「南禅寺文化講座」の講演 2024年11月【No.255】
11月19日に私は例年恒例の「南禅寺文化講座」において「三昧境への道」という演題で、1時間の講演を致しました。まず最初に以前のコラムでも言及しました「門より入るものは家珍にあらず」という言葉を紹介して、他人の話を聞いたり、本を読んで得た知識は「わが家の家宝」(家珍)ではないということを申し上げ、一番大切なのは自分で工夫して真の三昧境に入り、法悦の醍醐味を知ることだと強調しました。禅ではわが物とするということを表現する場合に、よく「自家薬籠(やくろう)中のものとする」といいますが、「薬籠」とは薬箱のことです。わが家の薬箱に保管していれば、いつでも必要なときに服用することが可能となります。それでも昨年の講演を聞かれた人の中には、「般若心経や白隠禅師坐禅和讃などの法話をしてほしい」という感想を述べた人がいるようです。とはいえ、私自身はそのような家珍にはならない「門より入る」ような法話をしたくはありません。他人の話を聞くだけでは自分の身につかないということを知って頂きたいものです。
自分で工夫することがどのような成果をもたらすかということに関して、私は以前の「良馬は鞭影を見て行く」というコラムで言及したドイツ人男性の話をしました。彼は私が彼に話した工夫を20年も継続して行ってきたというから感心なことです。さらに私は自ら実践したいと思っている人のために、白隠禅師の「臘八示衆」第一夜と第五夜をご紹介致しました。「臘八示衆」は釈尊大悟の因縁にちなんで1週間横にならずに坐禅工夫をし抜くという、一年で最も過酷な修行期間である臘八大摂心中に、臨済宗のいずれの道場でも拝読されるとても重要な「示衆」です。
白隠禅師はその第一夜示衆において「無量三昧のうちには数息をもって最上となす」と数息観の実践を勧めておられます。その上で「気をして丹田に満たしめ、しかしてのちに一則の公案を拈じてじきに断命根(だんみょうこん)を要すべし。もしかくの如く歳月を積んで怠らずんば、たとい大地を打って失することあるとも、見性は決定(けつじょう)して錯(あやま)らず」と続けておられます。「断命根」とは「大死一番」ともいい、分別的自己を滅却することです。そしてその好例として、私は静岡県・菴原(いはら)の山梨平四郎に関する第五夜示衆をご紹介致しました。それまで坐禅などしたことのない在家の平四郎が世間の無常を痛感して猛烈に坐禅工夫して見性し、白隠禅師にお目にかかってその境地を証明されたという話です。
禅では実参実究が尊ばれます。皆さん方もどうか知識で満足することなく、ご自分で工夫して法悦の醍醐味を満喫されることを切に願っております。