「東福門院と光雲寺中興・英中禅師」【No.100】2011年10月
NHKの大河ドラマの主人公「お江」の娘である東福門院は、光雲寺を菩提寺として再興された中興開基である。東福門院は慶長12年(1607)10月4日、徳川秀忠とお江の2男5女の末娘として江戸城大奥に生まれた。当時、家康は駿府城を拠点として大御所政治を開始していた。戦国時代の民衆の塗炭の苦しみを知り尽くしていた家康公は、天下を統一して万民を安堵させることの必要性を痛感され、その礎となる公武(すなわち朝廷と徳川家との)和合のために、この末娘を天皇家に嫁がせようと考えた。ただそれが実現したのは家康公が元和2年(1616)に享年75歳で亡くなられてからのちの、元和6年(1620)6月18日のことで、14歳でひと回り年上・26歳の後水尾天皇に入内された。そしてお二人のご夫婦仲の良さは、その後の紫衣事件などで、和子の父秀忠公と後水尾天皇との仲が険悪になっても、一生涯変わることがなかった。
さて、東福門院と光雲寺との関わり合いに関しては、光雲寺所蔵の『光雲寺覚書之留』によれば、東福門院はご自分の菩提を弔うための菩提寺の建立を考えられるようになり、東福門院に仕えていた野々山丹後守兼綱が南禅寺西堂職にあった英中玄賢禅師に相談したところ、禅師は南禅寺の開山・大明国師が大阪の四天王寺の近くに建立された光雲寺が戦乱のために荒廃しているが、この由緒ある寺を東福門院の菩提寺として再興されてはどうかと進言したので、それを喜んで受け容れたのである。
この光雲寺中興の英中禅師の生母が家綱公の乳母となったのは常高院(お江の姉の初姫)との深い関係によるものである。小浜市教育委員会編纂の昭和52年1月に刊行された小浜市史紀要に「『溪心院文』による常高院をめぐる人々」と題された渋谷美枝子氏の論文によれば、実子がなかった常高院は京極高次の姪・古奈姫と、妹のお江が豊臣秀頼にお輿入れする千姫を送ってきた際に伏見城で出産した初姫をご自分の養女として育てたが、直接高次夫妻とは血縁関係になかったにも拘わらず、常高院に非常に愛せられた者に川崎六郎左右衛門一家がある。六郎左右衛門は、寛永7年(1630)に常高院が小浜に常高寺を建立した折りにも骨身を惜しまずに尽力した。その時のことを溪心院は、「常高院様御菩提心深く御座なされ候故、若狭に常高寺をご建立遊ばされ候。普請始め終わり、川崎六郎左右衛門に仰せつけられ候て、御心にかない候ようにとつとめ申し候こと」と述べている。六郎左右衛門の娘は「川崎」、その娘は「外山(とやま)」の名で、江戸城大奥の大年寄りとなった。すなわち真珠院と溪心院とである。
この真珠院が光雲寺中興の英中禅師の母である。光雲寺には延宝2年(1674)に「家綱公の万安を祈り奉らんが為にわが母が寄進した」という中興禅師自筆箱書きのある家綱公筆の普賢菩薩蔵が伝えられているし、川崎局から英中禅師宛の「住職継ぎ目御礼の事」という直筆の消息が残されている。それを拝読するとお互いに相手のことを思いやって贈り物をやりとりする母と子の深い情愛が感じられる。なお寛永4年生まれの英中禅師は寛永7年生まれの溪心院よりも3歳年上の兄になる。
渋谷氏によれば、真珠院は常高院に乳飲み子の頃からお膝に抱かれて大層可愛がられたという。真珠院に将軍世継ぎの乳人(めのと)として白羽の矢が立ったのも、春日局が御用で若狭へ下ったおり、常高院の侍女であった新太夫に誕生したばかりの家綱公のために乳人の存在を訊ね求め、その結果、身元良く両親あり、子供のおおい(9人の)夫婦者で、さらに21歳から30歳まで(29歳)という諸条件に叶って推挙されたのであるが、それのみならず、常高院の庇護のもとに育てられたということが一役買っていたのはいうまでもない。
常高院は山田氏出自の忠高を嫡子としたが、この京極忠高に仕えたのが、板倉三郎左右衛門尉重吉であったが、重吉には子がなかったので、川崎六郎左右衛門の孫であった、のちの英中禅師を養子とし、板倉藤次郎と名づけた。重吉の母は板倉伊賀守勝重の姉であり、勝重は京都所司代であった。勝重は井伊氏の許しを請うて自分の相談相手として重吉を登用した。そして勝重が退任の後は、若狭藩主の京極忠高は重吉を3千石で迎え、大砲隊の隊長とした。そののち忠高が出雲藩の大名となり、重吉も同行して諸子の長となった。
重吉が病没するに到り、重吉は藤次郎のことを自分の従弟であり、京都所司代であった板倉重宗とその弟重昌に懇ろに依頼したという。藤次郎は父重吉の後を継いで忠高に仕えたが、不幸にして忠高の逝去に遭い、国を嗣ぐ人物がいなかったので、藤次郎は都にのぼり南禅寺天授庵の霊叟禅師の弟子となって出家した。英中禅師はその後修行に励まれ、中国から渡来した隠元禅師にも参じて見性の眼を具するに到った。
英中禅師が東福門院の信頼を得て光雲寺をその菩提寺として京都に移して再興することは、幕府の内諾を得て、寛文4年(1664)7月末から同6年頃にかけて、父君である徳川秀忠公からの遺産金(大判金2千枚と白銀1万枚)をあてて5300坪の広大な寺域に七堂伽藍が建立されていき、英中禅師の指導のもと、切磋琢磨した雲衲は50人に上ったと伝えられる。寛永四年(1627)生まれの英中禅師が遷化されたのは元禄八年(1695)のことである。