものです。

「更に参ぜよ、三十年」2017年5月【No.167】

桜も散り観光客で混雑していました南禅寺、「哲学の道」界隈もやや静けさを取り戻した感がありますが、今は新緑が眼にはえて新鮮に映ります。ことに雨の降ったあとなどに見えられた来客の方々は、異口同音に庭の緑の鮮やかさを称賛されます。この時節が来るといつも想起しますのは、「薫風自南来、殿閣生微涼」(薫風、南より来たり、殿閣、微涼を生ず)という句です。この対句はもともと唐代の文宗皇帝が作った起承の二句である「人皆苦炎熱、我愛夏日長」(人は皆炎熱に苦しむ、我は愛す、夏日の長きことを)に対して文人の柳公権が転結としてつけた語です。

かつて坐禅会の或るメンバーが「我が家に何か名前をつけて頂きたい」と依頼してきたことがありますが、そのとき小衲は「薫風庵」と揮毫致しました。来訪された人が、まるで新緑の間を吹きわたる「薫風」に遭遇したような心地よさを感じるお宅となればいいな、という願いをこめたものです。

この「薫風自南来、殿閣生微涼」の対句は、『碧巌録』で名高い圜悟克勤禅師が上堂の時、「或る僧が、雲門文偃禅師に『如何なるか是れ諸仏出身の処』と問うと雲門禅師は『東山水上行』と答えられたが、わしなら『薫風自南来、殿閣生微涼』と答えるであろう」と言われたのを聞いて、大慧宗杲禅師が言下に大悟されたという話はいやしくも禅の修行者なら知っていなければならない有名な話です。

さて、薫風が新緑の間を吹き抜ける心地良い時節とはなりましたが、この時期には時おり強風が吹いて樫の葉などがよく散らされます。加えて、暖かくなってきたせいで、境内一円の雑草が勢いよく生い茂ってきます。特に雨が続くとたちどころに雑草が伸びます。まことにお寺では次から次へと作務をする必要が生じてきます。しかしそれを嘆いたり、不満を感じるようなことではいけないでしょう。
文宗皇帝の「人皆苦炎熱、我愛夏日長」ではありませんが、落ち葉や雑草のお蔭で作務をして身体を動かせる有難味を感謝したいものです。

小衲が定期検診を受けている名医の和田洋巳先生は、「雲水生活がもっとも健康的な生活です。しっかり太陽を浴びて作務をして汗をかいて下さい」とアドヴァイスして下さいますが、落ち葉を掃いたり、草引きをしたり、畑の畝作りをして身体を動かすのは本当に心地よいことです。ただ、いずれの場合でも手を抜かずに心をこめてすることが大切です。掃き掃除をするにしましても、落ち葉一枚残さない、雑草を抜くにも、一本たりとも取り残さない気迫が必要です。大雑把にすれば事足りるというような横着な気構えでは、断じて身についた修行とはなりません。弟子たちに「もっと心をこめて落ち葉一枚取り残さぬように」と注意を与えることが再三あります。本当に心をこめて作務をすれば、その跡が光を放ち、期せずして他人を感動させることができるはずです。

とは申せ、本当に雑草一本残さずに除草などできるはずはありません。掃き掃除にしましても、「落ち葉一枚残さずに」というのは、至難のわざです。小衲が隠侍をさせて頂いた建仁寺管長の竹田益州老師は日露戦争勃発の歳に出家されたお方ですが、刻苦精励され、管長となられた後も、八十五歳に垂んとするご高齢でありながら、日々の作務を欠かされることはありませんでした。お風邪を召されてもなお草引きをされておられた気高いお姿を思い起こして、作務をしながらも「自分はまだまだ管長さんの足元にも及ばないな」という感慨が沸いてまいりました。「未在」とか「更に参ぜよ、三十年」という禅語がありますが、どこまでいっても修行はこれでもう十分だということは決してないでしょう。

先日、寺庭婦人(寺院の奥様方)研修会の坐禅の際の法話で、「雲水修行時代はとても大切な期間です。お子さんたちのことを心底思われるのなら、早く引かせるのではなく、一年でも長く僧堂生活を続けられるようにご支援をお願いします」と申し上げた次第です。僧堂生活を送る雲衲たちには、是非とも万事に心を尽くして骨を折り、真の法悦を体験して頂きたいものです。

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