「禅堂の修行生活(その5)」2018年6月【No.180】

建長寺から建仁寺に移られた素堂老師について京都にまた戻ってきたのですが、建仁寺修行時代には、私は一層寸暇を惜しんで坐禅に励むように心がけました。僧堂では、禅堂で寝起きして坐禅に集中する「堂内」と、堂内の修行を縁の下の力持ちとなって支えつつ自らの修行をする「常住」とに分かれるのですが、堂内の時は勿論のこと、常住で諸役に就いている時でも、なるたけ坐禅をするように試みました。たとえば、老師のお世話一切をする隠侍になった時には、老師に食事を出して下がってくるまでの間、小書院の庭に面して坐禅しながら公案工夫をしたのです。ほとんど夜の睡眠を削っての毎日ですから、疲労困憊して眠気もあったのは確かですが、「無—、無—」と無字三昧の工夫することにより、眠気はいつの間にか雲散霧消して行きました。
こうして日々修行に骨を折っていた或る日のこと、一番古参の先輩雲水から部屋に呼ばれたことがあります。その先輩は言いました、「私はすでに公案もほとんど済んでいるが、まだ大休歇(だいきゅうけつ、大安心)の田地(境地)にまでは至ってはいない。君はなかなか頑張って修行しているようだから、一夏(げ)九十日の間、ひとつ私と一緒に夜坐をしてくれないか」と。私は即座に快諾して二人で共に夜座に励んだのですが、それも今は懐かしい思い出です。
禅の修行生活では、老師は目をかけた雲水ほど厳しく接するものであり、それこそが真の親切というのが禅門の常識です。私も素堂老師から様々な悪辣(あくらつ)な試練を受けました。もとよりそれを恨むに思う気持ちは毛頭なかったのですが、しかし「このままでは済まされぬ」という思いがあったことも確かです。私はふと思いつき、老師がご自分で洗濯して乾(ほ)しておられた肌着をひそかにアイロンに当てて乾かした上で、たたんで置いておきました。何日間かこうしたことを続けた後、老師はあるとき私に向かって、「庸(よう)さん、わしがいくら横着者でも、毎回毎回こう新品のように綺麗にたたまれた洗濯物を気つぶしていては、何か済まぬような気がする。やめてくれんかな」と控え目に懇願されました。そのとき私は、「やった!これで悪辣(あくらつ)な試練の仕返しができた」と心の中で快哉を叫んだのです。それ以来、老師との心のつながりは益々堅固になって行き、老師ももう私をいじめることはされなくなったと思います。「いじめる」などというと誤解をされやすいが、「投げられて親方喜ぶ、相撲取り」という世語が日本にある通り、それは何とかして自分勝(まさ)りの弟子を打ち出したいという師家の大悲心であり悲願なのです。
或る時、薬石(夕食)を下げに伺うと、私を窓際へ連れて行かれ、「庸さん、あの東山に沈む夕日を見てみよ。あれを見て見性しなければどうするのか」と訓戒されました。後に私が授業寺の師匠看護のために僧堂を暫暇した後でも、「わしと庸さんとは沈む夕日を一緒に見た間柄だぞ」と言っておられたと先輩からお聞きして、老師の法愛を感じたものです。また隠寮で二人切りで話していた時に、老師が言葉を続けて、「しかし、わしはもう一度生まれてきても雲水ぞ」と言われたので、私も思わず「老師、私も」と申し上げると、老師は「高単さん」と呼びかけられました。雲水が禅堂で坐禅する畳の場所を「単」といい、「高単」とは上位の単に坐る先輩雲水のことを指します。老師にそう呼びかけられて私が怪訝(けげん)に思ったのも無理はありません。すると老師は言葉を継いで、「今度生まれて来たときには新到(新参者)で来ますけん(来るので)、よろしくお願いします」と微笑みながら言われました。これなども老師の法愛を感じた一瞬でした。また或る時には、板(はん)という時を告げる板を私が禅堂の高単として規矩に従って打ってから参禅が始まったのですが、私が参禅で見解(けんげ)を出し終えると、老師は「さっきの板はお前か」と尋ねられましたので、「はい」と申し上げると、老師は「いいなー、と思って聞いておったぞ。やっぱり分かるなー」と言って下さったのです。実際、その打板の際にはわれながら心を込めて、しかも「乗って」(気持ちよく)打つことができたのです。
このように老師との感応道交についての追憶を述べるのは、もとより、私が老師に目をかけられていたということが言いたいのではなく、学問上の師弟関係とは異なり、禅の生活では生活全般・一挙手一投足に至るまで厳師から全人格的薫陶を受けるので、余人には伺い知ることのできぬ師弟関係の濃(こまや)かな情が通い合うという事実をお伝えしたいがためです。
こうして寸暇を惜しんで坐禅や工夫に勤(いそ)しんだ建仁時代でしたが、本師が脳溢血で倒れて半身不随になり、その看護の為に暫暇せざるを得ないようになった。「本師」といっても、そのお寺に一度たりとも住んだことのない名義上の弟子でした。日本の臨済禅の専門道場の伝統では、雲水となって或る道場に入門を志願する場合、「授業寺(じゅごうじ)」といって徒弟教育をしてもらったお寺の住職の弟子という形をとる必要があります。私は学生ばかりの禅塾で実際の予備的修行をして、塾長の意向で、名義はそのお寺の弟子ということにしてもらって僧堂に掛搭したのが、今になって回顧すれば、それには賛同できかねます。やはり或る寺の正式の弟子となって伝統的徒弟教育を受けるべきであったと反省されるのです。しかも、他人から指示されてなるのではなく、自らの意志でどこの寺のどの師匠の徒弟になるかを決めたかったと思います。
さて、ちょうどその頃は修行生活の絶頂期にあり、寸暇を惜しんで坐禅し、日々充実して工夫三昧で過ごしていた最中のことでした。また、道元禅師
(1200−1253)の師匠の明全(みょうぜん)和尚が、病に臥している大恩深き年老いた師匠を日本に置いたまま、「大法の重きが故に」という理由で遂に宋代の中国へ修行に渡られた例なども考え合わせ、大層悩んだのは事実です。だが結局、「ここで逃げては、修行者として、いや人間としての自分が失格だ」と決心して、看護に取り組むことにしました。当初は制間だけ暫暇して和尚の看護をする奥さんを手伝っていましたが、のちに奥さんまでもが過労で倒れたので、遂に永久暫暇(「永暫」という)せざるを得なくなってしまいました。お二人を抱えて色々大変なこともありましたが、今でもやはり困難に直面して逃避せずに良かったと思っております。
当時若いフランス人女性が知り合いの日本人教授の紹介で坐禅修行をしたいからということでパリから訪問してきたのですが、彼女に向かって私は、「私が今不幸に見えますか」と尋ねると、彼女は「いえ、全然そのようには見えません」と答えたので、私は微笑みながら「そうでしょう、日々是好日なのです」と応じました。
この間、私の身辺には変化がありました。名義上の「本師」が病のために法類の和尚からの勧めで寺を出て住職であることを止められたので、僧籍が宙に浮いたままとなったのです。これを知って、当時弟が修行中であった相国寺僧堂の梶谷宗忍老師(室号・止々庵)が、私の状況を心配して「相国寺塔頭の林光院の徒弟にならないか」と言って下さったのです。ちょうど師匠ご夫妻を抱えて孤立無援であった私は、快く老師の申し出に甘えました。さらに林光院が相国寺僧堂に隣接していた関係で、老師への通参をもお願いすることにしました。こうして建仁寺僧堂の方とは縁を断った形になったが、それは後輩の雲水が訪ねてきて、素堂老師ご自身が「自分はもう八十歳で雲水の指導は出来ぬ」と言われ、他の人に後を譲られるお積もりであると聞かされたからです。元来、雲水は雲や水の流れるが如く去来自由で、どの道場に行こうが構わないのが原則ですが、師弟の息がぴったりと合っていた素堂老師から離れるのは誠に後ろ髪を引かれる思いでしたが、これも宿命かと思い、以後は止々庵老師を参禅の師と仰ぐことにしたのです。

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