「旧年と新年と」(月刊コラム【No.91】2011年1月)
新年明けましておめでとうございます。皆様方は旧年中はどのように過ごされたでしょうか。もとより楽しいこと、悲しいこと、いろんな経験をされ、またいろんな出会いがあったことでしょう。小衲の場合に、夏頃に和歌山県に出向き、和尚方50名の前で自分の修行体験を話したことが印象に残っております。
中国唐代の名僧である潙山霊祐禅師に「両喚の話」という公案がある。潙山がある日、院主を喚んだ。やってきた院主に対して潙山は、「わしは院主を喚んだのに、お前がきてどうするのだ」と言い放った。院主はなんとも答えることができなかった。潙山はまた侍者に第一座(首座ともいう修行僧中の最上位の者)を呼び寄せさせた。やってきた第一座に対して潙山はまた、「わしは第一座を喚んだのに、お前がやってきてどうするのだ」というと、第一座もまた何とも答えることができなかったという。分別心にとらわれていると、二途に渉らせようとする潙山のはめ手に引っかかって、院主と自分、第一座と自分というきょろつきができてしまう。
師匠は何とかして弟子を鍛えようとしていろんな試練を与えるものである。小衲が和歌山で修行時代を回顧した折に思い浮かんだのは、この公案であった。小衲もこれと似た経験をしたことがあったからである。老師の隠侍(お世話係)をしていた或る日のこと、老師の花壇の雑草を公案三昧になって法悦に包まれながら引いていた時、ちょうどそばを通られた老師が、「庸さん、茶礼にわしの部屋まで来るように」といわれ、「本当は声をかけない方がいいんやけどな」とつけ加えられたので、小衲は、「せっかく工夫が乗っているのに茶礼などで中断させられるとは」と正直不満であった。
隠寮(老師の部屋)に伺うと役位さん(高位の雲衲)たちがすでにいて、老師は小衲に向かって、「何だ、お前は一体何しに来たのか」とかみつくように言われた。小衲はわれながら非常に冷静に、「はい、老師ご自身が喚ばれました」と答えると、役位さんの一人は大笑され、老師はそこでそれ以上の詰問は差し控えられた。その際、もし「わしは庸さんを喚んだのにどうしてお前がやってきたのか」と老師から問われたとしても、小衲は難なく答えることができたであろう。
もっとも、いまの小衲は定時に茶礼の時間を設けており、それが遅れると弟子に注意をしているが、果たして「工夫の邪魔をしないでほしいのに」と嘆く工夫三昧の弟子がいるかどうか。いれば嬉しい限りである。
先般、ある弟子の母親と電話で話をしていたら、「どうぞ厳しくご指導頂きますように」と懇願された。わが子にはなかなか厳しくなれないであろうし、また厳しい試練を経なければ人は錬磨されない。このお母さんは子息に対して本当の愛情を持っておられると感じた次第である。
また、昨年12月に初めてお目にかかったある大企業の社長さんはさすがに品格があり、3時間半の話し合いはなごやかで楽しい雰囲気のうちにあっという間に過ぎてしまった。聞けば、坐禅経験もあり、趣味は蕎麦の手打ちとのこと。前社長が急逝されて急遽社長になられて2年経たれたとのことであったが、「毎日を楽しみながらやっております」というお言葉に、孔子聖人の「楽しんでもって憂いを忘れ・・・」という言葉を思い出し、「わが意を得たり」の感を深くしたのである。
皆様方もどうか今年もよき出会いや楽しい時を過ごされますことをご祈念申し上げます。
(なお、来年のNHK大河ドラマの主人公の「お江様」が光雲寺を菩提寺として復興された東福門院様のご母堂様に当たられるということで、京都市観光協会主催の「京都冬の旅」の企画により、1月8日から3月21日まで、光雲寺では特別拝観がありますので、夜の土曜坐禅は光雲寺で如常に行いますが、第2、第4日曜日の坐禅は、南禅寺山内の南陽院で行います。どうぞよろしくお願い申し上げます)。