「澤水長茂禅師」2021年12月【No.221】
澤水長茂(たくすいちょうも)禅師は越後(新潟県)の出身で、常日ごろ抜隊(ばっすい)得勝禅師の法語の通り如説工夫に邁進して、大悟徹底され、江戸に大住庵という小庵を構えて大いに僧俗を教化すること百年余り、元文五年(
1740)に世寿160歳あまりにして病なくして遷化(せんげ)した、と伝えられております。
曹洞宗も現在は宗祖・道元禅師のように「身心脱落」の見性体験を目指す雲衲は稀であると聞いておりますが、わが臨済宗でも同様に、中興の白隠禅師の大成された公案禅が形骸化し、見性せずに初関の無字や隻手(せきしゅ)の公案を透過し、公案の調べの受け渡しが参禅の室内で行われているようです。無学祖元禅師や無門慧開禅師のような名僧でも命がけで修行されて透過に6年かかられた無字を、新到僧がわずか数ヶ月で透過したというのを聞いて、失笑するほかありませんでした。本当に修行者に対して親切な師家ならば、安易に公案を許すことはできないはずです。
『澤水法語』の現代語訳を20年ほど前に行いましたが、今年の春に第二版を再版いたしました。それはこの法語が自性徹見(お悟り)に到る最短の途(みち)を明確に示しているからです。「坐禅工夫は、しっかりと坐禅しながら、耳で聞く主(ぬし)を工夫しようと思う人は聞く主を工夫し、そのほか古則公案のいずれでもよいから、ただ1則の公案をはっきりと定めて、道を行くにも工夫し、寝ても覚めても深く疑いを起こして工夫すべきである」と述べられていますが、大悟するまで1則の公案を工夫すべきであるという基本方針は、私も大いに賛同するところです。
音声(おんじょう)を聞く主を疑う工夫について、禅師は、「常日ごろ、音声が聞こえるときも聞こえないときも、聞く主(ぬし)何ものぞと押し返し押し戻して深く疑うべきである。べつに口で唱えることはないが、色々な分別妄想が起こっても一向に気にかけずにただ深く疑うべきである。満身の力を尽くし、前もって成果を当てにせず、悟ろうとも悟るまいとも思うことなく、幼児のような純真な気持ちでいよいよ深く疑うべきである。」と述べられている。
「段々深く工夫して、茫々(ぼうぼう、わけの分からぬさま)となることがあるが、このときまた聞く主何ものぞと大疑を起こし、通身に汗を出して、大死人のようにいよいよ深く疑うべきである。のちのちには大死人ということも知らず、大疑工夫ということも覚えず、通身が大疑団となっている状態から、大夢がさめたように、死に果てたものが急に生き返ったかのように、忽然(こつねん)として大悟というところに超出する。」と述べられ、「このように大疑情を起こして工夫すれば、悟道見性に到達するのに時間や歳月がかかるはずがない。」と断言されています。まさに本当に真参実証された方の信頼のできる言葉です。
皆さん方も坐禅工夫をしようと思われる方は、形だけの坐禅ではなく、澤水禅師が力説されるような真実の工夫に邁進して、本当の法悦を得て頂きたいものです。(拙訳の『澤水法語』をご入り用の方は、ご連絡頂ければ進呈させて頂きます。)
(なお、12月の月例坐禅会は、遠方で葬儀に参加する予定があるため、12日の第2日曜日は休会とし、26日の第4日曜一回だけの開催となります。)