盤珪永琢禅師

江戸時代初頭に活躍された臨済宗の名僧、盤珪永琢(ばんけいようたく)禅師(元和八年〜元禄六年、1622 – 1693)は、自らの修行遍歴の体験から、公案工夫をこととする臨済禅の基本的行き方に対して、「不生の仏心」を説く独自の「不生禅」を創始された。今回は、この稀有の名僧の格調高き教えと伝記とをご紹介したい 。

発心と苦修

盤珪は元和八年(1622)三月八日に播州(兵庫県)網干の浜田で生まれた。その実家は代々医者を生業(なりわい)としており、七、八人いた兄弟姉妹の多くは出家となった。江戸時代には現代とは比較にならないほど出家する人の割合が人口比率上多かったのである。

さて、盤珪は幼時から気宇凡ならざるものがあり、神童視されたという。十二歳の時に儒者について儒教の基礎的経典である四書の一つである『大学』を学び、「大学の道は明徳を明らかにするに在り」という冒頭の一句に出くわして、「明徳」とは何かという疑問に取りつかれてしまった。
盤珪は、「この明徳が済みませいで、疑わしくござって、久しくこの明徳を疑いまして」と後年述懐している。「明らかな徳」であるというなら、何故に重ねて明らかにする必要があるのか、天に賦与された「虚霊不昧」(朱子章句・空にして万事に応じ、霊妙で明らか)なるものが「明徳」だというが、わが身のどこにその様な霊妙な明徳があるというのか。そうした疑問におそらく次から次へと襲われたに相違ない。

盤珪はこの疑問をぜひとも解決したいものだと思い、儒者に尋ねたが、どの儒者も知らなかった。或る儒者は正直に打ち明けた、「そのような難しき事は、よく禅僧の知っているものじゃ程に、禅僧へ行ってお問いやれ。われらはわが家の書(四書五経などの儒教の経典)で、日夜朝暮、口では文字の道理を説いてよくいえども、実にわれらは明徳というものはどのようなが明徳というものやら知りませぬ」(『盤珪禅師語録』岩波文庫版、43頁)と。
とはいえ、近くには禅寺がなかったので、ここかしこの説法や講釈を聞いて、年老いた母親にも安心させたいと思ったが、なかなか明徳の埒(らち)は明かなかった。

かくして疑情はますます増大し、茫洋(ぼうよう)として学業のみならず一切の仕事も手につかなくなってしまった。その結果、盤珪は長兄の正休によって放逐されたが、知人の外護(げご)で庵を結び、修行庵と称した。

十七歳にして盤珪は赤穂随鴎寺の雲甫全祥(うんぽ・ぜんしょう、1568-1653)について出家得度した。雲甫は甲斐恵林寺の火定で有名な快川に参じ、備前三友寺の南景に嗣法した、門庭峻厳な本格的禅僧であった。
盤珪は二十歳にしてこの師のもとを辞して、「明徳」の疑団を抱きつつ、稀に見る苦修をしながら諸国を行脚して善知識(善き指導者)を探し求めたが、その渇望にもかかわらず明師に出会うことはできなかった。その間の消息について、盤珪は後年次のように語っている。

「われ発心の初め善師友を得ざる故、種々の苦行をいたし、身の油をしぼり、あるいは人縁を断絶して閉居し、あるいは紙帳を作り、その内に打坐し、あるいは窓障子を立てて、暗室に打坐し脇席につけず(横寝などせず)、結跏趺坐にて両股(もも)ただれうみ、その跡のちまであり。また某国某所に善知識ありと聞いては、じきに往きて相見(しょうけん)す。数年の間かくのごとくす。およそ日本のうち、足跡の至らざる所は少なし。これみな明師に逢わざる故なり。」


また七日も十日も物を食べずに命を失うことも顧みずに岩の上に直(じか)に坐禅し通したり、京の五条橋下での四年間の乞食、嵯峨の松尾大社の拝殿での昼夜不臥の断食摂心、豊後大分の山村での癩病の乞食との同居など、実に命がけの苦修の連続であったが、これもただひとえにかの明徳の埒(らち)を明(あ)けたいがためであった。


大悟と長養

二十四歳にして随鴎寺の本師雲甫(うんぽ)和尚のもとに戻った盤珪は、自分の「明徳」に関する大疑を打破してくれる明師に出会う事がなかったことを涙ながらに訴えた。かくして盤珪は帰郷して野中村に庵を建て、そこでいよいよ決死の覚悟でこの難問を解決しようとするのである。「大事を洞徹せずんば、すなわちまた人間(じんかん)に遊ばず」(この一大事を徹見せねば、世間には顔出ししない)という盤珪の決意は、その昔、釈尊が菩提樹下で禅定に入られる時、「もし大悟せずんば誓ってこの座を立たず」と覚悟されたのと同様の、全存在を賭けた真剣な誓いであった。

『玄旨軒眼目』という記録には、この野中庵での苦修の有様を次のように述べている。

「師その後、故郷に帰りて、数年閉関するに、一丈四方の屋を造り、牢の如くにして、椀(わん)の入るほど壁に穴をあけて、戸の入口を土で塞ぎ出入することなし。食は二時に壁に開けたる所の一尺四方の丸き穴より入る。食事畢(おわ)れば、又椀を穴より出し、大小便利は外の厠(かわや)へ内よりととのうるように拵(こしら)えおくなり。」


かくして、あまりに身命を顧みず数年間苦修を続けた結果、瀕死の大病(肺結核か)にかかり、その瀬戸際で遂に大悟の春を迎えるのである。この経緯(いきさつ)については、盤珪自身の有名な述懐があるので、それを聞いてみよう。

「それよりして故郷へ帰りまして、庵室をむすびまして安居(あんご)して、あるいは臥さずに念仏三昧にして居ました事もござって、いろいろとあがき廻って見ましても、かの明徳はそれでも埒(らち)が明きませなんだ。あまりに身命を惜しみませず、五体をこつか(極果)にくだきましたほどに、居しき(尻のこと)が破れまして、座するにいこう(大層)難儀致したが、その頃は上根(上々の根器)でござって、一日も横寝などは致さなんだ。しかれども居敷が破れて痛む故、小杉原(紙の一種)を一枚づつ取り替えて敷いて座しました。そのごとくにして座しませねば、なかなか居敷より血が出、痛みまして座しにくうござって、綿などを敷く事もござったわいの。それほどにござれども、一日一夜も終(つい)に脇を席に付けませなんだわいの。
数年の疲れが一度に出まして、大病になりましたれども、かの明徳が済みませいで、久しう間、明徳にかかって骨を折り難儀をしましたわい。それから病気が次第に重うなって、身が弱りまして、たんを吐きますれば、血まじりのたんを吐きましたが、後には段々と重うなりまして、血ばかりが出ました。その時ねんごろな衆が、それではなるまいほどに、庵居して養生せよと申すによって、庵居して僕(しもべ)一人を使うて煩い居ましたが、散々(さんざん)さしつまって、ひっしりと七日ほども食がとまって、重湯より外には、余(よ)の物はのどへ通りませいで、それゆえ、もはや死ぬる覚悟をして居まして、その時思いますは、はれやれぜひもない事じゃが、別に残り多い事は無けれども、ただ平生(へいぜい)の願望成就せずして死ぬる事かなとばかり、思うていましたおりふし(その時に)、のどがいなげ(異様)にござって、たんを壁に吐きかけて見ましたれば、まっ黒なむくろじ(木の実)の様な固まったたんが、ころころとこけて落ちましてから、それより胸の内がどうやら快いようになりました所で、ひょっと一切事は不生でととのうものを、今まで得知らいで、むだ骨を折った事かなと思いまして、従前の非を知ったことでござる。・・・それより、段々日増しに快気いたし、今日までながらえて居りまする事でござる。ついには願成就いたして、母にも、ようわきまえさせまして、死なせましてござる。」


「一切事が不生でととのう」ことを知ったというのは、盤珪が或る朝、外に出て顔を洗うに際して梅の馥郁(ふくいく)たる香りが鼻をうった途端(とたん)に、「明徳」に関するこれまでの疑情が突如として雲散霧消すること、まるで桶(おけ)の底が抜けたようであったという出来事を指している。

「古桶の底ぬけ果てて、三界に一円相の輪があらばこそ」


と、盤珪はその徹底した脱落の境涯を歌に残している。実に苦節十四、五年の挙げ句の果ての大悟であった。古人にもこれほどの苦修を行じた人は稀である。死の一歩手前まで行ったこの切実な経験から、盤珪は僧俗の弟子達に対しては、別段極端な骨折りをしなくても「不生の仏心」をわきまえさえすれば良いという、いわゆる「不生禅」を後年説くことになる。

大悟した盤珪が随鴎寺に帰り、雲甫和尚に所解(しょげ、悟った境地)を呈すると、雲甫は「お前は達磨の骨髄(禅の真髄)を会得したわい。しかし、そこに安住せずに、諸方の名僧に参問して更に向上を目指さねばならぬ」と、愛弟子の一層の大成を期待した。この様に弟子を簡単に許さず褒(ほ)めないのが本当の徹困親切な師匠というものである。後に雲甫忌に際して、盤珪は恩師の悪辣(あくらつ)振りを次の偈頌(げじゅ)に残し恩に報いている。

尋常仏を罵り又祖を呵す(日頃は仏祖にも微塵も頼らぬ)
悪辣の宗風、人悉く惶る(その峻厳な宗風を恐れぬ者はない)
今忌辰に値い一弁を拈ず(本日年忌で一弁の香を献ずるが)
この香無価、商量を絶す(この香の価値たるや、分別も及ばぬ)


雲甫和尚の勧めにより盤珪がまず見(まみ)えようとしたのは、当時天下第一の宗師として令名が高かった美濃(岐阜)の愚堂東寔(ぐどうとうしょく)禅師(天正七年ー寛文元年、1579-1661)であった。ところが残念なことに愚堂は江戸に出向いて不在であったので、盤珪は近隣の愚堂の影響下にあった禅僧らに参問したが飽き足らず、関町近くの日立に玉龍庵を結んだ。
結局、盤珪は愚堂に見えずに帰郷し、翌年、師命により中国からの渡来僧である道者超元(?ー1660)の下で修行するために長崎まで出向くのである。道者に逢うために長崎に行く熱意があったのなら、どうして美濃から江戸まで行って、道者以上の名僧であった愚堂に参じなかったのであろうか。美濃の愚堂派下の和尚達の対応に納得しなかったのも一因かも知れない。それにしても公案禅の最高峰の愚堂禅師ともし邂逅(かいこう)していたならば、盤珪のその後の不生禅の主張も必ずや変わったものになっていたであろうことは、想像に難くない。二人の真の名僧の出会いがなかったのは誠に惜しいことである。

盤珪は慶安三年(1650)美濃より帰郷し安居閉関(あんごへいかん、門戸を閉ざして人に逢わずに修行に専念すること)して、時の人の有様を観察して済度する手立てを練った。そして興福寺(悟りを開いたゆかりの野中庵)を再興した。
翌年、三十歳になった盤珪は、雲甫の命により、中国からの渡来僧、道者超元に参じるために長崎まで出向いた。道者は盤珪に向かって、「汝己事に撞着すといえども、未だ宗門向上の事を明らめず(貴公はすでに心眼を開いてはいるが、まだ禅門の更に上の境地を知らぬ)」と述べた。盤珪は当初は道者のこの言葉に承服しなかったが、道者の力量の越格(おっかく、人並み優れている)ことを認めて、修行に専心した。そして翌年、大衆と共に禅堂内で坐禅中に豁然(かつねん)大悟し、直ちに道者の方丈に至り、問答商量の末に大事了畢(仏法の一大事である真の境地を体得したこと)を認められたのである。

後年、六十九歳の盤珪は道者を懐古して次のように述べている。

「その時道者の言われましたのは、お手前は生死を超えた人じゃと申されましたが、その時分の知識(僧侶)の中でも、まだ道者ばかりがようようと少しばかり証拠に立ってくれられたようなことでござれども、さりながら、それでも十分には道者も肯いませなんだ事がござったわい。今その時のことを思いますれば、今日は道者も十分には許しはしませぬ。もし道者が帰国めされず、ただ今まで日本に生きておじゃりましたら、もっとよい人にしてやりましょうものを、早く死にやりまして、不仕合わせな人でござったが、それが残り多う(大いに心残りで)ござる」


盤珪がこのように言い切れるのは、道者の会下(えか)で大事了畢(だいじりょうひつ、仏法の一大事を体得して修行が終ること)の後も、更に自分の境涯を練り上げて向上の一路に邁進した結果である。
盤珪は言う、「禅を参究する古今の者で、ひとたび悟りを得る者がいない訳ではない。しかしながらそれに尻をすえて向上を怠れば、少を得て満足してしまうことになる。その後、よほど大法に切実でなければ、法の円熟は期し難い」と。

また、彼はこうも言っている。

「身どもが二十六歳の時、播州赤穂郡野中村で庵居(あんご)の時に体得した道理、また道者に相見して(修行成就の)印可証明を得た時と今日とでは、その道理においてはその三度の間にいささかの違いはない。しかしながら、法眼が円明になり大法に通達して大自在を得たという点では、道者に逢った時と今日とでは天地遙かに隔たるほどである。お手前方もこうしたことがあることを信じて、どうか法眼成就の日を期してもらいたい」


さて、道者の印可を蒙った盤珪ではあるが、同参の嫉むものがあるのを危惧した道者の勧めによって、道場を離れて奈良の吉野山に入って庵を結ぶことになる。
今その場所には、「盤珪和尚草庵遺跡」の碑が建っている。山居の間、盤珪は雨乞い歌(もしくは、うす引き歌)を作り百姓に与えたが、それらは当時の盤珪の痛快な心境が良く言い現わされているので、全四十首の中からいくつか引用してみよう(現代仮名遣いに直して表記)。

生れ来りしいにしえ問えば、何も思わぬこの心
惜しや欲しやと思わぬ故に、いわば世界が皆わがものじゃ
昔思えば夕べの夢よ、とかく思えば皆うそじゃ
迷い悟りはもと無いものじゃ、親も教えぬ習いもの
悟ろ悟ろとこの頃せねば、朝の寝ざめも気が軽い


秋になって盤珪は吉野から再び美濃に移り、玉龍庵に庵居した。徳を慕って十数人の者が随侍したという。その時の逸話として、癩病の乞食が時々やって来るのを皆が嫌がったが、盤珪が自分の持鉢(じはつ)で毎回癩病人に食べさせたので、一同は慚愧したという話が伝えられている。
この歳の暮に、師匠の雲甫和尚が享年八十六歳で遷化した。雲甫は上足(じょうそく、上席の弟子)の牧翁(ぼくおう)和尚に嘱して、他時異日わが宗を興隆させるのは盤珪をおいて他にはないから、山中の庵居で終らせてはならぬ、と申し渡した。
ついでながら、盤珪は美濃にいながらにして、遠方の雲甫の病や遷化を感知したというし、また野中庵での摂心の際にも、何日も前から誰それがやって来るというのを予知できたという。いわば趙能力であるが、そんなことは仏法本来の境地に比すれば取るに足らないことであるというのが、盤珪の見識であり、また釈尊の真意でもあった。

明暦元年(1655)三十四歳の時、盤珪は五人の雲衲(うんのう、禅の修行者)と共に長崎の道者を再訪した。当時、道者の法淑(ほっしゅく)の隠元が来朝し、両徒間の軋轢(あつれき、摩擦)が生じたので、道者は明国に帰らざるを得なくなったのである。隠元はその後、京都の宇治に黄檗山万福寺を開創して黄檗宗(おうばくしゅう)を弘め、江戸時代の禅界に新風を送り込んだと一般には言われているが、道者の会下(えか、弟子達)が質朴であったのに対して、隠元の会下は華美に流れる傾向があったという証言がある。

さて盤珪は長崎から平戸に移り、平戸藩主・松浦鎮信(まつらしげのぶ)公の尊信を受け、さらに越前福井の大安寺で名僧の誉れ高き大愚宗築(たいぐそうちく、愚堂国師の道友)に相見、問答商量している。大愚は、「よくやって来られた。貴僧の境地が円熟して来たと聞き及び、待つこと久しかったぞ」と盤珪の来訪をことのほか喜んだ。三十九歳の年齢差を越えた名僧同士の感激的な出会いの有様が目に浮かぶようである。二、三日の逗留の後、加賀金沢に赴いた盤珪は、道者の会下で旧知の曹洞宗の鉄心道印を天徳院に尋ねている。この鉄心も三十歳年長の名僧であった。

加賀からさらに江戸に出向いた盤珪は、浅草駒形堂付近で乞食をしていたという。これは禅では「悟後の修行」といって、京都大徳寺開山・大燈国師の五条河原での乞食修行の先例もあるように、自分が得た境涯が日常万般の上で自在に使い得るかを試みるのである。


摂化と家風

明暦三年(1657)の三十六歳の時、四国伊予の大洲(おおず)藩主加藤公は返照庵を建立して盤珪を招いた。秋には盤珪は郷里に帰り、長福寺を再興し、冬には備前岡山の三友寺において法兄の牧翁和尚より嗣法の印可状を得た。越えて三十八歳の時、京都に上(のぼ)り、大本山妙心寺の前版職に転じ、ここで始めて「盤珪」と称することとなった。

これより各地を回って説法や摂化(せっけ、衆生済度)に勤めるのであるが、その拠点となったのは、盤珪創建の三大寺として知られる、網干(あぼし)の龍門寺・大洲の如法寺・江戸の光林寺である。この間に京都の山科に地蔵寺を再興し、寛文十二年(1672)には妙心寺で開堂式(大本山住持職になるという重要な演法の儀式)を行った。

盤珪四十歳の時、竹馬の友である郷里浜田の富豪灘屋・佐々木道弥が二人の弟と共に、盤珪を開山とする龍門寺を建立したが、これは盤珪の最大規模の根本道場となった。龍門寺創建当初のものと思われる偈頌(げじゅ)が残っている。

菴中独り弾ず没弦琴
聴き得て何人か竹林に到る
調べは古く格は高し我家の曲
普天匝地(ふてんそうち)知音少(ちいんまれ)なり


「この龍門寺に端居して弦のない琴で(分別を越えた)宗旨を日夜奏(かな)でているが、果してこの竹林軒(盤珪の居室)を訪う多くの者のうち、その音なき音の真意を会得(えとく)している者がどれほどあろうか。わが仏法の調べは古くてあまりに格調高き故に、この広い天下を見渡してみても、この盤珪の真境涯を知ってくれる者は稀である」という趣旨である。

苦修のせいで病弱であった盤珪は、四十三歳の時に京都山科の地蔵寺に住して以来、この地の閑静さを愛してたびたび閉関した。「閉関」とは固く門戸を閉ざして人事を謝絶することであるが、そうはいっても修行者の参禅くらいは聞いたであろう。盤珪自身はそれが「当時の人々の心の働きを見て、何とかして一言で人々の心にかなうようにと思い、遂に『不生』ということだけを強調する行き方を唱え出した」と述懐している。

この地蔵寺逗留中の逸話であるが、食事に際して盤珪が、「今日のおかず(菜)はよく煮えてよい味である」と言うと、供給の小僧が、「大梁(だいりょう)が鍋の中から老師の分だけ特別に選んで盛りつけました」と答えた。師の盤珪より十六歳年少の大梁祖教(寛永十五年ー元禄元年、1638-88)は、盤珪の一番弟子を以て目(もく)される人であるが、極端な刻苦修行のせいで病弱な師匠を気づかってそうしたものであろう。だが、盤珪は「鍋のうちにて差別を致す」と言って、それを厳として退け、その後はおかずを食べなくなってしまった。大梁の方も同様におかずを食べずに数ヶ月が経った。それを聞いた盤珪は、「大梁は食べずばなるまい」と言って、自らおかずを食べたので、大梁も再び食べるようになったという。

この逸話からは、盤珪の以身説法の峻厳さと、「この師にしてこの弟子有り、この弟子にしてこの師有り」とも言うべき、他人の伺い知ることのできぬ濃(こまや)かな師弟の情が伺える。殊(こと)に大梁には自分の後事を託(たく)するに足る大器として期待をかけていただけに、盤珪は厳格に臨んだようであり、この逸話のような対応がしばしばあったと言われている。しかし惜しいかな、大梁は師の盤珪に先立って享年五十歳で遷化してしまうのである。

盤珪の大慈悲心に関しては、次の逸話も伝えられている。

龍門寺大結制の時、或る僧が来たって掛錫を願った。先に結制に参加していた僧の中に、この僧の日頃の行いをよく知っている者がいて、取締役の僧に告げて言うには、「あの僧は盗み癖があり、色んな道場で追い出された者です。そのことは私一人だけでなく、何人かの者がよく知っていることです。もし結制中に盗み癖がでれば、皆の修行の妨げとなるかと思い、お伝えする次第です」と。このことを訴えたところ、盤珪は大層叱責し、「私はいま請われて結制をしているがそれは他でもない、ただ悪人が悪を改め、善人が善を勧めることのためではないか。それに、自分達は問題がないが、あの僧は悪人であるといって排斥しようとするのは、大いにわが本志に背く」と言った。

このことを伝え聞いたかの僧は、大声で号泣して、「私は今日大善知識の深き大慈悲心を知り、未来永劫(えいごう)悪心を断ち、仏道修行に励まん」と誓い、それ以後、大衆に傑出した修行振りを到る処で貫いたという。

盤珪四十八歳の時、加藤泰興(やすおき)公は伊予の大洲に如法寺を創建し、盤珪を開山として迎えた。盤珪は如法寺の裏山が山紫水明絶妙なのに感嘆し、ここに奥旨軒(おうしけん)という草庵を建てて閉関した。後には公案を排斥することになる盤珪であるが、この頃はまだ公案を使用して修行者を接得していたと伝えられる。だが、信徒が応接に暇(いとま)もないほど殺到してくるので、五十歳の冬には英霊漢二十数名を引き連れて再び奥旨軒に閉関し、一冬の間に横になって寝る者が一人もいないような激しい修行を行った結果、遂にぶち抜いて悟る者が多かったという。

かくして、元禄六年(1693)九月三日に七十二歳で龍門寺において遷化(せんげ、逝去のこと)するまで、盤珪は諸方で結制(修行僧の期を定めての集団的修行)すること十五度に及んだ。元禄四年の龍門寺での結制では、実に千三百人の僧侶が結集したという。在俗の男女の聴聞に参集する者その数を知らず、仏教各派の僧侶や儒者までもが弟子の礼を取り、その指導を受けたという。盤珪の弟子の数も、男僧四百人あまり、尼僧二百七十人、法名を授けられ弟子の礼をとった者五万人あまりであり、その開創する寺院四十七、歿後に勧請(かんじょう)して開山とする寺院百五十あまりにのぼる。その仏道と徳との影響力が如何に広大なものであったかが知られるのである。

盤珪の風格は「風度超逸、淳実慈愛」と伝えられるように、大慈悲心の権化(ごんげ)ともいうところがあった。その家風は「身どもは仏法をも説かず、また禅法をも説かず」といい、ただ「身の上批判」をして「不生の仏心」を説くだけであったがために、「不生禅」と呼ばれている。古来の棒喝を行じて来た禅僧とは異なり、盤珪は自らの体得した体験的真実を如実に伝えるために、漢文によらず分かり易い平話を用いて説法して僧俗を安心立命させた。また臨済宗に属する身でありながら、公案をほとんど用いず、その臨機応変の活作略(かっさりゃく、活き活きした対応)により直下(じきげ、立ちどころ)に学人の眼を開かせたのは、盤珪の腕力である。禅の特徴的行き方である「直指人心」とは本来そうしたものであろう。


説法の核心

盤珪の説法はこのように、簡単明瞭にしてすこぶる痛快なものなので、以下に於て盤珪自身をして語らしめよう。

「人々みな、親の産み付けてたもったは、不生の仏心一つでござる。余のものは一つも産み付けはしませぬ。この不生にして霊明な仏心で一切事がととのいまする。」

「その仏心のままで得居ませいで(いることができずに)、地獄餓鬼畜生等の、あれに仕替えこれに仕替えて迷いまする。総じて一切の迷いは身のひいき故に出かしまする。向こうの言い分に貪著して、ひたもの(ひたすら)念に念を重ねて相続して止まず、仏心を修羅に仕替え、仏の身が凡夫になりまする。」

「迷わぬが仏、悟りで、外(ほか)に悟りようはござらぬ。不生で居る迷わぬ者に悟りは入りませぬわい。一人も只今の場には凡夫はござらぬ。」

「身どもはむだ骨折りが身にしみて、皆の衆に楽に法成就させたさに、こうして精出して説法し催促することでござる。盤珪がように骨折らずとも楽に法成就ができまする。」

「今日生まれ変わったように始めて示しを聞くように聞けば、内に一物がないから法成就が早くなりまする。」

「皆、身どもが言うように、身どもが言うに打ちまかせて、身ども次第にして、まず三十日不生で居て見さっしゃい。三十日不生で居習わっしゃれたら、それから後は・・・、見事不生で居らるるものでござるわいの。さて、すれば(そうならば)今日の活仏(いきぼとけ)ではござらぬか。」

「身どもが法は、諸方の如く、目当てをなして、或いはこれを悟り、或いは公案を拈提することなく、仏語祖語によらず、直指のみにて、手がかりのなきことゆえ、素直に肯(うけが)う者なし。」

「たとい十成(じゅうじょう、完全)に肯う者なしといえども、身どもが法は金子(きんす)のまるかせを打ち砕き散らしたるようなるもので、一分とりたる者は一分光り、二分とりたる者は二分光り、乃至一寸二寸、分相応に利益(りやく)あらずということなし。」



参考文献:

『盤珪禅師全集』(大蔵出版)
『盤珪國師之研究』(春秋社)
『盤珪国師語録』(岩波文庫)
『盤珪の不生禅』(鈴木大拙全集)


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