「お厨子と本尊の洗浄修復」(月刊コラム【No.111】2012年9月)

本年七月二十八日(土)より九月二十三日(日)までの間、東京の両国にある「江戸東京博物館」にて京都市や読売新聞の協賛で「二条城展」が開催されている。先般、二条城より是非とも光雲寺所蔵の東福門院尊像と仏舎利塔を出展して頂けないかとの依頼があり、お里帰りをして頂くつもりでそれを了承したのである。平成二十一年の春の東京芸大における「尼門跡展」に続いて、二度目のお里帰りである。

東福門院が七十二歳で延宝六年(1678)六月十五日に崩御された後に残されていた辞世の「武蔵野の草葉の末に宿りしか都の空に帰る月影」(いま京都で見る月は、かつては武蔵野(江戸)の草葉の先の露に宿っていた月であり、武蔵野で生まれた私と同じように、都の空に帰って行くのである)という歌を見れば、東福門院が江戸から京都の後水尾天皇に嫁がれてから一度も生まれ故郷の江戸に帰られることのなかった一抹の寂しさが見て取れるような気がする。それを証するかのように、御像の納めてあるお厨子には徳川家の葵の御紋があちこちにちりばめられており、菊の御紋は見当たらない。御所が火事の時には先ず一番に御輿に乗せて避難させられたという伝運慶作の聖観音像のお厨子もその通りである(もっとも聖武天皇の皇后である光明皇后伝来と伝えられる出展中の仏舎利塔には村井康彦先生が注目されたように菊と葵の御紋が並んで描かれている)。

この機会に、東福門院が奉納された本尊釈迦如来像と二大仏弟子(摩訶迦葉尊者と阿難尊者)を洗浄修復することを思い立ち、その前に、御像が出展されている間にお厨子を修復しようかと思い、仏像を洗浄する京都の或る工房に依頼した。ベテランの専門家が再三にわたり調べてくれた結果、このお厨子の漆塗りは台座に「ろいろぬり」と墨で書かれていることが分かった。蝋色塗 (ろいろぬり)とは、上塗において、蝋色漆または油分を含まない漆を塗り、仕上げに炭で研いで光たくを出したもので、四十もの工程を経て行われることを知って、思わず感嘆の声を上げてしまった。ちなみに現代ではせいぜい二十工程だそうである。もとよりこの漆色は再現不可能なので、剥げ落ちた部分の修復は最小限に止めることにした。

また東福門院御像のお厨子に使用されている金箔を調べるために、大阪夏の陣の戦死者を弔うために藤堂高虎公が建立した南禅寺山門に祀られている徳川家康公像と藤堂高虎公像のお厨子の金箔を特別に調査させて頂いたところ、東福門院御像のお厨子の金箔の方がはるかに大量に使用されていることが分かった。しかも「国母」と呼ばれた方の御像を祀るお厨子であるからであろうか、通常は不必要と思われる部分にも実に丁寧に金箔が使用されている。使用されている一部の金具などはすでに試験的に洗浄されて、三百年以上も前の輝きを取り戻している(東福門院が崩御されてすでに三百三十四年が経っている)。

お厨子の修復は東京から御像が戻ってくる十月初めまでに終了する予定であるが、本尊と仏弟子像の洗浄修復は終了までに数年かかることであろう。それくらい慎重に工程を進めていって貰う予定である。特に本尊釈迦如来像を前にして「これまで何体ものご本尊を洗浄修復して来ましたが、これほど立派なご本尊は初めてです」と異口同音に言われた熟練の職人さんたちは、幾たびも「足が震えます」と述懐された。足が震えるほどの気持ちでやって頂けるのなら間違いはなかろうと確信して、お任せすることにした次第である。

お厨子の修復前に心をこめて東福門院様御霊前に誦経と廻向をしたところ、三人の熟練の職人さんたちは「これから私たちも心をこめて仕事にかからせて頂きます」と、実に鄭重な応対をされた。そして三日間を費やして中興の英中禅師像の洗浄修復を、「これは私たちの気持ちでやらして頂きます」と奉仕でやって頂いたのである。お寺の住職は什物を保存修復して後世に伝えていく義務があると思うが、またそれの仏縁で色んな方々とお知り合いになり、次第次第に往事の姿が復元されていく過程を見るのは、実に充実した時間である。

またいずれ多くの方々にも公開して、東福門院様の遺徳を偲んで頂ける結縁の機会をもちたいと思っているところである。

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