「鈍工夫再論」2017年6月【No.168】

拙寺である光雲寺では「南禅寺禅センター」としての年間1万4千人以上の坐禅研修者を受け容れている以外に、毎土曜の午後8時から9時迄の夜坐禅(無料)と月二回の月例坐禅会とを行っております。特に月例坐禅会はもう25年以上継続しており、毎回ではありませんが、ときおり新たな参加者が来られます。遠方からの来訪者も珍しくありません。

そうした中で、新潟県の魚沼市から来られた30代半ばの男性の方がいます。これまで数回来られただけなので、旧参の参加者もなかなか名前を聴いてすぐにお顔を思い出すのは難しいようです。その方から先日思いがけず工夫の充実と悦びと感謝の念に満ちあふれたメールを拝受致しました。

その男性は「二十代前半で禅に出逢ってからほぼ十年の間、日々の心得などで色々と迷い試行錯誤することがありましたが、老師にご指導頂き、無字の工夫の素晴らしさを実感できてからは、基本的なところで迷うことはなくなりました。」と述懐しておられます。

「無字の工夫」というのは、公案を使う臨済禅に参じた人の多くが老師から与えられる、「初関」と呼ばれる最も基本的な公案です。小衲は月例坐禅会の参加者には少なくとも半年は続けないと公案を与えませんので、この男性の工夫も小衲に参禅して公案を授かった上でのことではありません。初めての参加者には「随息観」か「数息観」をやってもらうのですが、坐禅会後の話の際には、「動中の工夫には無字三昧の工夫が一番乗りやすい」ということを自らの経験を踏まえてよく申し上げておりますので、この方も恐らくは小衲のその時の言葉を肝に銘じて日々工夫に励まれたに相違ありません。

しかし当方の垂戒を真受けして真っ正直に工夫に邁進する人は稀と言っても過言ではありません。この人が真摯に工夫されたことは「鈍工夫」ということに着眼されていることからも察知することができます。「ホームページで老師が『鈍工夫』について書かれているとおり、その時々の心境や体調、状況などに一喜一憂せず、呼吸に合わせて『無—』と続けていくと、おのずから色々なものが一番よい状態に整っていくように感じています。」

「鈍工夫」とは成果を気にかけず、周囲の出来事に心を動かされず、ひたすら馬鹿になり切って目の色を変えて四六時中公案工夫に心血を注ぐことを申します。南禅寺の南針軒・河野霧海老師は骨身を削って工夫に邁進された幕末生まれの名僧ですが、「今の若い人達はのう、ただ小賢うばかりなって鈍工夫というのが足らんからトンと定力が無うて困る。」と苦言を呈され、理屈を言わずに「無、無、無・・・と明けても暮れてもやるがええ」と親切に示されております。

何年も坐禅会に参加している人でも、こちらのいうことを真受けして精進している人は稀です。専門道場の雲衲もまた然りです。この新潟の男性は「老師にお会いして直接話を伺い、あるいはホームページを毎日のように拝読する中で、本当に多くのことを学ばせて頂いております。・・・あらためて、本当にありがとうございました。老師のお蔭で無字の工夫を続けていくことに迷いはなくなりました。また時間を作って光雲寺にお邪魔したいと考えております。今後とも、ご指導をよろしくお願い致します。」と実に素直な受け取り方です。このような態度で日々精進すれば、心の底からの安心を得ることも不可能ではないと思います。

小衲がよく提唱で申し上げることですが、「本当に願心のある人は、やれといわれなくても自分から進んで邁進する」ものです。老師などの助言や手助けを期待したり、指導が不充分だなどという不満や愚痴をこぼす人は、隙だらけの無道心の人と言えるでしょう。

禅の工夫に参じる人は、どうかこの男性のように、師家のいうことをそのまま真受けにして素直に工夫しさえすれば、法悦を体得することは間違いありません。浄土宗総本山知恩院の国宝・御影堂の大屋根が最近葺き替えられたそうですが、この屋根の上には「葺き残しの瓦」と呼ばれる謎の瓦が何枚か置かれております。屋根の葺き替えには完成などというものはない、無限の向上が必要となるという先人の熟練職人の偽らざる実感でしょう。われわれ禅の工夫に参じる者も、どこまでいっても「未在、未在」「更に参ぜよ、三十年」の心構えを保持したいものです。