「秋より高き」( 月刊コラム【No.78】2009年11月 )

ある方からのご招待で、四国の宇和島にある伊達美術館の「戦国武将伝ー信長・秀吉・家康・政宗ゆかりの品々ー」展(9月1日より10月4日)を拝見することができた。特に大徳寺総見院所蔵の信長像(重文)や南禅寺金地院所蔵の武家諸法度草稿(重文・本光国師筆)が圧巻であった。

聞けば、仙台の伊達家などは政宗公以来の名宝の数々を明治時代に売り払ってしまったが、宇和島の伊達家は今に至るまで先祖伝来の家宝を大切に護持して、その管理を伊達美術館に寄託しているということである。宇和島の伊達家十万石といえば、「幕末の四賢侯」といわれた伊達宗城(むねなり)公が有名である。

この際にぜひということで、松山の道後温泉にも招待されたが、さすがに日本屈指の伝統を誇る道後温泉の泉質は抜群であった。ご存じのお方も多いと思うが、この11月末から司馬遼太郎氏原作の「坂の上の雲」のテレビ放映が始まるということで、松山はなかなか盛り上がっていた。

いうまでもなく、この著作は、愛読書の筆頭にあげる人が最も多いといわれる司馬氏の代表作である。日露戦争の功労者であった秋山好古(よしふる)・真之(さねゆき)兄弟や正岡子規などの松山出身者を中心として、明治の近代日本の勃興期を生き抜いた青春群像が前半の主題であり、後半は日露戦争の詳細な描写が続く。「乃木大将愚将論」など問題となりうる部分もあるが、明治を生き抜いた人々の気概と当時の時代状況を知る上で格好の読み物であり、テレビ放映が待望されているのは当然のことであろう。

この松山行きで、「晩年の秋山好古と周辺のひとびと」という副題の『秋より高き』(片上雅仁著、アトラス出版)という好著を一読する機会を得た。弟の真之は日露戦争の際に連合艦隊司令部参謀として東郷平八郎司令長官から「智謀湧くが如し」と称賛されたほどで、日本海海戦の頭脳となった人であるが、大正7年に現役の海軍中将のまま49歳で逝去している。兄の好古は日本最初の騎兵部隊を設立し、日露戦争でその当時最強をうたわれたロシアのコサック騎兵団を独の奇想天外な戦法により撃破した。

秋山騎兵団の参謀を務めた森岡大将という人は、また好古をこう評している。
「秋山将軍の性格は、乃木大将の性格によく似た所があり、非常にまた乃木大将を崇拝していられたと共に、乃木大将もまた将軍を信ずることが頗(すこぶ)る厚かった。そうした両将軍の関係は、日露戦争の末期、敵を奉天から北に追撃してから後の対陣中、乃木将軍が騎兵集団司令部に将軍を訪ねられた時、お二人の交情まことに濃かなものがあったことなどから見ても、それを推測するに難くないのである」。英雄、英雄を知るというべきか。

好古は日露戦争直後、自らの国家観・人生観を次のように述べている。「国家の衰退は常に上流階級の腐敗より起こらないものはない。一家一族は国家の実利を挙げたならば、名利を放棄して、速やかに閑居する必要がある。これが私の多年の宿論だ。それゆえ、その素志を果たそうとしたことは一再にとどまらない。しかし、いまは事変のため、戦場に赴くことになるだろう」「勝ち戦に驕(おご)り功名を追えば、敗れる」。さすがはと思わせる見識の高さである。

前掲の書は、功なり名をとげて退役してのち、陸軍大将としての肩書きを持ちながら、好古がこの自らの信念に違(たが)わず、郷里松山の中学校校長として赴任してから昭和5年に71歳で亡くなる半年前まで6年2ヶ月にわたり、無遅刻無欠勤で校長としての勤めを果たした、その交友録である。名利をなげうったこの驚嘆すべき椿事(ちんじ)に関して、全国紙が「秋山大将、錦を捨てて郷里の中学校校長に」などと書き立てたという。

この好著の読後感を一言でいうならば、秋山好古を取り巻くひとびとには高邁な見識と実行力を兼備した人格者が多い、ということである。それらのひとびとにはある共通点がある。それはいずれも漢学の素養が深いということである。漢学とは中国の伝統的学問であるが、それは聖人賢者の経書(けいしょ)の素読を基本とする。儒教というのは単に聖賢の教えを学ぶだけではなく、それを実践躬行することを主眼とする。

コラムの表題は、秋山兄弟と親交のあった正岡子規の「松山や、秋より高き天守閣」という俳句からとった、その著作の表題を拝借したものである。松山の人たちのみならず、幕末から明治初頭に生を受け、明治・大正・昭和初期を生き抜いたわが日本の先人たちは、「秋より高き」高邁な人格を東洋的薫陶によって身につけられたのであろう。この誇るべき伝統がほとんど地を払ってしまったことは、まことに残念でならない。

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