「画餅、飢えを充たさず」2024年6月【No.250】
拙寺の南禅寺境外塔頭・光雲寺では、毎年境内の3つある池と墓地の6つの大鉢に蓮を植えております。最初は住職である私が中心となってやっていたのですが、蓮を植えるのはなかなか厄介の作業である上に、せっかく植えても(錦鯉のせいと思われますが)いつのまにか鉢から浮き出てしまうことが再三あります。そこで数年前から専門の業者さんに頼んで、前年の蓮の株分けと新たな植え付けを任せることにしました。費用はかかりますが、さすがにプロの業者さんの仕事なので、毎年見事な蓮の華が咲いて、訪れる方々に喜んで頂いております。
ところが先日の大雨でまたまた蓮の根が排水溝のところまで流れ出ているのを見つけました。業者さんに電話連絡したところ、早速やってきて丁寧に植え直してもらいました。その業者さんが帰りがけにお寺の台所(典座)の出入り口で京大法学部の学生さんを捉(つか)まえて何か質問をしているのを見受けました。私の住まい(隠寮)の勝手口は典座の出入り口に隣接しているのです。良く聞いてみると、ドイツの大哲学者ヘーゲルの『精神現象学』についての質問です。以前に備前岡山の曹源寺での修行時代に、ドイツのパン屋に勤めていた若いドイツ人の男性が、曹源寺を下山する際に私にハイデッガーの『有と時』を進呈してくれたことがありました。私は、パン屋に勤めていた若い男性がこの有名な哲学書を読んでいたのを知って、「さすがに哲学の本場といわれるドイツだな」と感嘆したことがあるのですが、今回も驚かされました。
私はもちろん原書でこの本を読んだことがありますので、彼に申しました、「へーゲルの『精神現象学』は七つの封印のある書といわれるほど難解な書物ですよ。読んで理解するのは至難の業です。しかし理解できたとて頭での理解に過ぎません。『画餅(がびょう)、飢えを充(み)たさず』(画にかいた餅では腹がふくれない)というではありませんか。だいたいヘーゲルその人が、日常生活が乱れていて、『彼は壮大な論理の御殿を構築したが、自分自身は粗末な家に住んでいた』と揶揄(やゆ)されたということです。肝心なことは腹を満たす、つまり心が安楽になる体験の道が一番大切だと私は思いますが、いかがですか」と。
そして彼に仏陀の「入出息念定」(にっしゅつそくねんじょう)の実践を勧めました。それは腹式呼吸、丹田呼吸により息を調えて三昧境に入り、解脱(げだつ)に到る道です。その上で一度会社の皆さんが坐禅研修に来られることを勧めると、非常に乗り気の様子に見えました。ただ多くの人は工夫というものは坐禅の際にだけすべきものだと思っているようですが、本当は四六時中行うべきものです。そうすると工夫が習い性になって無意識のうちに工夫できるようになってきます。坐禅研修に来られたらぜひそのことを私自身の体験を通して伝えてあげたいと思っております。
それにしても世の中には自分の心の安らぎを模索している人たちがとても多いことを痛感しております。光雲寺では「南禅寺禅センター」の看板を掲げて坐禅指導しておりますが、コロナが一段落してますます研修希望の人たちが増えています。多くの人が坐禅工夫を通じて心の安らぎを得られることを願っております。