「禅との出会い・坐禅の動機」2015年7月【No.145】

光雲寺は臨済宗南禅寺派に属する大本山南禅寺境外塔頭で、「北ノ坊町」と称されるところに位置しておりますが、「南禅寺禅センター」の看板を掲げての坐禅研修では、修学旅行の生徒さんたちを初めとして、一般成人の方、諸外国の方など、年間一万五千人を超える人たちが坐禅にやって参ります。それ以外にも毎土曜日の午後八時から九時までの坐禅と、原則として第二、第四日曜日に行う月例坐禅会とがあります。毎土曜日の坐禅は始めてまだ五年くらいかと思いますが、月二回の月例坐禅会は二十五年ほど継続していて、いまだに新たな方が参加されることがあります。

坐禅会に参加される人の具体的動機は色々あるでしょうが、そのいずれもに共通しているのが、「今の自分を変えたい」という願望でしょう。小衲が二十五歳で禅に出会い、二十八歳で在家から出家したのも、「このままの自分では駄目だ。何とかして今の自分を変えたい」という切実な思いからでした。在家から出家するというのはよほどの覚悟がいると思われるでしょうが、その当時の小衲にとっては実に自然な成り行きで、二十五歳の大学院博士課程一回生の時に、京都近郊にある学生ばかりの禅の道場に入ったのですが、ほどなく自分で出家の意志を固めて、剃髪しました。実家に帰り、バリカンで髪の毛を刈る小衲を見て、母は「お前、それでいいのか」と声をかけましたが、決意は微動だにしませんでした。

三ヶ月経って久し振りに実家に帰り、母と対面した刹那に、「お前、顔つきが穏やかになったなあ」といわれて、びっくりした経験があります。勝手気ままの通用しない、これまでとは格段に異なる厳しい修行生活に入ったことで、知らないうちに自らの我が薄紙を剥がすように取れて、性格も外見も角が取れて丸くなっていったものと思われます。確かに自分自身でも充実して心が明るくなり、他の人に対しても思いやる気持ちが出てきたことを実感しました。祖父の手をつないで商店街を一緒に散歩したときの、祖父の嬉しそうな顔が忘れられません。お酒が大好きだった祖父と一緒に飲む機会がなかったことが、いまは悔やまれます。

坐禅会に参加を希望する人たちも、職場などでストレスを感じて、それを何とか克服したい、自分の生き方を変えたいという思いで来られる方が多いようです。物事を否定的に受け取る生活態度を続けていると、自然に免疫力が低下するそうです。それに反して肯定的に受け取るようになれば、毎日が充実して楽しく、自然に免疫力も増進されるといいます。ロンドン大学のアイゼンク教授ががん患者千三百名を十五年間追跡調査した結果、絶望して後ろ向きの気持ちで治療を受けている人の約46%はガンで死亡しましたが、希望を持って前向きな気持ちを持続している人は、何と驚くことにガンで死亡したのはわずか0.6%に過ぎなかったそうです(野本篤志『がんが自然に消えていくセルフケア』五十八頁)。「心の持ちよう」とはよく言われることですが、そのことが私たちの身心に及ぼす影響力は想像以上のものがあるようです。

坐禅会に参加する人は一度限りではなく、できれば引き続いて参加されるのが望ましいです。その上に、「真剣に坐禅工夫をするぞ」という気迫のこもった坐禅でなければ、どうしても禅定力がついてこず、居眠りや雑念妄想に襲われます。在家の人たちは睡眠時間が足りない人は比較的少ないでしょうが、われわれ出家の修行者は専門道場では精々四時間の睡眠時間です。道心のある人はもっと睡眠時間を削って四六時中の工夫を目指してほとんど横にならずに工夫三昧に徹するわけですから、規矩坐中はよほど気合いを入れないと居眠りが出てしまいます。しかし工夫が純熟してくると、法悦がますます増大して不思議なことに疲れるような自分などいつの間にやら無くなってしまうようになります。

数息観でも随息観でも公案工夫でも、倦まずたゆまず続けていきますと三昧の佳境が育ってきます。坐禅会でもこうして工夫を持続して日々の法悦を味わっている人が何人かおられます。しかしたとえどれほどの大歓喜を得ようと、それに満足して尻をすえることなく、ますます工夫を努められるようにと、いつも申し上げております。坐禅の法悦は底無しです。皆さん方も坐禅に参加してこの限りなき法悦を味わってみられませんか。

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