「先の大戦の真相と戦後日本の反省」2016年11月【No.161】
飯田進という方をご存知でしょうか。去る10月の13日に93歳で亡くなられた元BC級戦犯の方です。テレビなどでも放映されましたし(例えば「サンデーモーニング」の「風を読む」のコーナー)、ネットでも情報が発信されました。小衲はネットで初めてこの方のことを知り、ぜひともその著作を拝読する必要があると思い、『魂鎮(たましずめ)への道』、『地獄の日本兵』、『たとえ明日世界が滅びるとしても』などを取り寄せて、貪るように一挙に読みました。そしてその結果、自分のこれまで抱いていた先の大戦に関する思いを根底から覆される経験をしたのです。
禅僧がこのようなことに言及するとはと、怪訝に思われる方もあるかも知れません。ですが、終戦二年半後にこの世に生を受け、数々の戦禍の残る有様が眼に焼き付いている世代です。亡き母と大阪の環状線に乗った際、長い間、米軍の空爆を受けてそのままに放置されていた広範囲に及ぶ戦禍の跡について、母が「あれは砲兵工廠(ほうへいこうしょう)が爆撃された跡だ」と教えてくれました。砲兵工廠とは大村益次郎の構想により明治初年(1867)に大阪城内に造られた陸軍の兵器工場です。その後、だいぶ経ってからいつの間にかその跡は撤去されましたが、往事のすさまじい状況は眼の底に焼きついております。また梅田の地下街では白衣の傷痍軍人が松葉杖をつきながら物乞いをする光景を何度も見たことがあります。
しかし、何よりも三百数十万人もの方々が亡くなられ、わが国が初めて敗戦の憂き目を見て米国の占領国となったというこの厳然たる事実は、日本人ならば何人たりとも決して看過することのできないことではないでしょうか。ご自分の身近な人が戦没したり出征された経験を持つ人は数多いことでしょう。小衲の坐禅会の久参底の方のご尊父は生まれたばかりの一人息子を日本に残して舞鶴港から出征され、そのまま戦死して今は靖国神社にお祀りされているとのことです。わが国の至るところで言語に絶する辛酸をなめた国民が多くいることを、私たちは決して平和な現代でも忘れてはならないと思います。
実は飯田氏の著書を拝読する少し前に、井上和彦氏の『大東亜戦争秘録 日本軍はこんなに強かった!』という本を読んだのですが、井上氏は、敗れはしたものの日本軍が各地の戦線においていかに勇猛果敢に戦ったかということを、敵将であった蒋介石の「日本の軍人精神は東洋民族の誇りたることを学べ」という訓示などを引いて称揚しています。この書を読んで初めて知ったのは、全長30メートル、全幅43メートルに及び、「超空の要塞」といわれ、日本の各地に焼夷弾を投下して数多くの一般市民を殺戮した最強の米軍爆撃機であったB−29が、本土防空を担う陸軍航空部隊によって700機以上も撃墜されたという事実です。母の口からもよくB−29による爆撃の話がでました。高度1万メートルを飛ぶB−29には日本軍は到底なすすべがなかったと思っていたのですが、これほど撃墜していたとは意外なことでした。
とはいえ、確かに日本軍が一面で「勇猛無比」であったことは事実でしょうが、実際に戦場に行って想像を絶する苦難を経てこられた飯田氏が、「満身創痍」の「手負い」となってさらけ出された戦争の暗部の厳然たる実相の記述に比すれば、あまりにも楽観的で皮相的であるとの思いはぬぐいきれません。「戦争」という国家間の殺し合いがどれほど悲惨を極めたものかを、私たちは飯田氏の一連の遺著により身に沁みて知る必要があると思います。そして戦なき平和の時代の有り難さに心から感謝し、もう二度とあのような悲劇が起こることのないように国民一人一人が心することが大切なのではないでしょうか。どうも昨今の政治情勢を見ていると、その点に大いに危惧の念を禁じ得ません。
実はだいぶ以前に小衲が日課の早朝掃き掃除をしていると、南禅寺の山内をときおり散歩するご老人がおられたのですが、その方が或るとき、「戦友から送ってきたものです。どうぞお飲み下さい」といって銘酒を数本もってきて頂きました。それ以来、幾度となく頂戴しましたが、戦地に従軍の経験がおありになるということを知って、ぜひとも体験談を拝聴したいとお願いしましたが、ほとんど話を聞かせて頂くことはできませんでした。飯田氏の著作を拝読して、そのわけが分かりました。戦地での実情などはとても人に話して聞かせられるようなものではなく、言語に絶する悲惨なものだということです。
飯田氏は『地獄の日本兵』の「おわりに」で次のように述べておられます。
「これまで、私の体験と元兵士たちの記録をたどって、ニューギニア戦線の実相を描いてきました。それは、勇戦敢闘したある兵士の物語ではなく、飢えて野垂れ死にしなければならなかった大勢の兵士たちの実態です。
重ねて強調しておきますが、これはニューギニアに限りません。太平洋戦争戦域各地に共通していたことなのです。二百数十万人に達する戦没者の大多数が、本国から遠く離れて、同じような運命をたどらされたのでした。
この酷いとも凄惨とも、喩えようのない最期を若者たちに強いたことを、戦後の日本人の大多数は、知らないまま過ごしてきました。この事実を知らずに、靖国問題についていくら議論をしても虚しいばかりだと私は思います。この思いが、人生の終末を生きている私に、この原稿を執筆させる動機を与えたのです。
嫌なことには目を向けたくない習性が、人間にはあります。嫌なことを忘れることによって、人間は生き延び得るのかもしれません。この習性は個人には許されても、国家や民族には許されません。60年前のことをすっかり忘れるような集団健忘症は、また違った形で、より大きな過ちを繰り返させるのではないかと危惧するからです。今日の日本を覆う腐敗や犯罪をもたらしている禍根は、ここに淵源していると私は考えています。」
飯田氏はまた『魂鎮(たましずめ)への道』の中で、次のように吐露しておられます。
「忠勇無比をうたわれた日本兵は、ジャングルのなかを右往左往したあげく、みじめなのたれ死にしたのです。(中略)戦いの相手は、もちろんアメリカ軍を主とする連合軍でした。だから日本兵が敵に対して、憎しみをもっていたのはあたりまえです。しかし飢えと疲労の極限をさまよい、のたれ死にを迫られた兵隊たちが、だれをもっとも恨んで死んでいったと思いますか。
あえて断言します。それはアメリカ兵に対してではない。日本軍の参謀たち、とりわけ作戦の中枢にいた大本営の参謀に対してです。兵士たちが書き残したおびただしい手記のいたるところに、軍上層部に対する呪詛(じゅそ)と怨念があふれています。日本兵は、敵によるだけでなく、日本軍の参謀によって殺された、といって差し支えありません。」
その大本営参謀本部を実質的に牛耳っていたのは、作戦課長の服部卓四郎と作戦課戦力班長の辻政信とでした。この二人は共に実情を無視した攻撃一辺倒の向こう見ずな作戦に固執し、敵を過小評価して次々に部隊を繰り出し、数多くの兵士を飢え死にさせるような愚行を重ねたのです。しかし飯田氏らのようにやむを得ずに犯さざるを得なかった罪のためにBC級戦犯となって巣鴨プリズンに投獄されたり、戦勝国の理不尽な裁判の結果、処刑された兵士たちとは異なり、服部と辻の両人は戦後何らの責任を問われ追究されることがありませんでした。本当に理不尽極まりないことです。
それどころか、辻は戦後に衆議院議員・参議院議員を長く勤めました。またソ連を仮想敵国としていた関東軍の作戦主任であった服部の如きは、戦後の米国により重要な人材と見なされ、朝鮮戦争の勃発を契機としてGHQの依頼により再軍備を画策し、その結果として創設されたのが警察予備隊です。現在の自衛隊の創設には多くの旧軍人が関与しているということです。それはまさに「奇怪な衣裳をまとった」日陰者としての軍隊の出現であり、東京裁判の訴追理由と、真っ向から相反する出来事であったがために、巣鴨プリズンに収監されていた人々は、「おれたちは一体何のために裁かれたのか。何のために収監されているのか」という「計り知れない衝撃」を受けたのです。
飯田氏は結論づけておられます。「戦後の日本が内蔵し続けている倫理的・道徳的な堕落と退廃の淵源は、そこにあるとぼくは思っています。」(『魂鎮(たましずめ)への道』岩波現代文庫版、348頁)
飯田氏が明らかにされているように、日本軍の悪行を断罪して多くの戦犯を作り出したアメリカ軍が、捕虜や沈没船の兵士らを片っ端から機銃掃射したということが普通にあったそうです。B−29の各都市へのじゅうたん爆撃や原爆投下による一般国民の無差別殺戮は明らかに戦争犯罪に他なりません。とはいえ、一方では、日本の侵攻により2000万人以上もの人たちが亡くなったということを忘れるわけには参りません。こうした理不尽なことが次々に起こるのが戦争というものなのでしょう。
いずれにしましても、小衲には、先の大戦の実相を本当に知りたいと思われる方があれば、飯田進氏の一連の遺著は必読のものであると思われます。また飯田氏が参考にされた他の方々の著作も重要です。そこに書き連ねられている想像を絶する悲惨な出来事を直視し、戦後のわが国の問題点を根本的に反省することなくしては、戦後の清算は決してできないのではないでしょうか。
今回のコラムは、切実なテーマゆえに例外的に長くなりましたことを、ご寛恕のほどお願い申し上げます。合掌。