「禅の行履」2017年8月【No.170】

今月の標題は一般の方々にはあまりなじみのない言葉かも知れませんが、「禅の行履(あんり)」と読みます。禅の起居動作や一切の行状を指すものです。もとより小衲がこの「禅の行履」を存分に行じているかと申せば、なかなか到らぬ事ばかりで、とても他人様(ひとさま)に対して公言できるようなものはございません。しかしながら、日々行う坐禅や作務や典座(てんぞ)などの務めを、なるだけ心をこめて行うようにしているということは言い得るかと思います。

例えば、拙寺の光雲寺では、住職である小衲が、畑で取れた無農薬の野菜を使って色々と調理を致します。世間では「おさんどん」と呼ばれてさげすまれたこともあった台所係のことを、禅宗では「典座」と呼び、古来から修行の積んだ僧が行うことになっております。色々と無駄の無いように工夫して、みんなに喜んでもらえるおいしい料理を心をこめて作ることは、確かに楽しい充実したひとときです。住職である小衲が料理を作るというのは、なるだけ身体によい有機の無農薬野菜や無添加調味料を使用したいと思うからです。他人に任せていたのではなかなかそういうわけには行きません。

日頃お世話になっている塔頭寺院や知り合いに無農薬野菜をおすそ分けすると、大いに喜ばれますが、時には自分の手料理を差し上げることもあります。これは亡き母のそうした姿が脳裏に焼き付いているからかも知れません。今の時節になると毎年、畑で取れたジャガイモや玉葱や胡瓜などを使ってポテトサラダやビシソワーズ(ジャガイモの冷製スープ)を数回作ります。ゴーヤチャンプルなどは幾度となく作ります。

この7月から光雲寺には下宿者が2名増えたのですが、先日もポテトサラダやビシソワーズやゴーヤチャンプルを作ったところ、始めて食べた二人は「とてもおいしいです」と喜んでくれました。特にビシソワーズに関しては、小衲は何度も塩味をつけ直し水分を足すなどして、ようやく思い通りの味付けに到達することが出来ましたが、そのことを話すと、「老師の心を頂いている気がしました」と言ってくれたのは実に「わが意を得たり」の感を深く致しました。

「単なるジャガイモの冷製スープの味付けに過ぎないではないか」と見くびってはなりません。自分自身で本当に納得するまで安易に妥協せずに味付けに心を尽くすということは、大切なことではないでしょうか。以前にコラムで「天皇の料理番」と呼ばれた秋山徳蔵氏の「料理でも、つくるのは腕ではなく、けっきょく真心なのだから」という言葉をご紹介しました。秋山氏はまた「真心がつくる味」と題された一節で、「しかし、私にもしんからうまいと思って食うものがある。家庭のお総菜だ。これは、・・・(中略)専門家のつくる料理とは、全然別物なのだ。・・・(中略)何といっても、家で食べるものには真心がこもっている。しんから、うまいと思うのは、その真心のせいなのだ。」と言っておられます。

家庭のお総菜は、お母さんが愛しい家族のために心を尽くして作るので真心がこもっているので、もっともおいしい、全く別物だといわれるのです。これこそ料理の真のコツというものではないでしょうか。いや、料理ばかりでなく、日常万般生活の極意と呼ばれるべきものではないでしょうか。「禅の行履」というのはこの真心を日常の行住坐臥全般にゆきわたらせた「常に一直心を行ずる」ことに他ならないのではないかと思います。

(なお、例年の如く、月例坐禅会はお盆のために第2日曜日の13日は休会と致し、27日の第4日曜日のみと致します。毎土曜日の夜坐禅は休まずに行います。)