「無字の公案工夫について」2022年06月【No.227】

去る四月六日の南禅寺での晋山開堂当日の「問禅」の中で、私は「無字の公案」について、「趙州狗子無仏性(じょうしゅう、くす、むぶっしょう)の話(わ)、如何が透得せん」という問いを設けて、「若(も)し放身捨命(しゃみょう)の工夫間断無くんば必ず入得(にっとく)せん」と答えました。「犬に仏性があるか」と問われた中国唐代の名僧・趙州和尚が「無」と答えたという無字の公案は、雲水が僧堂修行において、数息観を習熟した後に与えられる最初の公案(初関)です。初関とはいえ、もっとも基本的で重要な公案ですから、「アルフアでありオメガ」(最初にして最後)の公案です。この無字の公案を最初にいい加減に透ると、それ以後にどれほど数多くの公案を見ても、境地を深めるのではなく、「公案の数を数える」だけの参禅になりかねません。無門慧開禅師が透過に六年も費やされた無字の公案をわずか半年足らずで許される雲衲が多いという現状を、私は憂うるものです。

 「若し放身捨命の工夫間断なくんば」というのは、「もし決死の覚悟で目の色を変えて四六時中工夫三昧に邁進すれば」という意味です。
肝心なのは如何に絶え間なく工夫三昧の境地に入るかということです。このような真剣な工夫をおこなっている禅の修行者は現在どれほどいるでしょうか。無門慧開禅師は六年間に及ぶ真剣な工夫三昧の結果、見性して無字の公案を痛快に透過され、当時すでに分別的さばきに堕さんとしていた公案禅の風潮を憂えて、『無門関』を著されて、その第一則に趙州無字の公案を置かれました。

 その評唱には透過に要する真剣な工夫の奥義があますところ無く説かれております。「全身の骨と毛穴をもって、通身に疑団を起こして無字に参ずるべきである。四六時中工夫して、いささかの分別も起こしてはならない」と説かれ、「平生の気力を尽くして。この無字を挙(こ)せよ。もし間断がなければ、蝋燭に火をつければ部屋の中が明るくなるように、無明(むみょう)の暗闇が一挙に打ち破られて、一生を慶快にする」と実に懇切に説かれております。

 無門慧開禅師のこの評唱は、禅に参じる人が誰しも聴いたことがあるでしょうが、本当に肝に銘じて実践している人は稀なのではないでしょうか。真剣に工夫をして見性する人が出現しなければ、禅はその生命を失ってしまいます。どうか禅師のこの評唱を真受けにして真剣な工夫をする修行者があらわれて欲しいものです。

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