「禅の機鋒」(月刊コラム【No.109】2012年7月)

江戸時代から昭和初期までの禅僧の行状を述べた基本的典籍として、漢文体で書かれた『近世禪林僧寶傳』(全三巻)がある。これは第一巻を相国寺の明治時代の名僧であった退耕庵独園(どくおん)老師が、引き続き第二巻目以降の『續禪林僧寶傳』は相国寺長得院の小畑文鼎(ぶんてい)師がそれぞれ編纂されたもので、小衲なども雲水修行中は、僧堂掛搭以前にこの書から学んだ名僧の行履(あんり)を模範として慕い、自らの修行工夫の指針としたものである。

虎渓山永保寺の道場で厳冬の時節に雪の舞う氷の上で結跏趺坐して大悟徹底した柏樹軒潭海老師や、鬼大拙という異名のある悪辣の老師のもとで刻苦し、相国寺の禅堂で深い禅定に入り痛快な見性をした蒼龍窟洪川老師などの修業時代の逸話には、とりわけ深い感銘を受けた。本格的に禅の修行を志す者にとっては、まさに必読の書と言えるであろう。

独園老師がこの著述を志されるにいった経緯は、法嗣の便打室東嶽老師が第一巻の末尾の「跋」に明らかにされている。それによると、東嶽老師は独園老師が『近世禪林僧寶傳』を編纂されるのを見て疑念をもち、師に問い質(ただ)した、「老師は日頃から、わが禅宗は文字言句を立てず、また人に提示するようなものなど一切ないと言っておられるにもかかわらず、どうして禅僧の伝記などに熱心に取り組んでおられるのか」。独園老師は「確かにそうは言ったが、ただ後世の修行者たちのために是非とも伝えねばならぬ古人の言行が往々にして失われて伝わらなくなっていくことを惜しむ気持ちがあるのだ」と応じた。

「敢えてお尋ねしますが、一体、後世に伝えるべき古人の言行とはどのような言行ですか」という東嶽老師の問いに対して、独園老師は静かに昔の出来事を語り始められた、「わしが壮年の頃、大拙先師から聞いたことだが、先師は久しく行応禅師(行応玄節、1756-1831、峨山慈棹の法嗣)の道風を慕っておられた。たまたま禅師が播州(播磨)の或る寺におられることを聞き及び、出向いて相見を乞うたところ、侍者が言うには、老師は老いぼれられてその上に狂っておられるので相見はできかねる、と。大拙先師が強いて乞うと侍者が言った、昨日は風雨が激しい中を老師は講演に赴かれたが、手には傘を持ち杖を携えながらつまずきそうになることが何度もあったので、私が老師を助けようとしたところ、老師は大いに怒って私を打ちすえ、お前はどうしてわしを助けようとするかと叱りつけられたが、これが狂気でなくて何でありましょうか、貴公は相見などされずに帰られた方がよろしかろう、と。大拙先師はこれを聞いて醍醐を飲むような心地がして、侍者に向かい、貴公の一言は老師に相見することに遥かに勝ることだと応じたという」。

独園老師は東嶽老師に対して、「わしは大拙先師にこの話を聞いて思わず驚嘆して舌を吐き、初めて古人の潜行密用(せんこうみつゆう)の何たるかを知り、かつ禅宗の師家の為人度生の、耕夫の牛を駆り、飢人の食を奪う(農夫の大切な牛を追いやり、飢えた人から食を奪う)ようなやり口は、世の中の人の想像もつかぬところである。この家風は今どきの禅僧は捨てて土の如くであるが、まことに嘆かわしいことではないか。これがわしが古人の言行を金玉のように大事に思ってこれを編纂する所以である」と述べた。

これに対して「雷東嶽」と異名のある機鋒峻烈な東嶽老師が、「そうは申してもこの僧寶傳は結局は無意義な言句に過ぎず、そこにはいささかの宗旨もございませんぞ」と応じると、春風駘蕩たる家風の独園老師が突如として顔色を変えて僧寶傳の全編をつかみあげ、「者箇聻(しゃこにい、これはどうだの意)」と大喝一声された。東嶽老師は覚えず全身に冷や汗をかいたと、この「跋」を結ばれている。この大喝一声こそは独園老師独自の「耕夫の牛を駆り、飢人の食を奪う」底の手段に他なるまい。

小衲も実は独園老師や東嶽老師と同様、禅者の「耕夫の牛を駆り、飢人の食を奪う」を目の当たりにして息を吞んだことがある。その方は出家の禅僧ではないが、、すでに北海道帝国大学時代の病気療養の際に病院のベット上で坐禅三昧の果てに二十歳で見性されており、のちに独創的哲学者の西田幾多郎門下になられ、小衲がお目にかかった当時は、京都大学教育学部名誉教授であられた片岡仁志先生である。先生は生涯独身を貫かれ、禅の老師方ですら一目も二目も置く現代の維摩居士のようなお方であった。西田先生もすでに学生の身であった片岡先生に何らかの風格を感じられたと見えて、ご子息の外彦氏に、「お前の友人の片岡仁志に夕食をご馳走したいから、一度自宅に来るように言ってくれ」と言われ、その際に、日頃は禅のことを尋ねても「わしは禅など知らん」と言っておられた西田先生が、若い頃からの禅修行について片岡先生に色々と話されたと、先生から直にお聞きしたことがある。

先生は相国寺の無為室大耕老師に参じて大悟徹底されたが、師家である大耕老師ご自身が片岡先生を尊敬しておられたという話を聞いたことがある。また先生の親友とも言うべき哲学者の西谷啓治先生は「片岡先生がこう言われたから」と家族の方が伝えると、素直にそれに従われたという。大耕老師の後を継がれた大象窟櫪堂老師も、自分の方が年長であったにもかかわらず、片岡先生に対して、「わしは貴公を弟ではなく兄貴のように思っておるぞ」と言われたとのことである。小衲はそれを先生ご本人から伺ったのであるが、先生は櫪堂老師に成り切ってそう言われた。

多くの方々がその人格を慕って参集する先生は極めて多忙なお方であったようにお見受けした。雲水修行中であった小衲がお尋ねしてお時間をお取り頂いたことに御礼を申し上げると、「法縁はいくらでも結びますよ」と即座に応じられた。その片岡先生が最晩年のことである。いつものように玄関からだいぶ離れた門までお見送り下されようとされたが、眼病のためにほとんど視力をなくしておられた先生は下駄を履くことに一瞬難儀された。そのとき先生の教え子で先生に随侍しておられた女性の方(このかたも教育畑の方であった)がとっさに腰をかがめて先生の足に下駄を履かせようとされたところ、日頃は温厚な先生が突如として「何をするか」と腰をかがめたその方の背中を何度も平手で力任せに打ちすえられたのである。

その有様を見て小衲は思わず息を吞んで、行応禅師の行履を想起し、禅者としての片岡先生の骨(こつ)を目撃した思いがしたのである。先生は決して耄碌してそうされたのではあるまい。禅僧顔負けの修行をされ比類なき境地に達しておられたが故に、自然に「耕夫の牛を駆り、飢人の食を奪う」底の活作略(かっさりゃく)を発揮されたのであろう。

しかし機鋒の鋭さだけを発揮するのが禅だと思っていては大きな間違いである。真の禅者は把住放行臨機応変である。先生はまた例えば、お客から頂いた果物などを他の人に差し上げられる場合、「これをお目に掛けたいと思いまして」と言われるのが口癖であった伝えられる。先生は、禅により鍛え上げた人はかくも立派な人格になれるのかという模範のようなお方であった。先生が九十歳で遷化されてすでに幾年月が過ぎ去った。禅者としての片岡先生の風光を慕うこと切なるものがある。

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