「徒弟安居会」2023年08月【No.241】

コロナが5類になって以降、これまで控えていた色々な行事が行われるようになり、多忙になったのは、おそらく皆さん方のご家庭でも同様かもしれません。私どもの大本山・南禅寺でも7月下旬に徒弟安居会(あんごえ)と合同得度式が相次いで執り行われました。今回は徒弟安居会についてお話し致しましょう。
 徒弟安居会は私が管長の代になってから初めてです。1週間にわたり、庭詰め、旦過詰めを初め、坐禅、作務、読経、托鉢など、雲水修行僧が僧堂で行うのと同じ内容の研修を経験するのです。これを5年にわたり、5回経験することで、本来は僧堂に入って修行生活を複数年送らなくてはもらえない住職資格をもらえることになります。こうした制度が設けられたのは、僧堂に行くに行けない事情を抱えた人のための救済策として考えられたものかと思われます。今回の参加者は1名のみでした。私がよく存じ上げている神戸の寺院の28歳になるご子息でした。
 1人の参加者といえども、行うことは何人も参加するのと同様です。逐一指導する本山内局の部長さん方はさぞかし大変だったことと拝察します。ただそのことにより、自分が僧堂で修行した頃を思い起こして、再度気持ちを引きしめるという収穫はあったはずです。私の方は開講式と閉講式で法要の導師と垂訓を述べるほかに、2日目と4日目に提唱と参禅を行いました。会場は南禅寺でもっとも由緒ある南禅院で、講本は中国人の名僧・無門慧開禅師の『無門関』を用いて、第1則の「趙州狗子(じょうしゅうくし)」、いわゆる「無字の公案」と、第3則の「倶胝豎指(ぐていじゅし)」という、倶胝和尚が自分の開悟の経験から、何を聞かれても1本指を立てて答えたという公案の2則を提唱しました。
 参禅は彼1人だけでしたから、提唱の際に荷担に来ていた私の18歳のドイツ人弟子にも参禅してもらいました。私が強調しましたのは、仏弟子はお釈迦様(釈尊、ブッダ)が「これを絶えず行えば必ず解脱(げだつ、お悟り)に到ることができる」と力説された「入出息念定」(調息)の実践です。自分の呼吸に集中するというごく簡単なことにより、三昧境の大禅定に入れるわけですから、有り難いことです。この基礎的鍛練を充分にせずして禅の公案をいくら見ても、頭でさばくことになりかねません。調息に習熟したら、今度は公案三昧の工夫です。もっとも基礎的で重要な「無字の公案」の工夫に真剣に四六時中没頭することを行います。
 最初は意識的に間断なくやろうと思って調息の工夫をするわけですが、そのうちに工夫が習い性になって、無意識のうちにやるようになって行きます。そうすればしめたものです。ちょうど坂道から雪達磨を転ばすようなもので、加速度的にしかも無意識のうちに三昧境が育って行きます。私は真剣に調息や無字の工夫に取り組むように強調しました。「僧堂の雲水に負けないくらい熱心に」と注意しました。参加者は彼1人でしたので、垂訓の際には「1人で切磋琢磨する者がいないのでは熱が入りにくいだろうから、私も一緒にやってあげよう」と呼びかけました。実際私はすでに数日前から調息をして三昧境を養っていたのです。
 閉講式の垂訓の際には、私は「やれやれこれで1回目の安居会が終わったという気持ちでいてもらっては困ります。むしろこれからがいよいよ本番の工夫の時節だという気概を持って、真摯(しんし)に仏道に参じて頂きたい。」と伝えました。聴けば、彼は6年の間、老人介護の施設に勤務しているとのことです。
閉講後に隠寮(管長の控えの間)で話しをする時間を特別に設けたのですが、そこで「どうか工夫三昧を続けて本当の法悦の境涯を味わってもらいたい。そしてできることなら僧堂の大摂心(1週間の集中坐禅期間)に一度ぜひ参加して、私が経験したような自己を忘ずる三昧境を体験してもらいたい。」そう述べてから、本山の『南禅』という機関誌に連載してきた「私の修行遍歴」を読んで参考にするようにと進言しました。私の文章を読めば、僧堂の修行生活が決して辛いものではなく、むしろ法悦に満ちたものであるということが分かるであろうと思ったからです。
 このようにして、1人でも半人でも本当に道心を持った若者が現れて欲しいと願わずにはおれません。

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