「禅と心の修養」2017年2月【No.164】

多くの方がご覧になったと思いますが、全豪オープンテニスのフェデラー(スイス・35歳)とナダル(スペイン・30歳)の決勝戦は「グランドスラム史上最大のビッグマッチ」と言われるほど、まことに見応えのある試合でした。それもそのはず、フェデラーはこれまで17回のグランドスラム優勝経験があり、ナダルも14回で、歴代1位と2位の対戦でした。二人の対戦成績はナダルの23勝11敗です。しかも二人とも手首や膝の故障で長期の休養をとったあと、そろって戻って来たところで、当人自身らもこのような「奇跡」の決勝戦が待ち構えているとは想像すらしないことでした。「長年テニス界に貢献したフェデラーとナダル、そしてファンに与えられたテニスの神様からの最高のギフト」という感想を述べた人がありますが、本当にその通りです。

素晴らしいのは、この二人がお互いをもっとも尊敬している間柄だということです。「ラファのプレースタイルが大好きで、プレーを見るのも大好き。彼にも辛い時期があったけど、今こういう状況になって嬉しい。僕も彼の世界一のファン。彼も僕の世界一のファン。決勝で戦えたら、本当に素晴らしいこと」というフェデラーと、「ロジャーとこの大舞台で戦うのは名誉。これ以上、幸せなことはない。よい友人であり、最高の人。尊敬している」というナダルの言葉から、二人は本当に「美しきライバル関係」であり、最高のスポーツマンシップの持ち主といっても過言ではないでしょう。

二人の対戦中に目についたのは、特にフェデラーがそうでしたが、たとえミスをしても顔色に出さないということです。一々のミスにその都度反応していたのではたまりません。二人とも少々のことにはものの数ともせずに次のプレーに移るのを見て、「さすがは幾度となく頂点を極めた風格の持ち主だ」という感を深くしました。これに対してフェデラーに敗れた錦織選手は失敗するたびにいかにも落胆した表情をあらわにしました。こういう人をへこますことは比較的簡単なことです、自分の弱みを相手にさらけ出しているわけですから、そこをついてますます落ち込ませればよいのです。「せっかくチャンスがあったのに、こんな負け方をして自分自身に失望している」と「肩を落とす」とは、何と収穫のない反省の仕方ではないでしょうか。

それとは対照的に、フェデラーのように、どんなミスにも顔色ひとつ変えずに泰然自若としている人は、風格もありますし、つけ込まれる隙(すき)が少ないと思います。錦織選手は小衲も同じ日本人として応援しているのですが、グランドスラムで優勝するには、まだまだ肝心要(かんじんかなめ)の心の修養がたいぶ不足していると言ってよいかと思います。

錦織選手のメンタル面の弱さを、マイケル・チャンコーチも松岡修造氏も指摘していますが、それはつまるところ「念を起こす」ということに帰着すると思います。禅の臨済宗宗祖の臨済義玄禅師は、「已起(いき)の者は続ぐこと莫れ、未起の者は放起することを要せざれ。便ち汝が十年の行脚に勝らん。」(まだ雑念が出ていなければ、出さない方がよい。もし雑念が出てしまったら、雑念を続けないことだ。そうすれば、十年間みっちり禅の修行をするよりも、勝ることになるであろう。)と言っておられます。「念を起こす」ことをいかに問題視されているかがよく分かります。だいぶ以前のことになりますが、「南禅寺禅センター」の坐禅研修に、京都大学の免疫ゲノムの研究を行っている大学院生のグループが主任教授の引率のもと、坐禅研修に来たことがあります。小衲は貫禄のあるその主任教授に対して、「一体、最先端医学の研究者の人たちがどうして坐禅工夫の必要性を感じられるのですか」と尋ねたところ、「いやー、やはり雑念が起きますからね」という答えが返ってきました。雑念により心が曇っているようなことではよい研究ができないという自覚をもっておられたようです。

この春に僧堂に掛搭する予定の好青年と『雛僧要訓』や『論語』などを一緒に勉強していると、以前のコラムで申し上げましたが、掛搭の日が迫りましたので、小衲の体験から、「どうすれば充実した僧堂生活が送ることができるか」ということを心をこめて話しております。もっとも大切なことは、四六時中工夫三昧をしていれば、自然にえもいえぬ法悦が醸成され、僧堂生活が充実するということです。「四六時中の工夫三昧」とは数息観や公案を行住坐臥成り切って行うことです。「四六時中などできるはずがありません」と口答えするような人は、真箇の法悦に入ることなど金輪際できないでしょう。

禅の専門道場である僧堂では、最初の数ヶ月は数息観に専念させた上で、無字か隻手の初関を課せられるのが普通です。公案工夫というのは、何も坐禅の間だけではなく、それこそ行住坐臥、目の色を変えて取り組むべきものです。それを行っていれば、他人と雑談したり、他の雲水修行者を批判的に見たり、いわんや師家の悪口を言ったりなどという愚かなことは起こりえないはずです。

しかもどのような未曾有の境涯が現前しようと、小成に安んぜず、「得ては捨て、得ては捨て」して向上の一路を目指さねばなりません。真剣な工夫をしていれば、何事に対しても我見我慢を起こすことなく、真心から成り切ってできるはずです。こうした充実した工夫三昧の毎日こそ、雲水修行の醍醐味といえましょう。

願わくは、かの前途有望な好青年が、よそ見をせずに、できるだけ長く真っ正直に修行に邁進し、法悦の何たるかを存分に味わってくれることを心から願わずにはおれません。合掌。