「新年の法悦」(月刊コラム【No.103】2012年1月)

明けましておめでとうございます。皆様方の本年のご萬福をご祈念申し上げます。旧年中は色んなことがあったが、何といっても3月11日の東北大震災とそれに伴う津波被害並びに原発事故の炉心溶融と水素爆発事故による放射能汚染の拡大はとりわけ衝撃的な出来事であった。

かてて加えて、多額の費用を費やして設置された放射能拡散予測装置のスピーディーを活用して正確な情報を国民に知らせることを、「パニックを生じかねない」という理由から民主党政府が情報を隠蔽したがために、高濃度の放射能に汚染された地域から人々が避難するのが遅れたというとんでもない対処の仕方が明らかとなってきた。原発事故に対する政府首脳(特に菅直人前首相)の浮き足だった周章狼狽振りを見ていると、「いかなることに対しても冷静的確に対処しなければならぬ」という肝心要のことが全くといっていいほどできていないことがよく分かる。

その上、厳しいようであるが、誠実とか真率といった人間関係の基本的姿勢が欠如しているように見受けられる。こういう人と親密な友人関係を結びたいと思う人はあまりいないのではないのではないか。そういう人は自己保身のために容易に人を裏切りかねないからである。

これに対して禅で練った名僧は、余計な分別やはからいをこそげ落としているから、実に自然体そのものの境涯である。その最たる一人が、唐木順三氏が「日本人の原点」と呼んだ良寛和尚であることは、多くの人が異論のないところであろう。良寛和尚の「起き上がり小法師」と題する玩具のダルマにこと寄せて人生の極意を説いた偈頌がある。「人の投げるにまかせ、人の笑うにまかす、さらに一物の心地に当たる無し。語を寄す、人生もし君に似たらば、よく世間に遊ぶに何事か有らん。」

また新潟地方で大地震があったすぐあとで知り合いの俳人にあてた書簡の中で、有名な「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候」ということを述べているが、多くの人が誤解しているような、ただ単に「災難に逢う時には逢ったら逢ったで致し方あるまい。じたばたせずに流れに任せろ」という投げやりで無気力極まる生き方ではない。以前確か阪神大震災の直後にそのようなことを新聞紙上で述べて顰蹙をかった小説家上がりの庵主さんがいたが、そういう常識的分別的解釈では、「これはこれ災難を逃るる妙法にて候」という一句を吐き得た良寛和尚の分別を絶した境涯を穴のぞきすることもできまいと思われる。

「これはこれ災難を逃るる妙法にて候」とは良寛和尚が『法華讃』で述べている「七難三毒只だ這れ是れ(ただこれこれ)」ということであり、上述の「起き上がり小法師」の偈頌でいう、他人にいくら投げられようが笑われようが心にいささかの念を起こさないという大死底のずば抜けた境地である。

それほどでなくても、少し坐禅に習熟して法悦を味わえるならば、いかなることが起きても動転することなく冷静に対処することができるようになる。少し以前のことであるが、特別拝観の終わった12月の初旬の或る日に、坐禅会の旧参のメンバーの一人が落葉の掃除に自発的に参加してくれたことがある。病僧の弟子が増えて人少になったので気を利かして荷担に来てくれたのであるが、この人は小衲より何歳も年長である。掃くあとから舞い落ちる大量の落葉を熱心に掃くこと4,5時間、昼食もとらずにぶっ通しで作務をして頂いた。こちらはあまりに気の毒になり、いい加減に止めてもらうように進言したのであるが、「切りのいいところまでやります」といいつつ、やり続けられた結果がこれであった。

次回に来山した際に、その人は「休むことなく掃き掃除をした結果、これまで経験したことがないような法悦の境地に到ることができました」と満面の笑みをたたえて感謝された。その調子で公案三昧の妙境にますます邁進してもらえれば、更なる法悦が約束されることは明らかである。真の法悦に達することができる人はごくわずかであるが、願心が堅固ならば初心の人でも難事ではない。一人でも多くの人に底無しの法悦を味わって頂きたいものである。

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