「他の非を弁ずることなかれ」2025年12月【No.268】

臨済禅の重要な公案集である『無門関』には、「他の非を弁ずることなかれ、他の事を知ることなかれ」(他人の落ち度を言ってはならない。外の物事に関心を持ってはならない)という句があります。また、「来たって是非を説く者は、すなわちこれ是非の人」(他人のところへやって来て、人や物事の是非ばかりを主張している人こそ、相対的な分別心にとらわれている人である)という言葉もあります。こうした人は、いつの時代にも往々にして見られるものです。
 私たちが修行時代に師匠からよく注意されたのは、「外のあらが見えるのは、自分のところの障子の紙が破れているからだ」ということでした。外のことをとやかく気にするのは、自分の工夫が行き届かず、心に隙(すき)が生じているからだ、というのです。実際、私自身の修行時代を振り返ってみても、自分の工夫に専念しているときには、他人の行状など気になることは全くありませんでした。僧堂には、夜の自発的な坐禅よりも夜行などに精を出す不品行な者もいるものですが、そうした他人のことよりも、自分の工夫をどう充実させるか、いかにして真の禅定(一心不乱の三昧境)に入るかが、唯一の関心事だったのです。その結果、幾度となく、えもいえぬ法悦を体験することができました。

 よく申し上げる話ですが、日本曹洞宗の開祖・道元禅師が天童山如浄禅師のもとで修行していた折、早朝から夜半まで坐禅が続いたため、多くの雲水が居眠りをしていたと伝えられています。堂内を検単した如浄禅師は、惰眠をむさぼる僧を自身の履いていた沓(くつ)で叩き、「参禅は身心脱落でなければならぬ。いたずらに眠りほうけて何になるか」と厳しく叱咤しました。その声を聞いた道元禅師は、身心脱落の境地に到ることができたといわれています。もしそのとき、道元禅師が居眠り三昧の雲水たちを見て憤慨していたなら、決してそのような妙境には達し得なかったことでしょう。
 禅の工夫とは、何よりも真剣に、よそ見をせず工夫三昧に徹し、他人のことを気にすることなく、ひたすら自らの工夫を深め、その法悦を育てていくことに尽きるのだと思います。

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