「発菩提心」2022年10月【No.231】
先月末に光雲寺に下宿している京大生を中心に、10名の若者たちが集まって法話と坐禅のひとときを過ごしました。これは私の方から提案したのではなく、学生さんたちの自発的な要望に基づくものでした。実は希望者はこの倍の20人いたそうですが、コロナ禍の最中での人数制限と、終了後に薬石(夕食)を出す予定もあり、10人に限定したものです。もとより参加費用は一切頂きません。
私は、昨年の3月13日に南禅寺の龍淵閣で行われた西田幾多郎博士の哲学をテーマとする「日本哲学会」において、主催者の教授より基調講演を依頼されていました。主催者の教授から、その講演記録を作成するよう指示された京大の学生さんは、その講演記録を編集することによって「ぜひとも光雲寺に下宿して禅について学びたい」と切に思うようになったそうです。彼の要望に呼応するような形で、今回の法話と坐禅の集まりが実現致しました。その講演に際して、禅僧である私は、西田哲学の根本にある西田博士の禅体験に関して私見を述べました。そして森本省念老師や片岡仁志先生など、西田博士の直弟子の方々の薫陶を受けた私は、西田門下に連なる方々が、単なる学問研究に満足することなく禅の実参実究の修行をもしておられた点を強調致しました。下宿希望の学生さんの心を動かしたのは、おそらくその点ではなかったかと思います。
これまでこのような学生さんたちの集まりは何度かおこなったのですが、今回は私自身も非常に気合いを入れて法話をした次第です。坐禅工夫の最も基本である「数息観」について、四六時中不惜身命(ふしゃくしんみょう)の覚悟で工夫する必要があることを、自分自身の体験を踏まえながら述べたのです。「四六時中の工夫」などできるわけがないというのは、三昧境に入った経験のない人です。最初は意識的に「ひとーつ、ふたーつ・・・」と息を数えるのですが、間断なくおこなっているうちに、それが習い性となって、いつのまにか無意識のうちに数息観をおこなうようになります。そうするとちょうど坂道から雪達磨を転ばすように、加速度的に三昧境が育っていくようになります。こうした私の体験を熱を込めて話すと、みんな熱心に聞き入ってくれたような風情でした。
現代の若者たちもやはり分別知識以上の何かを求めているということがよく分かり、いささか悦ばしい思いになったのですが、願わくはそうした中から一身を擲(なげう)ってこの道に邁進する人が一箇半箇でも出てほしいものです。