「坐禅の工夫について」2016年1月【No.151】
新年明けましておめでとう御座います。旧年中は、あいつぐ火山噴火や「激甚災害」に指定された鬼怒川の堤防決壊などの自然災害がありましたが、今年は何とか大きな天変地異などのない平穏な一年になってほしいものです。
「一年の計は元旦にあり」と申しますが、皆さん方はこの一年を迎えるに際してどのような抱負を持っておられるでしょうか。拙寺での月例坐禅会は、お蔭様で継続して来られる方々が増えて、ますます充実して参りました。中にはかなり遠方からこの坐禅会に参加するためだけに来られる熱心な参加者もあり、こちらが感心させられます。そうした坐禅に関心のある人たちの願いは、何よりも、これからの人生を有意義に過ごしたい、そのためには禅に参じて真の禅定の三昧境を体験してみたい、ということではないでしょうか。
特に初心の人たちは、どのようにすれば禅定に入ることができるのかが問題となります。「色んな雑念が出てきますが、どうしたらよろしいでしょうか」という質問をよく受けるのですが、それに対して、「それは本当に数息観を行なっていないからです」と答えることにしております。小衲の経験から申せば、四六時中、眼の色を変えて数息観を行じていけば、思わず知らず自然に三昧境にはいれるものだからです。
禅宗で一番厳しい修行期間といえば、12月1日から8日の鶏鳴(明け方)まで横にならずに坐禅三昧を修する「臘八(ろうはつ)大摂心」があります。臨済宗では、五百年間出の大禅匠である白隠慧鶴禅師の「臘八示衆」を老師が連日提唱することになっております。その朔日(ついたち)夜の示衆では、「禅定を修しようと思うものは、まず厚く座布団を敷き、結跏趺坐してゆったりと衣帯を着けて背すじを伸ばし、身体を整えた上で、数息観をなすべきである。無量三昧の中には数息が最上である」といっておられます。
曹洞宗の道場に行って来た人から聞いたところでは、永平寺などでは数息観を勧めないそうですが、それではどういう工夫をすれば三昧境に入れるというのでしょうか。「呼吸に集中せよ」とは指導されるようですので、或いは「随息観」を念頭に置いておられるのかも知れません。いずれにせよ、指導者自身がそのやり方で禅定に入ったという確固たる体験がなければ、それは説得力をもたないでしょう。
数息観や随息観などというと、坐禅中にのみ行うものと思っている人が多いようですが、四六時中の工夫をしなければ、なかなか三昧境は現前しません。動中の工夫を続けていると、静中(坐禅中)の工夫も相乗的に円熟して、短時間の中に禅定にはいれるようになるものです。
白隠禅師は臘八朔日夜の示衆で、前掲のご垂戒に引き続き、「気を丹田(へそ下にある気海丹田)に満たして後に、一則の公案を拈じて、断命根(だんみょうこん)をする必要がある。そのように歳月を積んで怠らなければ、たとい大地を打って打ち損じることがあろうと、見性は必ずや成就されるはずである。どうして努力しないでよいものか、努力しないでよいものか」と赤心を披瀝しておられます。
「断命根」とは祖師方の機縁である公案に成り切ることによって分別心や自我を根こそぎにすることで、「死に切る」ともいいます。確かに四六時中の工夫をする場合には、公案工夫の方が三昧境に入りやすいと思います。「ひとーつ、ふたーつ・・・」と十数えることを繰り返すよりも、無字の公案のように「むーむー・・・」とやるほうが単純で無意識の境涯になりやすいでしょう。それで小衲のところでは、旧参の人たちには「四六時中無字三昧」の工夫を勧めております。
熱心に拈提する人の中には、応分の所得を得て、法悦に包まれて報告してくる人もありますが、それに対して小衲は必ず、「どんないい境涯が現出しても、それに尻を据えていては小成に安んじることになるので、駄目です。得ては捨て、得ては捨てです」と申し上げることにしております。
参禅をする人の中には公案を何則透過したかを何よりも重視する人もありますが、公案の数を数えるのが目的ではなく、公案の恩力によって心地を開発することが根本です。せっかく修行するなら本末転倒にならないようにしなければなりません。それで参禅の師とするのなら、安易に許可しない厳師につくことが望まれます。
坐禅に関心を持ち、人生を充実させたいと念じられる方々は、ご縁のある坐禅会に参加して大いに三昧境を養ってみられてはいかがでしょうか。真剣に工夫に没頭すれば、きっとこれまでの人生で経験したことのないような大歓喜を得られることでしょう。「一年の計は元旦にあり」です。皆さん方は一体どのような抱負を持たれたでしょうか。