「仏光国師の大歓喜」(月刊コラム【No.113】2012年11月)

去る十月十二日の開山大明国師毎月忌のあとで、南禅寺本山の山門前で「佛光南院柏槙(びゃくしん)」の植樹が行われた。

南禅寺の創建開山である南院国師の七百年大遠諱が四月に厳修されたが、その大遠諱中に四千人以上の檀信徒に授戒をされるなどもっともお骨折り頂いた管長猊下に円成(えんじょう)の記念品として南禅寺の内局が何を所望されるかと尋ねたところ、管長猊下は「記念品などよりも何か然るべき樹木を植樹したい」と答えられたという。さすがである。恐らくは『臨済録』にある「一つには山門のために境致となし、二つには後人のために標榜となさん」を念頭に置かれたものであろうと思われる。

内局が色々と探索して、南院国師の嗣法の師である仏光国師(1226-1286)を開山とする鎌倉の円覚寺に開山お手植えの柏槙の実生の若木があることを知り、円覚寺本山の格別のご配慮により移植されることが実現したのである。鎌倉には建長寺にも開山大覚禅師お手植えの柏槙の大木があるが、南院国師の大遠諱記念の植樹としては、仏光国師お手植えの柏槙はまことに申し分のないものである。

当日は両本山管長猊下を初め、内局山内尊宿一同参加のもと、植樹式が挙行された。植樹の趣旨を説明した石標も併せて除幕されたので、南禅寺を訪れる方々はぜひ一度ご覧頂ければと思う。

さてこの仏光国師が禅修行にずば抜けた骨折りをされ、真箇大死一番底の境涯に達せられた名僧であることは、禅に志す者にとっては周知のことであろう。

すでに十二歳にして父兄と共に山寺に遊び、僧が「竹影階を掃って塵動ぜず、月潭底を穿って水に痕(あと)なし」という無作(むさ)の妙用を示す偈頌を吟ずるのを聞いて黙契するところがあり、出家の志を起こしたという。「栴檀は双葉より芳し」というべきか。

十四歳にして径山(きんざん)万寿寺の無準師範禅師にまみえて「趙州無字」の公案に参じた。仏光国師が「告香普説」で述べておられるところによれば、「自ら一年を期して見性しようとしたが、遂に所得はなかった。また修行すること一年であったが、所得がなかった。さらに一年修行したが、やはり見性はできなかった。五年、六年目になると、見性はできなかったが、この無の一字の工夫だけに専念したので、夢中にもまた無字を見、遍天遍地、一箇の無字となった」。

今時の禅修行者で真箇の見性をしようという道心堅固な者はほとんどいないであろうが、国師は「この一年以内に決着をつける」という決死の覚悟で修行に邁進されたのである。それでも六年間は目指す見性に達することはできなかったが、ついに機が熟して大禅定に入られることになる。坐禅して工夫三昧に入っているうちに身心が全く分離してしまって合して意識が復活することがなくなってしまったのである。そのために同参たちは国師が死んでしまったと叫んだが、ひとりの老僧が「これは禅定に入って凍えてしまっているので、体を暖めれば意識を取り戻すであろう」といったので、その通りにしたところ意識を取り戻した国師が同参に死に切っていた時間を訊ねると、一昼夜であったという。

こうしてますます禅定が熟した国師は首座寮前の板の打たれる音を聞いた途端に本来の面目を徹見し、思わず座を下って月下に走り出て空を仰いで呵々大笑して「法身というのは元来何と広大なものだ」と叫び、これより後は底知れぬ法悦を味わった(歓喜不徹)という。さらに国師は石渓心月、偃渓広聞、虚堂智愚などの名僧知識に参じ、物初大観のもとで痛快な大悟の時節を得るに至るのである。

仏光国師をしてこの大歓喜に至らしめたものは、何といっても堅固な道心とそれに基づく不惜身命の修行であろう。若い雲衲方もどうか在錫年数などを限らずに、思う存分修行に邁進して法悦を得て頂きたいものである。

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