「利他行」(月刊コラム【No.84】2010年5月)

先月初めのことであるが、佐賀県の唐津市で、魚釣りをしていた四歳の弟が足を滑らせて海中に落ちたのを救おうとして、十歳の兄が海に飛び込んだが、救助できずに自分が溺死してしまったという、何とも切ない出来事があった。弟は別の男性に救助されたが、この十歳の兄は弟を常日ごろかわいがり、弟の方も兄にとてもなついて、あとを絶えず追いかけていたという。

小衲が感心したのは、その兄が学校で、「どんな人間になりたいか」という設問に対して、「人のためにお役に立つ人間になりたい」という希望を述べていたことである。子供の道徳教育に親が比較的熱心だった戦前ならいざ知らず、いまどきの十歳児がこのような気高い見識を持っているとは驚嘆したのである。わが身の同時期を思い起こすと、恥ずかしながら格段の違いがある。それにしてもこのような志をもつ子がなくなってしまったのはまことに残念なことであった。

人のためにするというのは「利他行」と呼ばれる。利他行の人は潤いがあるので、「徳は孤ならず」で、人が集まってくる。これに対して、自分中心の生き方に固執して他人のことを何ら思いやる余裕がなければ、人も離れていくであろう。利他行を実践する人には必ず心に悦びが生まれ、それが自分のためにもなり得るのでないだろうか。

これは或る病院の院長先生からお聞きした話であるが、ガン患者の人がひとのために行動を起こせば、免疫力が増加してガンが縮小したり消滅する場合があるということである。また別の或る先生は、宗教に対する敬虔な心持ちにより難病を好転させることも可能であると説かれた。

江戸時代に創業され今に続く大企業を築いた商家の家訓を見ると、共通しているのはいずれも「顧客本意」の理念を掲げていることである。むやみに暴利をむさぼることなく、誠実な商売をして顧客に喜んで頂き、それが結果的には自分の利益になるという仕方で商売を発展させていったのである。

たとえば、高島屋を創業した飯田家の家訓には、「もって客を欺かず、薄利に甘んじ、客を利し、あわせて我も利し、いわゆる自利利他は古来の家風なり」とうたわれている。まことに商売の極意はここにあるであろう。京セラの稲盛会長は「利他行」をもって自己の経営理念としておられるということを聞いたことがあるが、もっともなことである。

仏法では、道元禅師の有名な「愚かなる我は仏にならずとも、人を渡す、僧の身なれば」という道歌に歌われたような、さらに高邁な「自未得度先度他」の教えがある。世の多くの人たちが日々苦しんでおられるのは、自分本位の生き方から脱却できないがためである。

徳川家康公は孫の竹千代君(のちの三代将軍となる家光公)に対して。「なんじは天下の主(あるじ)ぞ、天下は慈悲ぞ」と肝心かなめの一句を言われたという。世の人々が無縁の人に対しても思いやりや慈悲をもって対してわが身の法悦の醍醐味を味わうとともに、潤いのある世の中が到来すればと願うものである。

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