「脱力の勧め」2024年2月【No.246】

読者の皆さま、新しい年を迎え有意義にお過ごしのことと思います。令和6年1月1日に1月号のブログをお送りすべきところ、手違いで送信できておりませんでしたので、1月号のブログを2月号にかえて、本日配信させていただきます。昨年はコロナがようやく第5類になったおかげで、色々の活動や行事が活発化されることになり、安堵(あんど)している方々も多いかと思います。それと同時に、急に行事が増えて疲れがたまり始めている人もいることでしょう。南禅寺本山の若い部員さん達も昨年の10月から11月にかけては、地方寺院の檀家さん達の本山参拝が相次いで、その対応で多忙でしたと率直に告白しました。もちろん法要の導師や講演などをする管長の私も多忙だったのですが、比較的淡々と過ごすことが出来たのは、日ごろおこなっている「調息」と「脱力」の功徳かと思っております。

 話が変わりますが、私のところに月一度の割合で話しを聞きに来られるスポーツを職業にする壮年の男性がいます。もう十数年も続いているでしょうか。仏陀の「調息」の工夫の仕方を教えたり、「無字」の公案の工夫を勧めていて、本人はなかなか熱心に工夫しているようです。先日メールでの問い合わせがあり、以前私が彼に対して「私は頑張らないんです。ただ手を抜くことはありません」と話したことがすごく頭に残っているということでした。「私は元来ものすごく頑張ってしまうタイプで一日のスケジュールを目一杯がっちりやってしまおうとします。そうするとプレッシャーを自分にかけてしまうことも多いですし、なかなか休むことが出来ません。それが最近よくないんじゃないかと思って、自分自身迷っています。老師がおっしゃるように生きれればすごくいいなあと思います。老師が私は頑張らないんですと言われた意味をもう少し教えて頂けませんか」という依頼でした。

 私は返事をしました、「それは頑張ろうという意識なしに物事に打ち込むということです。武道の達人は例外なく余計な力を入れずにリラックスしていますよ」と。そうすると、「そうですね。よくわかります。有り難うございました」という返信がありました。実は私がこのような見方をするようになったのは、かなり以前のことです。もう45年以上も前になるでしょうか。私は禅の専門道場に入る以前に、京都府近郊の長岡京市にある長岡禅塾で3年間の修行生活を送りました。博士課程の3年間でしたが、学生対象の禅塾にいながら、大学まで通っていたのです。その折のことですが、立派な坐禅堂の避雷針を設置するために2メートル四方、深さ2メートル以上の穴を3ヶ所掘る必要がありました。最初の穴は60過ぎのいかにも日焼けをしたプロの男性がスコップを手にして、穴を掘り始めました。そばで見ていると力を入れずにスコップに少なめの土をすくってこともなげに淡々と廻りに放り上げているではないですか。さすがはプロは違うなと感心したのですが、ほとんど休みもせずに仕事を続けました。その職人さんは疲労困憊するそぶりも見せずに穴掘りを完了しました。後日われわれ学生が残りの穴掘りをするように時の塾長に命じられました。私はかのベテランの職人さんの要領で力を入れずに穴を掘り進め、たいした疲れもなく、中途で別の人に代わりました。彼は私の一年先輩で、私より身体も頑丈で、いかにも力がありそうな風情を醸(かも)し出していました。彼は力任せに頑張って穴掘りをして、一生懸命に土を廻りに放り投げていましたが、途中でさすがに疲れたと見えて、「畜生」などと口走りながらふらふらになってようやく穴掘りを終えました。私はその時、たとえ腕力があっても、それに頼って力任せにおこなうことは良くない。むしろ力を抜いて万事をおこなうことが大切だと痛感したのです。

 坐禅工夫に際しても、頑張ってやろうと力む時よりも、力が抜けて自然にスーと調息や公案工夫をおこなった方が三昧境に入りやすいことを幾度となく経験したことがあります。皆さん方も四六時中の「調息」(仏陀の入出息念定)や公案工夫を力まずに自然体でおこなわれて、三昧境のえもいえぬ法悦の醍醐味を味あわれませんか。

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