「公案工夫の妙味」(月刊コラム【No.97】2011年7月)

横浜から二ヶ月に一度月例坐禅会に参加される理系専攻の大学教授の先生から、坐禅会への参加希望と共に、「篤く感謝申し上げる日々です。無ーがこのように奥の深いものかと、折に触れ、新たにさせてもらっております」というメールが届いた。このメールを見て小衲は、「なるほど、道心のある人はこの通りだ。二ヶ月に一度の来訪で他の参加者ほど頻繁に指導を受けていないにもかかわらず、いわれなくても自分から進んで無字の公案工夫に邁進して、法悦を育てておられる。こうでなくてはならぬ」と感嘆したのである。

出家在家を問わず、師匠や先輩からの指導や垂戒を待って初めて修行するような人物は、最初からものにならないことは明白である。ましてや、道情を奮い立たせることの必要性を師匠から何度声高に聞かされても、一向に修行に邁進しないものは沙汰の限りである。相国寺の独山老師の師であった天龍寺の峨山老師は、常々「俺もできたらやろうなどという者は最初から駄目に決まっとる。何としても我こそはという気概をもたなければいかん」と力説されていたというが、まさにその通りだ。

もし在家から出家して専門道場に入れば修行できるように思っている雛僧がいるとすれば、それは心得違いというものである。僧堂では通常の寺院生活よりも睡眠時間は少なくなるし、日中は作務托鉢三昧で自由時間などほとんど無い。夜の規矩坐になると、疲労困憊した身に気力を充実させて坐り抜かなければ、つい眠気が出て樫の警策でいやというほど叩かれる。受業寺にいるうちに、寸暇を惜しんで坐禅し、除草などをしながら動中の工夫に習熟しておかねばならぬ。さらには名僧列伝や白隠禅師や東嶺禅師の年譜を拝読したりして、越格(おっかく)の名僧知識の修行振りを知り、道情を養っておくことである。

僧堂では午後九時にいったん開枕(かいちん、就寝)の姿勢に入った後で、全員強制的に午後十二時近くまで外で夜坐をしなければならぬ。しかしそれが済んでそのまま臥単につくような者は道心のない者といわなければならない。真の禅定を極めるべく身を削って工夫三昧に励むのが雲水生活の醍醐味である。道心のない他の修行者がどのような行いをしていようが、そんなことには目もくれずに工夫するのである。ましてや、自分の工夫の未熟さを省みることなく、老師の行状をとやかく批判したりするのはもってのほかである。法悦の日々を過ごしている雲水に限って、そのようなことは断じてないはずである。

小衲にも別に自慢できるような工夫体験はないが、二度目以降に掛搭した道場では、人為的な策励が過ぎることがなかったので、工夫も充実して、作務の最中も工夫三昧でえもいえぬ法悦境を楽しみながら、日々を過ごすことができたことを感謝している。三十人いた雲水が夜坐から引いた後も、場所を変えてひとりで常夜灯を前にして「無ー、無ー」と三昧の工夫をしたものである。お蔭でほとんど睡眠は取れなかったが、いつのまにやら、工夫する自分が空じられて、ほとんど疲れを感じなかったのは不思議なことである。

ただこの三十代初めには、何度も法悦の佳境を体験したものの、今一歩のところでぶち抜けずに、真に自性を徹見したのは遥か後のことであった。わが身の道心の至らなさに反省することしきりである。後進の修行者はこの轍を踏むことなく、真っ正直に工夫に邁進して頂きたい。ただ単に住職資格を得るためだけではなく、僧堂にできるだけ長く在錫して禅定を練る醍醐味を存分に味わって頂きたい。

在家の修行者の方も、これから専門道場に掛搭する者も、どうか道心を奮い立たせて脇目もふらずに工夫三昧の生活を送ってもらいたいものである。それこそが難行苦行ならぬ法悦三昧・遊戯三昧の日々をもたらすことを知る者からの、ささやかな忠告である。光雲寺では来年の春には二人の弟子が専門道場に掛搭して修行に励む予定である。道を踏み外さぬようにとの親心から、今月のコラムで「公案工夫の妙味」を採り上げさせて頂いた次第である。

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