「板倉家と光雲寺」(月刊コラム【No.93】2011年3月)

専門道場で修行生活に入って五年目の弟子が、半年ぶりの暫暇を頂いて光雲寺に戻ってきた。道場の生活に次第に慣れてそれなりの風格らしきものが身につき始めてはいるが、師匠である小衲の眼から見れば、弟子の日常の一挙一動には動きに無駄があり、禅定を練っている修行者らしからぬ騒々しさがある。師匠によってはなるだけ弟子には暫暇をさせないという方もあると聞くが、小衲はやはりときおり暫暇して師匠の点検を受けることが必要だと感じるのである。

あまり修行経験のない者を厳しく注意すると、落ち込んだり恨んだりしかねないが、道場でいろんな失敗をして至らなさを叱責されるという洗礼を経ておれば、師匠の事細かな注意や小言も、「なるほどいわれる通りです」と感謝して真受けにできるようになるものである。こういう師弟の交わりを通じて向上するのは、弟子ばかりではあるまい、師たる者も同様である。弟子をもつ身の有り難さを感じる瞬間である。

先月のコラムでは『常山記談』に言及したが、武士でも、日常の心がけが武士の鑑(かがみ)となるような勝れた人物が何人もいたことが知られている。板倉周防守(すおうのかみ)重宗(しげむね、天正十四年ー明暦二年、1586ー1657)は江戸時代初期の譜代大名で、父である板倉伊賀守勝重(かつしげ、天文十四年ー寛永元年、1545ー1624)のあと、京都所司代の重責を担った板倉宗家第二代の人物である。

この重宗がいかに勝れた人物であったかは、『常山記談』に、「周防守重宗、京都の職にあること凡そ三十余年、人敬うこと神明の如く、愛すること父母に似たり。父子まことに同じ名臣とぞ聞こえし」とあるように、神のように敬われ、父母のように敬愛されたということからもよく分かる。いまどきの政治家でそのような人物が果たしているであろうか。

比較的知られた話ではあるが、この重宗は京都所司代になって毎日決断所に出向いて訴訟の裁定を行う際に、西に面する廊下ではるか彼方を伏し拝み、決断所には明かり障子を目前にすえ茶臼をおいてそれをひきながら訴えを聞いたという。当時の人はみな不審に思ったが、はるか後になってそのことを問う人に対して、重宗は答えていった、

「まず決断所に出るとき、西に面する廊下ではるか彼方を伏し拝むのは、愛宕山(あたごさん)の神を拝するのである。多くの神の中でもことに愛宕は霊験(れいげん)があると聞き及んでいるので、願うところがあってそのように拝するのである。その所願とは、今日重宗が正邪を判断するにあたり、できうる限り私心を捨てるように致しますが、もし誤って私心を差しはさむようなことがあれば、たちまちわが命を奪って頂きたい、と毎日祈り誓うのである」。

さらに重宗はいう、臼で茶をひくのは、心が定まって静かなときには手もそれに応じて臼が平らかに回り、ひかれた茶もいかにも細やかである。そのことでわが心も不動であると知って、その後、ようやく訴えを判断するのである。また明かり障子を隔てて訴えを聞くのは、人の顔を外見から判断して先入見をもってみては真の裁きができないからである。昔の訴訟を聞くのは当該者の顔色を見てしたというが、それは自分が及ぶところではない。わが身の生殺与奪を握っている人物の面前では萎縮していうべきこともいえずに罪科(つみとが)にあう者もあるであろうと思えば、所詮は互いに顔を見ることも見られることもなくした方がよいと考えて、障子で座を隔てるのである、と。

まことに重責を担った重宗の細心の心配りのほどがこの言葉からよく分かるのである。これほど綿密周到な自己反省をする人は本当に稀であろう。ひとはともすれば何か問題があれば、自己を是として他を非とし、何事も他人のせいにしがちである。お互い心したいものである。

実は板倉周防守重宗をこのコラムで採り上げたのは、いまひとつ理由がある。わが光雲寺中興の英中玄賢禅師(寛永四年ー元禄八年、1627-1695)が板倉家のご出身で、板倉家歴代の位牌が祀堂檀(しどうだん)に祀られていることが判明したからである。そのきっかけは、もっか「京の冬の旅」の特別展の会場で展示中の、「光雲寺幟(はた)観音記」である。

英中禅師(幼名、板倉藤次郎)の養父の板倉重吉の母は、重宗の父である勝重の姉であった。重吉は関ヶ原の戦いにおいて井伊直政の麾下(きか)として大いに力戦し、敵の首級を獲て、その幟が血で染まるほどの活躍をして、その勇猛のほどが鳴り響いたといわれる。

藤次郎が出家して英中禅師として大成され、その後、東福門院の帰依を受けて大明国師の古道場・光雲寺を再興するに際して、禅師は画僧の友禅に依頼して、亡父の追福のため亡父伝来の血染めの幡に観音像を画かしめ、「幡観音」と称された。

重宗の弟で島原の乱で戦死した重昌の子であった重矩(しげのり、元和三年ー寛文十三年、1617ー1673)は京都所司代となってから、勤めの暇に光雲寺に詣(もう)でて、英中禅師を板倉家累世の親戚として厚遇した。そして祖父であった勝重の三条の邸宅を喜捨して光雲寺に移築し、祀堂として板倉家代々の位牌を安置した。英中禅師も重矩の至孝の志に感じて、常に香華を供え、幡観音を祀堂に掲げて敬礼されたという。

方丈として移築された板倉勝重の邸宅はすでに天保年間に取り壊され、幡観音の所在も不明であるのは実に残念で、中興禅師と板倉家一族に対してまことに申し訳ないことである。板倉家の位牌のいくつかはもっか修復中である。徳川将軍歴代の位牌と共にお祀りする日が遠からず来ることであろう。

光雲寺は東福門院三百年御忌に向けて寺院整備を何年にもわたり行ってきた。しかし禅門で真に肝要なことは、道骨ある気鋭の弟子の育成である。折しも六十歳で発心して出家を希望する剣道七段の人が、四月から光雲寺で修行する予定である。祖師方や先人たちの深恩に万分の一でも酬いるために、光雲寺の一同、微力を尽くしたいと願っている。皆様方のますますのご法愛をお願い申し上げます。

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