「良馬は鞭影を見て行く」2024年10月【No.254】
「良馬は鞭影(べんえい)を見て行く」という言葉があります。優れた馬は鞭(むち)で尻を打たれなくても、鞭の影を見ただけで速度を上げて走るという意味です。禅宗では、師匠から格段の指導や指示を受けなくても自発的に工夫三昧に打ち込む道心のある人を称賛する言葉として使われます。私がこの言葉を連想したのは、或るドイツ人の男性に関してでした。私が住職をしている光雲寺では、「南禅寺禅センター」の看板を掲げて坐禅研修をおこなっております。コロナ禍の際には極端に参加者が減りましたが、現在は元のように多くの人たちが坐禅に訪れます。その中でも圧倒的に多いのはやはり修学旅行の生徒さんたちです。
少し前に244人の修学旅行の中学生の坐禅研修があった時のことです。大人数のため、仏殿と方丈とに分かれて坐禅をおこないました。私は先に生徒さんたちが入った方丈での坐禅研修を担当しました。研修の時間は1時間で、二回の坐禅の後で法話を致します。法話では私は時おり宮本武蔵のことを話します。武蔵は13歳から29歳まで生涯60回以上の真剣勝負をして一度も負けたことがなかったと言われております。しかし武蔵は勝ち負けの世界に留まるのではなく、勝負を超えた絶対の境地に入らなければと思い坐禅を始めた、と『五輪書』に書いています。私は法話の際に、武蔵の『五輪書』は欧米各国語に翻訳されているので、武蔵のファンが欧米人に多いと話しました。具体例として、フランス人の 18歳の青年が日本の下関に武道の達人がおられることを知り、ぜひともその方の道場に入門したいと、パリからやって来たということを伝えました。その大先生は武道の辻無外流の達人で、色んな流派の免許皆伝を沢山もっておられるということでした。彼は武道以外にも禅の修行をする必要を感じて、岡山にある曹源寺にきて、そこで私と知り合ったのです。もう30年以上も前のことですから、彼はすでに免許皆伝を取得しているはずです。彼に見せてもらった武道の極意には禅語が書かれていました。やはり禅の境地が武道でも究極の境地になっているものと思われます。彼から聞いたのですが、相手との試合で一番優れた応対は、逃げて行く相手をただ剣を下にさげて見送るというものでした。
さていま一人は銀閣寺の近くに下宿して京都大学工学部の大学院に通っていたドイツ人の青年です。1年ほど月例坐禅会に参加していた彼も武蔵をとても尊敬していて、「武蔵が坐禅三昧に没頭して『五輪書』を著したといわれる熊本の霊巌堂に行ってまいります」と出かけました。これまで私の知っている日本人の青年で霊巌堂まで出かけた人はおりません。中学生の生徒さんたちは興味深いまなざしで私の話に聞き入っていました。ところがその翌日、偶然にもその彼が光雲寺を訪ねてきたのです。
早速彼を客間に通して話し合いの時間をもったのですが、特許関係の仕事に従事している彼は「仕事で中国まで来たので、久しぶりに老師にお目にかかりたいと思って」ということでした。その際に彼が自分の心境をドイツ語で書いたものを渡してくれました。感動的な文章なので逐語訳させて頂きます。「親愛なる田中寛洲老師、2001年における私たちの対話と出会いにより貴方は私の人生全体を鼓舞され、仏教への熱意を注入されました。そのおかげで私は連日規則的に工夫を続けております。それゆえに私は貴方に対して限りない感謝を申し上げると共に、再三貴方のことを思い出し、私たちの話し合いを思い出しております。お目にかかったのは20年以上も前のことですが、まるで昨日お逢いしたような思いでおります。本当に有り難うございました。」
彼に日ごろの工夫の仕方を尋ねると、「無―」の工夫をしているということです。これは「無―」と腹式丹田呼吸をしながら四六時中工夫することで、深い三昧境に入ることを目指すものです。彼は月例坐禅会に通っていた時には私に参禅していませんでしたが、私がそのようにアドヴァイスしたようです。彼の様子から彼が日々の工夫のおかげで素晴らしい法悦の境地にあることがよく分かりました。私はドイツのミュンヘン大学のヨハネス・ラウベ教授の退官記念論文集に寄稿した拙論の「東洋一貫の大道としての禅」という独文のコピーを彼に進呈しました。彼はそれを読んで感激して、「これからもっともっと四六時中工夫に集中するようにします」とメールを送ってくれました。
思い起こすに、彼とはそんなに頻繁に話し合った記憶もないのに、彼がここまで熱心に工夫を続けていることに心から感心致しました。優れた馬は鞭(むち)で尻をたたかれなくても、鞭の影を見ただけで自分から速度を上げて真剣に走るということです。言われなくても工夫を続ける彼のような道心堅固な人たちが大勢出現して欲しいと思わずにはおれません。