「東嶺禅師の入道要訣」2019年5月【No.191】

三、憤励の義

諸仏と同体の性を得ようとするならば、まず無明の根元を明らかにして悟らなければならない。どのように明らかにするのか。自らの本性を疑うべきである。どのように疑うのか。

眼に色を見、耳に音声を聞き、身体では冷暖を感じ、意には逆境・順境をわきまえ知るはずである。これを見聞覚知といって、修行の種(基本)である。

凡夫は色を見ては色に迷い、音声を聞いては音声に迷い、冷暖を感じては冷暖に迷い、逆境・順境を知っては逆境・順境に迷う。これを衆生は外に向かうというのである。

菩薩の修行は、色を見る時は、その見ているもの(自己)自身を疑い、音声を聞く時は、その聞いているもの自身を疑い、冷暖を感じる時は、その感じるもの自身を疑う。その逆境・順境を知る時は、その知るもの自身を疑う。これを諸仏は内に向かうというのである。

このように修行すれば、まず凡夫・衆生の心を向けどころとは別である。諸仏の心の向けどころと等しく、その智徳を完成したわけではないが、まずは菩薩の仲間に入ったものと知るべきである。

常に諸仏に大願をかけ神明に祈り祖師に誓い、このように一大事を一度は成就して、自利利他の願海を遊戯しようと思うのである。

朝起きてはどんなに忙しくても、まずこの一念を立て、まずこの見聞の工夫を試み、そのあとで自分の仕事に従事する。食事を食べる時にも、まずこの一念を先として、この工夫を試みるべきである。トイレに入る時にも、まずこの一念を立て、この工夫を試みるべきである。日が暮れて就寝する時は、しばらく寝具の中で坐禅して、この一念を先としてこの工夫を試み、それから身を放って寝るがよい。これを諸仏・菩薩の正直・正路の修行とする。

諸仏と同体の本性を取り失って、六趣・四生の間に迷い来ることを憤慨して、根本性に向かって工夫の心を励まねばならない。これを憤励の義という。

四、進修の義

先に述べた根本の工夫の心を励まして、念々に進み、事々の上に修し習うべきである。

その工夫の正念をひっさげて、行く時は行く時に修し、いる時はいる時に修し、人と話す時は話す時に修し、話さない時はいよいよ正念を励まし、物を見る時は見ているもの(自分)自身を疑い、物を聞く時は聞くもの(自分)自身を疑い、多忙で物に心を奪われやすい時は、奪われているもの(自分)を疑うのである。

このように奪われるものは何ものぞと疑う時には、奪われてもまた工夫の正念を離れない。病ある時は、その苦悩をもって工夫の種(基本)とすべきである。

とにかく工夫は多忙であるのも、また工夫増進の一端である。ただ普通に物静かな時だけならば、工夫の精彩ということはないはずである。工夫の精彩がなければ得力(ある境地を得る)こともない。

国の乱れたのを治めるには、一大事に際して、戦場に出向き、恐れず取りかかり引き返して戦ってこそ、勝利は得られるものである。

工夫の法戦もそれと同様である。さまざまな出来事に心を奪われ、もろもろの想念に心を乱される時こそ、勝負を決する好機である。この心をわきまえ、の心なく進まねばならない。

物静かな時は、これぞまことに城中にあって兵法・軍術を修練すると心得て、丹誠を尽くして修行せねばならぬ。物騒がしい時は、これぞ戦場に臨んで勝負を決する時であると心得て、力を尽くして工夫せねばならぬ。

得力がある人もない人も、共に諸仏・菩薩の正直正路の中へ旅立ちした人々である。例えば、世間の強健な人は、一日に十里・十四・五里行くが、弱い人は、五里・三里を行くようなものである。

百里の遠い国に到るのに、強い人は八日か九日あれば容易に行ける。弱い人は二十日かかるであろう。しかしながら、到着してのちは、同じ国にいて同じ人々のもとにいるようなものである。

力を尽くして精進勇猛であるのと、志が怠って進みかねているのとは、これと同様である。根性がさといのと鈍いのも、また同様である。病身で成就し難いのと、頑強で行ない易いのも、同じである。

人の利鈍により、根機の強弱により、省悟・得道の遅い早いができる。修習することと道を得ることに関しては、何ら異なることはない。何と頼もしいことではないか。

願わくば、賢い人もそうでない人も、位の高い人もそうでない人も、この正直修行の旅立ちをされんことを。

この進修の中にまたひとつの通理がある。工夫が純熟すれば、思わずはからずに得力を得ることができる。得力があっても、修行は怠ってはならない。

精彩をつければ、自然に得力はあるものであるが、得力に大小あって、小悟はかえって大悟の妨げとなる。小悟を捨てて取らなければ、大悟は必ず得られる。小悟を取って捨てなければ、大悟は必ず捨てることになる。

例えば、小利をむさぼる人は、大利を得ることができないようなものである。小利に貪著しなければ、大利が必ず成就する。小利が積もり積もれば、ついに大利に到る。

小利を取って進まなければ、一生小悟の分際に終わり、大自在・大解脱の境界に到ることはできない。大悟に到って大自在の道を得なければ、事と理とが相応しないがために、外道・邪見の中に入る。恐ろしいことである。

小悟を得ては、これを種としていよいよ進み、進み進んで修行すれば、諸仏の大利はことごとく現前し、祖師の関鎖を自然に透過し、まことに事理相応し、行解不二にして、大解脱・大自在の境界に到ることになる。これを進修の要訣という。

一切の法理を尽くし、一切の道徳を成就して普く一切衆生をし、その機根に応じて説法・教化しても足らないところがなく、我と人と共に大涅槃・四徳の岸に到る。この大行・大願をもって、生々世々(生まれ変わり死に変わりしても)自利利他をわが身の所作として、尽未来際(未来永劫)退転があってはならない。

その中間で誤って後退することがあっても、脚が弱く路がすべりやすいので倒れたのである。その人が倒れたからといって起き上がらなければ、ついにその場所で転んだまま死んでしまうことになる。

倒れてはまた起き上がり、また倒れては起き上がり、進み進めば、遂に到るのである。経典に、「一戒を犯せば、直ちに仏前に懺悔してまた道に進む」というのは、このことである。

五、帰本の義

前に述べたように、工夫が増進し、修行が純熟すれば、遂に諸仏と同一体の性に帰するのである。これを成仏という。禅宗の「見性成仏」とはここのところである。

最初の一念が誤って、内なる本心に向かうべきところが、外の万境(さまざまな事物)に執われて、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上という六道に浮き沈み、生を隔て世を重ねて、千生万劫輪廻して、車の車輪のようである。

同じ苦患を受けてきたことは数え難い。生々の骨を積めば、大きな山よりも高く、その膿血をためれば、大海の水よりも多かろうと、如来は説かれている。

いま得難い人間の身を受けて、ことに逢い難い仏法に逢い、特に大乗不思議の正法を聞くことは、人々にとってこの上も無い幸福である。

これを取り誤って捨て置くならば、またこの上も無い罪となるであろう。一度人身を失えば二度と得難いことは、兜率天の上より絹糸を下ろして、大海の底にある針の穴を通すようなほどであるという。

また六道の輪廻は、生を隔てたことだけではない。一日のうちに浮き沈みすることである。

心正しく物事が邪でないのは、人間である。自分に相違して怒りを生ずる時は修羅である。自分が好むものに執着すれば餓鬼である。ものを思って心ふさがる時は畜生である。思いも深く嫉妬心も強く、怒りの炎が止まず、人を苦しめ物を害する時は地獄である。これを人の道を失って三塗の種を作るという。

また時には心が静まり、物思いもなく、胸中が澄み渡っている時は、身は人間ではあるが、心は天に遊ぶという。

そうならば、凡夫の一日は、六道を輪廻することが数知れないほどである。その中で、人間の心を持つことは稀である。ましてや、天に遊ぶことはなおさらである。

まずは畜生の物思い、餓鬼の執着・嫉妬心、修羅の怒り、この三塗に遊ぶことが多いであろう。ややもすれば、地獄道に入って、人を苦しめ物を害することが多い。

まことに一日のうち、どの道に遊ぶのが多いだろうかと見てみるがよい。まずは悪道の心が三分の二である。人間はかろうじて一分を守る。地獄がまたその中に交じる。そうであるから、ただ尋常の心持ちではこの悪道は免れ難い。

この一日のうちに、修行の心を発し、声聞の四諦の修行、縁覚の十二因縁の観法、菩薩の六波羅蜜の大道、この心を起してかの三塗の種を断ち切るべきである。

大乗の工夫を励み進んで勤める者は、たとえ悟りは未だ得られていなくても、三塗の心が絶えて、人天に遊ぶことを越えて、菩薩の階級に昇る。声聞・縁覚さえ尊ぶべきである。まして菩薩の道は言うまでもない。菩薩の道すらなお有難い。まして一仏乗の法は言うまでもない。

見性悟道は諸仏頂上の禅である。これを心に掛ける者は、仏の直接の子である。念々の上に無上の功徳門を成就し、足の挙げるも下ろすもみな般若の妙行(妙なる働き)になる。

般若というのは、読誦の功徳ですら貴い。まして般若を行ずる者はなおさらである。人を頼んで読誦してもらっても、災いを免れることができる。まして自分で行なう者はなおさらである。

諸仏は歓喜し、菩薩が手を引き、天神地祇はこの人を擁護し、悪鬼邪神はその影を見ただけで恐れおののく。精霊幽魂はこの人の縁に触れて、解脱の種を得たいと思う。これを最尊・最上・最第一の法という。自分のできる限り、随い行なうべきというほかない。(了)

東嶺禅師の入道要訣は以上の如くです。格外の名僧の導きに随順して真っ正直に修行すれば、必ずや応分の所得が得られることでしょう。

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