「更に参ぜよ、三十年」2017年5月【No.167】

桜も散り観光客で混雑していました南禅寺、「哲学の道」界隈もやや静けさを取り戻した感がありますが、今は新緑が眼にはえて新鮮に映ります。ことに雨の降ったあとなどに見えられた来客の方々は、異口同音に庭の緑の鮮やかさを称賛されます。この時節が来るといつも想起しますのは、「薫風自南来、殿閣生微涼」(薫風、南より来たり、殿閣、微涼を生ず)という句です。この対句はもともと唐代の文宗皇帝が作った起承の二句である「人皆苦炎熱、我愛夏日長」(人は皆炎熱に苦しむ、我は愛す、夏日の長きことを)に対して文人の柳公権が転結としてつけた語です。

かつて坐禅会の或るメンバーが「我が家に何か名前をつけて頂きたい」と依頼してきたことがありますが、そのとき小衲は「薫風庵」と揮毫致しました。来訪された人が、まるで新緑の間を吹きわたる「薫風」に遭遇したような心地よさを感じるお宅となればいいな、という願いをこめたものです。

この「薫風自南来、殿閣生微涼」の対句は、『碧巌録』で名高い圜悟克勤禅師が上堂の時、「或る僧が、雲門文偃禅師に『如何なるか是れ諸仏出身の処』と問うと雲門禅師は『東山水上行』と答えられたが、わしなら『薫風自南来、殿閣生微涼』と答えるであろう」と言われたのを聞いて、大慧宗杲禅師が言下に大悟されたという話はいやしくも禅の修行者なら知っていなければならない有名な話です。

さて、薫風が新緑の間を吹き抜ける心地良い時節とはなりましたが、この時期には時おり強風が吹いて樫の葉などがよく散らされます。加えて、暖かくなってきたせいで、境内一円の雑草が勢いよく生い茂ってきます。特に雨が続くとたちどころに雑草が伸びます。まことにお寺では次から次へと作務をする必要が生じてきます。しかしそれを嘆いたり、不満を感じるようなことではいけないでしょう。
文宗皇帝の「人皆苦炎熱、我愛夏日長」ではありませんが、落ち葉や雑草のお蔭で作務をして身体を動かせる有難味を感謝したいものです。

小衲が定期検診を受けている名医の和田洋巳先生は、「雲水生活がもっとも健康的な生活です。しっかり太陽を浴びて作務をして汗をかいて下さい」とアドヴァイスして下さいますが、落ち葉を掃いたり、草引きをしたり、畑の畝作りをして身体を動かすのは本当に心地よいことです。ただ、いずれの場合でも手を抜かずに心をこめてすることが大切です。掃き掃除をするにしましても、落ち葉一枚残さない、雑草を抜くにも、一本たりとも取り残さない気迫が必要です。大雑把にすれば事足りるというような横着な気構えでは、断じて身についた修行とはなりません。弟子たちに「もっと心をこめて落ち葉一枚取り残さぬように」と注意を与えることが再三あります。本当に心をこめて作務をすれば、その跡が光を放ち、期せずして他人を感動させることができるはずです。

とは申せ、本当に雑草一本残さずに除草などできるはずはありません。掃き掃除にしましても、「落ち葉一枚残さずに」というのは、至難のわざです。小衲が隠侍をさせて頂いた建仁寺管長の竹田益州老師は日露戦争勃発の歳に出家されたお方ですが、刻苦精励され、管長となられた後も、八十五歳に垂んとするご高齢でありながら、日々の作務を欠かされることはありませんでした。お風邪を召されてもなお草引きをされておられた気高いお姿を思い起こして、作務をしながらも「自分はまだまだ管長さんの足元にも及ばないな」という感慨が沸いてまいりました。「未在」とか「更に参ぜよ、三十年」という禅語がありますが、どこまでいっても修行はこれでもう十分だということは決してないでしょう。

先日、寺庭婦人(寺院の奥様方)研修会の坐禅の際の法話で、「雲水修行時代はとても大切な期間です。お子さんたちのことを心底思われるのなら、早く引かせるのではなく、一年でも長く僧堂生活を続けられるようにご支援をお願いします」と申し上げた次第です。僧堂生活を送る雲衲たちには、是非とも万事に心を尽くして骨を折り、真の法悦を体験して頂きたいものです。

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