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26、顔回の願い
27、戦々競々
28、無我の真実
29、「薫陶」ということ
30、不請の友
31、無我と平和
32、巴陵禅師のもうろく禅
33、法悦の仏縁
34、名利と法悦
35、青年と禅
36、人人具足
37、行雲流水
38、東洋的教育
39、思無邪
40、師匠の恩
41、出家とその母
42、青年と修養
43、霊芝山光雲寺
44、二人の法悦居士
45、南禅寺・禅センター
46、道心ある若者出でよ
47、東洋精神と世界平和
48、新年の法悦
49、多々益々弁ず
50、うつ病の克服
51、栽培の力を仮らず
52、発心について
53、生死の一大事


54、師弟の交わり
55、東福門院と光雲寺
56、法縁
57、稀有の人
58、臘八大摂心
59、明治の気骨
60、法悦三昧
61、東福門院
62、無住ということ
63、道心
64、鈍工夫
65、良寛さんと世界平和
66、四弘誓願
67、仏縁
68、光雲寺修復計画
69、拈華微笑
70、禅の生活
71、大地寸土無し





 

1月のコラム:  「大地寸土無し」」



 新年明けましてお目出度うございます。このコラムをご覧頂き、厚く御礼申し上げます。

 先月号でも申し上げたように、この光雲寺には大勢の来客があるが、在家の人だけではなく、雲水修行僧も何人かやってくる。昨年の師走、一年で最も厳しい修行である12月1日から8日までの臘八大摂心が終ってまもなくの頃、或る雲水が来訪した。彼はすでに修行生活十年目の古参であり、後輩雲水にも人望のある逸材である。ひと月に二度ほど小衲のところを訪れて、禅的境地について色々と話をすることが半年ばかり続いている。彼に対しては小衲も思う存分「禅」について語り合うことができるので、痛快で楽しい法悦のひとときである。もとより僧堂の老師も了解済みのことである。

 この前の来訪の際には、「大地寸土無し」という禅語について小衲が色々と話をした。これは自己を空じ尽した境地を表わす語として使われる。臨済宗では一則の公案に三昧になることによってこの境地に参入せんとするのであるが、それがなかなか難しいのは工夫に真剣味が足りないからである。

 鎌倉円覚寺の開山仏光禅師無学祖元(1226〜1286)は中国からの渡来僧であるが、20代初めに専門道場に掛搭してより決死の覚悟で無字三昧の工夫をして、遂には死人と見まがうばかりの大禅定に入ったと伝えられる。この大死一番の境涯から大活現前した禅師は、のちに元の兵隊が自坊の能仁寺に乱入して来た時にも、泰然自若として「乾坤孤キョウ(こきょう)を卓するに地無し、且喜(しゃき)すらくは人空法亦空なることを、珍重す大元三尺の剣、電光影裡春風を斬る」(この天地宇宙を空じ尽して、一本の杖を立てる地も無くなった。何と痛快なことか、人も物もことごとく空じられてしまった。元の兵隊さんよ、そんな剣を振りかざしてこのわしを斬ろうとしても無駄なこと、電光がきらめくうちに春風をなぎはらうようなものだ)という偈頌を唱えると、さすがの元の兵隊もその威厳に打たれて指一本触れずに退散したという。山岡鉄舟の剣道道場の名が「春風館」というのはこの仏光禅師の偈頌に由来するのは有名である。

 古参の雲水である彼に話したのは、ただ「大地寸土無し」という禅語や越格底(おっかくてい、ずばぬけたの意)の古人の修行の行履(あんり)を知るだけではなく、自分自身が実際にその境地に至らねばならぬということである。そのためには本当に命懸けの工夫が必要となる。戦闘機乗りでも単に練習の段階と生死を賭した実戦とでは技量に格段の相違があったということである。零戦の撃墜王の坂井三郎氏の著書を読めば、実戦の死闘がいかに過酷なものかがよく分かる。

 馬術の極意も「鞍上人無く、鞍下馬無し」、人馬を空じ尽した一心不乱の境地である。禅のみならず、およそ芸道の「大地寸土無き」妙処をわがものとするためには、幾たびもわが身を死地に入れて実践躬行しなければならない。南針軒霧海老師は「そこから出てきた奴じゃなけりゃ、本物ではない」と言われ、般若窟玄峰老師は「命が惜しいような奴は禅の修行はできんぜ」と説破しておられる。

 『禅関策進』の黄檗希運禅師(唐代の名僧)の示衆にも、「この関門の鍵は元来開くことが容易であるのに、お前達は決死の覚悟(死志)を決めて工夫しようとはせずに、困難だ困難だとばかり言っている」という苦言が述べられている。いつの時代でも真剣に修行する者は稀であったと見える。

 新年初頭に際して、禅に志す人々は出家在家を問わず、どうか死志をもって死地に入り、「大地寸土無し」という真境涯に直参して頂きたいと願わずにはおられない。






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12月のコラム:  「禅の生活」



 小衲が住職をしている光雲寺では、「南禅寺禅センター」として多くの人たちの坐禅を受け容れているほかに、二回の月例坐禅会と毎土曜日の夜坐禅を行なっているが、それ以外にも禅修行に関心をもって来訪される方々が数多くいる。

 他宗派ではお年寄りの信者が圧倒的だということを聞いているが、禅寺で坐禅体験をしてみたいというのは小中学生から壮年までの人たちが多い。そういう経験を通して痛感するのは、いかに大勢の人々が心の安らぎを必要としており、それを禅に求めているかということである。実際、禅にはそれに十分応えるだけのものがある。

 例年通り松の古葉つみを大学院の学生さんと一緒にしていた時のことである。早朝の澄み切った冷気の中での作務に没頭する法悦のあまり、「どうですか、大学での研究生活よりも禅寺の生活の方がはるかに健康的で楽しいでしょう」と彼に問いかけると、彼は即座に、「二千倍くらい健康的じゃないでしょうか」と応じた。これには尋ねた小衲の方が少々驚いてしまった。

 実際、学問研究によって自らの境涯を浄化し深めるのは至難のわざである。他の学生さんも、今の大学では心を病む人たちが数多くいると証言した。その点、禅寺の生活は何事にも身体を使い脇目も振らず雑念なく取り組むので、自然と三昧境が育って身心共に健やかな生活が送れるのである。

 若い人たちが遠方であるのも厭わずに次々に光雲寺に坐禅修行に来るのも、「禅の生活」には何か自分たちの心の問題を根本的に解決してくれる秘訣があるはずだという予感があるからであろう。お寺に下宿した若者が異口同音に、「お寺の生活がこんなに快適だったとは思いませんでした」と感嘆の声をあげる。特に在家から出家した人たちは格段に明るくなり、ご家族や親類の人たちもそれを無上の悦びとするので、期せずして教化を果たしていることになる。

 以前のコラムで今年のお盆中に来訪した東京の青年の話をしたが、11月下旬の開山忌の片づけをほぼ終えた夕方に、彼の奥さんのご両親が突然光雲寺を来訪された。多忙の折りとて仏殿での立ち話だけで失礼したが、彼はその後も小衲がアドヴァイスした仕方で「無の工夫」を継続しているらしい。おそらくはその工夫によってこれまで経験したことのない法悦境を味わっているのであろう。奥さんのご両親が紅葉見物に京都に出向かれたということを聞いて、「ぜひとも光雲寺さんによってお礼を申上げてほしい」と伝言したとのことである。

 「禅の生活」によって多くの人たちが心の安らぎを得られるのは嬉しいことである。どうか伝統的仏教を外側から見るだけではなく、ひとりでも多くの人たちが宗教的生活の醍醐味を味わって頂きたいものである。 〔なお、大勢の方々から結縁のご喜捨を頂戴して進められておりました東福門院念持仏の聖観音像の修復が、奈良の仏師・由谷倶忘(よしやぐぼう)師のご尽力により完了致しました。木造東福門院像も、来年4月の東京芸大での尼門跡展に出展するために修復中ですが、いずれこの2体のお像を皆様方にご覧頂く機会を設けようと思っております。皆様方のお力添えを感謝申上げます。〕





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11月のコラム:  「拈華微笑」


 先月号のコラムに「光雲寺修復計画」に関してご報告させて頂いたところ、まことに有り難いことに何人もの方々からご喜捨のお申し出がありました。皆様方のご法愛を篤く感謝申上げる次第です。
 
 これも光雲寺を340年前に再興された開基の東福門院様のご遺徳にほかならない。御所に参内して後水尾天皇に対して説法された仏頂国師(一絲文守禅師、1608〜1649)との出会いにより、禅宗にことのほか帰依された東福門院は、南禅寺開山大明国師が摂津の天王寺に開かれたのちに戦乱によって荒廃していた光雲寺を、英中玄賢禅師のご推挙により京都の現在地に移してご自分の菩提寺として再興されるに際して、父君の第二代将軍徳川秀忠公の遺金をもってされた。

 光雲寺に伝えられる東福門院のお像やご自筆の過去帳やご念持仏の聖観音像からは、慈悲深く信心深い東福門院様のお人柄がうかがえる。往時をしのばせる仏殿のご本尊は、両脇に摩訶迦葉尊者と阿難尊者の二大弟子を従え、「拈華微笑」(ねんげみしょう)する釈迦如来像である。仏師の名は玄信といい、当時「古今無比の名作」と賞賛されたという。東京芸大の仏像彫刻の専門家が来訪して調査した結果、「こんな技法はこれまで見たことがない」と驚嘆された特異な技法が使用されている。

 「拈華微笑」の因縁とは、その昔世尊が霊鷲山(りょうじゅせん)で金色の蓮華の花を大衆の前に指し示されたが、大衆はその真意が分からず黙然とするばかりであった。ただ摩訶迦葉尊者のみ破顔微笑されたので、世尊は「吾に正法眼蔵涅槃妙心実相無相微妙の法門有り、摩訶迦葉に付嘱す」と証明され、ここに嗣法が成立したのである。

   大衆が世尊の真意を理解できなかったのは、彼らが世尊の差し出された蓮華を有相の花としてしか見ることができなかったがためである。「頭陀行第一」と称された摩訶迦葉尊者は自己を空じ尽した境地から、この世尊の拈華を真空妙有の端的の直指であると見て取り、快心の笑みをもらしたのである。それまでに自己を空じるには、摩訶迦葉尊者は一体いかほどの刻苦をされたであろうか。

 来年4月14日から2ヶ月間、東京芸大美術館で「尼門跡寺院の世界」展があり、奈良と京都の13ヶ寺の門跡寺院の歴史や文化やそれを担った開山・中興の門跡たちの人生と業績とが空前の規模で公開される。外護者として多大の貢献をされた東福門院を顕彰せんがために、光雲寺所蔵の東福門院像も修復を施された上で出展される予定である。

 東福門院様は14歳で江戸から京都の朝廷へ入内されてから、一度も生れ故郷の江戸にお戻りになられることができなかった。郷里に一度帰りたいと念願するお歌を残された東福門院様を、今回そのお像なりとも郷里に2ヶ月の間戻して差し上げればと願うものである。

 光雲寺所蔵の東福門院像はえもいえぬ優しげな微笑みをたたえておられる。しかし、公武合体のために徳川家と朝廷のはざまで過された日々はいかほどのご苦労であったであろうか測り知れるものではない。東福門院様は義理のご息女の円照寺開山文智尼の観音経の読経の声を聞きながら安らかに崩御されたと伝えられる。

 東福門院様の仏縁により再興されたこの光雲寺が皆様方のお役に立つことができれば、さぞかし東福門院様もお喜びになられるに相違ない。 (奇しくも今年の五月八日に遷化した相国寺僧堂前師家であった小衲の実弟は、老師としての室号を「拈華室」といい、遺言により光雲寺修復のために多額のお金を喜捨してくれた。そこで、新築中の寮舎名をご本尊と東福門院様と拈華室とにちなんで、「拈華寮」と命名する予定である。合掌。)



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10月のコラム:  「光雲寺修復計画」


 京都大本山南禅寺の境外塔頭であるわが霊芝山光雲寺では、開基であられる東福門院の2年半後の三百年大遠忌に向けて、光雲寺文書の編纂や東福門院念持仏の修復や京都市指定の名勝庭園の整備を行なっているが、それと共に方丈や庫裡の耐震補強、寮舎の新設なども同時進行中である。

 お寺の住職には寺院の復興に専念せざるを得ない巡り合わせの人がいるが、小衲もどうやらその一人のようである。住山以来2年半に満たないが、土塀修理、墓地のバケツ置き場の新設、永代供養塔の観音像建立と行なってきたが、今回はこれまでにない大工事である。今年の5月に遷化した実弟の相国寺僧堂前師家・拈華室芳州老師も14年間専門道場の整備に邁進したが、今回の光雲寺修復について、生前「兄貴、お寺の修復は大変だぞ」と忠告してくれたことがあった。今はしみじみとその言葉を味わう日々である。

 お寺の修復というのは何も好き好んでやるのでは無論ない。やむを得ずにやるのである。最近新聞などで地震や耐震・免震に関する情報が掲載される機会が増えたが、日本人が現今もっとも心配に思う対象は地震であるという調査結果が出た。特に京都は戦災にほとんどあっておらず戦前からの伝統的木造建造物が数多く現存するので、いまもし京都市の中央を縦断している花折断層が動いて震度6強以上の大地震が起きれば、貴重な文化財が倒壊・焼失する危険が高いという。

 特に、近く確実に起きると言われる南海・東南海巨大地震の前後に内陸型地震が多発するのは周知の通りであり、阪神大震災はその始まりに他ならない。光雲寺の庫裡などは明治5年以来、耐震に関してはほとんどと言っていいくらい手つかずであった。危機感を感じて木構造耐震の専門家に診断してもらったところ、庫裡は0,2、方丈に到っては0,02という驚くべき結果が出た。

 庫裡の耐震強度に関して専門家の「強度がないに等しい」という言葉は衝撃的であったが、方丈の強度は「これまでした調査でもっとも低い」と専門家も驚いていた。ただ知り合いの中には光雲寺の場合よりも強度が低いと思われる寺院が少なくない。にもかかわらず、あまり耐震や免震の補強をするところが少ないのは、京都などでは何百年も経った古い木造建造物が現存しているという漠然とした安堵感があるためであろう。

 実際、或る大本山の管長のひとりは光雲寺の耐震補強を計画中の小衲に向って、「それは心配し過ぎ」と笑いながら言われたが、果してそうであろうか。阪神大震災直後の惨状をつぶさに目の当たりにした経験からすれば、そうした油断がもしもの時に大きな被害を生むことになるのではないかと危惧するのである。

 1年ほど前に寒川旭著『地震の日本史』(中公新書)という地震考古学の創設者の方の本が刊行された。新聞の書評を見て必読の書であることを感じて購入したのであるが、「多くの人たちが、自分の住んでいる地域で起きた地震を知るのが、将来の地震に備える第一歩。過去の地震を総覧してわかりやすい形で紹介できないであろうか」という思いで執筆されたということである。ご一読をお勧めしたい。

 それによると、京都の花折断層の北ー中部は寛文二年(1662)に動いて琵琶湖の西岸一帯が壊滅的な被害を蒙ったが、京都市街を貫く南部が最後に動いたのは1500年から2500年前の弥生時代前後のことである。時代が隔たっているだけに、いつ起るかかえって心配である。ただ今回耐震補強工事をして見て分かったのは、建設業者や設計士などはあまりこうした勉強を日頃からしていないようだということである。素人の小衲の説明に驚いて聞き入っているようなことでは正直困るのである。

 とはいえ檀家の少ない寺院にとっては、多額の費用がかかるこうした大事業は容易ではございません。加えて諸物価の高騰のために設計士の当初の見積もりよりはるかに経費がかかることになりました。光雲寺ではご喜捨をして頂ける方々に対しては、金額に応じて各派管長様方の表装済み墨跡や小衲の色紙をご進呈しております。また1ヶ月千円(一年分一括払い)の護持会に入って頂ける方があればまことに法幸至極に存じ上げます。皆様方のお力添えをどうぞ今一度よろしくお願い申し上げる次第です。 (お力添え頂ける方はお電話下されば幸いです。折り返し振替用紙を送らせて頂きます。光雲寺・TEL075−751−7949)


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9月のコラム:  「仏縁」


 以前のコラムにも書いたことであるが、最近は色んな方々がこの光雲寺を訪ねて来られる。坐禅会への参加者も増加の一途をたどっている。先月は二十代初めのドイツ人女子学生が来訪した。彼女を紹介したのは光雲寺に修行に来たドイツ人男子学生である。
 
 ただ、小衲に相見せんがためにわざわざ東京からやって来たのに、優柔不断な性格で投宿先からなかなか光雲寺に出向こうとはしなかった。二度ほどのメールをやりとりをして、小衲が「仏教には『仏縁』という言葉があります。お寺に来ればきっと心境が飛躍的に改善される機会が得られるというのに、あなたはせっかくの仏縁を自分から手放そうとしていることになります。どうぞ思い切ってお越し下さい。ご来訪をお待ちしております。」と書いて遂にやって来られた。

 一時間半ほどの対話によって心を安んじたのか、彼女は満面の笑みをたたえて帰って行った。あとからドイツ人男子学生から「彼女は戻ってからはいかにも幸せに満ちた顔で、笑みをうかべ、何かと思い悩む以前の彼女とは別人のようになりました。」という嬉しいメールをもらったのである。

 それから少しして東京から三十代初めの男性が六日間の予定で禅寺修行にやって来た。会社勤めがあまりに多忙で、心の安定を求めてやって来られたのである。最近坐禅会に参加する人の動機も似通ったものが多い。

 この男性は最高学歴の持ち主であるにもかかわらず、実に素直に小衲や弟子たちの言う通りに日々を過されて、見る見るうちに見違えるようになられた。帰られる際には弟子と一緒に門送をしたのであるが、光雲寺から鹿ケ谷通りまでの長い道を歩いて今一度振り返り、教わったわけでもないのに雲水のように丁寧に深々(ふかぶか)と低頭された。彼を紹介して来られた和尚様に電話で事後報告した折りにそのことを触れると、「ほー」と言って感心された。彼にとって今回の来訪がよい仏縁であったのは疑いがない。

 もっともこうした仏縁ばかりではなく、逆縁ともいうべき縁もある。年配の男性であるが、「自分はこれまで人と喧嘩して負けたことがない。おれはどんな奴もこわくない」と言って、いつもご自分の見識を披露される。

 こういう人は実は決してこわくはなく、尊敬もできないであろう。前に進むことを知って退くことを知らない人もまた問題である。一番畏怖を感じるのは、何といっても「無我」の人である。無我の人はまた謙虚であるというのが、小衲がこれまで経験で得たいつわらざる実感である。

 良寛さんは大寺の住職への就任要請を断り、その心境を「焚(た)くほどは風がもてくる落ち葉かな」と歌われた。何とゆかしい境地ではないか。このような求めるものもない心になれば、余計な雑念も雲散霧消するに相違ない。お互い、このような心境を味わう人生を送りたいものである。


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8月のコラム:  「四弘誓願」


 小衲の住する南禅寺境外塔頭の光雲寺には、ときおり出家希望者がやってくる。先日もまた一人やって来られた。出家希望者が増えるのは宗門の発展にとってもとより有難いことではあるが、そのいずれもが順調に修行に邁進してくれるとは限らない。中途挫折して還俗する不甲斐ない者もいたりする。いろんな理由があるにせよ、せっかく逢い難き無上の仏道に入りながら棒を折るのは、ひとえに願心が足らぬからである。

 禅の修行をする人で、「衆生無辺誓願度、煩悩無尽誓願断、法門無量誓願学、仏道無上誓願成」という「四弘誓願」を知らない人はまずあるまい。この願は「通願」といって、およそ修行に志すすべての人が心に銘記すべきものである。これに対して「別願」という願は、たとえば、「間断なく無字の公案を工夫しよう」とか「できるだけ長い時間、足を解かずに坐禅をしよう」とかの、自分独自で立てる願をいう。

 達磨大師から六代目の祖師で、中国唐代の名僧である慧能禅師は、この「四弘誓願」の「衆生無辺誓願度」という一句目を独特の捉え方をしておられる。通常は「数限りない迷える衆生を済度する」という風に理解されているが、六祖大師は「自分の心の中の迷いや妄想という衆生は際限がないが、それを済度する」という解釈である。

 考えてみれば、自己心中の迷いや妄想を解決できない人に他人の済度などできるわけがない。まず行なうべきは自分の境地を磨くことである。それも他人の力をあてにするようなことでは駄目である。慧能禅師は、「この慧能に済度してもらおうなどと思ってはならない。自分が本来具(そな)えている本性によって、ご銘々が自分で自分を済度(自性自度)しなければならない。それこそが本当の済度(真度)である」と明言しておられる。

 そして、「自性般若の智」をもって虚妄の心を除き(煩悩無辺誓願断)、見性して常に正法を行じ(法門無尽誓願学)、仏性を見て言下に仏道を成ずる(無上仏道誓願成)という他の三句が説き示されている。現行の四弘誓願とは字句が少し異なるが内実は同じことである。

 そして慧能禅師は最後に、「常に修行しようと念ずるのは願力の法である」と述べておられる。実際、しっかりした願心の力があれば、何があろうと修行を挫折することはない。その修行とは「行住坐臥、常に一直心(じきしん)を行ずる」ことである。

 禅の修行にとっては直心(素直な心)が何より不可欠である。素直な心になろうとすれば、まず自分のこれまでの経験に基づく自負などを白紙にして赤子のような気持ちで師匠に仕えなければならない。「師匠はそのように言うが、自分はこちらの方がよい」などと「わが思わくを立てて」(盤珪禅師)判断し実行するのは我見我慢というものであり、そういう人は中途で横道にそれたり、挫折したりするものである。

 師匠や先達のいわれるがままに、わが身を空じて四六時中素直に直心を行じて行くのが無我の実践行というものである。冒頭にお話しした男性は何年も師匠にすべき人を探しあぐねていたが、小衲の坐禅会に参加して、「赤子のような白紙の気持ちになって修行するなら受け容れてもよい」という小衲の言葉に感激してくれたのは嬉しいことである。     

 これまでいろんな社会経験もありながら、それをかなぐり捨て去って「さらに素直な気持ちで精進して参ります」とは感心な決意である。この初心を忘れぬように彼が心境を磨いて行くのを楽しみに見守ることにしよう。

 小衲は常日頃弟子たちに、「四六時中無字の公案を工夫しながら坐禅や作務をするように」と指導している。無字三昧を行じて行住坐臥を過すならば、必ずや我見妄想が思わず知らず脱落して、法悦の妙味が味わえること疑いなしである。

 すべてを空じ尽した悦びほどの悦びが他にあるであろうか。願わくは、すべての人々にこの法悦を味わって頂きたいものである。 「衆生無辺誓願度、煩悩無尽誓願断、法門無量誓願学、仏道無上誓願成」


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7月のコラム:  「良寛さんと世界平和」

 私事で恐縮であるが、先月に新潟で行なわれた「良寛と文人・画人展」を主催者の方からのご招待を受けて拝見することができた。中でもとりわけ目を引かれたのは湯川秀樹博士の作品で、行脚中の後ろ姿を画いた墨絵の良寛像である。博士の書は何冊か拝読したが、このような絵心がおありになったとはついぞ存じ上げなかった。この展示会の主催者の方も、この博士の絵を起点として「良寛さんから世界平和へ」を主眼として活動しておられる。

 原爆理論の生みの親ともいえるアインシュタインが米国で湯川博士に出会ったおりに、「貴国に原子爆弾が墜ちるようなことになって誠に申し訳なかった」と心から陳謝されたという。核兵器廃絶・科学技術の平和利用を訴えた宣言文である、有名な「ラッセル・アインシュタイン宣言」が11名のノーベル賞受賞の第一級科学者たちによって提示されたのは、1955年のことである。

 96歳で亡くなられた湯川博士のスミ夫人も、世界平和のために活動され、世界連邦建設を悲願とされ、95歳のおりの講演で、「地球平和のために、50年も前に非核宣言をしたのに、いまだに核兵器はなくなっていない。核兵器をなくし平和を実現するためには、私たちひとりひとりが自覚し行動することです」と訴えかけておられる。それにしても有史以来、人類は殺し合いを続けてやまないとは何という愚行であろうか。

 新潟から戻ってまもない頃に、東京で日米関係の重要な仕事に従事しておられる方からメールを頂戴した。この方は、「世界規模で軍縮を進め、それにより捻出される膨大な予算をより良い社会建設のために使えばどれほどよいか」というお考えである。そしてわが国も、4兆円にのぼる国防予算や道路財源などをあたう限り削って「平和と福祉」のために役立てるべきであるという高邁な見識をもっておられる。

 まことに正論と言うべきであるが、しかしこの方の言われるように、予算を削るとなると、実際には、それによって恩恵を蒙っていた防衛産業や土木業界はあの手この手で抵抗するであろう。選挙に当選することに汲々(きゅうきゅう)としていて「仁政」などということは眼中にない政治家たちに、かかる「平和と福祉」の道への軌道修正を期待する方が無理かも知れない。

 それに比べて、良寛さんの存在はいかにも平和でのどかさを感じさせる。もとより良寛さんのずば抜けた境地は猛烈な禅修行の賜物であり、それによっていかなる過酷な環境にあっても洒々落々として過すことができたのであろう。容易の感をなすことは禁物である。

 良寛さんの読経の声は非常に素晴らしく、帰られてからも何日もその家の中がなごんだという。その墨跡に至っては、余人の追随を許さぬほどの天衣無縫の神品というべきものである。昔から慕う人は多いが、及ぶ人は絶無であろう。それは技術の問題ではなく、境涯がまったく違うからである。

 良寛さんのよく揮毫した句に、「従少出家今已老、見人無力下禅床」(わかきより出家して今すでに老いたり、人を見て禅床を下るに力無し)というのがある。「若い頃から出家して禅修行を続けて、もう年老いてしまった。来客がやってくるのを見ても、坐禅の席から下りて応対する気力もうせた」という意味であるが、これは禅ではすこぶる円熟した「閑古錐」(かんこすい)の境涯である。

 「閑古錐」とはつまり使い古して鋭利な先が丸くなってしまい、役立たずになった錐のことである。それは舌鋒鋭く自己主張したり保身したりすることとは全く逆の生き方である。大愚の境涯に遊んだ良寛さんは、他人からひどい仕打ちを受けてもそれを意に介することが全くなかったと言われている。このホームページの「大愚のすすめ」にある良寛さんの「起き上がり小法師」と題する漢詩を想起して頂きたい。

 「 人の投げるにまかせ、人の笑うにまかす。さらに一物の心地に当たる無し。語を寄す、人生もし君に似たらば、よく世間に遊ぶに何事か有らん」( 玩具のダルマは人に投げられても投げられたまんま、笑われても笑われたまんまで、それに対して何らの感情や妄想を起さない。もし我々人間も君のような生き方ができるならば、人生を暮らすのに何の苦労もないであろうに。)

 全国良寛会を初めとして、日本全国に良寛さんを慕う人々の集いは枚挙にいとまがない。それは良寛さんの存在が人々の心を浄化するからであろう。名利を離れて枯淡清貧の生活に徹した良寛さんが、はからずも後世の人たちから最も慕われることになったのも興味深いことである。

 核兵器の恐ろしさを知悉された湯川博士にとっても、越後の草庵の侘び住まいで一生を終えられた良寛さんの存在は、平和の象徴のようなものであったのかも知れない


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6月のコラム:  「鈍工夫」


 知り合いの西洋人が坐禅修行のために二週間ほど光雲寺に逗留した。二年ぶりの来日である。彼の坐禅歴はすでに十五年以上にもなるであろうか。数年に一度は来日して本場の日本で坐禅修行を志す、母国の理系の研究所に勤める四十代初めの好男子である。

 終日作務で薬石(夕ご飯)を作る時間がなく、やむを得ず弟子たちと共に外で食事した時のことである。この西洋人が突然に「京都に華厳宗のお寺はありますか」と小衲に尋ねた。言下に「いや、私は知らん」と答えたが、明朝の粥座(朝ご飯)のあとで小衲は彼に次のように諭(さと)した。

 「君は禅の修行をするために日本に来ているのではないか。それなら馬鹿に成り切って工夫三昧にならねばならぬはずで、華厳宗のお寺のことなど聞いている暇はないはずだ。そういう知識をいくら積み重ねても、その延長線上には真の安心はない。私は修行時代はまるで狂気のように工夫三昧になったぞ。」

   彼は黙してしまった。ただちに工夫三昧の生活に邁進してくれるものと思っていたが、その日一日京都見物をしたいということで夕食後まで外出した。果してこちらの真意を理解してくれたのかどうか、はなはだ心もとない気がする。

 禅では古来「鈍工夫」の必要性が強調される。本を読んだり他人としゃべったりせずに、ひたすら馬鹿になって工夫三昧になるのである。今日の専門道場ではまだこの気風が護持されているのは有難いことである。工夫というのは禅の臨済宗の場合、「公案三昧」の工夫を意味する。坐禅の最中だけではなく、寝ても覚めても行住坐臥この工夫に全身全霊を投入するのである。

 粗食で睡眠時間も極度に減らして修行するのであるから、いかにも「苦行」のように傍(はた)からは見えるであろうが、決してそうではない。工夫三昧の妙境は何ものにも代(か)え難い法悦の醍醐味がある。「苦行」どころか悦びの極みであるといってよい。  この妙味を享受しなければ禅の修行をした甲斐はないであろう。とはいえ、意識分別はなかなか取り去り難く、愚直なまでに「鈍工夫」に励んで遂には見性まで到る人は稀である。

 江戸時代の女性であるが、蒹葭(けんか)慈音尼という人がいる。江州(滋賀県)の生れで、八歳の時に母を亡くし、その追善に天台宗の僧侶が法華経を誦み、その功徳により母の成仏が得られるという話を聞いて、自分も出家してお経を誦んで母の成仏を見届けたいとの願いをもつに到った。

 父は娘の出家をなかなか許しそうにもなかったので、遂には出奔して十六歳で出家し、二人の尼僧を師匠として修行したものの、経文や禅録と読み方は教わっても悟道に関しては何らの教示もなかった。蒹葭慈音尼は断食を始め、さまざまな難行苦行を重ねたが、一向にらちは明かなかった。

 そうこうするうちに父も亡くなり、わが身も病身になって京都の六角堂の前で養生しながら悟道の道を熱心に模索した。蒹葭慈音尼は、「道を教え、悟らしてくれる人があれば、身命をなげうって自性得心したく思い」、とその切実な胸の内を述べている。

 その時、或る人から石田勘平(梅岩)という人が心学の講釈をしているということを聴き及び、それを拝聴してその偉大さに触れ、さらにその日常に親炙(しんしゃ)して「いかなる大聖人賢者も、これ以上ではあるまい」と思い、梅岩先生の指導のもとに修行に励んだが、それでもなかなか落着できなかった。

 「これほどの徳の具わったお方がどの国におられるであろうか。この方のところで自性を徹見できなければ一生できないであろう」と思い、梅岩の弟子の一人に二畳半の座敷を提供してもらい、そこで断食をして昼夜工夫三昧で心を尽していたが、身心共に疲労困憊の極に達した時、「そよそよと吹いて来た風」に思わず驚かされ、「古今何らの変滅なく、全体そのままで我である」ことを徹見し、「有難いことも面白いことも、この上ないこと、決定(けつじょう)した」という。

 蒹葭慈音尼の工夫の仕方は、「つねづね心を平静にして静座を好んで、いろんな音声を聞く者は何者ぞ,これ何者ぞと昼夜怠りなく尋ねるならば、ついにはその主(ぬし、自分の本心本性)に尋ね当ることができるはずである」というものであり、さらには、「この肝心要(かんじんかなめ)のことを知らぬ者は、たとえ万巻の書物を理解し、読破暗記しても何の益にもならないと古人も言われている」と注意を喚起している。

 蒹葭慈音尼のような真剣味があれば、誰しも自性が徹見できるはずである。馬鹿に成り切って「鈍工夫」に邁進する人の出現を期待してやまない。


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5月のコラム:  「道心」


 天台宗の比叡山延暦寺を開創された伝教大師最澄は、五十六歳で入滅される四年前の五十二歳の折りに、修行者たちのために「山家学生式」(さんげがくしょうしき)を作られ、「国の宝とは何物ぞ、宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝と為す。」と言われた。きらびやかな宝石などではなく、「道心のある人物こそ国宝の名に値する」というのは、何という高邁な見識であろうか。

 先日、二十三歳のドイツ人の若者が光雲寺を来訪した。彼は発展途上国の人々のお役に立ちたいという念願をもって日本にやって来た。ドイツにいる時にはただ経済援助のみを考えていたのであるが、訪日後はそれだけでは不十分だということに気づいたという。それは留学生を受け容れている真宗系の大学で仏教について学んだ結果であろう。

 小衲は毎年この大学の外国人留学生を対象とした講義をお寺で行なっているが、彼もまた米人教授に引率されて来訪したグループの一員であった。その時にはいつも話しながら法悦に満たされてついつい時間を忘れてしまうのが常であるが、彼もまたこの法悦の輪の中に包まれて「本当に楽しい一日でした。それとともにあなたの情熱に驚きました」というメールを送ってくれた。話していると熱がこもってしまうのは毎度のことである。

 嬉しいのは、彼が小衲の話に感応道交して、「どうぞあなたのお弟子にして頂きたいのです。そして悩んでいる多くの人たちに苦しみからの開放をどのように教えてあげることができるのかをご教示頂きたく思います」と念願してきたことである。西洋人は自己主張する人が多いが、彼は悩んでいる人たちの力になりたいがために、僧侶となって禅の修行をしたいという。

 今どきは自分一箇の将来のことだけを考えて、一身を抛(なげう)って他人のために尽そうと発願する若者は日本人でも稀であるのに、このドイツの青年はまことに見上げた道心(菩提心)をもっている。実際に逢ってみて、彼の温厚誠実で謙虚な人柄がすぐさま見て取れたので、九月からの入山を快く許可したのである。

 それにしても、「今どきの若者たちは」という嘆きはいつの時代でも聞かれることであり、とくに昨今の学級崩壊の現場はすさまじいものがあると現場の先生方からお聞きすることが多いのであるが、この光雲寺を訪ねてくれる青年たちを拝見すると、決して失望するには及ばないように思えてくる。

 聞くところによると、暁天坐禅会を行なっているいずれの本山でも、日曜日で午前六時からの早朝にもかかわらず、多くの人たちが坐禅に来るということである。わが南禅寺の本山も五十名の参加者の半数ほどが若い人たちである。中には小学校低学年の子供がお父さんと一緒に行儀よく坐禅していることもある。

 自分中心の生き方をすると、えてして人間関係がぎくしゃくしてわが身も辛くなりがちである。ドイツ人の若者のように人のお役に立ちたいという菩提心を発揮すれば、かえって毎日が充実して楽しくなるはずである。

 山田無文老師は現代の名僧といって良いお方であるが、老師は雲水修行をされる以前に、師匠の河口慧海和尚から菩提心に関する感慨深い説法を聞かれた。慧海和尚は苦難の末にチベットに入国して貴重なお経などを将来したことで著名である。確か『入菩薩行』というチベット語の翻訳経典を使用しての講義であったと思う。

 その経典にはおおよそ次のように書かれていたという、「地球上をすべて牛の皮でおおえば、世界中どこでも裸足で歩くことができる。しかしそんなことは不可能である。だがそれと同じことがいとも簡単に実行できる手立てがある。それは自分の二つの足の裏を牛の皮でおおうことである。そうすれば地球全体を牛の皮でおおったのと同じことになる。それと同様に、世界中どこにいっても極楽ならば言うことはないが、そんなことはとても不可能である。しかし自分が人のために尽すという菩提心を発するならば、世界中がただちに極楽となる」。

 無文老師は慧海師のこの説法を聞かれてご自分の進むべき道の素晴らしさを確信されたという。老師のお若い頃の伝記のこの感銘深い一段は、小衲の記憶に残って忘れ難いものである。

 一人でも多くの人が菩提心(道心)をおこして、自分の小さな殻から脱却して喜びの日々を送って頂きたいものである。

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4月のコラム:  「無住ということ」


月二回の光雲寺の坐禅会では、禅宗の初祖である達磨大師から六代目の祖師である六祖慧能禅師の『六祖壇経』を提唱している。この書は後人の改竄(かいざん)や異本が多いことで有名であるが、それでも、 在家の居士身で数多くの出家僧をさし置いて五祖大師の法を嗣いだ天性の禅者の語録であるから、深い禅体験からほとばしりでた簡明直截な卓見が随処に説かれており、さすがはと感心させられる。

 そのひとつとして、「無念・無相・無住」の教えがある。歴代の祖師方と同様に、「まず無念を立てて宗旨とし、無相を本体とし、無住を根本とする」というものである。よく「無念」などというと、「念を起さない」ことだと思い込んでいる人がいるが、それでは「念を起すまい」と念を起していることになる。「念を起すがままに念にとらわれない」ことが本当の「無念」である。とらわれなければ、念は有って無きが如しとなる。

 「無相」というのも、ただ単に「相が無い」というのではなくて、「相を認めるがままに相にとらわれない」ということである。とらわれなければ相が有っても無きが如くで、一向に苦の種にならない。

 この「無念・無相」に共通しているのは、「とらわれない、尻をすえない」ということであり、それ故に「無住を根本とする」と六祖大師はいわれるのである。「執着しない」という基本姿勢は、念や相、たとえば善悪・美醜、怨み・親しみなどというわれわれの感情や価値判断を含む、一切の物事に対して、それが実体のない「空」なるものであるという根本洞察に基づいている。

 この「楽道庵」のホームページの「大愚のすすめ」で言及した、良寛さんの「起き上がり小法師」と題する偈頌(げじゅ、仏法の宗旨を含んだ漢詩)を思い起こして頂きたい。

 「人の投げるにまかせ、人の笑うにまかす、さらに一物の心地に当たる無し。 語を寄す、人生もし君に似たらば、よく世間に遊ぶに何事か有らん」(玩具のダルマは人に投げられても投げられたまんま、笑われても笑われたまんまで、それに対して何らの感情や妄想を起さない。もし我々人間も君のような生き方ができるならば、人生を暮らすのに何の苦労もないであろうに。)

 まことに良寛さんこそは、一処不住で地位や名利にも尻をすえず、宗派にすらもとらわれなかった、真の「無住」の人である。後世の一流の書家がいくら良寛さんの墨跡をまねようとしても、風格が格段に見劣りするのは、技芸の根本にある大愚・無住の境涯が段違いであるからであろう。

 ところが、実際には世の中の人のほとんどはこの「無念・無相・無住」という真空の境地があるのを知ることなく、「対象に対して念をもち、その念についてまた邪見を起してしまうので、一切の煩悩や妄想が止むことがない」のである。

 念を起しながら、過ぎ去った物事を思い起こさないのが肝要であるのに、眼前にはない過去にとらわれてそれをいつまでも引きずるがために、束縛と心労とが絶えることがないのである。まさに無縄自縛(縄などないのに自分で自分を縛りつける)であり、自縄自縛(自分の意識の縄で自分を束縛する)である。

 小衲のところに悩みの相談に来られる人は、例外なくそういう傾向をもっておられる。過去を引きずらずに現前のことに心を尽すことを説くのであるが、なかなか断ち切るのは難しいようである。現在の不本意な状況が自分のまいた種だということを気にして心労でくたくたに疲れ果てている人もいる。あるいは、会うたびに自己弁護する別れた連れ合いの言動にいつも憤慨してしまう自分を何とかしなければと思う人もいる。

 相手に憤慨する人に対しては、相手の非だけを咎(とが)めるのではなく、たとえわが身に落ち度がないと思われる場合でも、「自分にも至らぬところがありました」と下手(したで)にでれば、きっと相手も弁解に終始せずにうまく行くはずだということを申し上げた。

 その態度を職場で行なったら、「相手の人が思いもかけない穏やかな対応をして本当に驚きました」ということである。また、過去の出来事に対して後悔の念が抜けない人に対しては、「無-、無-、無-と念じて、生じてくる雑念を切って行かれれば、きっと心の洗濯ができて清浄な心が戻ってきますよ」とアドヴァイス申し上げたところ、果して「実にさっぱりした気持ちになってきました」というメールを頂戴した。

 もとより、なかなか一朝一夕には「無念・無相・無住」の心境を手に入れることはできるものではないが、それでもそういう風に絶えず工夫を続けていくと、いつのまにやら心が浄化されて、以前の哀れな自分とは絶縁できるようになることは確かである。皆様方が悦びに満ちた充実した人生を送られることを願ってやまない。

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3月のコラム:  「東福門院」


 光雲寺の開基である東福門院様の初の伝記が刊行された。伝記に関しては定評のある「人物叢書」(吉川弘文館)の一冊としてである(久保貴子著、1800円)。光雲寺所蔵の東福門院画像も掲載されている。ただ、本の表題が『徳川和子(まさこ)』で、『東福門院』となっていなかったのは残念な気がする。

 十四歳で後水尾天皇の女御となり、中宮の身分を経て、二十四歳から七十二歳で崩御(ほうぎょ)されるまで国母(こくも、天皇の母君)として、「菊と葵」(朝廷と徳川幕府)の和合に腐心尽力された五十年近い「東福門院」としてのお姿こそ、その本領ではなかったかと思われるからである。

 確かに、この書の著者も言うように、幕末の動乱期に天皇の娘として生れ、徳川十四代将軍家茂(いえもち)公の御台所(みだいどころ)となった和宮(かずのみや)と比べると、徳川幕府が安定期に入る頃に入内(じゅだい)された東福門院のご生涯は、世間が注目するような波瀾もなく、それだけ一般的には知名度は低いかもしれない。

 白洲正子さんは、「朝廷と幕府の十字架の上に、無言で堪えた東福門院を、私は稀に見る立派な女性と信じている。そして、そういう人物が、あまり世に知られていないのを遺憾なことに思う。・・・京都光雲寺に残る東福門院の画像は、まるでおひな様のように美しいが、虫も殺さぬ表情の奥に、どれ程多くの涙が秘められていたことか。そこに想いを及ぼす時、ほんとうに強いといえるのは、後水尾天皇や春日局(かすがのつぼね)より、こういう女性ではないかと思う」(「忍 東福門院」)と述べられているが、さすがに鋭い洞察である。

 光雲寺には東福門院の尊像や画像を掲載させて欲しいという依頼が枚挙にいとまがないほどであり、「東福門院ゆかりのお寺」ということで光雲寺が紹介される機会も増えている。拝観寺院ではないが、来訪された方々に東福門院ゆかりの品々をご紹介しながら「東福門院と光雲寺」についてお話しすると、大いに感激される。

 数年後には東福門院三百三十年大遠忌を執り行う予定であるが、それに向けて現在仏殿や庫裡の耐震・免震補強や寮舎建設などの境内整備も計画中である。東福門院が朝夕欠かさず献花・献香をされ、女院御所が火事の際にはいち早くお輿(こし)に乗せて避難させられ、江戸時代を通じて多くの人々の信仰を受けたという、運慶作と伝えられる東福門院御念持仏の聖観音像も近く修理に出す予定である。

 光雲寺には東福門院ご所持の自筆の過去帳やご息女の女三の宮の念持仏、本尊釈迦如来像など、東福門院ゆかりの品々がある。それと共に、古文書を初め、京都市の文化財指定を受けた三百四十点にのぼる貴重な資料が眠っている。いま「光雲寺文書」を編纂し始めているが、それが完成の暁には、「東福門院と光雲寺」の関わり合いのみならず、東福門院ご自身の貴重な史実が明らかとなることであろう。

 とりあえず、第二代住職で中興英中玄賢禅師の法嗣である大拙和尚の手になる「光雲寺再興之次第」の一節をご紹介したい。
 「主上女院御所様より光雲寺御取立成らせられ候次第の事」と題された一節には、「女院様 先年より御菩提の為に京都に於て一寺御建立成らせられたく御願の由」で、泉涌寺は禁中の方々(皇族)が祀られる寺ではあるが、東福門院お一人のお寺という規模ではないので、「たとい御廟所は泉涌寺に候えども 東福門院の御願所、各別に一寺御取立置き、後の世に至るも御法事も懈らず相勤め候様成らせられたく思召の由」(たとえ祀られている廟所が泉涌寺であっても、仏事でまつられる御願所を別に一寺設け、後世まで法事も滞りなく勤めてもらうよう成されたいとお考えであったとのことである)、と記されている。

 そしてそのことを女院御所付きの野々山丹後守(たんごのかみ)が南禅寺の英中玄賢長老に「再興されるにふさわしい旧跡などございませんか」と尋ねられたところ、「光雲寺は南禅寺と同じ大明国師の開山で、出世の地であるが、長らく廃れてしまい、再興したいとの願っていた玄賢長老は、ちょうど公方様から住職の公帖を頂戴していた。そのことを女院様のお耳に入れたところ、幸いのことである、光雲寺再興の工事費用を自分が出したくおもう、と仰せ出されたのである」とある。

 そして光雲寺を再興する費用は、東福門院が江戸の大老酒井忠勝にも相談されて賛同を得た通り、父君の第二代将軍徳川秀忠公からの遺産料でまかなわれたということである。

 されば、現存する三百四十年前の寛文年間建立の仏殿を初めとする光雲寺全域は、当山開基東福門院様の菩提心の発露にほかならない。 数多くの仏弟子を育てていくことも、東福門院への何よりのご供養になることであろう。

 今後ますますこの光雲寺を輝きある寺とするために、皆様方のご法愛を切によろしくお願い申し上げます。

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2月のコラム:  「法悦三昧」


  今月のコラムに「法悦」について書こうと思い立ち、昨年のコラムを見たとこ ろ、昨年も2月に「新年の法悦」と題して書いていたことに気づいた。今年もま すます法縁・仏縁が増えて雪達磨式の「法悦三昧」の日々が到来しそうな気配が 感じられる。

 まず、大名の墓と元禄年間以来の無縁墓を整理改修して光雲寺墓地に昨年秋に 建立した永代供養塔が、檀家さん方に非常に喜んで頂けたことである。「素晴ら しいお像が建立されて本当にびっくりしました」と言って、建立お祝い金を頂戴 した篤信家の奥様もおられる。慈愛に満ちたお顔の長身の観音石像は、さほど広 くはない墓地の全体を慈愛を以て安らかに包んで下さっているような感がある。

 いや、墓地全体ばかりか、「為有縁無縁三界万霊」という霊標が示す通り、観 音様は「畏(おそ)れ無き」を施して苦しみ悩む有縁無縁の世のすべての人々に 心の安らぎを与えること(「施無畏」)を念願しておられるはずである。(な お、観音様に関しては、南禅寺現管長猊下・中村文峰老大師の『観音力』「春秋 社刊、1260円」という好著がでたので、参照して頂ければ幸いである)。

 宗教者として世に立つ限りは、この観音様のような心をもっていずれの人も分 け隔てなく受け容れるのが本当であろう。他宗の檀家の方々でもこの慈悲深い観 音様に見守られた光雲寺の永代供養塔を見て、「できることなら是非私も入れて 頂きたい」と希望する方があとを絶たない。檀那寺との関係で難しい問題もある が、何とかそういうことが可能になればと思案中である。

 なお、ついでに申し上げれば、光雲寺の墓地もまだまだ空き地があるので、墓 地をお探しの方はどうぞご一報賜れば幸いである (TEL075−751−7949)。中には、光雲寺が朝廷と徳川家(「菊と 葵」)ゆかりの格式ある寺院であるからといって二の足を踏まれる方があるが、 今どきそんな心配はご無用である。何よりも交通の便がよくて緑なす東山連峰を 借景にもつ境致はまことに稀有といってよい。これも東福門院様と中興・英中禅 師の遺徳である。この光雲寺と仏縁の結ばれる方々が増えて、「法悦三昧」の日 々を送られるのを願わずにはおられない。

 また、以前のコラムで「稀有の人」としてご紹介した男性が来訪して、1月の コラム「明治の気骨」で触れた今村大将のことを話題にされ、ラバウルで今村大 将配下の兵隊であった仏壇のお父上のお位牌に向かい、「いまも今村大将のこと をほめてくれる人がありますよ」と報告したそうである。将校よりも下士官のこ とを大事に思う今村大将の日常を見て、兵隊たちは「この人の下なら死んでも悔 いはない」と畏敬の念をもったという。

 この男性のお父上はよく夕陽を眺めるのが好きで見ていると、今村大将が「君 はよく夕陽を見ているな」と親しく話かけられたそうである。また非常に人格者 の少将がいたが、「そりゃ、今村大将の配下だもの、ああいう立派な方がでるの も当然だ」と言い切られたという。

 ラバウル十万の将兵たちは、今村大将の先見の明と指導のもと、自給自足の生 活と堅固な地下要塞を保持していたが、ソビエトが日ソ不可侵条約を一方的に 破って満州に進攻し暴虐の限りを尽しているのを知って憤慨し、「われわれ十万 の将兵をソビエトに送って戦わせて頂きたい」と直訴したそうである。ところが 大将は、「もう戦争は終った。戦うことはあきらめよ」と説得されたという。 「そのお蔭でわれわれは命拾いをしたのだ」とお父上は言われたという。

 お父上に成り切って語られる、かの「稀有の人」の熱のこもった語り口を聞い て、いつのまにか法悦のひとときを過ごしたのである。

 法悦の種にはこと欠かない。出家希望の東京の男性が今年から光雲寺に住み始 めたが、彼はわずか十日足らずで、まるで別人のような変貌を遂げた。笑顔に輝 く彼を見て、以前の彼しか知らぬ人はきっと驚くことであろう。ひとりの人が本 当に法悦を得れば、周りの人たちを期せずして感化していくものである。彼がこ れからどのように法悦を育てて行くのか大いに楽しみである。

(ところで、「寮舎建設用に」といって、奇特にも何か月も匿名で光雲寺にお志 をお送りして頂いているお方がおられます。小衲のところに以前お越しになった お方のようですが、ご返礼のしようがございません。もしこのコラムをご覧なら ば、どうぞご住所・お名前をお教え頂ければと存じます)。

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1月のコラム:  「明治の気骨」


 新年明けましておめでとうございます。いつもこのコラムをご覧頂いて篤くお 礼申し上げます。さて、新春最初のコラムは「明治の気骨」というものについて 考えてみたいと思います。

 昨年、東京在住の或る紳士の方からのご教示で、第二次世界大戦でラバウルの 戦いで陣頭指揮をとられ、戦後に戦犯となった部下と共に自ら進んで監獄に入ら れた名将今村均大将の伝記(角田房子著)を読む機会があった。

 そして今村大将が回想録を書かれているのを知り、古書を取り寄せ拝読し、そ の武人としての風格を知ることができた。軍人の回想録を読んだなどというと、 すぐさま右翼呼ばわりされるのが落ちであろうが、先入見をもたずに虚心坦懐に 読めば、先人の心の気高さや時代の宿命で心ならずも戦場に赴いた方々のご苦労 が偲ばれるのである。

 今村大将は終戦の詔書の電報を受け取ったのち、ラバウル方面の軍将兵を前に して別辞を読まれ、その中で「後世の歴史家は満州事変以来のわが国の歩みをさ まざまに批判するであろう。が、私はこれを民族的宿命と信じている。死中に活 を得ようとして起(た)ったこの戦争も、事ならずして敗れた終戦も、また運命 であると考える」と真情を吐露されている。

 その今村大将が深く尊敬しておられたのが、乃木大将である。今村大将の岳父 が乃木大将と西南戦争以来の昵懇(じっこん)であり、岳父から将軍の高潔な人 柄を聞いておられたのも大きく影響していると思われる。またご自分がその側近 をしておられた上原勇作元帥からも、旅順攻略の際の乃木大将に関して聞かれる こともあったであろう。

 後に司馬遼太郎が『坂の上の雲』で乃木大将のことを愚将呼ばわりしたのに対 して、「乃木大将は愚将にあらず」という一文をものしたのも今村大将であった。

 ただ、乃木大将の苦渋に満ちた心中をおそらく最もよく理解したのは、日本海 海戦でロシア艦隊を撃滅した稀代の名将・東郷平八郎元帥であった。乃木大将が 明治天皇のご大葬に際して殉死したのを聞いて、東郷元帥は「見るにつけ聞くに つけても、ただ君の真心のみぞしのばれにける」と心からの哀悼の意を詠じてお られる。

 難攻不落を誇る旅順要塞攻略に、二人の子息を始め多くの犠牲者を出して多く の非難を受け苦闘していた乃木大将に関して、東郷元帥は「乃木大将は最善を尽 しとる。誰が行ってもこれ以上にゆくものでは無い」と深い同情と理解を示され ている。

 旅順陥落後に東郷元帥が乃木大将を慰労に訪ねられた際には、両人ともただの 一言も発することあたわず、ただ目を見合わせて堅く握手をするだけであったと いうのも、さこそと思われる。元帥側近の天才的参謀と呼ばれた秋山真之(さね ゆき)も「余は従来いまだかつてこの如く思い出深き場合に会したることあら ず。東郷・乃木両大将が熱誠をこめて握手せる刹那の光景は、忘るべからざるの 印象を余に与えたり」とその折りのことを述懐している。

 東郷元帥に四十年の長きにわたり親炙(しんしゃ)し、その人格に傾倒して元 帥の伝記を何冊もものした小笠原長生(ながなり)中将の著作(特に『聖将東郷 平八郎傳』)を読むと、元帥の功績と人格とが日本のみならず世界の人々から如 何に敬意の念を持って見られていたことがよく分かる。

 乃木大将と共に英国皇帝戴冠式に出席した元帥は、英国で破格の歓迎を受けた のちに、「東郷は日本のみの東郷ではなく、世界の東郷であり、従ってまたわれ らの東郷である」という米国民の熱烈な訪米希望に応じて訪米し、米国は文字通 り国を挙げて熱烈に大歓迎をしたという事である。ホワイトハウスにおけるタフ ト大統領主催の晩餐会の後、元帥は大統領のヨットでポトマック河を下り、かね てから宿願であった合衆国建国の初代大統領ワシントンの墓前に献花礼拝された。

 このとき同伴した一人の米人将官は、のちに他の人に向って、「人格の高い東 郷大将が、伏し目がちに国祖の墓前に進み、うやうやしく一礼した光景は、まこ とに好個の画題で、あまりの崇高さに涙がこぼれた」と言ったそうである。

 また次に元帥が訪ねられたセオドア・ルーズベルト前大統領は感激のあまり、 「私の邸宅にはこれまで沢山の名士を迎えたが、いまだ閣下のような栄誉ある人 を迎えたことがなかった。今後もおそらくそうであろう」と惜別の辞を述べられ たという。

 元帥の偉大さはただ単に日露戦争での軍功のみによるのではない。むしろ逆 に、「天與正義、神感至誠」(天は正義に与〔くみ〕し、神は至誠に感ず)とい う人生の一大信仰を堅持して、難局に際会してもいささかも動ずることのなかっ た元帥に、天が感応して勝利を賜ったのであろう。

 もし日本が日露戦争で敗れていたなら、三国干渉以来、無頼極まる所行を重ね ていたロシアに蹂躙(じゅうりん)されていたことであろう。当時の日本が「臥 薪嘗胆」(がしんしょうたん)を合言葉に、国を挙げてこの強国に立ち向かい撃 退することができたのは、東郷元帥や乃木大将を初め、幾多の気骨ある明治の人 々のお蔭である。

 第二次大戦後の日本は確かに戦(いくさ)のない平和な道を歩んできたが、世 界から尊敬を受けるような人格識見兼備の人物が地を払っていなくなったことは 否めない。

 最後に、昭和四年、日比谷公園で「少年東郷会」の発会式に際して東郷元帥が 小学生たちを前に行われた訓示の一節をご紹介したい。三万人の児童は元帥の人 格に打たれて一言も発せずに静まり返ったという。  「どんなに才気があっても又は力があっても真心が欠けていては決して本当の ご奉公はできないのでありますから、どうぞ正直にして誠の道を踏み違(たが) えないようにお願い致します。」(小笠原長生『聖将東郷平八郎傳』五頁)


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12月のコラム:  「臘八大摂心」


 今年も臘八大摂心(ろうはつおおぜっしん)の時節がやって来た。例年の如 く、僧堂の雲水さんが本山の塔頭(たっちゅう)であるこの光雲寺にも臘八大摂 心の供養をお願いしに見えられた。12月1日から釈尊の大悟された8日未明ま で続く、この集中的坐禅修行の期間を禅宗では最も重視して、専門道場では不眠 不臥の猛修行に入る。僧堂では、諸方からの供養を受けて、この期間中は托鉢な どせずに、後顧の憂いなく存分に修行に打ち込むことができるのである。

 僧堂というところは普段でもピリピリした雰囲気であるが、特に臘八大摂心の 前ともなると、臘八に向けての準備段階から大摂心前日の告報への過程で、異様 に緊張した空気になる。それもそのはずで、よほどの覚悟を決めてかからない と、この臘八を乗り切るのは難事なので、自分でも次第に気合いが入って来る上 に、古参の雲水たちも親切で気合いを注入してくれるからである。

 昔は遺書を書いて臨んだという雲水もいたそうである。しかし、ただ見かけだ けの不眠不臥をしても、真の三昧境に入って自己を空ずることはできるものでは ない。老師から参禅の際に与えられた公案と四六時中目の色を変えて必死に取り 組んでいると、いつのまにやら絶妙の佳境に入って眼前の出来事を空じてしまう ようになる。

 通常はわれわれの心は外に向って散乱し、外の物事に心を乱されがちである が、その心を公案を工夫することによって内に摂(おさ)めるのである。呼吸に 任せ切って集中する随息観や、呼吸を数えることに専念する数息観でも同様の成 果を得ることができる。

 せっかくの臘八大摂心に臨んでも、1週間の不眠不臥をしたからといって、な かなか自己を空じ難いのは、外に向う心を内に摂め切れていないからである。小 衲にも苦い経験がある。日頃から寸暇を惜しんで坐禅をしてだいぶ定力もついた と思われる頃に臘八大摂心を迎えた。日を逐うごとに公案工夫が純熟して、遂に は「爆発寸前」のような佳境に入った。いまにもぶち抜きそうな三昧境を途切れ さすのが惜しくて、参禅にも行かずに結跏趺坐したまま坐り込んで、必死になっ て公案工夫を続けていた。

 ところが参禅に行かない居士(在家の修行者)がいつのまにか横に坐ってい て、「足が痛い、足が痛い」などとわめき始めた。おそらく彼は、雲水全員が参 禅に行ったあとでこっそり足を解いて痛みから開放されようと思っていたとこ ろ、小衲が参禅しないので困って痛みが堪え難くなったのであろうが、こういう 道心の無い手合の参加ははなはだ迷惑である。

 だが、それをも気にせぬほどに工夫に打ち込むべきであったのに、小衲はわめ き続けているその居士を「やかましい、だまらんか」と注意したのである。せっ かくの公案三昧の佳境がその一言で元に戻らなくなってしまい、残念な思いをし たことがある。

 坐禅中に声を出して雲水の工夫を妨げた居士も悪いが、それを気にした小衲も 問題である。真の三昧に入っておれば、そんな雑音などは聞こえないのが当たり 前である。釈尊は近くで牧草を食べていた牛が雷に打たれて頓死した際にも、そ の雷の大音声に気づかれないほどの大禅定に入られたという。

 僧堂で臘八大摂心に参加する弟子の雲水もいるし、光雲寺から参加する大学院 生もいる。どうか公案工夫に全身全霊を投入して、いまだ経験したこともないほ どの大歓喜を得てほしいものである。

 (なお、先月のコラムで言及した「稀有の人」からメールがあった。「あのよ うにお書き頂きますと私、、、私はただ毎日を楽しく心豊かに感謝をしている、 その一日の行いとして、、、それ故当たり前のことを当たり前にしているだけで す」と書いてよこされ、感嘆を新にした次第である。)

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11月のコラム:  「稀有の人」


 お蔭様で、10月6日から8日までの虫干しを兼ねた「東福門院と光雲寺」展 は無事盛況のうちに終了した。これも東福門院様のお徳のお蔭であろう。皆様方 には心より感謝申し上げます。

 その後5日ほどして、或るお方(Sさん)の突然の来訪があった。以前のコラ ムでも触れたことがあるが、この人は重病にもかかわらず、体調の良い時にとき おり遠方から病院を抜け出して光雲寺にやってこられ、小衲と語らいのひととき を過ごすのを楽しみとしておられるとのことである。小衲と会って話をすると 「心が安らぎます」と言われたが、こちらの方こそその生き方に感銘を受けるこ とが多々あり、来られるたびに充実した時間を過せるのがこの上ない楽しみである。

 聞くところによると、Sさんは小学校低学年の頃から病気がちで、65歳の今 日までろくに学校へも行けなかったという。現在は1日9時間の点滴も免除に なって、自宅に戻って療養をするようにと医者から通達されたとのことである。

 肺ガンの末期、肝硬変のステージ5,糖尿病(血糖値400)など、いくつも の大病を抱えていて、「普通の人ならそのひとつでも絶望的になるでしょうに、 よく絶望されませんね」と言うと、「いや、私は全然絶望なんかしません」とこ ともなげに言われたのには感嘆を禁じ得なかった。

 世間には、マイナス思考の虜(とりこ)になって、自分から落ち込んで八方ふ さがりの絶望的状態を招いている人が多いというのに、Sさんがこの苦境のただ 中でプラス思考を保持しておられるのは、「たぐい稀なる人」と言ってよい。

 医者も「奇跡」と呼ぶほどの生命力である。或るとき医者から「何か信仰して おられるんですか」と尋ねられたそうである。Sさんが、「ときたま京都の禅寺 に話をしに行く和尚さんがいます」というと、医者は「医者としては認めたくな いが、どうやらそれやな」と言われたそうである。

 しかしそれ以上に、Sさんの生命力の源泉となっているのは、如何なる状況で もめげないという、そのプラス思考であろう。そして自分の体調が悪いにもかか わらず、他の人々の支えにもなっておられるそうである。

 同じ病院で、50代の男性がガンを宣告されて自暴自棄になり、他人に対して 物を投げつけて困っているということがあった。「ちょっと3階の暴れている患 者さんをしずめてきてもらえませんか」という看護婦さんの要請でSさんが部屋 に入ると、かの男性は「ガンになった者にしかこの気持ちは分からないんだ」と いって物を投げつけてきた。それに対してSさんが平然と「ああ、そうか。あん たもガンかも知らんが、わしもガンや。しかももっと重度で、それ以外にも色ん な病気を持っている。ウソやと思うなら先生に聞いてみてくれ」というと、かの 男性はじっと考え込んでしまったそうである。

 すかさず、Sさんが「あんたはこれでも見て、笑顔でいることを練習しなけれ ばならんな」といって、鏡を貸して部屋を後にしたそうである。それからしばら くして、自暴自棄になっていた男性が突然Sさんの部屋を訪れ、「Sさん、それ じゃこれから手術に行ってきます」と別人のような屈託のない笑顔で挨拶に来た そうである。

 手術も無事に済み、それ以後、その男性は奥さんによれば、人が変ったように 陽気になったそうである。Sさんのプラス思考が期せずして他の人を済度した一 例である。この他にも、不幸に遭遇して生きる希望を失っている女性などの相談 にものっておられるということである。

 この話を聞いて小衲は思わず感嘆し、「来月のコラムにはSさんのことを書か して頂きますよ」と申し上げたのである。この次の来訪が楽しみである。

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10月のコラム:  「法縁」


 以前のコラムで幾度か申し上げた通り、光雲寺には、南禅寺禅センターとして の坐禅希望者以外にも、大勢の来訪者がある。外人さんも稀ではない。色んな事 情で面会を希望する方には、こちらの予定が許す限り、なるたけお目にかかるこ とにしている。

 先日は知り合いの米人教授の紹介で、「禅僧のインタビューをしたい」という ことで、3人の米人の映像製作者が来訪した。小衲は外国人の知り合いが大勢い るので、何らの違和感もなく打ち解けて、すぐにまるで旧知の間柄のようになっ た。ちょうど行儀作法を学びに来ていた檀家さんのところの十歳の可愛い女の子 を、「こちらは私の一番年少の生徒さんです」とほほえみながら紹介したりし て、終始なごやかな雰囲気であった。

 仏殿に案内して法鼓(ほっく)やお経などを実演してみせたら、とても興味を 示して、撮影は延々と続いた。映像会社の社長が、「30代半ば過ぎの映像助手 がとても感激して、『自分のこれまでの人生は一体何だったのか』と言っていま すよ」などと伝えてくれた。

 一番最後に、庭に面した方丈で監督から色んな質問があったが、「God(神)と は何か」という最初の質問が印象に残り、その他の受け答えはすべて忘れてし まった。彼らがいうGodとはキリスト教的な創造主を意味するのであろうが、出 家以来そんなGodなど考えたこともなく、また必要ともしなかった小衲には、彼 らがどうしてGodなどというものに関心を示すのかが不思議であり、むしろ「ど うしてあなたにはGodが必要なのか」と尋ねてみたい気持ちであった。

 ともかくも、彼らにとっては一大関心事であろうこの質問に対して、「Godは さて置き、まずはご自分の心のうちを究明して本心本性を徹見されてはどうか。 その方が先決問題です」と答えたことであった。Godを尋ねる米人監督に、小衲 は「よそごと」を追い求めて止まない人の不安な気配を感じ取ったのである(7 月コラム「生死の一大事」を参照)。

 さて、ほぼ2時間半ほどの撮影が終り、「これまで世界を飛び回って色んなと ころを撮影しましたが、今日が一番感激しました」と、彼らはまるで子供のよう に無邪気になり悦びに溢(あふ)れて夕やみの中を鎌倉まで車で帰っていった。 色んな仕事の控えている多忙な身ではあったが、彼らと心のこもった交流ができ て、小衲も大いに心満ち足りて彼らを見送り、道中の安全を祈った次第である。

 数日後に、引率の社長から歓待を謝する言葉と共に届いたメールには、小衲が 感じ取った通りのことが述べられていた。彼が映像製作者の2人と8日間一緒に いて感じたのは、「彼らは、自分たちがGodを求めるのは、人生を有意義にする ような指導原理も強力な力もないことを信じているからであるということに苦し んでいる」ということであった。仕事上の問題も重なって、彼らが光雲寺に来訪 した時には、「自分は問題山積で、救われ難い存在だ」という気持ちで一杯だっ たと思われた。

 ところが、仏殿を案内して般若心経をよむのを聴き、小衲がブッダの覚りの体 験を分かり易く説いて、「何という不思議なことだ、不思議なことだ。あなたた ちは元来は救いを必要としないほどの円満具足した完璧な存在なのだ」というこ とを語ったあたりから、「彼らの顔つきから、彼らが人生を変えるくらいの劇的 な出来事を経験中であることがはっきりと見て取れました」と社長は告白した。

 フィルムを締めくくった小衲の、「神を忘れなさい。そうして自分の心のうち に埋蔵されている宝物を掘り出すことに専念しなさい」という言葉が、彼らに とっては殊に印象深かったということである。

 最近来訪したうつ病の若者も、こちらが病人扱いをせずに淡々と対応して、お 寺の日課の仕事を勤めるうちに、いつのまにやらうつ病などとは無縁になってい た自分に気づいたということがあった。彼がこれからは逆に自分が悩める人を救 うほどの人物になる道に歩んでくれれば何よりである。

 こうした人たちの来訪は、すべて法縁であり仏縁というべきものである。来訪 投宿の人たちは増加の一途を辿っている。目下の光雲寺は満衆状態で、宿泊する 人たちのための寮舎を建設する必要性を痛感して計画中であるが、何分にも檀家 さんの数も少なくて資金難である。

 趣旨に賛同してお力添えを頂ける篤信の方々があれば、ご連絡頂ければ有り難 く存じます(075−751−7949,光雲寺)。 なお、10月6日から8日までの「東福門院と光雲寺」展にも大勢の方々のご来 訪をお待ちしております。


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9月のコラム:  「東福門院と光雲寺」


 光雲寺では10月6日(土)から8日(月)にかけての三連休の間に、「曝涼 (ばくりょう、虫干し)寺宝公開」と「境内特別公開」を行なうことになった。 「東福門院ゆかりの品と歴代住持の頂相・遺偈を中心に」という内容である。入 場時間は午前9時から午後5時までで、最終日は終了時間が午後4時である。

 光雲寺は、大本山南禅寺開山・大明国師(1212−1291)の最初の出世 道場として、当初は摂津の四天王寺の近辺にあったが、戦禍によって長らく荒廃 していたのを、東福門院が南禅寺の英中玄賢禅師に帰依されて、ご自分の菩提寺 として寛文4年(1664)に再興されたのである。

 従って、東福門院こそは光雲寺の事実上の開基と申し上げるべきお方であり、 そのゆかりの品々が光雲寺に伝わっているのもむべなるかなと言える。たとえ ば、東福門院ご記入ご所持の過去帳・尊像・画像・宝髪・念持仏・光明皇后伝来 の仏舎利・色紙、後水尾天皇の墨跡、御息女の明正天皇の色紙などである。

 寛文年間に再興された当初の光雲寺は、五千数百坪の廣大な寺域に七堂伽藍を 具備し、中興開山・英中禅師の指導のもとに五十余員の雲衲が切磋琢磨して修行 に勤(いそ)しんだという。しかしながら、幕末の天保年間に老朽化のために堂 宇を取り壊したり、また火災や明治初めの排仏毀釈などにより、寺域の大幅縮小 を余儀なくされた。そして、往時の建造物としては、現在はただ仏殿と鐘樓(明 正天皇寄進)を残すのみとなっている。

 開基の東福門院は後水尾天皇の中宮にして、徳川家康公の御孫女である。家康 公の伝記や逸話を拝読すれば、家康公は、おそらく徳川家の繁栄のためだけ ではなく、戦国時代の兵乱によって民衆が痛く苦しんだ悲惨な状況を終結させ て、天下太平をもたらさねばならないという大いなる慈悲心から、秀忠公の五女 であられた和子(まさこ)の入内(じゅだい)を念願されたものであろう。

 家康公亡きあと、家康公の意を体し、老体にむち打って尽力し、入内の実現に 功績があったのは、名将の藤堂高虎であった(南禅寺の有名な山門も、高虎が大 坂夏の陣の戦没者を弔うために寄進したものである)。

 東福門院は、紫衣事件などで徳川幕府と軋轢(あつれき)のあった後水尾天皇 と徳川家との間に立って、何かとご苦労も多かったことと拝察されるが、幕府と 朝廷の和合(いわゆる公武合体)に腐心され、年間200枚もご注文された小袖 も、ご自分のためにというよりは、この和合のために進物用として使用されたと いうことである。

 そして、難しい状況の中で東福門院のご苦労は実を結び、後水尾天皇との御夫 婦仲の良さは後世の語り草となっている。造営された修学院離宮にも姫宮などを 伴われて御夫妻でよく行かれたそうである。

 平成19年は東福門院が延宝6年(1675)6月15日に崩御(ほうぎょ) されて、ちょうど330年を経たことになる。この機会に、一人でも多くの方々 に東福門院の遺徳を偲んで頂ければ幸いである。

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8月のコラム:  「師弟の交わり」


 私事にわたって恐縮であるが、大恩ある建仁寺前管長の湊素堂老師が遷化され て、はや一年が経ち、一周忌(小祥忌)の法要が建仁寺で営まれた。老師との巡 り合いによって、小衲は師匠というものの有難味を心底教えて頂いたような気が する。

 小衲が僧堂を転錫して建長僧堂に掛搭したのは、前にいた道場の役位に、「建 長寺の素堂老師は公案をほとんど通されないらしいぞ」とお聞きしたからであ る。また、以前に或る禅僧から、「素堂老師は坐禅し過ぎて足が曲っているほど だ」ともお聞きしていたこともあった。それは忘れもしない十月五日の達磨忌の 当日であった。和歌山の山中での独摂心を切り上げて、臘八大摂心に間に合うよ うにと雪安居に掛搭したのである。

 初めての参禅のあとで、拜をして部屋から出ようとしている小衲に対して、老 師は心の底からにじみ出るような穏やかな声で、「私もあなたと同じ道を通って この禅門に入った者です。もう一度生まれてきても、もう一度雲水修行をやりた いと思っております」と話された。そのお言葉を聞いた途端、何かバットで殴ら れたような衝撃と感動とを受けたことが、いまだに忘れられない。

 また或るとき、王維の漢詩「黄砂百戦金甲を穿つも、楼蘭を破らずんば遂に帰 らじ」を見解(けんげ)として呈すると、老師は「わしも入門当初は同じ様な気 持ちであった。その心意気は結構だ、だが楼蘭は破れたか」と尋ねられた。「自 我の巣窟を打破し終えたか」というお尋ねであった。

 専門道場の生活とは面白いものである。坐禅・作務・托鉢という僧堂生活にた じろぐことなく全身全霊を投入し、目の色を変えて公案工夫三昧に打ち込めば、 それに相応した法悦の喜びがある。「法悦の喜び」とは自己を空じた喜びであ る。これに反して、眼を外に向けて、他の修行者の行状を気にしたり批判的に見 たり、世間が恋しくなったりすると、修行生活は途端に苦痛となる。

 背水の陣で臨んだ転錫の身の小衲は、間断なく公案工夫をしようと試みた。京 叢林とは異なり、この僧堂の作務は半端ではなかったが、作務の最中でも必死に なって無字三昧に取り組んだ。二人引きの大鋸(おおのこ)で大木を伐(き)り ながら、リズムに合わせて「無ー、無ー、無ー」と拈提して行くと、ゆくりなく も坐禅中よりも深い三昧境に入ることができた。茶礼の準備に赴いたところ、 ちょうど出て来られた素堂老師にお目にかかった。その時老師はこちらを見て何 か「ハッ」と感じられた気配がした。茶礼の際に三十人集まった雲水の中で突然 名前を呼ばれ、小衲に目がけて茶礼のミカンを投げて寄越された。

 小衲は卓越した古人のように何とかして真の無字三昧に入ろうとして、「臥薪 嘗胆」(がしんしょうたん)の呉王夫差よろしく、草履や網代笠にも「無」と書 き、一刻も「無」を忘れまいとした。建長寺僧堂では開枕後は裏山の墓地で十二 時まで夜坐をしなければならなかったが、この強制的夜坐の時間はあまりよい坐 禅はできなかったように思う。十二時になってからが、いよいよ自分の自由坐禅 の時間である。小衲は由緒ある開山堂(昭堂)の建物の中の常夜燈を目の前にし て、今度は誰にも気兼ねすることなく声を出して「無ー、無ー、無ー」と拈提し て無字に死に切ろうとした。ふと気がつくと、一年上の先輩雲水が横に坐って一 緒になって「無ー、無ー」とやっている。朝の開定は午前三時半であったから、 三時には禅堂に戻り、そのまま単布団の上で坐禅するという日々が続いた。新到 として臨んだ臘八大摂心では一週間殆ど眠ることなく、総警策以外の警策を一発 も受けることがなかったが、前の道場では考えられない事態であった。

 こうして充実した日々を過ごしていた頃、或る除策の日のことである。「除 策」とは特別な休みの日で、その日一日は禅堂内で坐禅をすることなく、自由に 時間を過ごすことができるのである。同僚の雲水達はトランプ遊びなどに興じて いたが、私は別段遊びなどは眼中になかったので、昭堂裏の濡れ縁に坐って石地 蔵群と向かい合って、「無―、無―、無―」と無字三昧に余念がなかった。夕方に なって皆の洗濯物を自発的に取り入れてたたんでいる頃から、次第にえも言えぬ 心地になってきた。除策の日といえども、午後九時の開枕の作法の前に数十分の 坐禅の時間がある。三昧境が育っていた私は、その短い時間を決死の覚悟で坐禅 工夫に打ち込んだ。

 二つの崖の上にかけられた丸木橋があるとしよう。もし一歩でも油断をすると 真っ逆さまに谷底に落ちて死んでしまうのは必定(ひつじょう)である。その命 がけの一歩が「無―」の一回の拈提だという気で、私は真剣に工夫に取り組ん だ。すると、何と不思議なことであろうか、瞬(またた)く間に実に深い禅定に 入ることができた。すべてがあるがままで空じられる法悦が満身に充ち満ちたの である。しかしそれにも尻をすえずに、更に「無―、無―」と間断なく拈提を続け た。開枕の作法の後、除策の日は夜坐は休みであったが、私は百四十八段の石段 をかけ昇って、開山大覚禅師と円覚寺開山無学祖元禅師の墓の前で朝まで徹宵夜 坐して大いに禅定を練った。

 あのまま鎌倉での修行生活が続けばもっと速やかに所期の目的を達成していた であろうにと残念に思われる。それほど建長寺での日々は脂(あぶら)に乗って いて、たとえ半年の短期間ではあったとはいえ、忘れることのできぬ懐かしい時 代である。

 老師が師命もだし難く建仁寺に移幢された際には、小衲も同行した。ここでは できるだけ結跏趺坐を解かずに寸暇を惜しんで坐り込むようにし、また作務の最 中でも動静の隔てなく工夫することを試みた。或る参禅の折りに、「おい庸さ ん、『素堂和尚は日頃大口をたたいておるが、なんだ持ち物はこの程度のもの か』と早く言えるようになってくれよ」と老師に懇願されたことがある。「早く 室内の調べを尽くして、わしの法を嗣ぐように」との有難いお心遣いであった。

 建仁寺時代には、特に隠侍になってから、老師には様々な悪辣な試練を頂い た。なにしろ「雲水は叱れば叱る程よい」と厳命しておられた老師である。もと よりそれを恨みに思う気持ちは毛頭なかったが、しかし「このままでは済まされ ぬ」という思いがあったこともまた事実である。小衲はふと思いつき、老師がご 自分で洗濯して乾しておられた肌着にひそかにアイロンを当てて乾かした上で、 たたんで置いておいた。何回かこうしたことを続けた後、老師はあるとき小衲に 向かい、「庸さん、わしがいくら横着者でも、毎回毎回こう新品のように綺麗に たたまれた洗濯物を着つぶしていては、何か済まぬような気がする。やめてくれ んかな」と控え目に懇願された。そのとき小衲は、「やった!」と心の中で快哉 を叫んだ。

 或る時には、薬石を下げに伺うと、小衲を窓際へ連れて行かれ、「庸さん、あ の山に沈む夕日を見てみよ。あれを見て見性しなければどうするか」と訓戒され た。また二人切りで話していた時に、老師が言葉を続けて、「しかし、わしはも う一度生まれてきても雲水ぞ」と言われたので、小衲も思わず「老師、私も」と 申し上げると、老師は「高単さん」と呼びかけられた。雲水が禅堂で坐禅する畳 の場所を「単」といい、「高単」とは上位の単に坐る先輩雲水のことを指す。老 師にそう呼びかけられて、私が怪訝(けげん)に思ったのも無理はない。すると 老師は言葉を継いで、「今度生まれて来たときには新到で来ますけん、よろしう お願いします」と微笑みながら言われた。老師の法愛を感じた一瞬であった。

 しかし、わが身の恥をさらすことになるが、一番忘れることができないのは、 何といっても老師から骨身にこたえる痛棒を頂戴した思い出である。当時の老師 は七十数歳ほどであられたであろうか。或る日、薬石を持って参上すると、老師 はぬい針で法衣を繕っておられた。「あれ、老師が把針をしておられる」と思っ た途端、「お前、何を見ているんだ。さっさとお膳を置いて引き下がらんか」と 語気鋭く言い放たれたのである。

 薬石(夕食)が済んだ合図のベルで再び参上するやいなや、老師は実に厳しい お顔をして目を潤ませられながら、「わしは先師・古渡庵老師に繕(つくろ)い 物などさせたことは決してなかったぞ」と、実に骨随に徹するお言葉を頂戴し た。わが身の至らなさに恥じ入り、一言の言葉も発することが出来ずに、小衲は ただ黙してひれ伏すほかはなかった。

 この小衲の例で分かるように、禅の師弟関係は生活全体を共にして一挙手一投 足に到るまで厳しく見定められるが故に、全人格的関わり合いになる。師家と弟 子との真剣勝負の風情がある。師家は道心のある修行者に対しては特に厳しく接 するものである。

 禅では、「恩に法を嗣ぐ」よりも「恨みに法を嗣ぐ」方を上であると考える。 師匠に恩を感ずるようななまやさしい仕方でなく、恨み骨髄に徹する悪辣の手段 に耐え抜いてこそ、真実の法が伝授されるというのである。何と有難い稀有の師 弟関係であろうか。

 素堂老師ではないが、今度生まれ変わったら、本当に早々に出家して、今一度 思う存分に禅の修行をして見たいものである。

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  7月のコラム:  「生死の一大事」


 江戸時代中期の白隠禅師も愛読しておられた『沙石集』(しゃせきしゅう)と いう書物は、京都の大本山東福寺開山・聖一国師の法嗣の無住道暁禅師(むじゅ うどうぎょう、嘉禄二年―正和元年、1226−1312)の著作である。これ は専門の修行者達を念頭において書かれたものではなく、色んな逸話や霊験談な どに言及しながら、仏法の深い法理を一般の人々にも領得してもらいたいとい う、まことに慈悲心に溢れた名著として、古来評価の高い書である。

 そこには無住禅師が見聞したさまざまな貴重な逸話が充ち満ちていて、読む者 を飽きさせない。小学館から新編日本古典文学全集の一冊(第52巻)として刊 行されたものが、原文と現代語訳とが併載されていて重宝(ちょうほう)である。

 その「巻第三ノ六」に「道人の仏法問答せる事」という一段がある。これは南 禅寺の草河(現在は「草川町」)に勝林寺を開創して住んでいた天祐思順禅師 (生没年未詳)に関する逸話である。大慧宗杲(だいえそうこう)の法脈を嗣い だ禅師は、紀州由良の興国寺開山・法燈国師が参じて入宋の意を強くしたといわ れる名僧である。

 無住禅師はこの思順禅師についていう(以下の訳は上記の小学館版を参照し た)、「天台宗寺院に六年、禅宗寺院に七年、中国に十三年居て、・・・人々が 皆一目置いていた人であった。帰朝の後は、京都の修行者や学僧が縁故や便宜を 見つけて尋ねてきた。或る時、遁世の僧で年齢五十歳を越えた人がお目にかかり たいと強引に申し入れてきた。禅師は通常はなかなか容易に人と対面することは なく、仏法の談義などもされることは稀であったので、客僧が来て仏法修行のこ とを問答される時には、弟子の僧たちも様子を伺って聴き耳を立てていた。

 さて、この僧に対面して、『どのようなご用ですか』と申されたところ、客僧 は、『天台の教えを形通り学んでおりますが、草木が成仏するということがどう も腑に落ちませんので、承って疑念を晴らしたいと存じます』と言うと、ややし ばらく返事されなかった。ほどなくして『草木成仏のことはちょっと後回しにし ましょう。あなたご自身の成仏に関しては、一体どのようなお考えをお持ちか』 と禅師が返事をされると、客僧は、『そのことは何とも分かりません』と言う。 そこで禅師は、『ご自分の成仏のことこそ、まず第一に心得られるべきでござい ましょう』と言って、奥に引込んでしまわれた。この僧は縮みあがり、苦り切っ て、身体を硬直させて退出した」

 まことに興味深い逸話である。無住禅師は、「道人の問答というものは、ひた すら生死(しょうじ)の一大事のみを心にかけて、・・・身心の重荷を放ち捨て ることこそが、本来の意義である。・・・この客僧の問答は、よそ事を知って才 学を求めるものであり、真実の求道心が無いと見抜かれて、引っ込んでしまわれ たのであろう」と述べられ、さらに、「わが国の学問はみな名利・広才のためで あって、真実の生死の大事を心にかけ、自己の本心本性を明らかにする人は稀で ある。・・・まことに嘆(なげ)かわしい風潮である」と結んでいる。

 無住禅師の言われた「生死の一大事」とは、「真実の自己とは何か」を体究し て、生死・有無・善悪・美醜などの相対二元の有り方を解脱(げだつ)すること である。禅が「己事究明」や「生死脱得」の道と称されるのはそのためである。 この道は、ただ生きんがための糧(かて)を求めたり、名利や知識分別のために する通常の学問とは、比較にならぬほど尊い道である。

 思順禅師に急所を指摘されて狼狽した天台宗の学僧は、自分にとって一番切実 な「見性成仏」(自己の安心立命)をさておいて、「よそ事」である「草木の成 仏」などという経典の言句(ごんく)の解釈にうつつをぬかして、かかる醜態を さらしたのである。

 その昔、哲学的難問の解決を釈尊に迫って、「お前の態度は、譬えて言えば、 毒矢で射ぬかれた男が、助けにきた者に対して、この矢に関する知識を知り尽く さぬうちは抜かせないと主張して、ついには死んでしまうような愚かなことであ る」と叱責された弟子と同様である。

 学者でも本物の学者はそうではあるまい。かの独創的哲学者・西田幾多郎博士 は、暇があれば猛烈に坐禅弁道され、「余が学問をするはlifeのためなり」と日 記に書かれているが、体験なき空理空論をもてあそぶ空しさを痛感しておられた からであろう。

 名僧が輩出した無住禅師の時代にあっても、すでに万事を放擲(ほうてき)し て真剣に「生死の一大事」を究明せんとする求道の人は「稀」であった。いまは 仏法がまったく地に落ちて、真の道人は地を払っていなくなってしまった。思順 禅師や無住禅師が現状をご覧になれば、どんなに歎かれることであろうか。

 禅では、「己事究明」は「頭燃を救う」(ずねんをはらう)が如くせよと教え ている。頭に火がついたら、誰しも何をさて置いても火を消そうとするであろ う。「生死の一大事」はそれほど急を要する切実な一大事だということである。

 出家・在家を問わず、真剣な求道者の出現を待望してやまない。

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6月のコラム:「発心について」



 最近よく「どうして在家から出家されたのですか」という質問を受けることが 多い。一般の方からすれば、厳しい禅の修行生活に入ることを決意したのはよほ どの事情があったに相違ない、と推測されるのも無理からぬことである。まさに その通りであるが、個人的事情はさておいて、発心出家の何たるかについてお話 しすることにしよう。

 「発心」(ほっしん)とは「発菩提心」のことである。「無上のお悟り」を求 める心である「菩提心」(ぼだいしん)を発(おこ)すことである。「発心が正 しくなければ、それ以後のすべての修行が空しくなる」といい、華厳経では、 「初発心の時にすでに正覚(正しい悟り)が成就している」という。いずれも初 発心の大切さを述べたものである。

 しかしまた修行の最初でそのような確乎とした発心を持つ人もまた稀であるの も事実である。江戸時代中期の臨済宗中興の名僧といわれた白隠禅師は、「自分 のような者は地獄に墜ちるのは確実だ。どうしたらその悲運から逃れることがで きるか」と真剣に悩んで出家に到ったという。

 後日、自分を真の禅境に導いてくれた悪辣(あくらつ)な正受老人に或る日、 「お前はどうして出家したのか」と尋ねられて、「地獄に墜ちるのを逃れるため です」と答えたところ、正受老人は眼を怒らして、「自分独りだけの安心を求め るとは何という不心得(ふこころえ)か」と叱りつけたという。

 後に、白隠禅師が高弟の東嶺禅師と話のついでに、「お前はどうして出家をし たのか」と尋ねたところ、東嶺禅師は、「私は幼い頃に父親と山寺に行き、地蔵 菩薩が大勢の子供たちを済度されている絵を見て、自分もあのように多くの人を 救いたいものだと思い、出家するに到りました」と答えたところ、白隠禅師は大 いに感嘆され、自分がかつて正受老人に叱責された前述の話をした上で、「いま お前の発心の気持ちを聞くに、まさに正受老人の真意に適(かな)ったものだ」 と言われたということである。

 そのように、発心に際しては、自分独りの安心をもってこと足れりとするだけ では不十分である。道元禅師はこの心を、「愚かなるわれは仏にならずとも、人 を度(わた)さん、僧の身なれば」と格調高く歌われている。禅宗でことあるご とに、「衆生無辺誓願度、煩悩無尽誓願断、法門無量誓願学、仏道無上誓願成」 という「四弘誓願」(しぐせいがん)を読誦するのもそのためである。

 また、白隠禅師がご自分の室号(釈尊以来の大法を伝法した際に授けられる、 老師としての号)を「不成仏」の意味の「闡提窟」(せんだいくつ)とされたの も、大悲心より一切衆生を度し尽くして初めて成仏する願を立てるも、衆生は無 辺(限り無く多いなる)が故に、ついには成仏の時期が無い、という「大悲闡 提」のお心からである。

 明治生れの高僧の伝記を拝読すると、「お坊さんになれば、普段は口にできな い甘いものを食べられる」ということを聞いて、十歳かそこらで出家し、その 後、息の長い修行を続けて大成し、名僧になられたお方が意外と多い。十歳前後 で上述のような大悲心をもつ人は稀であろうが、いずれも奇(く)しき仏縁に よって幼くして出家されたのは、まことに尊いことである。修行して行く過程に おいて、次第に真の道心も培(つちか)われてくる面もあるのである。

 しかし現在では、各道場でも、雲水の数は次第に減少傾向にあるし、またせっ かく道場に入門しても、住職資格を取ることが目的で短期間で下山してしまう雲 水も多い。あるいは、先輩雲水に厳しく叱責されたからという理由で、いとも簡 単に道場を出奔してしまうような哀れで愚かな者もいる。それもこれも、仏道の 気高さや重要性や法悦を知らぬが故である。

 仏道とは自分も人も安楽にいざなうことのできる、この上も無き道である。こ の道を歩んで真剣に修行すれば、決して後悔することはない。禅宗の初祖である 達磨大師は、すでに「道を知る人は多いが、道を行なう人は少ない」と嘆きを漏 らしておられる。学問による分別的知識的理解で果して心から満足することがで きるであろうか。行の実践の道を志す有為の人材の出現を待望するものである。


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5月のコラム:「栽培の力を仮らず」



  新緑の眼に鮮やかな時節が到来した。疎水沿いの「哲学の道」が通る裏山を借 景にもつ、ここ光雲寺ではまさに「満目の青山」の好風光である。

 ちょうど萌え出る新芽のように、光雲寺では多くの若者たちが育っている。3 月末に京都の専門道場に掛搭した弟子は、「僧堂に入って思いましたのは、もっ と師匠に張り倒しておいてもらえばよかったということです」と、安単の手紙 (掛搭した雲水が、無事に禅堂の一員になったという報告を師匠にする手紙)に したためて寄こした。まさに小衲が、「お前たち、道場に入ってから、もっと張 り倒しておいてもらえば良かったと思うことがきっとくるぞ」と言った通りである。

 僧堂の老師のお話では、なかなか頑張って修行生活を送っているというが、た だ仕事をこなせるだけの生半可な修行をしても禅の修行とは言えぬ。先日、入制 大摂心のうどん供養を持参した際に、「四六時中、工夫三昧になって寸暇を惜し んで坐禅に励み、法悦の日々を送れ。ご両親も君の大成を期待しておられるぞ」 と厳しく訓戒しておいた。

 彼はきっと横道にそれず、また小成に安んずることなく、掛搭前に拝読した 『雛僧要訓』にあったように、「明眼の宗師も崖を望んで退く底の妙高峰」(悟 りの開いた名僧ですら、それを見て圧倒されるほどの高峰のような勝れた禅僧) になってくれるであろうことを確信している。

 ここで興味深いのは、子息が出家して修行生活に入ると、ご両親や親族までも が確かにその好影響を受けられるということである。この弟子のご両親は、お送 りした掛搭した日の写真をご覧になって、「どうしようもなかったあの子をよく ぞここまで立派に育てて頂きました」と鄭重にお礼を言われたが、それに対して 小衲は、「いや、これからです。もっともっと立派になられるはずですよ」と応 答しておいた。

 小衲の場合もそうであったが、禅の修行をすると頑(かたくな)な心が解けて 柔軟(にゅうなん)になる。それもそのはずで、我見や自分の勝手気儘(きま ま)の通らぬ「禅の生活」をしているうちに、いつのまにやら自我の妄執・自縄 自縛が消え失せて、本来誰しもが具(そな)えている清浄無我の境地が顕現して くる。そうすると顔までが見違えるように明るく輝いてくるから妙である。

 がんじがらめの意識的束縛がほどけて気が楽になることが、自分の悦びになら ぬはずはない。またその悦びが両親や周囲の人々の潤いにならぬはずがない。そ れまで反発していた息子が父親とにこやかに歓談するように変化した。ご母堂 は、「主人のあんな嬉しそうな顔を見るのは初めてです」と悦びに満ちた顔で話さ れた。彼の伯母さんもそのお蔭で「どれだけ救われたことでしょう」と述懐された。

 光雲寺に残って修行中の今一人の弟子のお父さんも、会社の社長に「顔の相が 良くなったな」と言われたそうである。明らかにそれは禅の厳しい修行に邁進し ているわが子の影響であろう。「一人出家すれば九族が天に生ず」というのは嘘 ではない。

 机上の学問だけではなかなかそうは行かないであろう。自分勝手な我見を抛 (なげう)って全身全霊で心を尽して日常万般のすべてに取り組み、またその定 力で坐禅に打ち込む、禅の修行ならばこその成果であると自負するのである。

 何も出家ばかりではない。在俗の人たちも禅的生活を学べば立ち所に自分を変 えることも可能である。先ごろ2週間の予定で光雲寺に禅修行にきた20歳の青 年がいた。彼は京都でも老舗(しにせ)の八百屋さんの後継者と目されていた。 ところが、学校を中途退学して、朝寝坊をしたり我儘を言ったりの毎日で、なか なかわが身を律することができなかった。家庭教師をしていた京大生が彼の祖母 の嘆願により小衲に依頼してきたので、快くお引き受けしたのである。

 最初の3,4日は辛くて辛くて何とか逃げ出す口実を考えていたらしいが、 「だんだん打たれ強くなり、忍耐がついたと思います。来た当初のヘタレぶりを 今思うとバカみたいです。変な言い回しですが、困っても困らなくなり、発想の 転換をすることにより毎日の考えが良い方向へ2転3転、4転しました。そして 自身の将来を左右する岐路に立たされたと言いますか、とてもラッキーで上手い 具合に乗せられた気が致します。そして、これからそれを切り抜けて行く事こそ が充実した生活なんだと。…なんてちょっとカッコイイ事を感じました(笑)。 禅の精神は正々堂々とし、生きていくうえでの根本だと感じました。そして苦労 はやはり苦ですが、苦労することにより、より多くのことが見え大きくなれると 思います。迷ったらシンドイ方、嫌な方を選びます。これからも進み続ける道に 禅の心を最大限に生かし邁進していきたいと思います。」という嬉しいメールを 寄こしてくれた。

 彼の祖母上からも、「色んな所のカウンセラーに相談しても一向に駄目で、も う私たちの力では立ち直らせることができない限界だと落ち込んでいました」 が、光雲寺での2週間の生活によって「お蔭様で別人のように変らせて頂きまし た」という鄭重な礼状を頂戴した。彼は今は早朝から起きて店の仕事をこなし、 祖父と一緒に市場にも行って指導を受けているそうである。何と嬉しいことでは ないか。

 またその話を来訪された檀家さんにしたところ、小学校5年生の女の子が自発 的に志願して「行儀見習い」のため週に一度光雲寺に通うことになった。感心な ことに、勉強(論語の素読・『星の王子様』の音読・貝原益軒『和俗童子訓』の 音読)に掃除に畑仕事にと、にこにこしながらこなしている。名前の通りの利発 で可愛いその子は、光雲寺に集(つど)う人たちにも大歓迎を受けている。単な る好成績を取るための勉強ではなく、人生の勉強をするために「その日が待ち遠 しい」ほどになっているという、その女の子の将来がとても楽しみである。彼女 もきっと自分の周りの人たちをたくらまずして幸せにして行くことであろう。

 こうして目下の光雲寺では多い時には8人もの人がいる日も稀ではない。お寺 に暮すのは5人である。ますますの仏法興隆が楽しみな毎日である。

 とはいっても、それは何も小衲の力ではない。先月のコラムにも申し上げたよ うに、どの人も本来素晴らしい魅力の持ち主であり、自分の内に精神的宝物をす でに所有しているのである。それが分かれば、いとも簡単にマイナス思考を捨て 去り、明るく充実した日々を送ることができる。

 南禅寺の管長をされた柴山全慶老師が、厳師の名僧、南針軒・河野霧海老師が 常に言われていた言葉として、「花の開くは栽培の力を仮らず、自ずから春風の 伊(かれ)を管対する有り」(花が開くには何も人間の栽培の手を借らずともよ い。春になると春風と共に花みずからが力を発揮して花開くようになるのであ る)という句を挙げられている。

 まさに春たけなわ、「満目の青山」である。新緑の木々や春の花のように、春 風に誘われてすべての人が大輪の心の花を開いて頂きたいものである。

 「春風に綻(ほころ)びにけり梅の花、枝葉に残る疑いも無し」                    (道元禅師)

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4月のコラム:「うつ病の克服」


 先月のコラムで「多々益々弁ず」に言及したせいでもなかろうが、あれ以来、 小衲の毎日は加速度的に多忙になってきており、多い日には7組の来客がある。 だが、一日50人の来訪者があり、しかもその中には何人もの刺客(暗殺者)が 混じっていたという勝海舟に比べれば、まだまだ何ということはない。

 そのなかでも圧倒的に多いのがうつ病の人である。小衲がうつ病を治すということを聞きつけて来られた人達である。うつ病の人を治すのは実は造作もな いことである。それよりも切実なのは、目の前に自分の死が迫った人々である。

 弟子達と一緒に光雲寺寺域の整備で終日作務をしていた日のことである。南禅寺派のある和尚さんからのご紹介で、是非にと相見を求めてきた60代の男性が いた。聞けば肺ガン以外にも幾つかの重篤な病にかかっておられて、病院を抜け 出してきたということである。

 開口一番、「どうすれば安心して死ぬことができますか」という単刀直入で切 実真剣な問いである。これに即答して悩んでいる人を安心に導くことができなけ れば、宗教者としての面目はない。そしてこれこそ釈尊が直面された生老病死と いう根本的な「四苦」に他ならない。すべての人の安らぎの無さの根底には、こ の大問題が潜んでいるように小衲には思われる。

 これに、愛するものと分かれる苦痛である愛別離苦、怨み憎む人と一緒の場に 居合わせなければならぬという怨憎会苦(おんぞうえく)、求めたものを得るこ とができない苦痛である求不得苦(ぐふとっく)、一切の生類を形成している 色・受・想・行・識の五陰から生じた身心の苦悩である五陰盛苦(ごおんじょう く)の四苦を加えたのが「八苦」であり、そこから「四苦八苦」という言葉が世 間で「極度の苦しみ」を意味するようになったのである。

 差し迫った死に直面した来訪者の上記の質問に対して、小衲は、「あなたは自 分だけが不治の病にかかったと思っておられるようだが、すべての人は生老病死 という不治の病にかかっているのですよ。オー・ヘンリーという作家が『人間は 刑期の定まらぬ死刑囚だ』といったということですが、まさにその通りです。誰 しもいつ自分が執行の憂き目にあうのかは知らない。江戸時代の話でしょうが、 或るうら若い女性が死の床で苦しんでいた時、名僧が『散る桜、残る桜も散る 桜』とささやくと、なるほどと得心して、それからは薄紙を剥がすように病が 治ってしまったということがあります。ただ日常生活では眼前のものに心を奪わ れ、死という宿命的不安から目をそらして、いやそらすが故に、安閑と生きてい るのが実情です」と申し上げ、次のように言葉をついだ。

 「越後の良寛さんは症状の記録から察するに、おそらく直腸ガンで苦しんで亡 くなられたものと思われますが、遷化(せんげ)の前に『われながらうれしくも あるか、弥陀仏のいます国へ行くと思えば』と歌われたといいます。死をわが身 に振りかかった最大の不幸として受容する通常の理解とはまるで異なり、良寛さ んにとっては、死は「阿弥陀仏のおられる国への旅立ち」という喜ばしきもので した。一体どうしてそんなことが言えると思われますか。

 お釈迦様も生前中はいくら大悟徹底されたとはいえ、身心を残しておられる限 りは、完璧なお悟りということができませんでした。これを『有余涅槃』(うよ ねはん)といいます。亡くなられて初めて悩みのもとである身体を滅せられて、 『無余涅槃』という完璧なお悟りに入られたと言われます。死と悟りが同じ涅槃 (ニルヴァーナ)という言葉で呼ばれるのは、そういう理由からです。死は決し て怖れたり、それに対して心構えをしなければならないようなものではありませ ん。」

 かの病の人は長年本当に苦しみ悩んでおられたからであろうか、「なるほ どー!」といっぺんに合点されて、それからの「人々具足、箇々円成(えんじょ う)」(誰しも本来は何ひとつ欠けることのない円満な存在である)などという 小衲の話にも実に熱心に耳を傾けられ、法悦のかたまりになって欣喜雀躍(きん きじゃくやく)して(すずめのように、悦びはしゃいで)下山されたのである。 小衲のところを訪(おとな)われる人はいずれも得心して悦んで帰られるのが常 であるが、これほどの大歓喜の人は稀である。

 早朝からの大作務で疲れているはずの小衲も、法悦のお蔭で疲れも雲散霧消し て、実に晴れ晴れとした心境になった。斎座(昼食)のために作務をあがってき た弟子達は、下山する来客を見て、「実にいいお顔をしておられたですね」と 言ったので、「あの人は実は末期ガンなんだよ」というと、彼らも驚いた様子で あった。

 死が「無余涅槃」という有難い悟りを意味するとしても、だからといって決し て死に急ぐのをお勧めすることはできない。うつ病の人々は「自分などはこの世 からいなくなってしまったほうが良いのではないか」と真剣に思い悩むそうであ る。うつ病の人は現今ますます増大しているようであるし、ご本人にとっては実 に底なしの泥沼にはまったような極度の苦しみを伴うものであるらしい。小衲の ところにも一ヶ月に五人以上もの方々が見えられるが、いずれも切羽詰まった状 況の人がほとんどである。まことにお気の毒なことで、何とか治して差し上げた いと毎回こころをこめて応対しているのである。

 そこで世のうつ病で苦しんでいる方々のために、その克服の小衲なりの方途を この場で公開することにしよう。豪語するようであるが、このやり方でこれまで 良くならなかったうつ病の人は皆無である。そのお蔭で、今月のコラムがだいぶ 長くなってしまうのをお許し頂きたい。うつ病の人は早急に救いを求めておられ るからである。

 通常はうつ病の人に対して精神科医は「薬を飲めば良くなるから」と言って、 薬を処方するようである。これまで来られた数多くのうつ病の方々で薬を飲んで いない人はなかった。確かにそれによって一時的に症状は抑えられるのであろう し、また薬を出すことが病院の収入にもなるのであろう。しかしそれが決して根 本的治癒をもたらすものではないことは、医師自身も良くご存知のはずである。

 小衲の対処の仕方の特色は、うつ病の人を病人と決めつけてしまうのではな く、本来だれでもが具(そな)えている精神の根源的輝き(これを仏法では「仏 心」という)を発揮するように持って行くだけである。うつ病の治療に限らず、 東洋医学の治療では、患者さん自身の生命的根源である、「神(心神)」をいか に働かせるかが大事ということを、最近坐禅会に参加された鍼灸師の方からお聞 きしたが、まさに小衲の療法はこれである。

 そしてこれは小衲の個人的見解ではなく、釈尊以来の歴代の仏祖の親しく実証 された体験的事実に基づいている。釈尊が12月8日の明けの明星を見て大悟さ れ、「不思議なことだ、不思議なことだ。すべての生きとし生けるものは、こと ごとく如来の智慧徳相をそなえている。ただ妄想と執着があるがために、それが 納得できないのだ」と言われたのは、どの人も、何らの問題もなく救いも必要と はしないほど円満具足した存在であるということである。

 そのことが分からずに、自分でわが身を「ダメな人間だ」と決めつけるから悩 みが生じるのである。実際には決してダメではないのに、「ダメだ」と思う一念 がその人をダメにしているのである。マイナス思考の人は陰の気が積もり積もっ て陰気になるのに対して、プラス思考の固まりの人は陽の気が満ち満ちて、ます ます陽気になる。

 浄土宗の開祖の法然上人は、「往生は一定(いちじょう)と思えば一定なり、 不定(ふじょう)と思えば不定なり」(自分には極楽往生ができないと思う人は 決してできないが、できると確信する人は必ずできる)と述べられているが、ま さにその通りである。自分のことをダメだと思う人はダメになり、「自分は幸せ で何ひとつ問題がなく、オーラを放って輝いている」と思う人は、すぐにでもそ のようになる。問題があろうとなかろうと、そう思えば必ずそうなるのである。

 論より証拠に、本日もうつ病で悩む22歳の女性が訪ねてこられたが、それま では「自分の存在などこの世に必要ないのではないか」とまで思いつめていた彼 女が、わずか2時間足らずの小衲との語らいで生まれ変わったようにプラス思考 になり、こぼれんばかりの笑顔で下山されたのは、小衲にとってもまことにうれ しい出来事であった。

 今までは「誰も私のことなんかわからないんだと考えたこともありましたし、 家族ですら私のことはわからないと悲観的になっていました」と言っていた彼女 が、「このような自分の生まれ、生きている環境にとても満足が出来ます」「本 日は本当に、本当にありがとうございました。この宝物のような出会いに感謝い たします。」というような人に劇的に変化した。まさに八方ふさがりだった彼女 にとっては奇跡としかいいようのないことが、いとも簡単に起こってしまったの である。

 小衲にとっては、来訪者が生まれ変わったように明るくなられるというこうし た経験は、もとより珍しいことではない。彼女はそのあふれんばかりの悦びに よって、意図せずしてすでに小衲の心を豊かにし、潤(うるお)いをもたらすと いう、徳を積んだことになる。知的障害者の福祉施設でこれから人のために働く という彼女は、その笑顔とオーラで、まわりの人々を陽の気に変えて行ってくれ ることであろう。本当に楽しみなことである。彼女にこれからも末長きサポート をお約束したことはもちろんである。彼女は小衲との出会いを「宝物のよう」と 形容してくれたが、小衲にとってもこの出会いはまさに「宝物のよう」であっ た。有難いことである。

 最後に、心や体の病で苦しんでおられる方々が、マイナス思考から解き放たれ て、「オーラ全開」の法悦の境地に到られることを心から願うものである。

 「有難い、有難いにて世に住めば、向うものごとみな有難いなり」                            (黒住宗忠)

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3月のコラム:「多々益々弁ず」


 紀元前202年、中国の漢の高祖は有名な難敵・項羽との激戦に勝利して、皇 帝に即位した。あるとき高祖が、兵権を統率する大将軍として一番の武功があっ た韓信と、自らが統率できる兵力を話題にした。韓信は率直に、「陛下はせいぜ い十万人の兵の将というところでしょう」と答えた。「ではお前はどうか」と高 祖が問うと、韓信が答えたのが、この「多々益々(ますます)弁ず」という言葉 である。

 高祖が笑って「ではどうしてお前がわしの虜(とりこ)になったのだ。」と言 うと、韓信は「陛下は兵を率いることが出来なくても将に対して将であることが できます。これは天授のものです」と答えたという。

 以上は『漢書・韓信伝』の記載であるが、「多々益々弁ず」とは、「兵の数が 多ければ多いほどうまくやれます」という韓信の絶大の自信を表明したものであ る。「弁ず」とは「わきまえる」ということである。

 この韓信の言葉は、小衲が提唱でも普段でもよく口にするので、光雲寺の弟子 達は、それを地で行こうと、自ら率先して仕事を引き受けるのが、いわば一種の 家風となっている。この春に僧堂に掛搭する予定の弟子は、「多々益々弁ず」を 身につけようとして、兄弟弟子に頼んで、自分独りで典座(てんぞ、食事係)を こなすことを志願した。

 外から押し付けられた仕事をこなすだけではなく、自発的にやろうという、そ の心意気たるやよしとは言えようが、「多々益々弁ず」を自家薬籠中のもの(わ がもの)として、日常万般のことに対処できるようになるのは、並み大抵のこと ではない。しかし、それができなければ、日ごろ禅定(三昧境)を練っている修 行者としての面目はない。

 また、ただ単に仕事をこなすだけではなく、すべてに対してかゆいところに手 が届くような心配りができなくては駄目である。「多々益々弁ず」と張り切って やるだけでは、息切れがしてしまうものである。心中に絶えず余裕をもって事に 臨むことが、楽に対処できる秘訣であろう。この「余裕」を禅では「無の境地」 であると説く。

 マニュアルに頼っている人には臨機応変の対応は不可能である。想定外のこと が起れば、すぐにたじろいでしまう。剣と禅で心境を練り、徳川幕府の幕引きを 見事に成し遂げた勝海舟は、無の境地さえ養っておけば、いかなる難事が束(たば) になって押し寄せても平然として対処できた、と述べている。

 思いもかけぬ窮地に陥ったり、色んな物事が一度に自分に振りかかると、冷静 さを失ってしまうのが人の世の常である。敵機64機を撃墜して零戦の撃墜王と いわれた坂井三郎氏によれば、命がけの空中戦を行なう者にとって一番大切なのは、 いついかなる状況でも冷静さを保持することだと言われている。

 実際、坂井氏は、米軍の思いがけない攻撃を受けて重傷を負いながらも、千キ ロ以上も離れたラバウル空港へ無事帰還されたという驚異的体験を持っておられ る(『大空のサムライ』講談社+α文庫)。

 戦闘機の搭乗員は、少しでも気を抜いたりヘマをやったりすれば、たちまちの うちに命を失う羽目になる。「それに比べれば、専門道場での禅修行といっても 生やさしいものではないか」と弟子達を励ましている昨今である。われわれも師 匠から「禅僧は隙(すき)があってはならぬ」と口をすっぱくしていわれたが、 それがなかなか身につくものではない。

 一人前の戦闘機乗りを作り上げるのにはどれほどの労力と費用とがかかるのか が、坂井氏の書を読めばよくわかる。とりわけ、手をとって教え込む先輩搭乗員 の苦労は想像を絶するものがある。禅の修行も一朝一夕には成就しない。わが弟 子達も試行錯誤を繰り返しながら、次第に一人前の禅僧に育って行ってくれることであろう。

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2月のコラム:「新年の法悦」

新年早々法悦の出来事の連続である。今年は例年にも増して、「法悦の歳」と して小衲の記憶に残りそうである。

 ここ数年にわたり、京都の或る真宗系大学で仏教一般を外国人留学生達に教え ている米人教授が、「学生達に禅の老師の生の話を聞かせたい」ということで、 毎年12月になると15名以上の学生達を連れて小衲のところに来訪するのが恒 例になっている。大学では授業が英語で行われるので、仏教というよりも英語の 勉強のために、毎年何人かの日本人学生もこの授業を履修するそうである。

 小衲が光雲寺の住職となってからは12月が多忙となったので、新年1月の中 旬に変更になったが、学生の方から講師のところに出向くという異例の形での 「出張講義」である。大学で教鞭をとっている友人達にそのことを話すと、誰し も驚きを隠さない。我田引水のようではあるが、禅寺に出向いての出張講義と は、ユニークな試みを米人教授は考えたものである。確かに若者にとっては、普 段なかなか触れることのできない貴重な経験であるに相違ない。

 別にテーマを決めるでもなく思うがままに話して良いということなので、境内 を案内して、340年前に建立された東福門院ゆかりの仏殿や、そのご息女の明 正天皇寄進の鐘楼などを説明したのち、方丈で、禅や仏教一般や東洋精神や人生 について、自らの実地の体験に基づく話を心に浮かぶがままに話した。何か聴衆 を前にして自分の引きたい曲を思う存分楽しみながら演奏している音楽家の様な 気がした。

 そうこうするうちに思わず時が流れて、2時間の予定が3時間半にもなってし まった。京都市指定の名勝庭園もいつのまにか夕やみに包まれていた。

 坐禅もこういう風に、時間を意識せずに空じてしまえば、しめたものである。 坐れば坐るほど、工夫すれば工夫するほど乗って来て、法悦がますます雪達磨式 に増えていくことになる。結跏趺坐の足の痛みなども、「足は足で勝手に痛んで おればよい。こちらはこちらで工夫三昧を続けるまでだ」という気でやっている と、しまいにはそうした雑念も起こらぬほど純になり、痛みが有って無きが如し となるから面白い。

 学生さん達にとっては大学での授業とは異なり、自分の体験を自分の言葉で語 る禅僧の話が興味深かったのか、みんな実に熱心に聞き入ってくれた。一心不乱 に話している小衲も、いつのまにやら心地良い三昧境に入って、あたかもその法 悦で一同を包み込みながら話す感があった。まことに有難い法悦の一日であった。

 それと同じ頃に、去年に坐禅と法話のあとでヨガの会場をお貸ししたヨガ教室 の先生から、桜の開花に合せて「光雲寺でもっと長時間の坐禅とヨガと語り合い をお願いしたい」という依頼のメールを頂戴した。「今度は桜の時分にどうぞ」 という小衲の言葉に応じてのご所望である。

 指導者の先生の人柄が信頼できると思い、例外的にではあるが、これを快く受 け容れることにした。その先生の歓び溢れたメールを拝見して、またまた法悦が 現前したのは言うまでもない。桜の時節の再会が楽しみである。

 さらには、これまで何度もコラムで言及してきた76歳の米人哲学者・悦峰居 士が、ますます法悦を育ててきたことである。かつて彼が深い境地に到達して、 その境地のことを再三述べてきた際に、小衲は、「あなたがどのような素晴らし い体験をされようとも、自我を粉砕して無相の自己に出くわすまで、すべてを放 ち捨てて執着してはなりませぬ」と申し上げた。現在の悦峰居士は、「この言葉 は私の救世主です」と歓喜の声をあげている。

 居士はこの2月の中旬に腹部の大手術を受ける予定であるが、そのメールから は微塵の懸念も見出せない。「あなたこそはまさしく悦峰・『法悦の絶頂』 (The Pinnacle of Dharma Joy)です」と何度感嘆したことであろうか。

 このように今年に入り、法悦の出来事の連続である。それでは「あなたには辛 いことや困ったことは一つもないのか」と問われれば、通常の眼から見れば、非 常に厄介なことが自分の周囲でも起こり、難問解決の相談があるのも事実である。

 だが、「春に百花有り、秋に月有り、夏に涼風有り、冬に雪有り。若(も)し 閑事の心頭に挂(か)くる無くんば、便(すなわ)ち是れ人間の好時節」という 無門慧開禅師の言葉(『無門関』の第十九則、「平常心是道」)もある。心にこ だわりがなければ、心配事に振り回されることがなく、四季の風景を存分に満喫 することが可能となる。

 昔の日本人が自然の風物を楽しむゆとりを持っていたことは、江戸時代の人の 書いたもの、たとえば貝原益軒の書物や『雲萍雑志』(江戸時代の代表的随筆) などを読めばよく分かる。これから梅がほころび、桜の咲く時節が到来する。 色んな法縁の方々の来訪が楽しみである。


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1月のコラム:新年巻頭号「東洋精神と世界平和」

 新年明けましておめでとうございます。「一年の計は元旦にあり」と申します が、皆さん方もさぞかし色んな一年の抱負を持たれていることと思います。

 小衲の願いは、まず、二人の弟子を徒弟教育して専門道場に安んじて送り込む ことと、先月のコラムにも申し上げたように、道心をもった出家希望の青年の出 現とである。さらには、紛争のない平和な世界の到来である。

 昨年末に弟子たちにも、いま話題のクリント・イーストウッド監督作品の「硫 黄島からの手紙」を見に行かせた。それまでにも硫黄島日本軍守備隊を率いた名 将・栗林忠道中将に関する書を読ませていた。禅道場の修行の厳しさといって も、硫黄島で生きて帰る可能性のほとんど断たれた絶望的な戦いを強いられた兵 隊さんたちに比べれば、なまやさしいものである。

 こういうと、早とちりして「軍国主義礼讚」などと色めき立つ人がいるのは 困ったものであるが、日米両方の視点で硫黄島の死闘を描いた監督や俳優さんた ちも、みな戦争の悲惨さ、愚かさを伝えたいという共通の思いがあったのは当然 である。

 特に、イーストウッド監督は栗林中将の人柄に魅せられたようであるし、大勢 の米人が現在も栗林中将を名将として尊敬しているということである。自国民を 極端に苦しめた人を敬慕するのは、やはりその人物像が彼らの琴線に触れ、人間 として尊敬に値すると考えられるからであろう。

 米国側から見た「父親たちの星条旗」よりも、この日本側から見た「硫黄島か らの手紙」の方が米国でも評判が高いというのは驚きである。このことは、日米 のみならずすべての国が、自国の利害や恩讐を超えた深いところで結びつくこと のできる可能性を暗示しているのではなかろうか。

 とはいえ、知米家で米国留学の経験があり、米国との開戦に極力反対したにも かかわらず、皮肉にもみずから陣頭指揮を取らざるを得なかった、栗林中将や連 合艦隊司令長官・山本五十六元帥などの心中は、察するにあまりある。

 栗林中将も言っておられるが、戦争がない平和な時代ならば、家族と平穏無事 な生涯を送られたであろう英霊方の無念さを、戦後のわれわれも心に刻んでおか なくてはなるまい。「英霊」というのはもとより戦争を賛美して言うのではな い。国家のためにわが身を犠牲にされた方々に敬意を表して、かく申し上げるの である。

 それにしても、日本はどうして国力が格段に勝る米国との対戦に踏み切らざる を得なかったのであろうか。戦前にはいまよりも優れた幾多の宗教者たちがいた にもかかわらず、どうして破滅的な戦いを回避することができなかったのか。果 して戦後の左翼系知識人やマスコミがいうように、「侵略戦争」と断定できる愚 行に過ぎなかったのか。戦前の日本人はそれほど愚かであったのかどうか。それ らを明らかにして悲惨な戦争を繰り返さないことが、心ならずも祖国の礎(いし ずえ)になられた方々への恩に報いる鎮魂となるのではないかと思うのである。

 現代でも、米国の思惑とは相違して、イラクはまさに内戦状態の渦中にある し、北朝鮮の無法ぶりは論外といってよい。こうした渾沌とした世界情勢を何と か平和に導くには、「東洋精神」を顧みる「温故知新」の精神の復興が必要では ないか。この観点から、現在「東洋精神と仁政」という標題のもとで、唐の太宗 と徳川家康公という偉大な為政者の「仁政」の由って立つ所以を調べているとこ ろである。

 天下を平安にしようと思うならば、『大学』にある通り、何といっても「身を 修める」ことが根本となる。「修身」などというと戦前の「軍国主義」を連想す る人が多いであろうが、戦後教育は修身・徳育が抛擲(ほうてき)されたがため に、勝手気ままが横行して、取り返しのつかない状況に陥ってしまった。まさに 「何事でも根本が乱れて、末の治まるものはない」と『大学』でいう通りであ る。若者もつまりはその犠牲者ではなかろうか。

 しかしながら、遠方から京都の禅寺に自発的に坐禅に来て、真剣に法話に耳を 傾ける青少年たちの熱心さを見ていると、彼らもみずからを律する必要を痛感し ているのだと思わずにはいられない。先生方が、「子供たちのあんな真剣な姿を 初めて見ました」と述懐されているのである。

 「さもありなん」というべきである。真実の自己は実は「無我」に他ならない ことを体得していく禅の道は、自分の心の平安のみならず、世界平和をもたらす 原動力となるはずである。

 どうか一人でも多くの青年が高邁な志を持って仏道修行や東洋精神の体現に邁 進して頂きたいものである。

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12月のコラム:  「道心ある若者出でよ」

 先月お伝えしたように、光雲寺は「南禅寺・禅センター」として多くの人々を 受け容れているが、それ以外にも月二回の定例坐禅会や不定期の坐禅希望の方々 が見えられる。

 その中には、キリスト教や仏教の他宗派の方々、ヨガ教室のグループの方々な どもおられる。海外からの来訪者ももちろん多い。「ぜひ来年には数週間泊まり がけで光雲寺での禅修行がしたい」と言われたドイツの優れた宗教哲学者もいる。

 そういう人達との交流を通して、ますます禅の素晴らしさやその使命の重要性 を実感している昨今である。ただ、それに対して、「天下の蔭凉樹」となるよう な若者の出現が少ないことは残念な気がする。

 「天下の蔭凉樹」とは中国唐代の臨済義玄禅師の語録である『臨済録』にある 言葉であり、その木蔭で世の多くの人々が憩(いこ)い安らげるような大樹(名 僧・大人物)のことである。

 光雲寺中興の英中玄賢禅師は元禄八年(1695)に遷化されたが、禅師が東 福門院の資金的助力によって光雲寺を大坂の四天王寺付近から現在地に移転され た当初は、七堂伽藍を兼備した境致で五十人の雲衲が日夜切磋琢磨して修行に励 んだと言われている。また天保十五年(1844)には百数十人もの禅僧が一夏 三ヶ月の間、光雲寺に安居して摂心をしたという挂籍簿が現存している。

 三千万人そこそこの江戸時代の人口を考えると、この数字は驚くべきことであ る。しかしながら、雲衲の数が激減している現在の禅の専門道場の老師方から は、後継者難の話をお聞きすることが多い。とりわけ「一箇半箇」を標榜する禅 宗では、いつの時代でも大法を荷担するに足るずば抜けた雲衲は得難かったこと は事実であるが、それにしても一身の地位や名誉などを抛(なげう)って禅の修 行に邁進する若者の出現が待ち遠しいものである。

 禅修行に真っ正直に取り組めば、必ずや思いもかけなかった法悦の境地が得ら れることは、小衲の経験からも保証できる。法悦がないという人は骨折りが足ら ないのである。禅修行は難行苦行ではなく、この上もなく法悦に満ちた充実の楽 道である。この醍醐味が味わえるからこそ、修行が継続できるのである。

 比叡山を開かれた伝教大師最澄は、「道心ある人を名づけて国宝となす」と言 い切られた。自分一箇の利益や名誉や安心などにあくせくしている人は、国家の 宝とは言えぬ。真に「国宝」の名に値するような熱烈な「道心ある若者出でよ」 と申し上げたいのである。


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11月のコラム:  「南禅寺・禅センター」

 先々月のコラムで「霊芝山光雲寺」のことをお話ししたが、今回は光雲寺に置 かれている「南禅寺・禅センター」としての活動に触れたいと思う。

 光雲寺は、先住職が退任して南禅寺派管長猊下が兼務された平成16年以降、 南禅寺派宗議会の審議を経て「南禅寺・禅センター」としての役割をも仰せつかっている。光雲寺自体もwebsiteをご覧頂けばお分かりの通り、月2回の一空 会・定例坐禅会を行なっているが、それとは別に、南禅寺の本山から廻されてくる50人以内の坐禅希望の団体を不定期的に受け容れているのである。

 その主たる来訪者は修学旅行の生徒さん達である。小学生が圧倒的に多く、中学生・高校生がそれに続く。しかもたいていは強制的にではなく、自発的に参加 することが多いようである。もちろん一般の成人の方々の参加もある。ことに、10月・11月はほとんど連日のように坐禅希望者がある。一日に2度は当たり 前で、3度あることも珍しいことではない。光雲寺の由来と坐禅堂として使用している仏殿について述べたあと、坐禅の仕方を説明し、15分の坐禅を2回して から法話15分という1時間のコースである。

 確かに現在は「学級崩壊」が叫ばれており、また現場の先生方からも現今の学校教育の惨状を歎く声を良く聞くのは事実である。しかし、学校によって校風が 違うのは言うまでもないが、当初はざわついていた生徒達が、坐禅と法話を経て、次第に真剣味を増してくる様(さま)はみものである。

 小衲は、たとえ小学生が対象であってもレベルを落して話をしないことを心が けている。難しい理屈を述べるのではなく、禅体験をもととして話を進めれば、これまで聞いたこともない話に新鮮な驚きを感じるようである。「釈尊が禅定に 入っておられた際には、目と鼻の先で草を食べていた牛が雷に打たれて頓死したこともご存知ないほどの深い禅定に入られた」というと、突如として水を打った ように一同静まりかえる。

 また自分自身の拙い体験談を話して、「私が出家前に神戸の或る道場で大摂心(1週間の集中的修行期間)に参加したときには、結跏趺坐の痛みを忘ずるため に数息観に熱中するあまり、四日目の午後の茶礼でパンと飲み物が配られた際にも、それを手にしたまますべてを忘じてしまい、いつ茶礼が済んだのかも分から ないほどであった」というと、みんな真剣そのものの顔つきでこちらを凝視するのである。

 それにしても、前途洋々たる青少年を相手に、思う存分坐禅指導ができるとい うのは、何という幸せであろうか。坐禅を仕事とできることの法悦と有難さを日々味わっている昨今である。

 わが身を顧みても、若年の頃の宗教との関わり合いは、自分の人生を決定的に 変える意義を持ち得ると言い切れる。どうか一人でも多くの若者がこれを機縁として禅や東洋精神に関心をもって頂きたいものである。


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10月のコラム:  「二人の法悦居士」

今月は日米二人の「法悦居士」についてお話ししたい。まず最初に、米人の「法悦居士」とは、以前のコラムにご紹介したことのある70代半ば過ぎの米人哲学者である。
 
氏は、短期間の日本滞在中にすでにかなりの心境になっていたが、帰国後ますます研鑽を積んで、さらに向上の境地に到った。同行した米人教授は、「この方は天才的な哲学者です」と氏を小衲に紹介した。分別的思考の最たる哲学に長年従事してきた学者が、70歳を過ぎてそれを放下(ほうげ)して、なおかつ少年のような純な気持ちで初心者として禅に参じられたのは、類い稀なことといってよい。
 
それが可能となったのは、氏の悠揚迫らざる高邁な人柄のしからしむるところであると小衲は見ているのであるが、哲学を長年教授して来られただけに、体験の欠如という哲学の問題点も痛感しておられたのであろう。小衲も哲学畑出身ということで、初対面ですぐさま意気投合したが、「過去の幾たびもの人生で私達は知り合いであったような気がしました」と氏がのちに言われたように、お互いがまるで旧知のように気心が即座に通じ合ったのは、奇(く)しき仏縁というものであろう。
 
法悦あふれるメールを再三送ってくる氏の求めに応じて、小衲は自然に心に浮かんだ「悦峯」(えっぽう、’The Peak of Dharma Joy’)という居士号を贈ったが、これはまさにうってつけであったように思われる。
 
氏はこのたび英語圏の読者のために禅語集(“A Book of Zen Words”)を著されたが、風外慧薫(1568−1654)の「指月布袋図」をその本に掲載して、それに、「言句は指のようにただ指し示すだけに過ぎない。指し示されている月そのもの(体験自身)を徹見しなくてはならない」と語を添えられた。
 
まさしく氏の真骨頂は真空妙有の法悦体験である。また、容易に実現し難いことであろうが、最後は日本で仏教徒として埋葬されたいという希望を述べられている。いずれにしても、氏との出合いはわれわれ双方にとってかけがえのない法縁であったという他はない。
 
さて、いま一人の「法悦居士」は日本人の京大生である。彼はロンドン留学中に知り合った京大大学院生の紹介で、小衲のもとに「東洋精神」の勉強に通って来るようになって、すでに一年以上になる。猛勉強の甲斐あって見事に難関の外務省に就職が内定した前途有望な好青年である。
 
この正月に、彼は小衲のところに通うようになって初めて「心から笑い喜べるようになりました」と嬉しい年賀状を送ってくれた。「法悦」の素晴らしさを説く小衲の言葉を素直を受け入れて、彼も「法悦」を喜ぶ人の仲間入りをしたのである。
 
猛勉強中の彼に、「法悦」という銘を冠した抹茶茶碗を送ってささやかな支援をしたのも、いまは懐かしい思い出である。彼は来春の就職まであと半年の間、光雲寺で禅の生活をして、それをこれからの人生の糧(かて)としようとしている。
 
我田引水のように聞こえるかも知れないが、それを自発的に申し出た彼の炯眼(けいがん)に敬意を表したい。早朝の掃き掃除・墓地の除草・松の剪定・畑の世話などをしながら、彼の法悦の境地はますます雪達磨式に育っているようである。
 
これから『孟子』や『貞観政要』や『披沙揀金』(家康公逸話集)などを一緒に勉強して行く予定である。それと共に、東洋的実践の修得のお手伝いもしたいと思う。彼は必ずやこの禅寺での体験を活かして国家有用の人物に大成してくれることであろう。
 
どうぞ皆様方も、日米の「法悦居士」に引けを取られることなく、法悦の日々を送られんことを。



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9月のコラム:  「霊芝山光雲寺」

 今回は、小衲が7月末から住職として入山することになった霊芝山光雲寺につ いてお話ししたい。

 光雲寺は山号を霊芝山と称する臨済宗大本山南禅寺の境外塔頭(けいがいたっ ちゅう)であり、ご開山は南禅寺開山の大明国師(無関普門禅師)である。

 建暦2年(1212)に信州でお生まれになった国師は、幼時から新潟の叔 父、寂円のもとへ預けられ、13歳で得度された。諸方で研鑽を積まれたのち、 栄西禅師の法嗣の栄朝に参じ、さらには、宋から帰国して東福寺の開山に迎えら れた聖一国師(円爾弁円禅師)の門に入って、5年間の辛参苦修の日々を送られた。

 国師はさらに向上の道を求めて、建長3年(1251)、40歳にして入宋し て、浄慈寺(じんずじ)の断橋妙倫禅師に参じた。禅師は一見して国師の抜群の 器量を見抜かれたという。国師は浄慈寺で修行すること10年あまりにして、禅 師の法を嗣いで帰国された。

 帰国後、国師は東福寺の聖一国師に再謁されてから、得度した越後新潟の寺で 聖胎長養しておられたが、聖一国師の病が重篤なることを聞かれた国師は、70 歳の老躯をいとわず、遠路はるばるお見舞いに上洛された。

 国師が上洛されると、衆望は国師に集まり、東福寺の後住に嘱望されたのであ るが、勢力を有していた東山湛照の徒はそれを快く思わなかった。名利など眼中 になかった国師は、すみやかに東福寺を去って摂津(大阪)に退かれたが、この ときに建立されたのが光雲寺である。その場所は四天王寺の近辺であったと言わ れている。

 東福寺2世の東山湛照が在住わずか3ヶ月にして故あって退寺したあとを承け て、国師は入寂の日まで11年間を第3世として全うされたのである。

 正応4年(1291)に亀山法皇は国師の徳に深く帰依され、その離宮を禅寺 として施捨され、国師を開山第一祖とされた。これが南禅寺の開創である。ただ 国師は南禅寺伽藍の完成を見ることなく、その年の12月12日に遷化され、後 事を第二世の南院国師(規菴祖円禅師)に託された。

 さてその後の光雲寺について言えば、江戸初期の明暦3年(1657)に南禅 寺の第百代住持英中玄賢禅師(1627−95)によって再興され、寛文4年 (1664)には、英中禅師に帰依された後水尾天皇と中宮東福門院のご助力に より、難波から南禅寺の北域の所謂「北ノ坊」の現在地に光雲寺は移転されたの である。当時は七堂伽藍を具えた堂々たる寺院として、光雲寺には50人以上の 雲水が切磋琢磨して修行に励んでいたと伝えられる。

 現在の仏殿は当時のもので、すでに340年以上を経て往時をしのぶ偉容を 誇っている。目下は本堂と禅堂とを兼ねて使わせて頂いているのであるが、大明 国師や英中禅師の如き高徳の名僧の遺徳と、後水尾天皇と東福門院との菩提心の お蔭によって、このお寺に住山させて頂いた仏縁を思うとき、身の引きしまる重 責を痛感せずにはおられない。

 檀家の方々や弟子達や在家修行者の人たちと共に、ますますこの伝統ある光雲 寺を守り立てて行きたいものである。皆様方のご支援ご法愛の程、よろしくお願い申上げます。


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8月のコラム:  「青年と修養」

青少年の暴発的な行動による事件が、最近増加しているように思われる。奈良 有数の進学校の高一男子生徒が、自宅に放火して母と弟妹を焼死させてしまうと いう痛ましい事件が起こった。

 少年は、医者である父親から、医者になるために医学部に合格するほどの成績 になるようにと、なぐられながらの厳しい指導を連日受けて、その状況を「リ セットしたかった」というのが、どうも放火の理由らしい。将来子供が医者にな ることを熱望している医者の一家の人達には、この事件がとりわけ衝撃を与えた であろうことは想像に難くない。

 新聞報道によれば、この少年は取り調べの合間に『論語』を読み終えて、「知 識よりも人の優しさや思いやりが大切だと分かった」と、その読後感を弁護士に もらしたそうである。

 彼がどのようにして『論語』を読むような心境になったのか、自発的にか他人 から推奨されてかは定かではないが、もっと早く『論語』に触れて、そうした心 境になっていればと、まことに残念に思われるのである。

 同様のことは、この少年以上に父親に対しても言えるであろう。この父親は有 名大学の医学部に進学して医者になることが、息子にとっての唯一の道だと思い 込んでいたようであるが、つまりは自分の願望を息子に強要したに過ぎないよう に思える。

 成績が少し下がれば拳骨の制裁を受けるというのでは、どんな子供でも父を恐 れ、いじけて育ってしまうであろう。この少年のために、高校関係の人達から数 多くの嘆願書が集まっているのも無理からぬことである。  昔から「医は仁術」という。親の方が、単に学校の成績に一喜一憂するだけで なく、医者の道が、病人の身になって診察治療して仁徳を施す素晴らしい道であ ることを教え諭(さと)せば、息子も将来に希望をもち、精出して勉強したかも 知れないのである。拳骨やビンタよりも、その方がよほど効果的だと思うが、い かがであろうか。

 また、たとえ自分の子供が親の家業を嗣がず、親の希望するような道に進まず とも、子供には子供の人生があり、人として後ろ指をさされない立派な人間に なってくれれば良いではないか。

 ただそのためには、東洋の古典を学ぶことがとりわけ重要である。五百以上も の会社を設立してわが国の資本主義経営の基(もとい)を築いた渋沢栄一翁は、 『論語』を処世の指針とした人であるが、さすがに実践躬行した人だけあって、 その言うところは説得力がある。

 曰く、「商人に(筋道の立った)恒(つね)の心がないのは学問の素養が足り ないからである。学問の足らない人は、いかに手腕があっても才気があっても、 そのやり方が野卑(やひ)になりやすく、金儲けなども品が悪くなりがちであ る。」(『孔子・人間一生の心得』三笠書房、59頁)

 渋沢翁のように、商売に従事しながら東洋の古典を規範として修養して行け ば、商売が修養の道場にもなり得ることを示唆するものである。

 小衲は、いま弟子達を初めとした若者に接していて思うことは、彼らが論語な どの古典の深い真意に生まれて初めて目を開かれ、それによって楽しく充実した 人生を送るように自分自身を変革することができたということである。

 以前のコラムでも申し上げたように、さらにその上、禅では師弟が一挙一動を 切磋琢磨するという貴重な伝統が保持されている。東洋の修養の道を強調するの は、いくらしてもし過ぎることはないと思うのである。

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7月のコラム:  「出家とその母」

 先月のコラムには「師匠と弟子」について述べたが、今回は「出家とその母」 についてである。

 中国曹洞宗の開祖である悟本大師・洞山良价禅師(807−869)は、わが 国の道元禅師も敬慕された名僧であるが、その語録の末尾には、洞山禅師とその 母堂とのやり取りの書簡が「附載」として掲載されている(『国訳禅宗叢書』第 一輯、第八巻、第一書房、六七頁)。

 禅師の母堂あての書簡を要約すれば、「諸仏も父母のお蔭でこの世に生を受 け、その養育の恩を受けないものはありません。しかし、世間的な孝養よりは、 出家して執着・煩悩の愛を断つことができれば、これまでの何代もの父母の深恩 に一挙に報いることになるのです。ですから、私、良价は今世の身命を捨てて、 誓って家には帰らずに、仏道修行に邁進致します。どうかご両親よ、お釈迦様の ご両親の例にならわれて、どうかこれ以上、涙を流して私のことを思われること のございませんように。」という内容である。

 それでは母堂が到底得心できなかったためであろうか、禅師は後にまた母堂に 書簡を送られ、こう切々と訴えられた。  「どうか心を静めて仏道を慕い、離別の感情を抱いて下さいますな。門に寄り かかって、いつになればわが子が帰ってきてくれるかなどと空しい望みをもたれ ませぬように。・・・どうか私が死んでしまってこの世にはもういないとあきら めて下さることをお願い申し上げる次第です。」

 禅師がこれほどまでに自分のことを忘れてほしいと訴える必要があったという のは、いとしいわが子に対する母堂の恩愛があまりにも強烈で、断ち難いものが あったからである。母堂からの返書はまことにすさまじい内容である。母親とし ての情愛が如実に伺える文面なので、ここは全訳をしたい。

「私とお前とは早くから因縁の深い結びつきがあって、初めて母と子の恩愛の情 で結ばれたのです。お前がおなかに宿って以来、神仏に祈り、願わくは男子を生 ませて頂きたいと願っていたのです。お前の命を育むのに本当に命がけになりま した。こうして遂に念願の男子を得て、まるで宝の珠玉を大切にするように養育 したのです。ウンチの臭いも嫌がらず、母乳を与える苦労も気にかけず、やや長 じてからは、学問も習わせました。あるいは、帰りの時間が少しでも遅くなれ ば、門に寄りかかってお前の帰りを待ちわびておりました。
 ところが、そのお前が、来信の中で、何としても出家をしたいというではあり ませんか。父は亡くなり、母の私は老い、兄は不幸で、弟は貧しいという状況で は、この母は一体誰を頼れば良いのでしょうか。お前は母の私を棄てようと思っ てはいるが、母の私はお前を捨てるつもりは毛頭ありません。ひとたびお前が家 を離れてよそに行ってからというものは、私は日夜悲しんで涙を流して暮しまし た。それに何という辛いことでしょう、お前はすでに故郷には帰らぬと堅く心に 誓ったというではありませんか。
 この上は、私ももうお前の決心に従うほかはありません。私は何も、お前に対 して、王祥のように氷の上に臥して母のために魚を捕ってくれとか、また丁蘭の ように母が逝いてから木に彫って仕えてほしいなどというのではありません。た だ願うのは、お前が目蓮尊者のように母の私を済度して、私が地獄に行くのを免 れ、仏の位に登ることのできるようにしてほしいのです。もしそうでなければ、 ひそかに天罰が下ることでしょう。何とぞ、このことをよくよく胸に刻みこんで おかれますように。」

 まことに、母のわが子に対する愛はかくまで深いものかと驚嘆させられるが、 禅師の母堂もついにはわが子の切なる求道心に理解を示し、大法の成就を祈願さ れるに至ったのである。「恩を辞して無為に入るは、真実報恩の者なり」(肉親 の恩愛の情を離れて、寂滅無為の涅槃の境地に達するのが、本当に両親の恩に報 いる人である)という言葉があるが、禅師も母堂のこの願を胸に秘められて修行 三昧の日々を送られたに相違あるまい。

 他方また、「恩を辞して無為に入る」ことをすでに成し遂げてから、母堂に孝 養を尽された名僧も数多くいる。草鞋(わらじ)を売って母堂を養い、「陳蒲 鞋」(ちんほあい)とあだ名された中国唐代の名僧、睦州禅師や、母堂を寺の近 くにおいて孝養を尽された江戸時代屈指の名僧、盤珪禅師などは、その典型である。

 上求菩提(じょうぐぼだい、悟りを求めての向上の修行)のために一切の世俗 を縁を断って修行された洞山禅師の求道心も有難いが、母堂に孝養を尽された睦 州禅師や盤珪禅師の風格も、「風にまた別調に吹かる」趣(おもむき)があっ て、とりわけ貴く覚えるのである。

 出家予定の弟子達の親御さん方がご挨拶に見えられたが、いずれもご子息の選 んだ道を信じて心から喜ばれているのには、こちらも大いに感動させられたので ある。

 或る弟子の母堂は、「あなたも人生のやり直しができるね」、「帰って来て も、あなたの居場所はもう無いよ」と、本人に言われたという。小衲には、「一 目会えて、もうこれで会えなくても構いません。私も息子への思いを断つ修行を しております」と言われたが、ここにまた、このご母堂のご子息に対する底知れ ぬ母親としての情愛を感じるのである。

 出家修行というものは、中途で色んな障害に妨げられる。まして、「至道無 難」とはいうものの、真箇に自己を空じ尽して涅槃寂静の境地を成就すること は、まことに至難である。その際、ご母堂達の悲願は、必ずや弟子達の修行の支 えとなることを信じて疑わないのである。

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6月のコラム:  「師匠の恩」

 私事で恐縮であるが、小衲はこの五月十二日に大本山南禅寺で南禅寺派の前住持職となるための改衣式を挙げさせて頂いたが、その際に法話したのが「師匠の恩」というテーマであった。

 「最近どういう法縁か、何人かの若い人たちが弟子になりたいと言って尋ねて まいりまして、私のようなものでも弟子を育てている毎日であります。私は幸いにもこれまで何人もの優れたお師匠様に恵まれましたが、自分が今度はいざ徒弟教育をする立場になってみると、色々反省したり、師匠方のことを思い起こしたりすることが多くなりました」ということから切り出して、師匠と弟子との交わりについて、思うところを述べさせて頂いたのである。
 
 或る老師は、小衲が僧堂を転錫してから初めての参禅のあとで、拜をして部屋から出ようとしている小衲に対して、心の底からにじみ出るような穏やかなお声で、「私もあなたと同じ道を通ってこの禅門に入った者です。もう一度生まれてきても、もう一度雲水修行をやりたいと思っております」と話された。そのお言葉を聞いた途端、何かバットで殴られたような衝撃と感動とを受けたことが、いまだに忘れられない。

 何れの道でもそうであろうが、特に禅の修行にあっては師弟の心のきずながぴったりと一枚に合うことがとりわけ必要だと言われる。学校教育のように知識の伝授をするだけではなく、全人格的薫陶を受けるのであるから、それも当然のことである。

 それはまた情感の上でも、師匠の方も弟子を信頼して、この弟子を得たことを有難く思い、弟子の方も弟子の方で、「この方以外には自分の師匠はあり得ない」という心持ちで、わが身を空しうして師匠にお仕えして、言われるがままに素直に随順して行かなければいけないと思うのである。

 中国宋代の傑物宰相で、『資治通鑑』を編纂した司馬温公(1019−1086)に「勧学歌」がある。その冒頭は、「子を養いて教えざるは父の過(あやまち)なり。訓導の厳ならざるは師の惰(おこたり)なり。父教え師厳なること両(ふたつ)ながら外無けれども、学問成ること無きは子の罪なり。」という言葉で始まっている。(『古文真宝(前集)』上、10頁、新釈漢文大系、明治書院)

 「子を育てるのに学問を教えないというのは父の過ちである。訓(おし)え導くのに厳格でないのは師の怠慢である。しかし、父が子供の教育に心をくばり、師が厳しく訓え、両方ともに条件がそろって不足がないのに、学問が成就できないのは子供自身のせいである。」

 この場合の「学問」とは、「人の道」あるいは「人格修養」を学ぶという、東洋古来の学問のことである。父や師が子供の教育に心を用いることも必要であるが、何よりもまず子供自身が学問(人格修養)に勤めなければならぬことを、司馬温公は力説するのである。

 「子を持って知る親の恩」という世語があるが、師弟の関係もまさにその通りで、弟子を養育して初めて師匠の恩の有難さを実感できるものではなかろうか。子を養育するのも大変であろうが、弟子の教育もまた並大抵ではない。

 小衲は残念ながら、大学院修了後の二十八歳で出家して、伝統的徒弟教育は受けてこなかったので、その悔いが残っている。弟子達にはそんなことのないようにと、色々と自分なりに心を砕いている積もりであるが、まだまだ不十分であることを痛感している。

 振り返って、小衲のところに集まってくる若い人達を見るに、今の若者は真面目に自分を反省して向上を目指す人達が多いのは、まことに頼もしい限りである。
 
 十七歳の最年少の弟子は、「お話しをお聞きして師匠に恩返しをしなければと思いました。せめて按摩などさせて下さい」と願い出てくれたので、それ以来按摩の仕方を教えながら、ときおりお互いに按摩をし合っている。彼は夏に来訪予定の、九州のお母さんに按摩をして喜んでもらえることを目標として、上達を目指している。

 また、文部科学省に奉職した女性は、認知症の人達を対象とした過酷な介護研修を受けて、「本当に苦しんでいる人達に対して国は何ができるのだろうかと考えるきっかけになりましたし、また現在介助をしておられる方達のご苦労を身をもって知ることができました」と嬉しい報告をして来てくれた。後日の「リーダー学講座」の研修では、小衲が勧めて彼女の愛読書になった、『孟子』と『貞観政要』を使用することになりましたと、驚きと喜びの声を伝えてくれた。

 最後に、師弟の交わりについて二、三の逸話をご紹介したい。道元禅師の師匠であった建仁寺の明全和尚は、老衰のために死に瀕する重病で、他に看護する人もない明融阿闍梨を病床に残して、「大法重きが故に」という理由で、入宋された。幼少の頃から養育してもらった恩師の、「わしを看護して見送ってからでも遅くないではないか」という痛切な懇願をも振り切って行かれたのである。

 道元禅師は『正法眼蔵随聞記』の中で、先師明全和尚の高邁な道心を称えておられるが、「一人(いちにん)のために失い易き時を空しく過ごすことは、仏の心にかなうはずがない」という明全和尚の表明には、僭越ながら、疑問を感ぜざるを得ない。坐禅弁道だけが果して仏道修行なのか。大恩のある師匠を心を尽くして看護申し上げるのも、またそれに劣らぬ立派な仏道修行と呼べるのではないか。

 結局、明全和尚は数年の修行を経て、中国の名刹・天童山の了然寮で病のために四十二歳で遷化されることになるのであるが、このとき明全和尚は恐らく、自分が日本に置き去りにしてきた恩師のことを思い出されたことであろう。
  
 白隠禅師は、美濃の荒馬と称せられた馬翁和尚と沼津大聖寺の息道和尚の病床看護をされながら、大いに禅定を練られたということである。また松蔭寺の先住で、寺務をないがしろにして荒廃を招き、放逐された形で出て行った透鱗和尚が戻って来た時にも、真冬の凍てつく時期に白隠和尚が透鱗和尚を抱いて温められるのを見て、当時、参禅学道のために雲集していた雲衲らは、「わが白隠老漢は何という偉いお方だ」と陰ながら感嘆の声を揚げたと伝えられている。
 
 また、胃病のために大本山相国寺の僧堂師家職を五十三歳で退かれた橋本独山老師のお食事のお世話をしておられた方のお話では、或るとき山椒の葉の煮付けをお出ししたところ、不意に涙をぽろぽろとこぼされたので、「管長さん、どうされましたか」とお尋ねすると、「いや、わしは料理が下手で、先師・峨山老師にこんなうまいものを作って差し上げることはできなかった。申し訳なかった」、そう言って、また独山老師は涙を流されたそうである。

 白隠禅師のように、多くの優れた法嗣を打ち出し、修行専一の比類なき生涯を送られながら、お寺を不祥事を起こして追い出されたような兄弟子が帰ってきても孝養を尽くしたお方や、「法のことにかけてはわしは誰にも負けぬ」と自負しておられながらも、先師においしい料理を差し上げることのできなかった不甲斐ない自分に涙された独山老師などの風格は、誠に慕わしく、身震いするほどの感動を覚えずにはおられない。
 
 禅の雛僧教育は厳格なことで知られている。師が弟子に厳しくするのはひとえに「師匠まさり」になってほしいがためである。そしてまた、師自らが率先垂範しなくては、弟子も付いてくるものではない。それがまた師たる人にとっても、修養となる。小衲も目下、再修行の心持ちで日々を送っている。そして、そうしたかけがえのない法悦の日々を弟子達とともに享受できるのは何という幸せか、 と感謝する毎日である。


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5月のコラム:「思無邪」

墨跡の揮毫などの依頼は時折あるが、それでも数えるほどしか行なったことは ない。今回その稀な機会に巡り合い、揮毫したのが、標題に掲げた「思無邪」と いう語である。
 
  小衲が随身した高徳の老師は、或る寺院を訪問されるたびに、ご自分の拙い若 書きの墨跡が気になって、「書き直すので取り換えさせて頂きたい」と言ってお られたということである。そうした話を聞いているので、揮毫にはあまり気が進 まないのもまた事実である。
 
 良寛さんは、或る俳諧師が書が下手なことを歎いていたところ、「美醜に心を 労してはいけない。ただ無心になって書いていれば、おのずから風格が備わる」 と教えたというが、さすがはと思わせる見識である。
 
 また、京都に「山紫水明処」の居を構えた幕末の儒者・頼山陽の父であった 頼春水は、息子の山陽をはるかに凌駕する高邁な人であったということであるが、 その春水が「揮毫の秘訣」について語った言葉が、『想古録2』(東洋文庫、平 凡社刊、71頁)に載っている。全文の訳は次の通りである。

 「頼春水の書はその運筆の働きがえもいえず妙であるばかりか、優美で風流な 趣(おもむき)を一点一画のうちに含んでいるのが見て取れた。その春水に或る 人が書の秘訣を尋ねると、春水は、『書というものは書く人の心の有様の真相を 現わすものであるから、紙に対する前に自ら墨を磨ってまず腹を練り、丹田が充 実して気宇が清浄になった時に初めて筆を下すべきである。そのようにすれば、 その書の巧拙にかかわらず、筆力が活き活きと働いて、一種の気韻(きいん、気 品高き風格)が自ずからその間に生ずるものである。私の揮毫の秘訣はただこの ことのみで、その他に奥の手はない』と説き示された。」
 
 良寛や春水の言葉からは、修養に勤めた先人の心のたけが伺えて、わが身の引 き締まるのを覚える。良寛さんがもっとも影響を受けた書物が『論語』である。 小衲がこのたび揮毫した「思無邪」の語は、『論語』為政篇の中にある。「子の 曰く、詩三百、一言以てこれを蔽(おお)う。曰く思い邪(よこしま)無し。」 (孔子先生が言われた、「詩経の三百篇、ただ一言で包括すれば、『心の思いに 邪なし』だ。」)(岩波文庫、27頁)
 
 『詩経』は孔子の学団の教科書として使用された中国最古の詩篇で、いわゆる 「五経」のひとつに数えられる。「思無邪」という言葉自体は、『詩経』の中に ある言葉であるが、古代の淳朴な人々の詩篇の根本を為すのは「思無邪」である というのが、孔子の見識である。
 
 のちに明代の大儒者である王陽明は、「思無邪」の一言がどうして詩経全体の 意味を包括できるのかと弟子に問われて、次のように答えている。 「単に『詩経』三百篇だけのことではない。六経でさえこの一言こそで総括でき るし、さらには、すべての時代の、いずこの聖人賢者の思想をも一切含めて、 『思い邪なし』という一言で総括できる。このように説くしか他に説きようがな い。これこそ、根本が分かれば一切のことが分かるという努力の仕方である。」 (『伝習録』タチバナ教養文庫、164頁)さすがに深い根本体験を経ているだ けあって、王陽明の主張は単純明解である。
 
 京都での坐禅会の提唱は『達磨大師二入四行観』がようやく終わり、今度から は達磨から六代目の祖師である六祖慧能禅師の『六祖壇経』を講本にする予定で ある。その中に、有名な「常行一直心」(常に一直心を行ずる)という語があ る。一切処において行住坐臥にこの直心(じきしん)の一行三昧を行じて行かね ばならない、口で説いても直心を行じなければ意味はない、というのが六祖の教 えである。
 
 この六祖の「直心」は孔子の「思無邪」と相通じるものがあるように思われ る。それではお前は直心や思無邪を真箇に行じ切れているかと問われるならば、 「まだまだ」(未在、未在)という他はない。とこしえに「まだまだ」かも知れぬ。
 それにしても、われわれは「思無邪」や「直心」を行ずるべく、法悦のただ中に おいて、どこどこまでも勤めて行きたいものである。

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4月のコラム:「東洋的教育」

 四月は新学期の時節である。小衲のところにも出家志望の高校生が先月末に佐賀県から来訪して、勉学に雛僧修行にと新たな一歩を歩み始めている。
 
 桜の開花に合わせたかのような青年の来訪を喜んでいるのは、小衲ばかりではない。この春に大学を卒業した二人の兄弟子たちも、「どんな風に変るか、とても楽しみですね」と口をそろえて言っている。それは彼ら自身が、学校で学ぶことのなかった教育を禅寺の生活で経験することができ、わが身が心地良いほどに変ってきたことを実感しているからであろう。
 
 この兄弟子たちはまた、「うらやましいですね。彼がどれほど成長するか想像もつかないほどですね」と羨望のまなざしで見ている。それは彼らが宗門の大学の出身ではあっても、これまで心から満足の行く教育を受けることがなかったからのようである。誠に残念なことである。

 大学の先生方を批判したり、自分の徒弟教育を自慢するつもりは毛頭ないが、小衲は多くの大学生の率直な生の声を聞いて、本当に驚かざるを得なかった。彼らが今の教育に対して投げかける批判的なまなざしには、誠に厳しいものがある。心から感動する血の通った授業はなく、「先生もやる気がなさそうです」と生徒が感じるようでは、勉学にも身が入らないのも無理はない。それは恐らく先生方が、知識の伝授をもって事足れりとしているからではないかと推測される。まさに、「記問の学は以て人の師たるに足らず」(博識と暗記による学問をもってしては、人の師となるには不足である)と『礼記』(学記第十八)で言われている通りである。

 そうは言っても、例外があるのは勿論のことである。現に、関東の国立大学出身の理系の青年が、禅に関する授業に心から感激して、関西の有名企業に就職して何年も経ってから、websiteを見て、出家を希望して小衲を来訪した。よくよく聞いてみると、彼が感動した授業を行なった先生とは、何と小衲と同窓の道友であった。奇しき仏縁とも言うべきものであろうか。

 確かに孟子の言うように、「周の文王のごとき聖天子が出現して初めて発憤する者は凡庸の人である。豪傑と称せられる知徳のすぐれた人物は、文王が世に出なくても、自ら奮起するものである」(尽心上篇)。いかなる先生や師匠のもとでも、批判的見解を起こす隙(すき)もない程、自己の修養と充実のみに心を向けて、純一に勉学や修行に励むことができれば、それに越したことはない。

 だが、それを初心の若者たちに求めるのは少々酷(こく)であろう。特に禅に限らず、東洋的教育は先人に学ぶことによって初めて可能となる。儒教では、聖賢の書を読み、それを糧(かて)にして自己の修養(修身)に心を尽くすことによって、人としての道(生き方)を学ぶ。そして禅では、この儒教的教育の基礎の上に、さらに、自分が師として選んだ人について、その言われるがままに素直に随順して、日常の一挙一動を鍛錬してもらうのである。
 
 「修養」や「行」を基本としたこうした伝統的教育の重要性は、今日のわが国ではもはや忘れ去られようとしている。報道によれば、このたび小学5年生から英語を必修とすることを文部科学省が決定したそうである。それよりも、漢文を必修にして聖賢の書をテキストにして「人として生きるべき道」を学ばせた方が、どれほど青少年にとって有意義でもあり、彼ら自身も喜びを感じるか知れないものを、と思うのである。

 著名な教育者であり、儒学と洋学との両方を深く学んだ中村正直(まさなお、敬宇と号す)は、すでに明治二十年に書いた「漢学不可廃論」という一文の中で同様の考えを披瀝して、次のように言っている。
 「自分は最近学生を集めて教えた経験から、洋学者が漢学を修得せねばならぬことを、深く痛感した。というのも、漢学を学ぶことなしに洋学に従事する者は、たとえ五、六年勤めたところで、漢学の素養のある者が一、二年洋学を修めたのには、到底かなうものではない。洋学の進歩の遅いか早いかは、漢学の力がどのくらいあるかに比例する。漢学を修めた人が有利であるのはこの通りである。」

 正直のいう「漢学」とは漢文で書かれた中国の古典に関する学問のことである。明治以前の日本人の教養はこの漢学に裏づけられていたのであり、国語の中でもとりわけ「漢文」こそが主流であったのは、周知の事実である。小衲は、「英語会話の学習をするよりも、漢文による古典学習をした人材を世に出すほうが、日本の文科系大学としての誇りとなるであろう」(『<教養>は死んだか』PHP新書、126頁)という、加地伸行大阪大学名誉教授の卓見に満腔の賛意を表したい。日本がその尻を追いかけている英語圏の国々の人たちの方が、かえって東洋的精神に憧憬の念を抱いているという事実は、何という皮肉であろうか。

 以前のコラムでも採り上げた文部科学省に奉職した女性は、東京に赴任して次のようなメールを寄せてくれた。
「南禅寺という日本的な素晴らしい場所で得た経験は私を大きく変えました。 まず、他人と自分を比較しなくなりました。→自分に自信がつきました。そして楽しみながら物事をするようになりました。→充実した時間を送れる。マイナス思考をすることが少なくなりました。(まだまだまだ落ち込みやすいですが・・)他にも人生を楽しむ秘訣をたくさん手に入れられました。(特に論語や貞観政要!)」

 こうした有為の青年たちが、東洋の古典を学んでわがものとすることによって、一体どのように修養を積んで、どれほど目の覚めるような変り方をするのか、この上ない楽しみである。また、彼らと一緒に小衲自身も再修行する機会を与えられたことは、誠に有難い法縁であり法悦である。

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3月のコラム:「行雲流水」

「行雲流水」とは、行く雲や流れる水の如くに、一所に執着せずに行動すること である。古来禅僧は、一所不住で明師や真実の大道を求めて全国を行脚(あんぎゃ)修行したので、「雲水」と称される。世間の煩わしい人間関係の中で日々 を過ごしている人たちには、世俗離れしたこの禅の雲水生活が、いかにも清々(すがすが)しく感じられ、時として羨望の念さえ抱く人があるのも無理からぬ ことである。

 世間の人たちのみならず、仏教の他宗やキリスト教に属する宗教者の方々もま た、かかる伝統的修行を有する禅に対して畏敬の念を持っておられることが、来訪される方々との対話を通じて感得される。しかし、禅の修行を真剣に行なうの は並大抵のことではない。

 二年近くにわたり、小衲のもとで禅の雛僧教育を受けた弟子の一人が、来月早々に専門道場に掛搭することになった。いずれの師匠もそうであろうが、小衲も また弟子のために何とか最善の指導をしたいものだと考えてきた。漢籍の素読や雛僧要訓・祖録の講読、日常の起居動作など、雛僧として必須のことを率先垂範 して色々教えたつもりではあるが、まだまだ教え足らぬことがあるのを感じている。とりわけ、在家からの出家であるから、お経の読み方などはなかなか慣れる ものではない。

 だが、もっとも力を注いだのは道心の育成である。禅では、「初発心の時にすなわち正覚を成ず」(修行の初めにあたり、真実に菩提心を起せば、そのときす でに真正の覚りが成就したといってもよい)と教え込まれる。その場合、何よりも肝要なことは、自分ひとりのためだけの修行をしないということである。そし て、赤子の如き素直さで、ひたすら老師の言われることに随順して、脇見をせずに一心不乱に修行に励むことが必要となる。

 これも再三強調したことであるが、修行生活というものは、全身全霊を打ち 込んで工夫三昧になればなるほど、わが身心が空ぜられ、自ずから法悦が生まれて、「これほど楽しく充実した生活はあるまい」と思えるほどの醍醐味が満喫で きる。だが他方、心に隙(すき)ができて雑念が生じたり、修行の厳しさを回避しようとすると、かえって苦しみが増すものである。

 この弟子と共に拝読した文章の中に、鎌倉円覚寺の今北洪川老師の「正法眼堂 亀鑑」がある(『蒼龍広録』巻二、三十九丁裏)。恐らく、円覚寺僧堂の禅堂の扁額は「正法眼堂」と称するのであろうが、洪川老師はこの道場で修行する雲衲 達のために心を傾け尽くして、「亀鑑」(模範となるべき心構え)を作成しておられる。
 在家の方々には、「自分達には縁遠い」と思われる向きもあろうが、禅僧とは 本来かくも高邁な見識をもって修行に勤(いそ)しむものであるということを知って頂きたく思い、この亀鑑をご紹介したい。

「諸禅徳、既に俗縁を辞して仏弟子と為る。治生産業、汝が事に与(あず)からず。且(しばら)く道(い)え、甚(なに)を以て父母生鞠(せいきく)劬労(くろう)の大恩に報答すや。甘旨を供して父母を養うも、汝が報恩底の事に非ず。文学に達して父母を顕わすも、汝が報恩底の事に非ず。経呪を誦して父母を弔うも、汝が報恩底の事に非ず。畢竟(ひっきょう)作麼生(そもさん)か是れ汝が報恩底の事。唯大法の為に辛修苦行して真の僧宝と為るの一事有る耳(のみ)。之を譬えば、厦屋(かおく)を造るが如し。真心を以て地盤と為し、志願 を以て礎石と為し、実悟を以て棟梁と為し、孜々兀々(ししごつごつ)として朝参暮請(ちょうさんぼしょう)して、歳月の久しきを厭わず、親切にして懈(お こた)らずんば、則ち他時異日、一大厦屋を成立して輪奐(りんかん)の美を極むるや、必せり。然して後、始めて真の僧宝と謂うべきなり。此に至りて、啻 (ただ)今生(こんじょう)の父母劬労の恩に報答するのみにあらず、過去百劫千生の父母劬労の恩、一時に報答に畢(おわ)んぬ。大いなる哉(かな)、明心見性の功徳。唯但(ただ)諸禅徳、二祖断臂(だんぴ)の親切、臨済純一の刻苦、慈明引錐(じみょういんすい)の激励等を憶念して、日々に修煉し、時々に体窮して、寸陰も怠ること勿れ哉(や)。古徳曰く、僧と為って理に通ぜずんば、披毛戴角(ひもうたいかく)して信施を還すと。怖るべし、慎むべし。旃 (これ)を勉めよ、旃を警(いまし)めよ。」

(禅の修行をする雲衲方よ、諸君はすでに俗縁を離れて仏弟子となったのである。生計のために産業に従事することは、もはや諸君の生きるべき道ではない。 それでは、一体どうすれば父母に苦労して養育して頂いた大恩に報いることになるというのか、言ってみたまえ。ご馳走を提供して父母を養っても、それは出家 者としての諸君の真の恩返しにはならぬ。学問に熟達して名前が知られ、それによって父母が世間から賞賛を受けても、それは出家者としての諸君の真の恩返し にはならぬ。お経や陀羅尼を誦んで、亡き父母を弔ったところで、それは出家者としての諸君の真の恩返しにはならぬ。それでは結局、どのようなことが諸君が 出家者として父母に対する真の恩返しとなるというのか。それは他でもない、ただ大法のために骨を折って苦行して真の僧宝となる、という一事(ひとこと)あるのみである。それを譬えて言うならば、立派な家屋を造るようなものである。真心をもって地盤とし、願心をもって礎石とし、実悟(悟りの体験)をもって棟 (むね)や梁(はり)として、脇目も振らずに一心に工夫三昧で四六時中を過ごして、修行の歳月が長くなるのも気にかけることなく、切実で怠ることがなければ、必ずやいつの日か、一大家屋を建造したように、人々から仰がれるような名僧となるであろう。そうなってこそ、初めて真の僧宝と言えるのである。ことここに至れば、ただ単に今生の父母の苦労の恩返しになるだけではなく、過去永劫の父母の苦労の恩を一挙に報いることになるのである。本心を明らかにし自性を徹見することの功徳たるや、何と偉大なものではないか。ただ、雲衲方よ、二祖慧可大師が臂を断って達磨大師に赤心を披歴された切実なる道心や、臨済禅師が行業純一に修行されたご苦労や、慈明楚円禅師が極寒の地で股に錐を刺して徹宵して坐り抜かれた修行態度などを思い起こして、日々に修練し、常に体究して、寸陰も空しく過ごしてはならぬ。昔の名僧が言われた言葉に、「出家して僧侶となり、仏法を明らめ得なければ、来世では生まれ変わって、毛皮をきて角を戴く獣 となって、信徒の方々から受けた布施を償うことになるぞ」とある。何と怖るべきことではないか、何と慎むべきことではないか。真の僧宝となる修行に邁進せねばならぬ。返す返すも怠惰な修行をしてはならぬ。)

 洪川老師の「亀鑑」はかくも見識高邁なるものである。これを拝読して道心を起さなければ、雲水として修行する値打ちはあるまい。願わくは、わが弟子のみならず、一人でも多くの雲衲が、この心持ちをもって法悦の修行生活を送って頂きたいものである。

 それと同時に、在家の方々も、これにまさるとも劣らぬ気概で坐禅修行に取り組まれるならば、必ずや、旧参の雲水も畏敬するような立派な居士・大姉になれることは間違いない。そうして法悦三昧の充実した人生を送って頂きたいもので ある。

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2月のコラム:「人人具足」

「時代の寵児」ともてはやされたライブドアの堀江貴文社長ら幹部4人が、粉飾決算疑惑でついに逮捕されるに到った。「お金があれば人の心も買える」と広言してはばからなかった人物のなれの果てである。
 
 聞くところによれば、彼がマスコミにもてはやされていた頃、わが子が彼のような人間になるのを願う母親が多くいたという。果してそれが本当に子供の幸せになるのであろうか。
 
 「立身出世」とはもともと『孝経』にある言葉で、「身を立て道を行い、名を後世に揚げ、以て父母を顕わすは、孝の終りなり。」(わが身を修養して立派な人物になり、人の道を踏み行い、名を後世にまで高く揚げて、それで〔あれは誰それの子であると〕父母の名を世に広く輝き知らしめる。それが孝行の終りなのだ。)(『孝経』中国古典新書、明徳出版社刊、56頁参照)という文章に由来する。子供のことを心底思う親ならば、そういう修養のできた人望のある人物に育って欲しいと、わが子のことを願うべきなのではあるまいか。
 
 今年の元日に小衲を来訪されたケンブリッジ大学の経済学専攻の或る高名な教授は、経済を利潤追求という利己的な相対性から解放されたいということを念願されて、ハイデッガーの思索を学び、ついには禅に行き着かれた。禅のことを知りたくて、わざわざご家族を伴い初来日された教授は、理論のみならず実践にも多いに関心を持っておられ、「無我の境地は頭では理解できますが、どうしたらそのような境地に到達できるのでしょうか」と尋ねられたりした。
 
 実際、相手の身になって考えてこそ、相手もその人を信用して取引も順調に行き、自らもやましいところがなく心地もよいはずである。教授が禅の無我の境地に解決の道を求められたのは、卓見であるというべきである。
     
 また、京大から文部科学省に就職が内定した或る女子学生のひとは、現代の日本における精神的荒廃を顧みて、「将来はそこで道徳教育の推進に関わる仕事をしたい」という念願を持ち、知り合いの紹介で小衲のところに「東洋思想」を学びに来られた。それ以来、「徳育」ということを自らのテーマとして、東洋の聖賢の教えを謙虚に学んで、「自分も人も共に徳を身につけるにはどうすればよいのか」を追求しておられる。
 
 「生きる拠り所がみつかったようで毎日が楽しくて仕方ありません!」とか 「自信や論語などの心の栄養といった、お金では手に入らないものを得られて本当に私は幸せです。」と嬉しい言葉を送ってくれた。彼女を紹介した学生さんも、「お蔭様で心から喜び心から笑えるようになりました。」と年賀状をよこしてくれた。
     
 これ以外にも、「いま私が劣等感におびえず前向きな気持ちで夢の実現に向けて歩みを続けることができているのは、ひとえに老師様から頂きました教えのお蔭です。」と鄭重な筆書きで近況を知らせてくれた、もと坐禅会のメンバーもいる。また、大学時代に人生の目標を見失い、無気力な生活を送っていた若者が、「心の病」になったと思いこみ、10年以上もの間に8人の著名な大学教授や心理療法家についたが癒されず、小衲の処に来てからは、いつのまにやら雲散霧消して、「もう私にはカウンセラーは必要ありません」と断言できるようになった。彼ら二人はそれほど個人的に時間をとって面談した訳ではないが、そのような心境になったのを知って、小衲もどれほど嬉しかったことであろうか。
 
 こうした報告を、今年に入って期せずして幾人もの人達から頂戴した。そのことから分かるのは、知識を教えるだけの教育では、学生達は本当に生き方の指針も得ることはできないし、人生の充実もない、ということである。だが実は、そのような道を教えることこそ、東洋の聖賢が説かれた教えに外ならない。『孟子』を読んだ女子学生が「もっと早くこの書物に出会っておけばよかったと思います。」と感激を吐露したのが、論より証拠である。

 その上に、われわれ禅僧にはとっておきの秘策がある。コラムの標題に掲げた「人人具足」(にんにんぐそく)という言葉は、「箇箇円成」(ここえんじょう)という句と共に、「人人具足、箇箇円成」と用いられることが多い。釈尊が大悟の際に発せられた言葉にあるように、どの人も如来と寸分変らぬ円満具足の仏性を持っているにもかかわらず、「妄想執着の故に」それが分からずに苦しんでいるのである。ちょうどそれは、法華経の譬えにあるように、長者(大金持ち)の家に生まれていながら、それを知らずに放浪して、「自分は貧乏だ」と思い込んで悩んでいる哀れな人と同様である。

 禅宗の初祖と言われる達磨大師は、釈尊から28代目の祖師であるが、やはりこの種の「意識の筆によって分別妄想を画いて悩む」という、人々の悩みが、「そんな妄想に実体などはないのだ」ということが分かれば、一挙に空じられて問題解決に至ることを再三述べておられる。

 小衲も、わが身の修行体験から自然にそうした対処の仕方が身につき、色んな心の問題を持ってきた人達に対して、その人を病人と見て治癒しようとするのではなく、「あなたは本来は素晴らしい存在である自分の真相が分からないから、『自分は駄目な人間だ』と否定的な自己理解(これが妄想である)をして苦しんでいるだけです。その妄想をやめれば悩みはなくなりますよ。」と繰り返し述べていると、ほとんどの人は悩みが解消して自信を持ち、顔も活き活きと輝いてくるから不思議である。

 これに対して、多くの医者や心理療法家の人達は、彼らを「病人」として扱い、投薬したり治そうとするから、余計におかしくしてしまうことになるのであろう。今年に入って何人もの人達が、「良くなって充実した日々を過ごしています」という連絡をくれて、小衲の対処の仕方が間違ってはいないことをますます確信した次第である。

 「山は山、道は昔に変らねど、変り果てたる我が心かな」という道歌がある。これは親鸞聖人がただ一人「妙好人」(在家で信心を獲た念仏者)として認めた明法房の歌である。山伏であった彼は、信者を取られた腹いせに聖人を殺害しようと試みたが、聖人の風格に打たれて、逆に改心して念仏の篤信者となった。その彼が聖人のお供をして板敷山の辺りを通り過ぎた時に、「あの時はお聖人を殺そうという浅はかな我が心であったが、いまはこのように念仏を喜ぶ身となって同じ山を見て同じ道を通っている。何と嬉しいことだ。」という感慨を述べたものである。

 「山は山、道は昔に変らねど、変り果てたる我が心かな」。心に悩みを持つ人も、どうかそのように歌える人になって頂きたいと念願するものである。

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1月のコラム 「青年と禅」

新年明けましてお目出度うございます。昨年は世間では福知山線列車脱線事故や耐震偽造問題など、やはり色んな問題が憤出した一年でしたが、皆さん方はどのように過ごされたでしょうか?

小衲にとっては、昨年はとりわけ若い人達が大勢来訪してくれて、新たな出会いに満ちた充実した一年でした。昨年11月のコラム「法悦の仏縁」でお伝えした青年達以外にも、例年12月になると、米人教授の引率で、京都の仏教系の或る大学の海外からの留学生達が、学生さん達の方から出向く「出張講義」を受けに小衲のもとにやって来るが、今年は12人の青年が集まった。その中に4人の日本人の青年がいたことは嬉しいことであった。

どういうテーマで話すのかはこちらに任されているので、気持ち良く話し続けているといつのまにか長時間が過ぎてしまうので、今回は時計を前において話したのであるが、それでもおよそ3時間があっという間に経過した。その間、彼らは実に熱心に小衲の話しに耳を傾けてくれた。禅についての知識を得るというよりも、人生に有意義な教えについて本当に知りたいという姿勢が、彼らから垣間見られた。

この大学がこのように仏教や日本文化について学びたいという海外からの真摯な若者を受け容れているのは、素晴らしいことである。しかも真宗系の大学であるにもかかわらず、禅についての講義も米人教師によってなされているようである。

小衲は禅の話しをしたあとで、真宗もまた如何に素晴らしい宗旨をもつものであるかを、蓮如上人や妙好人の源左の事例を紹介しつつお話しした次第である。まさしく「法悦」を共有したといえるひとときであった。

現在、学級崩壊が指摘され、青少年のモラルの低下が危惧されているが、仏縁のあった青年達を見る限り、末頼もしい思いを禁じ得なかったのである。それは彼らが、知識欲だけに満足せずに人生をよりよく生きるための道を素直に模索しようとしているからであろう。

 青年達だけではなく、彼らのご両親の世代も、実に多くの人達がまたそれぞれ自分の悩みや問題を抱えているのが現状である。

われわれ宗教者は、わが身のことよりも、何よりも先ずそのような人々の心の叫びに耳を傾け、解決の方向を的確に提示することができなければならない。新年を迎えるに当り、その思いを一層深くするものである。

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12月のコラム「名利と法悦」

中国の唐代、子湖山(しこざん)に住された利蹤(りしょう)禅師(800−880)は名僧南泉禅師の法を嗣がれた禅僧であるが、或る時こう唱え出された、「三十年来、この子湖に住職しているが、一日二回の薄粥の粗飯ゆえに、気力も一向にままならぬ。ただ単に山に登ってグルリとひと回りするだけの日々である。どうじゃな、時の人よ、わしのこの心境が分かるかな。」(『鉄笛倒吹』第三十五則)

これは山居の日常を述べられたに過ぎないように思えるが、その実、仏法や禅にも執われずに任運の日々を送る利蹤禅師の法悦が見て取れる。それがすり上げた向上の境地である。そこで、江戸時代の名僧奥龍玄楼禅師はこの言葉を評されてこう言われる、「自分の法悦三昧の境地をさも自慢げに披露する子湖和尚よ、貴僧はそれほどまでに快活極まりない日々を送っておられたか。しかし、そうは言っても、この蓮蔵海玄楼の手のうちにある痛棒を喫することは免れ難いぞ。どうしてかと申せば、わしのように腹のどん底まで見通す知音底(ちいんてい)の人間が出て来るということを貴僧がご存知無かったからじゃ。」

この公案に対する玄楼禅師の偈頌がまた興味深い。「興に乗じて登る、屋後の山、白雲処処清閑を伴う、箇中の歓楽極まり無しと雖も、他の世俗の為に頒(わか)つに耐えず」(思うがままに興に乗じて屋後の山に登れば、白雲があちこちのどかにたなびいている。これ以外に迷うべき煩悩も求むべき菩提もなく、禅道・仏法など微塵もない。ただこれこれ。これ仏法丸出しのところ。かような山居の暮しはこの上も無き法悦の日々であるが、その境地を世俗の人には分けてやりたくともできぬ。知りたければ我が身で骨折って自知する以外にはないぞ。)

利蹤禅師といい玄楼禅師と言い、何という素晴らしい境涯であろうか。玄楼禅師の最初の批評(これを拈弄という)は言葉の上では利蹤禅師を批判しているように見えるが、実は琴瑟(きんしつ)相和して奏(かな)でるが如き妙味がある。それ故に、玄楼禅師の法嗣(はっす)の風外本高禅師は、「相識に逢うが如し」(まるで知り合いに出会ったような趣がある)と下語(あぎょ)されている。

禅者には、無所得・無所住の法悦がある。この無価の珍宝の醍醐味を一旦味わった者は、最早名利などは眼中になくなるはずである。越後の片田舎の草庵の侘び住まいで一生を終えられた良寛和尚がずば抜けた境地に達せられたことは、漢詩などを拝読すれば容易に伺うことができる。和尚は特にこの名利の念に対して厳しく注意を喚起している。
「たとい気が立っていて危険な子持ちの虎の群れの中に入ることがあろうとも、名利(地位・名誉や利得)の路に迷い込んではならぬ。名利の念がわずかにきざせば、大海の水をもって洗ったとしても、断じて洗い清めることはできないからである。」と「僧伽(そうぎゃ、僧侶達の意)」と題する漢詩の中で言い切っている。事実、良寛和尚は兄弟子の玄透即中和尚が永平寺の住職に就任した後は、その近辺を通過する際には永平寺を避けて通ったと伝えられている。

わが先師森本省念老師も、「師家の真偽を見抜くのは造作もない。名利の念があるかどうかで分かる。」という意味のことを申されている。とはいえ、そうした堕落した僧に憤慨してばかりいても仕方のないことである。
先日、或る西洋人が来訪して現今の日本の僧侶の堕落を憤慨して止まなかったので、「それで君は果して自らの法悦を育てているのか。目を外に向けて他人に対する不満ばかり並べ立てていては、肝心の自己の充実が得られるものではない。」と忠告した次第である。

祖師方の語録を拝読すると、いずれも刻苦して修行に勤(いそ)しまれた行履(あんり)が述べてある。坐禅会で目下提唱中の高峰原妙禅師の如きは、三年の「死限」を立てて修行に励まれた。法語の内容も実にすさまじいものがある。こうした芳躅(ほうちょく、先人の貴い行ない)を見て、「自分にはとてもそのような苦行はできない」と尻込みしたり退却したりする人が数多くいる。

しかし、祖師方が厳しい修行に堪えることができたのは、ひとえにそれがこの上もない法悦の行であったからである。祖録を拝読すると、行間から法悦が垣間見られるし、小衲自身のささやかな経験に照らし合わせてもそのことは断言できる。「自分には一向にそのような修行の悦びが感じられない」という人は、骨の折りようが足らぬのである。全身全霊で取り組めば必ずや法悦の三昧境が手に入る。
「ただ自ら怡悦(いえつ、法悦を体験)すべし。持して君に贈るに堪えず」
(『寒山詩』)である。

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11月のコラム「法悦の仏縁」

小衲の知り合いに、近所にお住まいの70代半ばのご婦人がおられる。この方は若い頃に言語に絶する辛酸をなめられたが、それを乗り越えて、親孝行な息子さんご夫妻やお孫さんに囲まれて現在は幸せな生活を送っておられる。

クリーニング屋さんをやっておられたが、リュウマチになられて手の不自由を感じられ、何年か前に店仕舞いをされた。当時顧客の一人であった小衲は、大変不便を感じることとなった。病名をお聞きして、リュウマチに効く薬や療法はないものかとインターネットで検索して、アマゾンの先住民がリュウマチに使用していたというチュチュワシという薬を取り寄せたりもしたが、結局は特製の「小豆ジュース」(小豆三合・干し椎茸15枚・切り干し大根3分の1袋・玄米半カップを圧力鍋で炊いて柔らかくしたものを、水を加えてミキサーにかけてジュース状にしたもの)が一番効いたようである。

最初は病気のせいでおぼつかなかった足取りが、次第に元気になられて、いまは毎朝近くのお寺まで散歩したり、自転車などにも乗られるようになるなど、驚くほど回復されたのである。(この特製ジュースに関しては、これまで何人もの人からお尋ねがあったので、ここで製法をお伝えした次第である。)

ところが、折悪しくご主人が病気で寝たきりになり、ご自分もリュウマチを抱えた身でありながら、ご主人の介護を率先してされるようになった。小衲も師匠介護の経験があるが、これはかなりの重労働である。ところが、このご婦人はその介護の合間をぬって、図書館に通って定期的に何冊もの宗教書を貸し出し、真宗の阿弥陀仏の慈悲深い教えに触れて、法悦の日々を過ごされる人となった。以前からも、小衲が差し上げた『沢水法語』や家康公論などを何度も読み返しておられたとのことである。

「『浄土三部経』が手に入りませんか」と問われたが、なにぶん大部のものなので、それを要約した書物を取り寄せて、蓮如上人のお文などと一緒に持って参上したが、非常に喜ばれてすぐさま読了してしまわれたのには、こちらが驚かされた。3日に1冊は読まれるそうである。
最近、小衲の恩師・森本省念老師の道友であられた蜂屋賢喜代師の『正信偈講話』をお貸ししたところ、「とてもよい本で」と言われて、満面の笑みをたたえ、法悦のかたまりになっておられた。

大変であるはずのご主人の介護をマイナスに考えることなく、かえってそれによって仏縁を深めて行かれた態度には、多いに学ぶべきものがある。そのご婦人の笑みを見ていると、こちらも心の潤いを感じるが、これが真宗で言う「往相即還相(おうそうそくげんそう、自分の心境を深めることが期せずして他人の教化になる)」ということかと、有難く頂くのである。

さらにまた、真宗系の大学生で禅僧になりたいと訪ねてきた青年と一緒に、彼の卒論のために『因幡(いなば)の源左』という類い稀な妙好人の言行録を拝読しているが、この心読によって彼は「これまで経験したことのない心境になりました」と喜んだ。すべてを「真受け」していく青年の純一な態度には、こちらも心を純化される。4時間程の勉強を終えて帰る頃には、いつも彼の顔が素晴らしい輝きを放っているのを見て、こちらもまたえも言えぬ法悦を感じる。

それにしても小衲より60歳年長の森本老師が、「禅僧も念仏はせずとも、念仏に対する理解は必要だ」と言われたことが、いまさらながらにうなづけるのである。

さらに、天下国家のためにお役に立ちたいと念願し、そのためには東洋精神の体得が何より肝要であると英国留学中に気づいた青年と一緒に、家康公が最も貴ばれた『孟子』を一緒に学んでもいる。聖賢の教えの根本的体得が現今の学校教育では明らかに欠如していることを痛感すると共に、彼はますます東洋精神の深さに感嘆して、これからも小衲と連絡をとって研鑽を積んで行きたいという希望を吐露してくれた。この勉強もまた時が経つのを忘れるほどの法悦の時間である。

また、先月のコラムで申し上げたオランダ人の青年は、禅の専門道場で修行をしたいとのことで、居士身のままで京都御所の近くの相国寺専門道場に入って懸命に修行中である。彼は母国の大学院で『臨済録』を学んだが、単なる学問的究明に飽き足らずに日本での本格的な禅修行を志したのである。彼が送ってきた手紙には、「私が日本に行くのは実践のためであり、仏教の学問的研究のためではありません」と、その道心の程が披歴されていた。それはまさしく臨済禅師が歩かれたのと同じ道である。

また、以前のコラムで述べたように76歳の米人哲学者はますます法悦の醍醐味を享受しているようで、2,3日に一回は小衲のところに悦びの声をメールで送ってくれる。「居士号を頂けないでしょうか」という彼の要請に対して、小衲の頭に直ちに「悦峰(The Peak of Dharma Joy)」という名が浮かんだので、それを色紙に書いて米国にいる氏のもとへ送付したのである。

一年以上前から雛僧教育を授けている弟子は、中国の元代の名僧(高峰原妙禅師)の難解な語録をかなり読めるようになり、日常の一挙手一投足も洗練されてきたように思えるが、まだまだ向上して欲しいので、師としての立場からは決して誉めることはしない。早く師匠まさりになってもらいたいという願いの切なるものがある。もとより道心・菩提心の養成が最重要事なのは言うまでもない。

上に述べた方々以外にも、坐禅会のメンバーとして長年に亙り禅に真摯に打ち込んでこられた旧参の方々もあり、websiteをご覧になって新たに来訪する人の数も、ますます増加の一途を辿っている。

誠に有難い衆生縁であるが、これを「法悦の仏縁」と言わずして何というであろうか。願わくは上記の方々(特に青年達)も、自分一箇の安心だけではなく、他の人々に安らぎを与えるような人物に育って頂きたいと願わずにはおられないのである。

(なお、匿名の「掲示板」は閉鎖しました。ご質問・ご感想などがあれば、ご自分の名前を名乗られて、作者へ直接ご連絡頂きますことをお願い申し上げます。英語版のwebsiteに関しては、すでに何人かの欧米人の方々とそのような仕方で詳細なやり取りをして、お互いに有益な機縁となっております。ただ、お詫びしなければならないのは、こちらのアカウント設定の不具合で、作者あてにこれまで送ってこられたメールの中で拝見できなかったものがあるらしいということが分かりました。知人のご指摘によって初めて気づいた次第で、お送り頂いた皆様には深くお詫び申し上げます。)

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10月のコラム「巴陵禅師のもうろく禅」

『鉄笛倒吹』という曹洞宗系の百則の公案集がある。江戸時代の名僧である奥龍玄楼とその法嗣の風外本高との共著である。その二十二則の「巴陵密付」は興味深い公案である。

巴陵(はりょう)禅師は、「名僧列伝」でも述べた雲門禅師の有力な法嗣である。この巴陵に或る僧が「(石頭禅師作の『参同契』の語を引いて)『東西密に付す』とはいかなることですか」と尋ねた。すると巴陵は「それは『信心銘』の言葉ではないか」と、別の著作を挙げた。僧は「いえ、その言葉は『參同契』にあります」と言い返した。そこで巴陵は言った、「わしはどうも最近耄碌(もうろく)したわい」。

この僧を評して、玄楼は「この僧は鼻をねじ上げられたのも分からぬ情けない奴じゃ」と言っている。頌古は極めて格調の高いものである。曰く、「面上春を帯び、華岸を挟み、心頭夜に当って棘(いばら)天に參わる。言中響き有り、聞くや還(また)否や、畏縮実に催す老耄(ろうもう)の禅。」
(「信心銘にあるのではないか」と言われた、その穏やかな顔つきは、まるで花が両岸をはさんで咲いているように柔和であるが、「最近耄碌したわい」と言われたその心根は、暗夜のイバラのようで、危なくて寄りつけぬ。この「耄碌したわい」という言葉を鵜呑みにしてはえらいことになる。この語、実にゾッとして身も心も縮み上がるほど恐ろしいところがあるぞ。)

もとより巴陵禅師が『參同契』をご存知ないはずがない。僧に対してわざと間違えたことを言って、「わしは耄碌したわい」と言われた下心はどこにあるか。それは他でもない、分別に執われているこの僧の分別心を根こそぎにせんとする大慈悲心の発露なのである。

この僧は自分自身に確固たる体験を欠いているので、知識分別をもってしか理解できない。だが、達磨大師も繰り返し強調されているように、分別的理解によってどのような精緻な法理や高邁な理論を説き得たとしても、それは実のところ単なる「妄想」に過ぎない。巴陵禅師の手厳しい対応も、そのことを僧に思い知らせんがための親切な活作略(かっさりゃく、いきいきした働き)である。

禅に参ずる人のみならず、この自らの「分別」によって自縄自縛に陥っている人が、世の中には実に多いように見受けられる。問題は実は自分の外にあるのではなく、自らの分別的態度のうちにこそある事に気づいて、自己を変革することである。

職場の苛酷な労働条件や対人関係などで苦労されている方々が、このwebsiteを見て、魂の救いを求めて遠路はるばるやって来られる。まことに無理からぬこととお気の毒になるが、それだけに何とかその苦境から脱却して頂きたいものと、「無の工夫」をお勧めしている。

この工夫によって期せずして分別心が脱落して、無我・無分別の境地が開かれてくる。この工夫をお勧めした人の中には、「なかなか工夫が乗って来ません」という人もあるが、そういう妄想が出て来るのは、工夫に邁進していないからである。暇さえあれば「無ー、無ー、無ー」と無になり切る工夫をすれば、えも言えぬ法悦が自然に感得できるはずである。

最近、ほとんど同年代の三人の青年が、偶然にも、「websiteを見てやって参りました」と言って立て続けに来訪してくれた(ひとりはオランダ人である)。彼らはいずれも熱心で前途有望な好青年である。

変な先入見をもたぬ若い人達は、乾いた大地に慈雨がしみ込むように、こちらの言わんとすることを実に素直に真受けにしてくれるので、法悦の空気が自然に醸(かも)し出される。このような人々がいる限り、このサイトの立上げも大いにやりがいを感ぜずにはいられないのである。

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9月のコラム「無我と平和」

英語版のwebsiteを立ち上げてから、或る西洋人から、「ここでは儒教や神道が、禅とその根本経験を同じくするようにして掲げられているが、儒教や神道と、禅ないしは仏教とは、一線を画する別の教えではないか」という指摘があった。日本人にもそのような感想を述べる人がいる。

また「禅と東洋の心」という標題でありながら、軍事問題に再三言及しているのを怪訝(けげん)に思う人もあるようである。そこで今回はこの問題について小衲なりの考えを申し上げたいと思う。

まず、軍事問題を取上げるのは、先の大戦に際して宗教者があまりにも無力であったばかりか、自ら戦地に赴いて戦った経験のある禅僧や老師方を、小衲は何人も直接存じ上げているからである。或いは外地にまで出向いて日本兵を鼓舞した老師もいたようである。

世界平和に尽力すべき宗教者が戦争に加担するに至ったのは、ぬぐい難い汚点ではないか。当時の情勢からはやむを得なかったという向きもあろう。だが、米国相手の無謀な戦争で三百万人以上もの人達が亡くなり、東洋の諸国をも戦禍に巻き込み、祖国は未曾有の壊滅的打撃を受けたのである。未だ東洋諸国の怨念が清算されてはいないことは、昨今の情勢を見れば理解されることである。

祖国が道を誤り、二度とあのような悲惨な戦争を起すことのないように、宗教者は微力なりとも分に応じて努めるべきではないであろうか。

戦後のわが国にとっては、米国が最重要国であるのは論を俟(ま)たない。その米国がその圧倒的軍事力を背景に覇道(はどう)の道をひた走るのを危惧するのは、当然のことである。

今回、「徳川家康公の仁政」の英訳英語版のwebsiteに載せるに当り、幾人かの欧米人に校正を依頼したのであるが、彼らは異口同音に家康公の寛厚無比な人柄に痛く感激の言葉を述べたのである。

中でも76歳の米人老哲学者は、「私はあなたの家康公論に深く感動させられました。 本当に、世界(特にアメリカ!)は、リーダーにそのような古典を学ばせるのが必要であるように思います。残念ながら、私達西洋人は(権力を得るためには手段を選ばぬという)マキアベリによって鼓舞されたので、リーダーには陰険で良いうそつきであることを求めているだけです。 何か大乗禅のようなものがそのような愚かさの究極の療法となると思います」と感想を伝えてくれた。

彼らにとっては、東洋的精神によって培われた家康公の仁愛・大度量の風格は、まさしく目から鱗(うろこ)の観があったであろう。

また、禅以外に儒教や神道にも言及することに関しては、例えば、山岡鉄舟の参禅の師であった天龍寺の滴水禅師の『逸事』(35頁)には、「禅と論語」と題して、「師、白隠禅師の語であるとて、常に侍者に告げらるるには、『論語は儒家で真によい書物だ。もし論語一部を見得して徹せなければ、未だ禅門の作家(さっけ、熟達者)とすることはできない』と」ある。

鉄舟も神・儒・仏を一貫する大道こそ「真の武士道」であるとして、その大道の根源を「無我」に求めている(『武士道』)。

さらに、中国元代の名僧である高峰原妙禅師も、孔子や顔回の「楽しみ」なるものが、他ならぬ「無生真空の楽」(『高峰大師語録』四十一丁裏)であると明言しておられる。

根本の経験から見れば、諸道がその根本を等しくすることが明確に理解できるし、仏教の諸宗派の教えも有難く頂くことができる。良寛和尚が「わしは雑炊宗だ」といったのはこの意味であろう。

ひとりでも多くの方が、東洋精神の比類なき素晴らしさを再認識して、世界平和が到来することを願わずにはおられないのである。

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7月のコラム「不請の友」

今月のコラムの標題は「不請(ふしょう)の友」(請われざる友)である。

この言葉は、仏教経典である『維摩経(ゆいまきょう)』、『無量寿経』、『勝鬘経(しょうまんぎょう)』などに出ていて、「たとえ人々から請(こ)い願われなくても、慈悲の心をもって自ら進んでその人々の友となって、人々の問題をわが身自身の問題として引き受けて解決し、人々を苦悩から解放することを使命と心得る人」のことである。禅宗などではあまりこの言葉が使われぬようであるが、これこそ仏・菩薩の大慈大悲の境涯である。

京都での月二回の坐禅会に参加を希望する人が、最近加速度的に増えてきている。

「無になりたい」と言って参加された女性の二人連れがおられる。「無になる」というのは、今は一種の流行になっているそうである。それだけ悩みや雑念を解消したいという人が多いということであろう。

会社勤めの身で、利潤追求という一大目的のために日々奮闘されている人達も、それだけでは何か心底から納得できないかのように見受けられる。実業家の道を歩むことで人格修養(これを翁は「実学」と呼ぶ)ができるという恰好(かっこう)の模範を、かの渋沢栄一翁がすでに示されていることは、以前のコラムで述べた通りである。

たとえば、翁は、人を採用するに際して、知恵のある人よりも、親兄弟を大切にする人情に厚い人を選んで採用すると、まず安心して使うことができ、決して不始末を起す心配はないと説く(『孔子』知的生きかた文庫、三笠書房、十五頁参照)。

そしてご自分の接客態度を、「私は誠意を披歴して客に接し、偏見を持たずに人と会見する。決して人を疑わずに、誠を持ってすべての人を待つのが私の主義である。病気とか支障でもない限りは、決して面会を謝絶せず、来訪者にはどなたにでも必ずお目にかかることにして、門戸開放主義をとっている」(同上書、四十八頁)と言われている。これは翁の如き、大実業家の言としては誠に驚嘆すべき態度である。

だが、最初に掲げた「不請の友」という仏教的行き方は、請われなくても進んで人の問題を担うという点で、さらに向上の境涯であるように思われる。

たとえ修行してわが身自身の問題が解決できたとしても、それで事足れりとする人は大乗の行者ではあるまい。「無我」に徹することができた暁には、他の人の問題をも差別することなく「わが問題」として引き受けることができるはずである。

小衲も及ばずながら、志だけはそのように保持していたいと日頃念願しているが、まだまだ至らぬことが多くて慚愧に堪(た)えない。

ただ、断言できるのは、色んな方のご相談に乗ることが決してマイナスではなく、えもいえぬ法悦のひとときをもたらすということである。こちらから誰彼の別なく「よろしければどうぞ」と声をかけているので、これからますます来訪者が増えそうな予感がある。

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6月のコラム「薫陶」ということ
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最近、個人的相談で来訪した三十代の男性が、「薫陶(くんとう)」という言葉をメールで使ったので、大いに感銘を受け、そうした言葉を使用した彼の人柄を称揚したのである。

この「薫陶」という言葉は、恩師・森本省念老師が用いられ、小衲の脳裏に刻みつけられていた言葉である。

「薫陶」とは、「薫化陶冶」の意味で、「香を焚いて香りを移し、土をこねて陶器を造るように、徳や人格で人を感化教育して立派な品性を作ること」である。

例えば、中国宋代の大儒者である程明道伝には、「今どきの民衆で、子弟の教育に心を尽くす者は、必ず徳のある人格者を招き、その人と一緒に生活させることによって、『薫陶』して子弟の素質を大成させる」とある(白川静『字通』383頁、参照)。

単なる知識の伝達だけでは、「薫陶」ということが可能とはなるまい。「生活を共にする」ということがとりわけ重要である。日常生活の身を以てする無言の説法により、師たる人の「気韻」(きいん、風格や気品)に触れて、思わず知らず人格が錬磨されるのである。

この「気韻」という言葉も心に残る言葉である。幕末の南画家で、渡辺崋山の師匠であった谷文晁(ぶんちょう)は、常に机上に張り子の虎を置いて見るのを楽しんでいたという。 門人がその理由を尋ねると、文晁は「この虎はいつもわが思うがままに首を左右に振って、他人が口出ししようが少しも頓着しない。文人墨客たるものもこの気韻がなくてはならぬ」と言うと、門人達は「心に常に修養に努めている人は、森羅万象をみなわが師とするというが、それはまさしく先生のことだ」と感嘆して止まなかったという(『想古録』1,平凡社・東洋文庫、222頁)。

教育界においても、明治・大正・昭和初期を生き抜いた方々の逸話を拝読すると、「薫陶」と呼ぶに値する師弟関係が随処に散見される。

小衲が親しく薫陶を受けた片岡仁志先生(京大教育学部名誉教授)は、京大で独創的哲学者の西田幾多郎先生について哲学を学ばれる以前から、すでに禅に参じて見性了々の眼を具えておられ、遂には相国寺の無為室大耕老師に嗣法された、「現代の維摩居士」とも称すべき類い稀なる人格者であられた。独身を貫かれたが、出家はされずに生涯を教育者として生き抜かれた。

その決断のもととなったのは、恩師・小西重直(しげなお)先生の「捨て身の教訓」によるものであった。片岡先生に頂戴した抜き刷りの「小西重直教授の生涯と業績」(教育学部紀要第4号所収、1958年)は、恩師に対する先生の満腔(まんこう)の報恩の赤心が披歴されている。

小西先生の部長室に呼ばれて沖縄女子師範学校の校長を紹介され、思いがけず鄭重な来任要請を受けられた片岡先生は、その夜に校長を旅館に訪ね、「2,3年でも構わないということでしたら」と切り出すと、校長は「それでも結構です。是非お越し願いたい」と応じた。
当時の先生は、「教師となることは学問片手のアルバイトぐらいにしか考えていなかった」と正直に述懐しておられる。

翌朝、小西先生のお宅に伺い、その経緯を申し上げると、日頃は温厚な先生が打って変わって、「君はそんなことを校長に言ったのか!私はもう君を推薦できません!」と一喝され、さらに「何故沖縄の土になる決心で行けないのか!教育はその土地の土になる決心がつかなくては出来るものではない!」とのお言葉であった。

片岡先生は「まことにわれ過(あやま)てり、という悔恨の情、慚愧の念に襲われた。教育がかくも厳粛な命がけの大業であると言うことをこの時初めて骨髄に徹して思い知らされたのである」と告白しておられる。

沈黙の時がしばらく流れ、「誠に慚愧に堪えません、沖縄の土になるつもりで参ります」という先生の返事を聞いて、小西先生は「そうか、その決心がついたか、よかった、よかった」と手を握らんばかりに喜ばれたということである。

「官命によって幾度か学校を変らされたが、いつも私にとってはその学校が唯一の死に場所であった」と述べられた片岡先生は、この時の恩師の「捨て身の教訓」のお蔭で教育界に身を置くことを決断されたのである。

恐らく小西先生が片岡先生を沖縄女子師範学校教諭の職をお世話されたのは、先生が真の教育者たるにふさわしいと見抜かれたからであろう。「弟子を見ること師に如(し)かず」というが、師弟の情愛の濃(こまや)かさは、その当人ならでは伺い知れぬものがある。

わが身の恥をさらすことになるが、実は小衲も京都の建仁寺僧堂修行時代に、湊素堂老師から骨身にこたえる痛棒を頂戴した思い出がある。
当時の老師はすでに七十歳を越えておられた。老師のお世話係の隠侍をしていた時のことである。

或る日、薬石(夕食)を持って参上すると、老師はぬい針で法衣を繕(つくろ)っておられた。「あれ、老師が把針(はしん、僧堂では繕いをするのをこう呼ぶ)をしておられる」と思った途端、「お前、何を見ているんだ。さっさとお膳を置いて引き下がらんか」と語気鋭く言い放たれたのである。

薬石が済んだ合図のベルで再び参上するやいなや、老師は実に厳しいお顔をして、「わしは先師・古渡庵老師に繕い物などさせたことは決してなかったぞ」と、実に骨随に徹するお言葉を頂戴した。わが身の至らなさに恥じ入り、一言の言葉も発することが出来ずに、小衲はただ黙してひれ伏すほかはなかった。

毎日の朝課出頭(朝の読経)で使用される法衣が綻(ほころ)びやすくなっているのは当然のことである。多忙な隠侍が老師の普段使いの法衣の綻びをいつも点検するのは難しい。老師がご自分の法衣の綻びを見つけられたとしても、「これを繕うように」などとは決して命令されるはずがない。

禅では「徳を損(そこな)わぬ」ということを尊ぶからである。老師もご自分で東司(とうす、お手洗い)や浴室を掃除され、洗濯なども決して隠侍にさせられたことはなかった。
繕いをされているお姿を見て間髪を入れずに、「老師、綻びに気づきませんで誠に申し訳ございませんでした。私がいたします」と即座に申し上げるべきであったと反省されるのである。

老師の師に当る、当時88歳の竹田益州老師の隠侍をした時にも、役目が終る最後の日に、老師に「本日が最後ですから、どうぞ按摩(あんま)をさせて頂きとう存じます」とお頼みして、連日の草引き作務(さむ)でお疲れであろう老師のお背中を按摩させて頂いたが、ものの十分もたたぬうちに、「もう結構です。ああ、極楽です、極楽です。もう結構です」と言われて、それ以上させられなかった。

管長様のような高徳なお方ですら、なお「徳を損う」ことを怖れておられることを身にしみて感得して、小衲はこの道の尊さに身の震える思いであった。

これが小衲が経験した「薫陶」の一端である。現在自分も弟子を持つ身になって新たに分かったことがある。「薫陶されるのは弟子だけではない。師たる者もまた弟子によって薫陶を受けるのである」ということである。

ともあれ、素堂老師に受けた大喝の痛棒の痛みと有難みは、今に至るまで続いている。恐らくは一生忘れることが出来ないであろう。

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5月のコラム「無我の真実」
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京都でのわれわれの坐禅会は、原則として月に二回(第二と第四日曜日)開催しているが、ちょうどその同じ日に南禅寺本山でも南禅院で坐禅会を早朝の6時(季節によっては6時半)から開いている。われわれがまだ本山の境内の掃き掃除をしている時に、家族連れや若いカップルなどが、早朝にもかかわらず、実に熱心に坐禅会に参加して来る姿を見かける。まことに有難い光景である。

人々がそのようにせっかくの休日を返上してまで坐禅に勤(いそ)しむのは、一体どういう理由からであろうか。
中にははっきりした悩みや問題があって、その解決を求めて坐禅に来る人もあるであろう。だが、大多数の人は日常生活に何かしら満ち足らないものを感じ、心の充足を求めてやって来るのではないか。日常生活の底に潜むこの「安らぎのなさ」は、そもそも何に由来するのであろうか。

それに関して、いま坐禅会で小衲が提唱中の達磨大師の語録では、「何故に凡夫は悪道に堕するのか」という問いに対して、達磨大師は次のように述べられている。

『「我」があるがために痴(妄想・誤った理解)となる。人が地獄に堕ちるような苦しみを受けるのは、「我」が実体として有るかのように妄想分別し、悪いことをすればその報いを「我」が受け、また善いことをすれば「我」も善い功徳を受けると思うがためである。
もともとすべてのものは縁によって生じ、これといった実体がない無自性・空というのが真実の姿であるのに、それを実体として有るように思って執着するがために、色々な悩みが生じるのである。それこそ悪業というべきである。』

この達磨大師の見識はすべての真正の禅の祖師方に共通するものである。仏教の開祖の釈尊もまた、「およそ無常で苦であり、移り変わる身体(色)を、『これは我であり、我の本体である』などと言い得るであろうか」(相応部経典、「無常」)と言われて、ほとんどの人が実在すると強固に思い込んでいる「我」の妄見を打破して、「無我」こそがわれわれの真実相であると明言されている。

「我」という有り方に固執する限り、心の底からの安心立命はありえない。無数の問題はわれわれが「我」にもとづいて考え、行動することに起因する。「我」こそはまさしく悩みの根本・諸悪の根源というべきものである。 「我」に執着するから、わが思惑を押し通して他人と衝突したり、自分独りの世界に閉じこもって八方塞がりになったりする。実にさまざまな方々が小衲のところに相談に見えられるが、種々の問題の抜本的解決は我執を離れること以外にはないことを、いつも痛感させられるのである。

これは何も個人だけにとどまらず、国家もまたその通りである。

日本の旧悪を事実以上に誇張して自国民に教え込み、日本の首相や日本国を侮蔑して乱暴狼藉の限りを尽くすという、最近の中国の現状には、国家としての我執が見て取れる。
日本もまた、先の無謀な大戦を引き起こし、彼我の国民に多大の苦しみを与えたことへの、謙虚で冷静な分析と反省が求められることは言うまでもない。

個人にせよ、国家にせよ、わが身を空しくして相手のことを先ず思いやる、「仁」や「無我」という聖賢・仏祖の根本精神が不可欠であろう。
そのためには、何もわざわざ「無我になろうとする」ような余計な計らいは不要である。もともとわれわれは「我」という実体などない「無我そのもの」なのであるから、その根本的真実を徹見すれば良いだけである。

この単純明快な東洋精神の醍醐味を、一人でも多くの人に味わって頂きたいものである。

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4月のコラム「戦々競々」
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最近はカリスマ経営者と言われた人達が凋落する例が、幾度となく見受けられる。
大企業に勤めている人達からも、現今の企業トップの人は、かつて創業者が有していた高邁な志を忘却したように見える人が多い、という話をよく耳にする。

これに関して、またまた『韓詩外伝』で恐縮であるが、その中に孔子の恰好(かっこう)の教訓が伝えられている(巻の七、七丁の裏)。それは「明王」、つまり賢明な国王に関してのことであるが、いずれの分野の頂点に立つ人にも該当することだと思われる。

孔子は言われた、「賢明な王には三つの恐れがある。一つには、尊い位に就いて、わが身の過ちを聞くことがなくなることを恐れる。二つには、目標をやり遂げてわが身が驕(おご)りを生じることを恐れる。三つには、人としての正しい道を聞いても実践することができないことを恐れる」と。

これに関して、『韓詩外伝』の著者である韓嬰(かんえい)は次のように述べている。
昔、越王勾践(こうせん)は呉王夫差に打ち勝って即位した際、「わが過ちを聞いてわれに告げない者は殺害する」と臣下の者達に通達したのは第一の恐れである。
昔、晋の文公は楚(そ)の国と戦って大勝した後で、憂いに満ちた顔つきであったので、近侍の者がそのわけを尋ねると、文公は、「戦いに勝って心安き者はただ聖人だけであり、詐(いつわ)って勝った者は危ういと聞いている。それで憂えているのだ」と応じたが、これが第二の恐れである。
昔、斉の桓公が管仲・隰朋(しゅうほう)という側近を得て即位した際に、「この二人を得たことで、わが目も耳も聡明さを加えることができた。独断専行は決してすまい」と言い切ったのは、第三の恐れである。

そして韓嬰は、この三種の恐れは賢明な君主としての勤めであるとして、「戦々兢々(せんせんきょうきょう)として深淵に臨むが如く、薄氷を踏むが如し」という人口に膾炙(かいしゃ)した『詩経』の一節を引用している。

 「戦々兢々」としてわが身に落ち度はないかと常に反省熟慮すべきであるのは、何も国王に限らない。企業や組織のトップに立った人はどうしても驕りがちである。他方、上になるほど謙虚に行動する人には人望が集まるはずである。

かつて五百にのぼる会社を設立し、日本近代資本主義の礎を築いた、かの渋沢英一翁(天保十一年ー昭和六年、1840−1931)は、『論語』を規範として企業経営や日常万般の行動の修養に努めたことで知られている(『論語を活かす』明徳出版社、参照)。
「最後の将軍」・徳川慶喜公を明治になって経済的に支援したのも翁である。

翁の実例は、孔子聖人の言動を模範とすれば実業家も上(かみ)にいても傲慢にならずに済むことができるという、好箇の見本である。

現今のわが国の政財界の指導者達が、肚(はら)が坐っておらず、いかにも器量が狭くて皮相的に思われるのは、渋沢翁のように聖賢の教えに謙虚に耳を傾け生活の規範とすることをしなくなったためであろう。
家康公も言われた通り、父祖を軽視する者は滅びるのが歴史の通例である。日本・東洋の先賢に学ぶことを忘れ果てた日本人の前途が危ぶまれてならないのである。

最後に渋沢翁の次の言葉をご紹介して結びとしたい。
「『論語』二十篇は人道の要旨を網羅した金科玉条で、世に処し道を誤らざらんとする者には、最も適切なるものにして、これに優る教訓はなかろうと思う」(前掲書、52頁)

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25、「顔回の願い」(2005年3月)

中国前漢初めの韓嬰の『韓詩外伝』(宝暦九年版、巻七、十三表)に見える逸話であるが、孔子が三人の弟子を伴われて高い山に登られたことがある。

そこで孔子は「君子(有徳の人)は高い所に登れば必ず願いを述べるというが、君達弟子の願いはどういうことか、ひとつ言ってみよ。この私が啓発してあげよう」と切り出された。

最初に子路が、前後で敵国に挟まれて国が窮地にあれば、武力を用いてこの難を救いたいと申し上げると、孔子は「まことに勇士というべきだ」と言われた。次に子貢(しこう)が、少しの武力も用いることなく説得してこの両方の敵国の災難を解消したいと申し上げると、孔子は「まことに弁士というべきだ」と称讃された。

一番の愛弟子の顔回(顔淵)は遠慮してなかなか願いを披歴しなかったが、孔子に促(うなが)されて遂に口を開いて言った。
「願わくは小国の大臣となって、君主は道で導き、臣下は徳で教化し、君臣が心をひとつにして国の内外の事に対処したいものです。そうすれば、列国の諸侯で風になびくが如くその道義に従わないものはないはずです。
壮年の者は走って集まり、老年の者は助けられながらもやって来るでありましょう。その教えは万民に行われ、徳が四方の未開の諸外国にも行き渡ります。兵力を解いてわが都に帰依しない国はなく、天下はいずこも久しく泰平となります。生きとし生けるものがおのおのその本分の有り方を楽しむが如く、適材適所に賢者を登用して能吏を使います。
そうすれば君主は上(かみ)にいて安泰で、臣下は下(しも)にいて和合致しましょう。腕組みして何もしなくて(垂拱無為〔すいきょうむい〕)も、やることなすことみな道に合致し、礼にかないます。(人のなすべき道である)仁義を言う者は尊ばれ、(人の道に反した)戦闘を主張する者は死ぬことになります。 一体、子路は何を進んで救うといい、子貢はどんな災難を解消するというのでありましょうか」

孔子は言われた。 「顔回はまことに聖士というべきだ。大人物が現れれば小人は隠れ、聖者が立ち上がれば賢者はうつむいてしまうというが、顔回と一緒に政治を執り行うならば、子路や子貢などは能力を振う余地はなくなるであろう」
そして、『詩経』の「いくら雪が降ろうが、お日様が出ると消え失せてしまう」という句を引用して、ちょうどそれと同様であると、この節の最後が締めくくられている。

多少長きに失することを覚悟の上でこの逸話をご紹介したのは、他でもない、顔回のこの高邁な見識の素晴らしさを味わって頂きたいがためである。顔回のこの願望が理想的に過ぎるという人は、元田永孚(もとだながざね)編『幼学綱要』を読んで頂きたい。道を体して相手を説き伏せた例がいくらも出て来る。

例えば、唐の段秀実は、汾陽王の郭子儀(かくしぎ)の息子の子晞(しき)の兵達が、民衆に対して乱暴狼藉の限りを尽くし、遂には殺人にまで及んだので、これを成敗した上で、子晞に対して「あなたの父君の勲功は大したものですが、しかしあなたの部下がやりたい放題の乱暴を止めなければ、父君にも禍(わざわい)が及び、郭氏の功名(こうみょう)も危うくなりますぞ」と諭(さと)した。その言葉が終らぬ先に、子晞は「貴殿は有難いことに道をもって私を教導されました。どうして命に従わないことができましょうか」と素直に服したという。
結局、この段秀実は非業の死を遂げることになるが、後に柳宗元(りゅうそうげん)はその人格を讚えて「段大尉逸事状」(『唐宋八大家読本』巻九所載)をものした。

肝心なことは、「道」(天道にして人道)に則って行動すれば、徳や人望が自然に集まり、人々も国々も喜んで自発的に帰依する(「悦服」)ということである。それこそ「徳治」であり、無敵の「真勝」である。
家康公がその偉大な実践者であったことは、すでに再三述べた通りである。西郷隆盛(南洲)もこの「徳治主義」の政治を理想に掲げたが、遂に果すことなく終ったのは誠に残念なことである。南洲・海舟・鉄舟らが中核となって徳治的明治新政府を作っていれば、その後の日本は「東方の君子国」としての面目躍如たるものがあったであろう。

われわれも偉大な先達を模範として、お互いそれぞれの分に応じて「道」に則った生活を送り、わが身のみならず他の人の心をも潤(うるお)うような日々を送りたいものである。

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