「栂尾の明恵上人」2023年03月【No.236】
「栂尾(とがのお)の明恵上人」というと、京都の高山寺所蔵の国宝「樹上坐禅像」を思い浮かべる方が多いかと思います。このたび梓澤要さんが新潮社から『あかあかや明恵』という小説を出されるに際して、書評を依頼されました。梓澤さんは先に『華の譜』で光雲寺中興開基の東福門院のご生涯を描かれたおりに、取材に見えられたことがあります。そして東福門院の年忌法要に際して、講演をご依頼して遠方よりお越し頂きました。
紀伊の国(和歌山県)有田郡に承安3年(1173年)に生まれられた上人は、15歳で出家されて以来、寛喜4年(1232年)に60歳で亡くなられるまで、日夜修行に励まれた持戒堅固な高僧であることは、皆さん方もご存知の通りです。鎌倉時代は法然、栄西、親鸞、道元、日蓮、一遍などの新仏教が陸続として出現した時代です。そのような時代状況の中で、明恵上人は奈良の東大寺を本山とする旧仏教の華厳宗を離れることもなく、教団を結成することもありませんでした。
梓澤さんの小説の『あかあかや明恵』という表題は、月の明るさと光の見事さを無心に詠んだ、「あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月」という上人の最も有名な和歌から採られたものです。この明恵上人に関する物語は、上人が六十歳で遷化されるまでの三十七年もの間、八歳の頃から従者として「一日も離れず身のまわりのお世話をしてきた」イサなる人物を作り上げられ、その回想記という形をとっております。実在の人物ではない「イサ」の口を借りて、外部からは到底知りえない明恵上人の日常の姿が、実に生き生きと描かれております。
明恵上人が釈迦如来の御遺誡をまともに受け取って右耳を切り落としたということは、史実として伝えられています。上人は自分が「釈尊滅後千五百余年、末法の世の辺土に生まれ、如来在世の衆会にも漏れてしまい、さとりの道に導かれる機会も得られぬ」とし、「滅後の形見」として残された「聖教(しょうぎょう)」を学ぶことにより、如来のご本意を知る必要があるとして、仏典を学ぶことを非常に重視されました。そして釈尊が禅定に入られてお悟りを開かれた例に倣い、熱心に坐禅に打ち込み禅定を修したのですが、色んな文献を読んで模索したものの、これという決定的なものに出会わなかったと言われます。華厳宗では坐禅弁道によりお悟り(見性(けんしょう))へと到る方途が確立されていなかったのであろうと思われます。
明恵上人と新仏教との関わり合いについては、浄土宗開祖の法然上人を痛烈に批判した『摧邪輪(ざいじゃりん)』が有名ですが、禅宗との関係は、自分より三十歳以上も年長の栄西禅師に宋国の禅宗について学ぶべく、洛東建仁寺に出向かれたことです。上人は栄西禅師に幾度も参禅され、嗣法の法衣を栄西禅師から授与されたと、信頼できる建仁寺の史料に明記されておりますが、ついに禅に改宗することなく、華厳宗の僧侶に留まられました。聖教を尊重する上人と、「教外別伝、不立文字」を標榜する禅とは所詮相容(あいい)れないものであったといえましょう。
禅の臨済宗南禅寺派に属する筆者としては、万事を放擲(ほうてき)して坐禅工夫して大悟徹底し、禅を挙揚される明恵上人を拝見したかった気もするのですがが、ともあれこのたび華厳宗の高僧である明恵上人の謹厳な日常が梓澤さんの見事な筆により生き生きと描かれたことは、まことに悦ばしいことで、一読をぜひお勧めする次第です。