「典座の醍醐味」2015年2月【No.140】

「典座(てんぞ)」というのは禅寺の食事を司る重要な役職の一つです。しかし世間では一般に食事係は低く見られがちです。

西洋においても、かの大哲学者のイマヌエル・カント(1724−1804)がご婦人方を前にして女性の台所を司る役割を賞賛すると、居並ぶ婦人方は、「先生は私たち女性を食事係くらいにしか思っておられないのですか」と反発したのですが、カント先生は冷静に、仕事で疲れて帰ってくる夫や子供たちにとって心のこもった手料理が用意されていることがどれほど有難く嬉しいことか、そして食事を作るという役目がいかに大切なことかを切々と述べられたということです。

禅宗の故事に精通しておられる方ならば、「典座」と聞いてすぐに思い出されるのは、日本曹洞宗の開祖、道元禅師の『典座教訓』に記された次の故事でしょう。
宋代の中国に渡航して上陸許可を待って港の船中にいたときのこと、或る老僧が食材の購入のためにやって来たのに出逢い、船中に招いて茶を勧め、話を聞けば、「私は阿育王寺の典座です。郷里を出て四十年になり、今年で六十一歳になります。道場の大衆に供するうどんのダシに使う干し椎茸を買わんがためにやって来ました。これからまた二十キロほどを歩いて戻らねばなりません」ということです。老僧と仏法の話をゆっくりとしたく思った道元禅師は引き留めたのですが、食事の準備があるからと固辞する老僧に対して、禅師が、「そんな食事の準備のようなことは老僧がなされずとも、いくらでも代わりの者がおりましょう。坐禅弁道をして古人の古則公案を見ることをされずに、典座のような煩雑な作務を優先して、何かいいことがあるのですか」と尋ねた道元禅師に対して、老典座は呵々大笑して、「外国の若き修行者よ、あなたはまだ修行弁道の何たるかを分かっておられない」と言い残して立ち去ったのです。この老典座の言葉を聞いて、道元禅師はたちまち深い慚愧の念を起こされたと伝えられております。

禅寺の生活では坐禅が中心となりますが、そればかりではなく「作務(さむ)」と呼ばれる日常の実践が重要視されます。特に「典座」は道場にあっても修行を積んだ古参の雲水が行うことになっております。また老師や管長の「隠侍」と呼ばれるお世話係になりますと、その女房役の一環としてお食事の用意があります。小衲などは老師や管長の隠侍を幾度となくやらせて頂いた関係上、「まずいものをお出ししては申し訳ない」という気持ちで色々工夫して調理したものです。建仁寺の竹田益州管長はそれこそ行持綿密を絵に描いたようなお方で、尊敬おく能(あた)わざる立派な禅僧でしたが、或るとき畑の茄子を焼き茄子にしてお出しすると、「この焼き茄子は最高の申し分のない料理ですが、わしらは小僧時代から茄子はぶつ切りで炒めるという仕方でしか食べてこなかったので、済みませんがこれからはそうしてもらえませんか」と鄭重におっしゃったので、管長さんの枯淡質実な家風に触れて、身の引き締まる思いがしたことを忘れません。

禅寺ではなるだけ自家栽培の無農薬野菜を使って料理をします。小衲がこの光雲寺に住職として入山してまず最初に取り組んだことは、野菜畑の作成と内外の清掃、刈り込みでした。お寺は余分な土地がある場合が多いですから、生ゴミや落ち葉を堆肥にして無農薬野菜栽培をすれば、多少の手間は掛かりこそすれ、それこそ一石二鳥になります。また畑作務をすれば健康の増進にも役立つではありませんか。

畑からとったばかりの野菜を使って色々と工夫をして料理を作ります。いまこのお寺には弟子が二人いるのですが、彼らにばかり料理を任せるわけにはいきません。彼らの負担を軽減してやらなくてはという気持ちも働きます。それにしても、弟子たちに調理をさせると、ただ仕方なしにしているだけで、どうも心がこもっていないからでしょうか、おいしくありません。「何か」がいつも欠けているのです。自分が「典座」をすると、「いかにおいしく調理するか、いかに無駄なく、いかに効率的に料理して後片づけをするか」という工夫に没頭するため、まるで禅定に入った時と同様の法悦の境が現前します。それにときおり自分が普段使っていない庫裡の冷蔵庫を見る機会がありますと、えてして使い古しの野菜が萎(しお)れたままで入っていることがあります。手持ちの食材を使って料理をするという工夫が欠けているから、そうしたことが起きるのでしょう。

だいぶ以前のことですが、或る年配のご婦人二人から、「一体どのような女性をお好みですか」と突然尋ねられたことがあります。間髪を容れずに、「そうですね、冷蔵庫に食べ残しの野菜などを放置して無駄にすることのないようなひとが良いですね」と答えましたら、お二人とも絶句して、ウンともスンとも反応がありませんでした。何かお心当たりがあったのかも知れませんね。

このように、禅寺では坐禅ばかりではなく、調理を司る「典座」の仕事もそれに劣らず重要です。もし仮に弟子がそのことを理解できずに、たとえば、(これは或る寺のお弟子が話していたということを聞いたのですが)「師匠は自分が食べたいがために自分で作るのだ」などと陰口を叩く弟子がいるとしたら、これは「弟子として失格」の烙印を押されても致し方ないでしょう。幸いにもこの光雲寺にはそのような不心得者はおりません。坐禅に典座に作務全般にと、ますます一丸となって法悦の境地を育てていきたいものです。

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