「南針軒・河野霧海老師」2015年4月【No.142】

南針軒・河野霧海老師(元治元年—昭和十年、1863−1935)は伊深の正眼寺の泰龍老師と虎渓山の潭海老師に参じたのち、愚堂国師の再来と言われた高原室・毒湛老師に嗣法して、南禅寺の管長や僧堂師家を歴任され、「古尊宿の風あり」と称された名僧です。師事された三人の老師方はいずれ劣らぬずば抜けた名僧です。小衲は自分がついていた或る老師が霧海老師を非常に尊敬されて、「本当に修行をした人です」と言われたことが印象深く耳底に残っております。

本年は霧海老師のお師匠様の毒湛老師が遷化されてから百年経ち、大遠諱が五月二十二日に南禅寺塔頭(たっちゅう)南陽院と本山とで執り行われます。南陽院は毒湛老師が開山となられた塔頭で、今の和尚様はわれわれ兄弟がことのほかお世話になった大恩のあるお方ですので、僧堂の雲衲方や坐禅会のメンバーの荷担などを願い出て、万分の一でもご恩に報いたいと思っております。

この両老師のご性格は「全く正反対」で、「毒湛老師を深淵と見立てると霧海老師は瀑布のようであった」とお二人に親しく師事された一燈園の創設者・西田天香師は言っておられます。霧海老師の追悼文集ともいうべき『壷庵余滴』にはまさに「古尊宿の風あり」と称された霧海老師の面目躍如たる修行振りがうかがわれる記述があります。煩(はん)を厭わずにご紹介致しましょう.

何度も提唱で言われたのは、禅の修行というものは「口先きだけでは駄目」で、実際に工夫専一に骨を折らればならぬということでした。「上は三十三天より下は奈落のどん底まで貫いているというがなぁ、口先きだけでは駄目ですぜ。実際にそうならなけりゃ。真夜中に本堂の椽(えん)へでも出てチュウッと坐り込んでみなさい、コレというものはウノ毛の先ほどもないじゃないか。天もなく地もなくどこに我というものがある。ええ、そうならなかったらそうなるまで坐れさ。賢そうに顔をしかめて口先きだけでうまいこというて見たとて駄目ですわい。」

「皆もなぁ、一生懸命やっているつもりかも知れないが、わしの目から見るとサッパリなっとらん。ええ、容易なことでこの一大事がいけると思うのが間違いですぜ。わしもなぁ、若いときに釈迦達磨以来おれほど骨を折ったものがあるかと嘆かれるほど骨折ったが、それでもこればかりは中々いけなんだ。」

「コレ初心な人、よく聞いときなさい。皆いっかど骨折ってやっとるつもりでいるかも知れんがなぁ、真乎(しんこ)に自分がそう成るまでやらんからどうにも仕様がない。無字一枚、無字一枚(公案三昧)と口ではいうがな、本当にそうなっとらんじゃないか。真乎に『大地寸土無し』というまでやれさ。おれもよう忘れんが、凍てついた冬のことじゃった。歩いとると何もありゃせん、自分もなけりゃ歩くということもありゃせん、まして道も池もあるはずがない。見れども見えず聞けども聞こえずじゃ。知らんうちにザブザブザブと虎渓の臥龍池の中へ歩いて行ってしまったが、しかし自分ではそれがまだ解らん。後の方で誰かワイワイいうて、どこへ行くどこへ行く、早うこの竿(さお)の先につかまれ、と騒いでいる声にハッと我に返ってみると、池の中にいるではないか。やっと竿の先につかまって皆に引っ張り出してもらったことがあったが。ええ、皆どうじゃ。そこまで行ったらもうの気づくもつかぬもない、自分がそのまま無字じゃないか。そこまでやれやれ。そこから出てきた奴じゃなけりゃほんま者じゃァないと思うがいい。」

このように霧海老師は何とか「ほんま者」の禅僧を打ち出したいと、講座台の上からご自分の切実な体験から絞り出した赤心のご垂戒を獅子吼(ししく)されております。やはり本当に骨を折られた方の話は足実地を踏んでいて、迫力があります。小衲の主宰しております坐禅会でもなかなか工夫が純熟してきている人が何人かありますが、霧海老師の骨折りと比べると、まだまだ不充分と言えましょう。僧堂の雲衲方も真の道心を奮い立たせて脇目も振らずに工夫三昧になるほどでなくては、出家した甲斐がないというものでしょう。出家在家を問わず、本当の骨折りをして大歓喜を得て頂きたいものです。

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